2022・1・17 近砂敦さん「頼山陽を耶馬溪に案内した曽木墨荘」

 

西日本新聞で「なかつ今昔こぼれ話」を大好評連載中、近砂敦さん(2018年燦燦プロジェクトで頼山陽記念文化賞受賞)が、1月16日付け同紙で、頼山陽を耶馬溪に案内した曽木墨荘について書いています。

 市長さんを囲んでの記念写真
 市長さんを囲んでの記念写真

おっとり刀で駆けつけばビックリ、中津市長、奥塚市長さんが、宮本さんの案内で見学中・・・!

書き下し文は湯谷先生が協力してくださったとか。さすがに癖のある雲華上人の文字を見事に解読しています。全般的、晩年期の作品が多くあるように感じました。

 

2021・10・26

中津のオッサン

「公開 雲華上人の掛け軸」

 

10月226日26日と山陽さんが耶馬渓来訪時、耶馬渓を案内した雲華上人ゆかりの正行寺にて、毛町在住郷土史家の宮本工さんが収集した「雲華上人」掛け軸12幅寄贈され、その展示会が開催されました。

 宮本さんの解説を聞く市長さん
 宮本さんの解説を聞く市長さん

2021・10・8

近砂敦さん「正行寺に寄贈 雲華上人の掛け軸12点」

 

福岡県築上群上毛町在住の、有名な地方史研究家の宮本工さんが、高齢の為長年にわたりわたり収集していた「雲華上人の掛け軸」12点を中津市の正行寺に寄贈しました。

宮本さんは、雲華上人の数ある作品でも傑作といわれる作品を所蔵しています。今回、正行寺において展示することになりました。

もちろん私も拝観します。

2021・3・16 

近砂敦さん(大分県中津市在住)

「明治期発行 中津の新聞に『頼山陽の著書の広告』多数」

 

西日本新聞に連載中の「中津今昔」3月14日掲載の「田舎新聞」に山陽さんを少し触れてみました。明治初期に中津の知識層に頼山陽さんが読まれていたことが意外でした。

2020・10・21

三幸さん「故郷の耶馬渓」

 

耶馬溪は今や稲刈りの最中では無いかと思います。

昨年帰省の際に撮影した青の洞門です。

今年はコロナ禍の影響で中々お墓参りが出来ません。

12月の母の三回忌法要には帰省したと思っています。

2020・8・18

近砂敦さん

「江戸時代初期の

     中津領古地図を発見」

 連載中のコラムの取材中に見つけた「1650年前後の中津領の詳細な地図」です。山陽さんがお出でなった時とはすこし時代が違いますが、ほとんど、変わっていないと思います。この地図で、山陽さんと雲華の行程のがよくわかります。涼しくなれば、地図に沿って走ってみたいと

 思っています。

 

写真は18日付西日本新聞デジタルよりお借りしました。

地図の上、右が近砂敦さん。


うれしかったのは、中津高等学校耶馬渓校が文化祭で、2年にわたり「頼山陽と耶馬渓」の取り組みが行われていたことです。(下のパンフレット参照)

2020・5・13

近砂敦さん「拙著寄贈し、礼状」

 

印刷所の書庫で保管されていた拙著「頼山陽と耶馬渓」8部のうち5部を社長から譲り受け、中津市内にある5校の高校に寄贈したところ、3校から礼状が届きました。

届いた礼状
届いた礼状

耶馬渓は頼山陽のゆかりの地です。耶馬渓の高校生たちが、今後も認識を深め、理解してくれることを願ってやみません、もし機会があれば、全面的に協力していきたいと思っています。

 


2019・8・2

吉森晶子さん

「耶馬渓に新記念碑」

 

耶馬渓の頼山陽先生詩碑の前に、新しい記念碑を建てました。

耶馬渓の頼山陽先生詩碑(大分県中津市)
耶馬渓の頼山陽先生詩碑(大分県中津市)

昨年、行われた頼山陽入渓200年記念事業を後世に伝えるものです。

表には「頼山陽入渓 耶馬渓誕生200年記念碑 平成三十年(二〇一八)十二月」と刻し、裏には記念事業の内容を書きました。

 

 


『耶馬渓と頼山陽』は1部2000円で

 好評販売中。お問い合わせ先

  ☎ 0979(54)2620。

2019・6・8

中津のおっさん

「中津市長に

 記念誌『頼山陽と耶馬渓』贈呈」

 

8日付西日本新聞に、「耶馬渓命名200年記念委員会」が市長さんに一連の行事終了と「頼山陽と耶馬渓」の贈呈のために市長室に訪問された時の記事が掲載されました。


中津市の全国的景勝地・耶馬渓を命名した江戸期の文人、頼山陽(1780~1832)の入渓200年を記念した冊子「頼山陽と耶馬渓」(A4判、92ページ)が完成した。頼山陽が、漢詩や絵画で耶馬渓を紹介した「耶馬渓図巻」全2種類をカラー写真で掲載したほか、漢詩には読み下し文と口語訳も併記。広島県の頼山陽史跡資料館は「2種類の耶馬渓図巻を総覧できる本は今までなかった。冊子はA4判と大きく、細部も分かるので図録としての価値も高い」と評価する。

 

製作したのは、市民団体「頼山陽 耶馬渓入渓二百年記念祭実行委員会」と「燦々(さんさん)プロジェクト」。2団体は昨年11月、頼山陽の耶馬渓来訪200年を記念するフォーラムなどを開催。活動の締めくくりとして記念誌を製作した。

 

頼山陽は広島藩の儒学者の家に生まれ、32歳で京都に私塾を開き、日本初のベストセラーとされる歴史書「日本外史」を記した。1818年、九州旅行の際に「山国谷」と呼ばれていた同市耶馬渓地区の山水画のような美しさに驚き、その衝撃から「耶馬渓」という美称を与えた。「耶馬渓山 天下無(耶馬の渓山 天下に無し)」と激賞、6尺(約180センチ)の南画と1244字の漢詩で表現した「耶馬渓図巻」に結実させた。この図巻により耶馬渓は全国の文人あこがれの地へ変貌し、各地に耶馬渓という名を冠した景勝地が生まれるきっかけともなった。

 

図巻は2種類ある。中津市永添の正行寺住職だった雲華(うんげ)上人(1773~1850)のために頼山陽が1819年に製作した通称「雲華本」と、29年に広島・尾道の豪商橋本竹下(ちっか)に請われて再度製作した同「竹下本」。現在、雲華本は所在不明となっている。

 

不明の「雲華本」については今回、メンバーの1人で近砂敦さん(65)=中津市=が、1932年に現物をカラー写真で撮影し印刷された巻物を昨年入手し、デジタル画像処理した。また両方で2千字を超える漢字の解読作業は長野淳雄さん(77)=同市山国町=が担当。漢詩の読み下し文と口語訳は、同資料館の花本哲志主任学芸員に執筆を依頼し、京都教育大の谷口匡教授(漢文学)が監修した。花本学芸員は「竹下本では省略された表現があったり、描かれた人物が違ったりするなど両方の違いを比較できるのは魅力」と語る。1部2千円で販売している。同会=0979(54)2620。

 

4日、2団体は市役所に奥塚正典市長を訪ね、記念誌の完成を報告した。実行委員会の宮瀬正明会長(72)は「活動を継続し、九州各地の頼山陽顕彰団体とのつながりを深めたい」と抱負を語り、奥塚市長は「市も耶馬渓のブランド力向上に努めたい」と応じた。

 

『旅遊』は「耶馬渓」誕生!200年記念実行委員会、3月31発行
『旅遊』は「耶馬渓」誕生!200年記念実行委員会、3月31発行

2冊目は『頼山陽と耶馬渓』で、編纂者は近砂敦さん、発行は燦々プロジェクト及び耶馬渓誕生二百年記念実行委員会。こちらは山陽が描いた「耶馬渓図巻」の雲華本(1819年完成したものを1932年複刻。原本は不明)と竹下本(1829年完成したものを1913年複刻。原本は頼山陽史跡資料館蔵)を掲載している。

「耶馬渓図巻」雲華本            見開きで載せられているのでわかりやすい
「耶馬渓図巻」雲華本            見開きで載せられているのでわかりやすい

2019・5・9

頼山陽西遊200年

中津市で記念誌2種発行

 

昨年は頼山陽西遊200年にあたり、頼山陽が名づけ親である中津市耶馬渓では多くの催しが行われた。その記録をとどめておこうと、2種の記念誌が発行された。

1冊目は『旅遊』で「耶馬渓」誕生!200年記念実行委員会の発行。11月3日の「記念式典、頼山陽フォーラム」、日田往還中津街道ウォークを中心に多くの寄稿、写真からなる。A4判、74ページ

本格的な内容の『頼山陽と耶馬渓』
本格的な内容の『頼山陽と耶馬渓』

雲華本、竹下本とも頼山陽史跡資料館提供の漢文、読み下し文付。同館主任学芸員花本哲志さん、耶馬渓の郷土史家横山民幸さんの解説付き。


原本が不明になっている雲華本はもちろん、竹下本も全体を鑑賞することがむずかしい現状で、貴重な試みといえるだろう。A4判、92ページ。尚、『旅遊』『頼山陽と耶馬渓』とも見延典子が寄稿している。

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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