特に記載がない場合以外は、見延典子が書いています。

2018・12・9

正行寺住職の末弘慶潤さんと②

 

西日本新聞の取材で、正行寺住職の末弘慶潤さんとお会いした際の、別バージョンの写真。

今後、このように光栄な機会は訪れないかもしれず、貴重なショットになる可能性が高いので(笑)独断で掲載する。

ご住職とはなんどかお会いしている。「雲華上人もかくなむ」と思うような懐の広い方である。

 

 


於正行寺の「頼山陽の間」 2018・11・4
於正行寺の「頼山陽の間」 2018・11・4

2018・12・8

西日本新聞に対談記事

 

少し前になるが、11月17日付け西日本新聞(県北ニュース)に対談記事が掲載された。

 

「頼山陽入溪耶馬渓命名200年」というタイトルで、中津市にある正行寺住職の末弘慶潤さんと見延典子が対談したもの。

 

慶潤さんは頼山陽の友人雲華上人のご子孫。


2018・11・23 

中津のオッサン

「中津で、頼三樹三郎の報」

 

明治時代の外交官で、長州出身の政治家の青木周蔵(左の写真、1844〜1914)は1860年から2年間、中津の儒学者手島物斎の塾(誠求堂)に留学していました。「青木周蔵自伝」には興味深い話が書かれています。


「1860年(万延元年)の事なりと思ふ。江戸より中津に着したる某氏の書簡中、前年、江戸に起こりし一大疑獄(安政の大獄(1858年~1859年)の詳況を報じ、但、当年志士の一人として処刑せられたる頼三樹三郎の、 排雲欲手掃妖蛍失脚墜来江戸城、云々 と詠ぜし、彼の有名なる七律一首をも添付し来りたるが、橋本氏は、一日特に予を招きて之を示し、 此の詩の作者たる頼三樹三郎は、実に学識に富める有為の士なり。此の名士を殺戮したるは、真に徳川氏滅亡の前兆なり。 と云えり、此の一事、痛く予をして感動せしめ、世勢如荷に成り行くべきやと、天下国家の将来に関して初めて幾多の疑念を抱かしむるに至れり。」 


九州の片田舎、因循にして固陋の藩風の中津藩、城下町中津において、

一部ではあったでしょうが頼三樹三郎はすでに大きく評価され、時勢を読み取る力をもった知識人がいたことを驚きます。 


彼らがいたことが中津藩下級武士団子弟の育成に生きて、明治期、福沢諭吉を中心核に中津福沢人脈につづくとわかります。

 

2018・11・20

耶馬渓は「やばけい」か「やまけいか」②

 

疑問を解決するには、原文にあたるのが一番である。頼山陽の「耶馬渓図巻記」(雲華本)の全文と訳文が近砂敦著『耶馬渓』に掲載されている(写真右)。読み返してみて、改めて教えられたことがある。

図録「頼山陽と九州」は頼山陽史跡資料館で好評販売中。郵送も可能。
図録「頼山陽と九州」は頼山陽史跡資料館で好評販売中。郵送も可能。
残部僅少。売り切れご容赦。
残部僅少。売り切れご容赦。

「耶馬渓図巻記」(雲華本)で、山陽が繰り返し使うのは「馬渓」「馬景」であり、「耶馬一溪の山水」という表現こそあるものの、「耶馬渓」は出てこない。「耶馬渓」と書かれるのは「耶馬渓図巻」つまり絵の最後になって「昨歳征鎮耶馬渓 山水大都如此」の部分である。(「頼山陽と九州」参照)

※「耶馬渓図巻(雲華本)は現在所在がわからず、見延は現物を見たことがないことを記しておきます


これらから推測されるのは「耶馬渓」は「耶馬・渓」ではなく、「耶・馬渓」からつくった山陽の造語ということである。「馬渓」について広辞苑その他で調べてみたが、出ていない。「ばけい」「まけい」の二種の読み方が考えられるが、「ばけい」と読むほうがしっくりする気がする。「耶」については山陽の漢詩「雲耶山耶」のように「か」と訓読みもある場合もあるが、この場合は音読みの「や」だろう。

 

ではなぜ「やばけい」ではなく「やまけい」と考えたかというと、山陽の漢詩の一節「耶馬渓山無天下」を「耶馬の渓山天下になし」のように「耶馬」と「溪山」で切ってしまう「やま(の)けいざん」ことに原因がある。(先日耶馬渓200年記念祭の詩吟では「やばのけいざん」と吟じられていた。私も含め、地元の人はみな、そのように読んでいる。詩碑にもそのように書かれている)

 

山陽の趣旨の沿えば「や・ばけい・ざん」のように「の」を入れないほうが正しいのだろうか。この点、漢詩の専門の進藤多万さんからの解説を待ちたい。

頼山陽先生詩碑(耶馬渓)の前で  2018・11・3
頼山陽先生詩碑(耶馬渓)の前で  2018・11・3

2018・11・16

耶馬渓は「やばけい」か「やまけいか」①

 

問題提起である。頼山陽が名づけた耶馬渓。わたしたちは「やばけい」と呼ぶが、山陽自身は「やまけい」と発音していたのではないか。

耶馬渓はもともと「山国谷」と呼ばれていた。頼山陽は「耶馬の渓山天下になし」と漢詩に詠んだ。


この「耶馬」の部分は「やば」より「やま」と発音するほうが日本語として自然ではなかろうか。日本史に通じていた頼山陽はとうぜん「邪馬台国」のことも知っていたろう。「邪馬」と「耶馬」は異なるので、あえて「やば」としたのか。

漢詩などにはルビは振らないのが慣習だ。山陽が「やばけい」と発音していたかは、ひらかなかカタカナで書いたものが見つからない限り、確定しないと思うが、そのようなものは確認されているのだろうか。

 

ご意見をお待ちしています。

 

 

2018・11・8 大分合同新聞にも「頼山陽フオーラム」

 

8日付大分合同新聞にも「頼山陽フオーラム」の記事が掲載された。

 

「耶馬渓」の名付け親、頼山陽(1780―1832年)を顕彰する「頼山陽フォーラム」が3日、中津市耶馬渓町の耶馬渓公民館文化ホールであった。山陽が耶馬渓を遊歴して200年。あらためて、その業績や人となりについて理解を深めた。
 市内の文化や郷土史、観光の各種団体で構成する実行委員会(宮瀬正明会長)の入渓200年記念事業。市民ら約300人が参加。
 山陽が耶馬渓を詠んだ漢詩「峯容面面(ほうようめんめん)」の詩吟で幕開け。宮瀬会長が「山陽先生は耶馬渓を全国に知らしめてくれた。感謝の気持ちを250年後、300年後にも後進につなげていこう」などとあいさつした。
 頼家6代当主で頼山陽旧跡保存会理事長の頼政忠さん(京都市)が「頼山陽を語る」のテーマで話した。幕末のベストセラー「日本外史」については「篤姫や坂本龍馬らも読んだという。読み物として面白かったんだと思う」と語った。さらに「耶馬渓や山紫水明の言葉を鮮明に印象付けた。コピーライターのような才能があった」と指摘した。
 吉田洋一久留米大学教授が頼春水(しゅんすい)・山陽親子と筑前の儒学者亀井南冥(なんめい)・昭陽(しょうよう)親子との関係を示し、九州の儒学者たちとの交流ぶりなどについて話した。
 講演に続いてパネルディスカッション。小説「頼山陽」の著者見延典子さん(広島市)がコーディネーターを務めた。各地で顕彰活動をする長崎史談会の村崎春樹副会長や「ふれあい・いきいき漢学サロン」(熊本市)の上田誠也世話人代表、咸宜園教育研究センター(日田市)の溝田直己主任がパネリストとして登壇。山陽の各地での足跡や逸話などを熱く語った。

 

「頼山陽フオーラㇺ」          壇上右はコーデネイターを務めた見延典子
「頼山陽フオーラㇺ」          壇上右はコーデネイターを務めた見延典子

2018・11・6

西日本新聞に「頼山陽フオーラム」

 

6日付、西日本新聞の電子版に11月3日、大分県中津市耶馬渓町で行われた「頼山陽フオーラム」の記事が掲載されたので、ご紹介する。

 →こちらをご覧下さい。

 


中津市の全国的景勝地・耶馬渓を命名した江戸期の文人、頼山陽(1780~1832)の入渓200年を記念した「耶馬渓誕生!200年記念祭 頼山陽フォーラム」が、同市耶馬渓町の耶馬渓公民館文化ホールであり、住民ら約300人が地元と山陽の深いつながりに思いをはせた。

 山陽は広島藩の儒学者の家に生まれた。32歳で京都に私塾を開き、日本初のベストセラーといわれる歴史書「日本外史」を記した。1818年、九州旅行の際に「山国谷」と呼ばれていた同市耶馬渓地区の山水の美しさに驚く。その衝撃から「耶馬渓」という美称を与え、「耶馬渓山 天下無(耶馬の渓山 天下に無し)」と激賞。全国の文人たちがあこがれる地へと変貌させ、全国に耶馬渓という名を冠する景勝地が生まれるきっかけになった。

 3日にあったフォーラムでは、頼家6代当主で、頼山陽旧跡保存会(京都市)の頼政忠理事長が講演。「風光明媚(めいび)」や「山紫水明」などの言葉は山陽が創作したとする頼理事長は「山陽は人を引きつける言葉を発明し、コピーライター的才能に優れていた。耶馬渓も偉大な創作の一つだった」と解説した。

 頼山陽ネットワークを運営し、山陽の著作もある作家の見延典子さん=広島市=をコーディネーターに、パネルディスカッションも行われ、山陽の人柄や功績、九州とのつながりなどについて意見を交わした。

 200年記念祭実行委員会の宮瀬正明会長は「250年、300年と記念祭ができるよう、次世代に引き継いでいきたい」と意気込みを語った。

=2018/11/06付 西日本新聞朝

 

 

山陽先生詩碑の前の進藤多万さん
山陽先生詩碑の前の進藤多万さん

頼山陽ネットワーク事務局の進藤多万さんと、まずは6年前、全国の皆さんからの浄財で再建された頼山陽先生詩碑を見にいく。

Nさんと再会。近況を語り合う。
Nさんと再会。近況を語り合う。

会場の耶馬渓公民館に行くと、300席が用意されている。みるみる埋まり、開始時刻にはなんと満席に。

会場には頼山陽関連の資料の展示
会場には頼山陽関連の資料の展示
表彰状を贈る進藤(頼)多万氏
表彰状を贈る進藤(頼)多万氏

いよいよ開会。詩吟のあと主催者、来賓の挨拶。書道で優秀な成績をおさめた小学5年生の女の子に、進藤多万さんから表彰状が贈られる。

九州の儒者について語る吉田洋一氏
九州の儒者について語る吉田洋一氏
左からパネラーの村崎氏、上田氏、溝田氏
左からパネラーの村崎氏、上田氏、溝田氏
中津のオッサンこと近砂敦さん
中津のオッサンこと近砂敦さん

講演をふくめ3時間。パネラーは専門家だけに議論は尽きない。会場にいる中津のオッサンこと近砂敦さんにもマイクを回し補っていただく。

中央は実行委員長の宮瀬正明氏。      左は頼政忠氏。右は見延典子
中央は実行委員長の宮瀬正明氏。      左は頼政忠氏。右は見延典子
 貴重な焼酎「耶馬美人」
 貴重な焼酎「耶馬美人」

2018・11・5

「耶馬渓」誕生!200年記念祭

 

11月3日、快晴のもと頼山陽耶馬渓入渓200年記念祭が行われた。

そばの実が入ったそば汁
そばの実が入ったそば汁

見延が耶馬渓を訪れるきっかけを作ってくれたNさんとも再会。「頼山陽フオーラム」にご参加の講師やパネラーの皆様と、そば汁などおいしい昼食をいただく。

開場直後の会場の様子
開場直後の会場の様子
 頼山陽について語る頼政忠氏
 頼山陽について語る頼政忠氏

講演は京都頼家6代当主頼政忠氏、久留米大教授吉田洋一氏。続くパネルデスカッションはパネラーに長崎史談会村崎春樹氏、いきいき漢学サロン上田誠也氏、咸宜園教育研究センター溝田直己氏をお迎えし、見延典子がコーデネイターを務める。

会場にお集りの地元の皆様でもご存じなかった話が次々出てくるのであろう、席を立つ人もなく、皆さん最後まで熱心に聴講してくださる。

記念祭を支えた吉森晶子さん
記念祭を支えた吉森晶子さん

大勢の皆様のご尽力により、「頼山陽フオーラム」は予定通り16時45分に終了。場所を変え、打ち上げ会場へ。そこで見た関係者の皆様の笑顔、笑顔、笑顔が「山陽フオーラム」のすべてを物語っていた。

 


ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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