特に記載がない場合以外は見延典子が執筆しています。

参考文献 /「頼山陽全伝」「梅日記」(木崎愛吉、頼成一編昭和6年)

     「頼家百年の軌跡」(小原千秋編 平成10年)

     「頼山陽」(見延典子 平成19年)

2018・3・14

中津のオッサン

「下関の広江殿峰宅に滞在」

 

「頼山陽全書・外伝」によると3月14日に下関着、広江殿峰の宅に入り滞留(4月23日まで)とあります。

広江殿峰宅址
広江殿峰宅址

広江殿峰について少し紹介しますと 1756年(宝暦六年)の生まれ、下関の醤油醸造業で長府藩の御用商人・伊予屋の養子となり広江の姓を名のることが許されていました。商人でありながら画と篆字篆刻に秀でており、自宅を「西江楼」と称し、下関を通過する田能村竹田はじめ多くの


文人たちに解放して文化文政時代の下関きっての文化人であるとの評価があります下関は西廻りの重要港湾であり、広江殿峰が店を構えていた「伊予屋」は当時約400の問屋街中心部であった細江町にあり海からわずかな平野部に山陽道(国道9号線)が横切り、その中心地にありました。伊予屋からつづく小高い山の中腹にある殿峰の居宅である西江楼跡あります。西江楼跡から眺めてみると当時は関門海峡を通過する船舶すべてが見ることができます。賴山陽さん御一行はこの西江楼で草鞋をぬぎ旅の疲れを癒し下関に約40日間滞在します。

 

西国街道の宿場 赤丸は宮市(防府大道)
西国街道の宿場 赤丸は宮市(防府大道)

防府天満宮の前は西国街道と萩往還の分岐点。頼山陽一行は防府天満宮に参ったと考えられる。

道の脇にある水路
道の脇にある水路

2018・3・12

山口県防府市大道

 

3月6日広島城下を出立し、西国街道を西に進む頼山陽一行。

西国街道(京都~下関)は全長580㎞余り。天気にもよるだろうが、朝出立すれば、夕方まで1日3、40㎞歩く日もある。

防府天満宮
防府天満宮
上田堂山屋敷近くを通る西国街道の名残
上田堂山屋敷近くを通る西国街道の名残

西国街道沿いの山口県防府市、宮市宿の近くの大道には庄屋の上田堂山(少蔵、不昧)の屋敷があり、山陽は往復泊まっている。

※写真は本ホームページの史跡詩碑漢詩の紹介から

 

 


小己斐島饅頭 ネットより
小己斐島饅頭 ネットより

2018・3・10

石村良子代表

「小己斐島饅頭をいただきました」

 

小己斐島饅頭をいただいた

西国街道小己斐島は紙屋町から電車で井口下車海側に歩いて1分 西部埋め立て第二公園の中にある 頼山陽西遊の時は海の中にあった 岡岷山の画で往時がしのばれる

現在の小己斐島
現在の小己斐島

左の絵は頼家とも交流のあった広島藩士岡山の「都志見往来諸勝図井ノ」に描かれた小己斐島。

 

 


「龍神山」は明治以降の呼び名で、頼山陽の時代は『芸藩通誌』に「小己斐山」と書かれているそうだ。

山頂を目指す
山頂を目指す

二人が詠んだとされる漢詩は地域のマップにも掲載されている。頼山陽の漢詩は「観月山上の会飲に題す」、田能村竹田の漢詩は「望月山上の会飲に題す」とある。「望月山」と呼んだのは竹田のほうで、山陽は「観月山」であった。

登ってきた西国街道を振り返る
登ってきた西国街道を振り返る

そうこうするうち、山頂に着く。険しい箇所もあったが、登ってしまえは10分くらい。西国街道の面影が残る貴重な一帯である。

案内人の望月信子さん(右)山頂の岩の前で
案内人の望月信子さん(右)山頂の岩の前で

下山は井口小学校側へ。龍神山はグランドに面して、斜面は子どもたちのアスレチックに活用されている。

 

 

2018・3・9

3月6日、九州に向け出立③

 

いよいよ広島市西区井口の「龍神山」にわずかに残る西国街道を歩く。というか攀じ登るという感じ。

さらに「龍神山」には「望月山」の別名があり、頼山陽の漢詩に由来している、しかもその漢詩は田能村竹田と共に山頂で詠んだという。

急な斜面をよじのぼる
急な斜面をよじのぼる

山陽が山頂で漢詩を詠んだという出典は『佐伯郡誌』(大正7年)という。これが事実なら井口地域にとって大きな財産であるが、山陽の漢詩に詳しい方によれば、山陽の詩集に載っていないという。山陽も竹田もこの道を通ってはいる。ただ、いっしょに歩いたという記録は、今のところ見つかってはいない。漢詩も山陽が詠んだにしては特徴が薄く、表現が凡庸という印象を受ける。今後も調査が必要であろう。

山陽と竹田が月を見上げたとされる岩
山陽と竹田が月を見上げたとされる岩
斜面がアスレチックに利用されている龍神山
斜面がアスレチックに利用されている龍神山

一行が歩いた西国街道の一部が広島市西区井口に残っているという情報を頼山陽ネットワーク会員の望月信子さんが教えてくださったので、有志で歩いてみることに。一里塚があり、この辺りは広島城下から2里、約8キロの地点である。

この碑は平成22年建立
この碑は平成22年建立

2018・3・8

3月6日、九州に向け出立②

 

3月6日、広島城下の頼家を出立した頼山陽と門弟の後藤松陰。山陽の息子の聿庵(いつあん)他2名も廿日市まで同道している。

一里塚がある井口鈴が台2丁目付近
一里塚がある井口鈴が台2丁目付近

土地勘のない方はもちろん、広島にお住いの方でもご存じにないかもしれないが、現在、住宅街になっている井口は昭和40年代初頭まで瀬戸内海に面していた。その後、埋め立てが進み、海岸線は遥か南にある。つまり頼山陽一行が西国街道を歩いた200年前、一行は海沿いにある起伏の激しい道を進んだのである。


井口鈴が台2丁目の一里塚にあった説明板の写真
井口鈴が台2丁目の一里塚にあった説明板の写真

開発に激しい広島市西区井口にあって、西国街道の面影が残るのは「龍神山」だというので、とりあえずそこを目指す。

①の広島城下から②の西、廿日市、岩国方面に続く西国街道
①の広島城下から②の西、廿日市、岩国方面に続く西国街道
正順寺の横にある上り口 重装備で向かう
正順寺の横にある上り口 重装備で向かう

「龍神山」の上り口に立つと、なるほど、かつての風情を伝える西国街道らしい道が見える。この道を、頼山陽一行が歩いたとなれば、われわれも歩かなければならない。というわけで歩きはじめたのだが、思いもかけない急峻な山道が…。

           続きます。

 

 


会場の頼山陽史跡資料館(広島市)には   かつて頼家の屋敷が建っていた
会場の頼山陽史跡資料館(広島市)には   かつて頼家の屋敷が建っていた

この出立を記念して、頼山陽ネットワ一ク事務局有志は、頼山陽が歩いた西国街道の一部を実際に歩いたのだが、その報告の前に3月6日頼山陽史跡資料館で行われた頼春水の三回忌を偲ぶ集まりをご紹介する。

頼家の忌際の献立を模する
頼家の忌際の献立を模する

供茶は作法にのっとり行われる。

頼家からはカネ様多万様姉妹がご出席
頼家からはカネ様多万様姉妹がご出席

献茶式後、望月信子さんによる「望月山(西国街道沿い)を詠んだ頼山陽と田能村竹田の漢詩」の話、見延典子による西国街道の話があった。また直会では頼家ゆかりの酒「三谷春」「剣菱」が振る舞われた。

          

 

2018・3・6

3月6日、九州に向け出立①

 

文政元年(1818)1月中旬京都を出立、西国街道を歩き、2月4日から広島城下頼家に逗留していた頼山陽は、3月6日昼前、門弟の後藤松陰を伴い、いよいよ九州に向け出立する。天気も良く旅日和である。

神童 頼春水   10歳時の書と絵
神童 頼春水   10歳時の書と絵
 直会の様子
 直会の様子

続きます。


「西遊200年 頼山陽九州(9周)年」予定表

 

勝手に協賛イベント

3月3日(土)~11日(日)広島市中心部にある紙屋町地下街シャレオで「いま、シャレオ西国街道でござる!」(主催 / 広島市)が開催。

 

 3月3日(土)14:00~15時半(シャレオ中央広場)

 シンポジウム
 「知れば楽しい、西国街道」~広島城下の江戸文化に誘われて

  パネリストの一人として見延典子が参加。

 

 3月11日(日)夕方5時~6時(シャレオ中央広場)

 「安芸ひろしま武将隊によるパフォーマンス」の中で広島の若者による

 頼山陽を主人公にした寸劇(原案は見延典子)が披露される予定。

 

 

1、3月6日 10時~10時30分 頼山陽史跡資料館和室「供茶式」

                   (主催 / 頼山陽ネットワーク)

 ※1月京都を出立した頼山陽は2月5日から杉ノ木小路の頼家の屋敷に

  逗留。3月6日九州遊歴に出立したことを記念し、供茶を行う。

 

 同じく、3月6日、頼山陽長崎出游式

 

 頼山陽が長崎に向けて、広島を発つ3月6日、頼山陽ネットワーク事務 

 局有志で出游式を予定しています(募集は致しません。ご了承下さい)

 

 3月6日

 場所 頼山陽史跡資料館和室(椅子式)

     供茶(春水先生3回忌をしのんで) 景譲院希張新甫霊祭 参考

 

 次第 10時30分 供茶15分(石村)

     11時    直会 酒あり

     11時40分 西国街道の説明(見延)

     12時    頼山陽が歩いた西国街道へ出発 望月山登山

               

 

2、5月23日 旅猿ツアー「長崎『花月』のお座敷で卓袱料理」

                   (主催 / 頼山陽ネットワーク)

 ※この日、頼山陽が長崎に入ったことを記念しての催し。

 

3、 11月3日 

     耶馬渓の名付け親・頼山陽~「耶馬渓」誕生!200年記念祭

                                               (主催 / 耶馬渓を中心とする皆様)

  1818年12月、頼山陽は現在の大分県日田市から中津市に向かう

  道中で見つけた景勝地を「耶馬渓」と名づけます。

  「耶馬渓」誕生200年を祝う催し。

 

4、「頼山陽てくてく」

                   (主催 / 頼山陽ネットワーク)

  1818年1月京都を出立してから、1819年潤4月29日帰京す

  るまでの頼山陽の足取りを、ほぼ毎日「頼山陽ネットワーク公式ホー

  ムページ」で紹介、更新していきます。

 

    ご協力いただける方を募集します。

    「頼山陽てくてく」は頼山陽の足跡が広範囲にわたるため、執

     や写真などご協力ただける方を求めます。募集要領については 

     下記をご覧ください。

              

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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