特別な記載がない場合は見延典子が執筆しています。

 

太宰府天満宮
太宰府天満宮

というのも、福岡藩士の間から、かつて脱藩を図った山陽を不忠不孝の者として、排斥する動きが出はじめたからであった。

 

 そこで山陽は5月15日ころ博多を出立、16日ころには湯町温泉(不明)に泊。17日ころには太宰府天満宮を参拝して、佐賀へと向かうのである。

 

 

2018・5・15

太宰府天満宮

 

頼山陽は博多の某家で明の盛茂曄の「石湖暮色図」という一幅を入手。一生の間、得意の蔵幅となる。

ただ,博多滞在は必ずしも居心地の良いものではなかったようだ。

菅原道真といえば牛。太宰府天満宮内の御神牛。写真はいずれもネットから
菅原道真といえば牛。太宰府天満宮内の御神牛。写真はいずれもネットから

原古処の墓 墓石正面の字は頼山陽、側面には広瀬淡窓が贈った追悼の詩。ネットより
原古処の墓 墓石正面の字は頼山陽、側面には広瀬淡窓が贈った追悼の詩。ネットより

娘の漢詩人「原采」は、「うりざね顔の美人で大女、酒豪で、男装帯刀し一人旅に出、一流の文化人の中でも臆することなく朗吟し、艶聞の噂も多かった」という評が残されている。文政十年(1828)六月三日、江戸を目指して故郷の秋月を出発、その道中記として漢詩を交えつつ記録した『東遊日記』を残している。

2018・5・14

石村良子代表

山陽の女弟子「原采蘋」

 

筑前の小京都”と呼ばれる秋月 

秋月藩士「原古処17671827は儒学者、漢詩人。亀井南冥より徂徠学,古文辞学を修める。

※秋月藩は筑前国(福岡県)の外様小藩


広島に立ち寄り逗留すること二月、杏坪に教えを乞い梅颸とも度々会っている。人気高く行く先々で揮毫を求められたという。南は薩摩北は奥州に到った稀有な自由人であった。

 

亀井南冥、昭陽一家の墓     (福岡市 ネットより)
亀井南冥、昭陽一家の墓     (福岡市 ネットより)

2018・5・12 亀井昭陽

 

頼山陽が博多で会った人物に亀井昭陽(1773~1836)がいる。山陽より7歳年上で、この年46歳。

 

父は福岡藩医の亀井南冥。南冥は山陽の父春水とは大坂時代からの友人で、南冥が東遊する際は、必ず広島城下の頼家に立ち寄った。そのため山陽も南冥とは面識があった。


南冥は山陽が18、9歳の頃書いた「蒙古来」を激賞し、壁に貼り、酒に酔うと朗吟して快哉を叫んでいたというが、晩年は不遇で、文化11年(1814)自殺している。

 

間接的には寛政4年(1792)の寛政異学の禁が影響している。というのも南冥は朱子学とは相対する古文辞学派に属していたからであった。南冥は藩校甘棠館の学長を罷免され、二十歳の昭陽が家督を継いだという背景がある。

 

文化4年、昭陽は江戸からの帰途、頼家に立ち寄っている。山陽は昭陽ともすでに面識があったのである。

 

山陽の通称は久太郎、昭陽は昱太郎、後で出てくるが、佐賀藩士の古賀穀堂は壽太郎だったことから、「文政の三太郎」と呼ばれ、次世代を担うホープとして期待されていた。

 

山陽の九州遊歴は、父春水の人生の軌跡をたどる旅でもあった。

 

 

 

瓦鼎 宗七焼(そうしちやき)は江戸時代の中頃から幕末にかけて博多で作られた素焼物。作者は瓦師出身の正木宗七。福岡藩の御用焼物師として活動。現存する作品は少ない 上ボーフラという(ポルトガル語でかぼちゃ) 清時代の湯沸かし

 

2018・5・7

石村良子代表「山陽、西遊中新茶に会う 博多にて」

 

「即事東道松永子()に似す」には「幾椀の新茶客情を(とう②)す。

昨来酒に(あた)り杯觥を廃す、(中略)瓦鼎風微にして沸いて聲有り(後略)」の詩 茶山の詩評に「第一句、恐る安眠を妨ぐるを」また続いて「亀井氏を訪ね席上に作す」に「一榻(いっとう③)燈花落ち又生ず,談余茶鼎蝉鳴に似たり、窓前知る芭蕉樹有るを、夜更時聞く墜露(ついろ④)聲」旅先で煎茶を楽しんでいる様子が窺われる。


①東道松永子登 東道とは来客の案内や世話をするものの意で、松永花遁の事。質商を業とする。

➁陶 楽しむ、うっとりする

③こしかけ

④楚辞 朝飲木蘭之墜露兮夕餐秋菊之落英とある。

 

2018・5・3

松永花遁と博多帯

 

頼山陽は博多に25、6日間、滞在するが、その間、ほとんどの世話をしているのが松永花遁である。

花遁は天明2年(1782)生まれで、この時37歳。通称は宗助、号は子登。戦国自体の武将・松永久秀(右の写真)は同族で、この地に流れて代々質商を生業とし、豪商になった。風流韻事を楽しみ、詩集も残し、嘉永2年に67歳で没す。

博多名産の帯   
博多名産の帯   

花遁は博多名産の博多織の帯を、製造元の高瀬屋柴田輿右衛門から買い求め、その妻に縫わせ、山陽に贈った。これに対して山陽は「博臺帯歌(はくたいたいか)」一編を作り、感謝の意を表した。

 

 

太平記英勇伝:十四、松永弾正久秀  
太平記英勇伝:十四、松永弾正久秀  

山陽が博多を訪れる数年前、友人の武元登々庵、浦上春琴が博多に来たときに花遁と知り合ったのが縁という。花遁自身、詩や書を善くし、経史を修めていたので、伝え聞く山陽に興味があったのだろう。

写真はすべてネットより
写真はすべてネットより

小倉城 ネットより
小倉城 ネットより

4月24日

豊前の大里に上陸し、柳ケ浦を過ぎ、小倉城を展望しつつ筑前に入り、黒崎を経て、遠賀郡木屋瀬に至り、高崎四郎八の家に一泊。

山陽が見損ねた碑の写し
山陽が見損ねた碑の写し

宗像大社(福岡県)の阿弥陀経石(重要文化財)を模刻したもの。京都の知恩寺内にある。原碑とほとんど同じ形状。ネットより

青柳駅を去り、香椎を経て箱崎に至り、八幡宮を拝し、醍醐天皇の扁額を仰いで一首の詩を作る。この地にある旗亭(旅館)におそらく一泊。博多の松永花遁に書簡を出す。

2018・4・28

再度「門司大里から博多まで」

 

坂本箕山『頼山陽』(昭和4年)にも門司大里から博多までの行程が書かれている。要約して紹介する。

旧筑前唐津街道の石碑 ネットより
旧筑前唐津街道の石碑 ネットより

4月25日(唐津街道 赤間駅→ 町畦宿→ 青柳宿→ 箱崎駅)

この旅行では一見したいと欲していた赤間駅近くの宗像神宮境内にある阿弥陀経碑を訪ねようと駕籠を急がせたが、気がつけば通り過ぎて、青柳駅まできてしまい、ついに見ることができなかった。ただ、赤間駅の西、住屋峠に「お政」という節女の墓があり、彼女の行状を聞いて感激し、伝を作ることになる。

箱崎八幡宮 ネットより
箱崎八幡宮 ネットより

4月26日(箱崎駅→ 箱崎宿→ 博多宿→ 福岡城下) 

松永花遁は友人らと箱崎まで山陽一行を迎えにいき、博多店屋町にある自宅に入った。一説には数日間、川口屋という旅館に滞在させたともいう。

 

 

2018・4・26

中津のオッサン「26日博多入り」

 

門司大里から博多までの行程

「4月24日小倉城下常盤橋~黒崎宿~曲里の松並木~銀杏屋~木屋瀬宿(高崎家で泊)25日~26日木屋瀬宿西溝口~遠賀川の渡し~赤間道追分(宗像)~唐津街道~箱崎」

立場茶屋 銀杏屋
立場茶屋 銀杏屋

山陽一行が着いたところが、八幡西区石坂「立場茶屋、銀杏屋(たてばちゃ、ぎんなんや)です。親切な案内の方が「銀杏屋は、江戸時代の長崎街道・黒崎宿と木屋瀬宿の間の休憩所です。長崎街道の難所のひとつで、鋭角にきりたった『石坂』は参勤交代のお殿さまも籠を降り、徒歩で登ったというほど、急な石坂を上った所に設けられました。有名な庭の銀杏の木からの命名です。現在は石段が設置されていますが、江戸期は腰をつけて登り降りした坂です」

 

銀杏屋はもともとは農家でしたが、九州各地の大名の参勤交代や江戸長崎間を 旅する役人や高官たちが休息する「お茶屋」としての役目を持つようになりました。「御成門」がある庭には大きな銀杏の木があるところから、「銀杏屋敷」とも呼ばれようになりました。座敷は、「書院造」となっていて、他の部屋より三寸ほど高く造られています。 この天井は110センチほどの中二階の造りになっていて、座敷の天井裏は「土」で 塗り固められていて、もしもの事を想定して造られたものと推定されます。現在あるものは、文化2年(1805)に建築されたもので、一般の農家でありながら書院造にされた「上段の間」が母屋と一緒に一棟で建てられている極めて珍しいものです。」と、坂に挑戦してみますかとの言葉をいただきましたが「次の機会に」と遠慮するほどの坂です。

 

 木屋瀬宿のくの字の道
 木屋瀬宿のくの字の道

山陽さんは銀杏屋で一服し、この坂を下ったのかとの思いが、現在切り開かれた道を数回のカーブを曲がり、一路八幡西区の木屋瀬(こやのせ)宿に向かいます。長崎街道木屋瀬記念館に立ち寄り「みちの資料館」の資料と歴史案内の人によりますと、木屋瀬宿は黒崎側の東構口


(消滅)から西構口(現存)まで約800mの街道で、裏通りのない一本道は本陣付近(現:木屋瀬記念館)で「く」の字に曲がり、家並みはのこぎり歯状に建てられていました。これは、「矢止め」と呼ばれ、敵が攻めてきたときにそのくぼみに隠れたり不意をついて攻撃したりするために配慮されたものと言われています。約260戸人口は1600人で宿街道のほぼ中間には、代官所、本陣、脇本陣、郡屋、人馬継所などの施設と共に人口比に比べ多くの寺院と神社があり、全盛期は20軒の旅籠がありました。」とか。木屋瀬宿は幸いにも戦災にもあわずに当時の町並みが見事に再現されています。ぶらぶらと街道を歩き山陽さんが立ち寄り、おじゃました家が残っていました。高崎家です。説明文を丸写しに・・「高崎家は屋号を柏屋(カネタマ)といい、本家柏屋(カネシメ)の7代目高崎四郎八(1795年~1865年)が分家して創立した家です。本家のカネシメは詩人、歴史学者として有名な頼山陽(らいさんよう)が立ち寄ったこともある土地の豪商です。分家の創立時期や家督相続の時期は明確ではありませんが、少なくとも天保7年(1836年)よりは遅くない時期です。四郎八は文政8年(1825年)から町年寄役を務め、翌年には大庄屋格に任ぜられています。カネタマは嘉永(1848年~1854年)の頃には板場(絞蝋業)を経営し、明治6年(1873年)頃には醤油醸造業を営んでいました。放送作家として活躍した伊馬春部(本名:高崎英雄、1908年~1984年)は、カネタマの5代目として生まれました。新宿ムーランルージュ創立期の座付き作者となった後、ラジオ、テレビ、舞台などの脚本を手がけました。ラジオドラマ「向う三軒両隣り」「屏風の女」等は代表作のひとつです。また、地元の校歌も数多く作詞しています。

 

常盤橋
常盤橋

また、ここで山陽さんは漢詩を詠み揮毫し残したといわれていますが現存していないそうです。高崎家から200mも歩かない場所に西構口があります。追分道標があり、これには『従是(これより)右赤間道、左飯塚道、元文三年(1738年)』と刻まれています。赤間道は遠賀川の渡しを渡り赤間(宗像)に向かっている赤間街道。飯塚道は長崎街道です。長崎街道木屋瀬記念館の「みちの資料館」によると小倉城下から黒崎宿まで2里34町人足賃金53文、黒崎宿から木屋瀬宿まで2里31町人足賃金53文と記載されています。

屋敷地は木屋瀬宿の西構口跡近くの改盛町に位置し、建物は街道に東面して建っています。江戸時代末期の木屋瀬宿図絵馬によると、屋敷地は遠賀川堤防下まで広がっています。 建築年代は2階梁に残された墨書銘などから天保6年(1835年)と考えられます。建物は平成93月に17ヶ月の修復工事を終え、江戸時代末期の大きな商家の代表的な宿場建築として蘇り、平成94月から春部に関する資料もあわせて展示公開しています。


この距離ならば4月24日朝に下関、広江殿峰宅を立ち、堂崎の渡し場から門司大里、渡し舟で小倉城下常盤橋から-黒崎宿-「曲里(まがり)の松並木」-立場茶屋銀杏屋(たてばちゃや、いちょうや)-木屋瀬宿は一日で十分に行けます。高崎家で一泊し、翌朝、木屋瀬宿西構口-遠賀川の渡し-赤間道追分(宗像)-唐津街道-箱崎の行程と推測できます。賴山陽全集による4月26日箱崎に遊び、八幡宮を拝す。とあります。

八幡宮は筑前国一の宮で日本三大八幡宮・筥崎宮(はこざきぐう)であり、行程がわかり日時の記述と一致できます。

 

山陽さん一行は4月26日博多に入ります。

 

木屋瀬宿、西構口・追分道 ここを右折し遠賀川の渡しを渡ったと思います
木屋瀬宿、西構口・追分道 ここを右折し遠賀川の渡しを渡ったと思います

事前に目的を告げていたために調べてくれていて、黒崎宿と木屋瀬(こやのせ)宿のこの2つの宿場の間には長崎街道「曲里の松並木」と呼ばれる美しい松並木が600mにわたり公園化され広がっています。

 曲里の松並木 ネットより
 曲里の松並木 ネットより
曲里の松並木
曲里の松並木

2018・4・25

中津のオッサン

「曲里(まがり)の松並木」

 

山陽さん一行は下関から関門海峡を渡船で渡り、豊前大里(だいり)宿から渡船で豊前小倉城下常盤橋から長崎街道を筑前黒崎宿に向かったと推測できます。

調査団は一路、北九州市八幡西区黒崎に向かいます。古地図に著している長崎街道の一部は新日本製鉄八幡製鉄所に含まれており、また、都市化により当時の街道はわからなく面影も見出すことは難しかったです。

 曲里の松並木 ネットより
 曲里の松並木 ネットより

説明板によると「江戸後期の狂歌師大田南畝(蜀山人は別号の一つ。寛延2年~文政6年=17491823)は「坂を下るに赤土の岸あり。松の並木の中をゆくゆく坂を上り下りて、又坂を下りゆけば、左に黒崎の内海見ゆ」と紀行文(小春紀行)でこの松並木あたりの描写をしている。昭和20年頃までは黒崎から木屋瀬にかけて、街道には多くの松を残していたが、今はわずかにこのあたりが昔日の長崎街道の面影をとどめている」とあります。この景色は鮮烈な印象を与えてくれます。中津のオッサンは土地カンがまったくなく、オバハンの車の助手席にゆられ、「この道が長崎街道です」との説明を受けますが、西も東もわからなくただ車に揺られて行くだけ(汗)

 

 


 木屋瀬宿・木屋瀬宿記念館
 木屋瀬宿・木屋瀬宿記念館
 木屋瀬宿、高崎家
 木屋瀬宿、高崎家

4月5日、中津のオッサンは北九州八幡西区在住の後輩と調査団を結成し、調査開始。北九州市小倉北区小倉城下紫川に架かる常磐橋があります。常盤橋は小倉から九州各地にのびる諸街道の起点であり、終点でもありました。長崎街道、中津街道、秋月街道、唐津街道、門司往還を「小倉の五街道」と呼びますが、すべてはこの橋につながっています。説明板によりますと「豊前門司大里から、小倉城下紫川には連絡の渡船が無数に出ていて、城下の商人町、京町筋などは、時間待ちの茶屋、宿場が繁盛していた」とあります。

2018・4・24

中津のオッサン

「豊前門司大里に着船」

 

1818(文政元年)『賴山陽全伝』によると、山陽さん一行は4月24日に関門海峡をわたり4月○日豊前門司大里(だいり)宿へ着船、4月○日筑前木屋瀬に在り。高崎四朗八宅に入る。4月26日に箱崎に遊びと記載されています。ただ、この期間の行程はわかりません。

 

高崎家の内部
高崎家の内部

 

資料には「崎街道とは豊前国大里(北九州市門司区)、もしくは小倉、常盤橋から、海外に開かれた窓口である肥前国長崎に至る道筋筑前内の6つの宿を『筑前六宿』と呼ぶ。すなわち黒崎(くろさき)、木屋瀬(こやのせ)、 飯塚、内野(うちの)、山家(やまえ)、原田(はるだ)である」とあります。

 

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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