九州遊歴中の頼山陽は、文政元年(1818)11月3日に豊後日田に入って1か月ほど滞在後、12月5日、中津正行寺を目指して出立する。

その行程を見延典子が中津市在住の中津のオッサン、島藤さんと辿る旅。

 

20177・5 中津のオッサン 🔁 匿名さん 「英彦山」④

 

匿名さんへ

 

ネットワークに掲載されている山は英彦山ではありません。


とりあえず、インターネットに掲載されている英彦山画像から拝借した、福岡県添田町からの英彦山の画像をお送りいたします。

 

英彦山は山岳修験道の九州の拠点です。奉幣殿、銅の鳥居など見どころが沢山あります。近年、スロープカーなどが整備され、楽に英彦山神社に参拝できるようになっていますので是非、御参詣をしてください。

 

                        中津のオッサン

 

2017・7・4

中津のオッサン 🔁 見延典子 🔁 匿名さん 「英彦山」③

 

見延典子さんへ

 

まさに、その通りです。曾木墨壮は歴史に埋没していますが、中津地方史に大きな足跡を残しています。

彼の紹介をする機会があればうれしいのですが、中々機会がありません。

また、信頼できる古物商の方が損得勘定なしで、この数年曾木墨壮の書、絵画を探していますが、まだ、見つかっていないと嘆いています。

またしても、簡単=乱暴な返信お許しください。

                                   中津のオッサン

頼山陽ネットワークさんへ

 

あの山は、英彦山ですか?

一時、父が英彦山登山に熱をあげていたので、気になります。

                        匿名

 

2017・7・3

中津のオッサン 🔁 山根兼昭さん 🔁 見延典子 「英彦山」➁

 

山根兼昭さん、見延典子さんへ

 

耶馬渓に対してのご質問ありがとうございます。

簡単にお答えいたします。

 

1) 日田を出て伏木峠を目指す途中に「国道沿いの山」は「英彦山」ですか。 

 

違います。山国川源流の英彦山は守実温泉から英彦山東側まで約16kmの山林の深い渓谷。猿飛の甌穴群や須磨の景、魔林峡(マバヤシキョウ)高千穂峡にも負けないような景勝地があります。掲示されている山はわかりませんので、耶馬渓で詳しい人に聞いてみます。

 

(2) 曾木墨壮宅址に立つ碑の裏側に「曾木新治宅」とありますが、「新治」とは墨壮の通称でしょうか? 

 

曾木墨壮の妻「けい」は現在の福岡県上毛町久路土の手永(小倉藩の地方行政単位・付近の30カ村を束ねる)大庄屋矢野恒蔵の次女です。

 

矢野家の後を継いだ義兄の建吉が32歳の若さで病死し、残された遺児恒小七が9歳であった為に、恒七が成人するまでの間中継ぎとして久路土の手永に就任します。そのため曾木墨壮の実家、現在の大分県中津市本耶馬溪町曾木の大庄屋は弟の曾木新治が継ぎます。 

 

山陽さんが曾木家にご一泊された当時、曾木墨壮は久路土の手永の時代ですが 実家の弟の家にご招待しています。よって本耶馬溪にある碑文は「曽木新治宅」と記載されています。

 

頼山陽さんが日田、耶馬渓、中津でお分かりにならいことがありましたら、何なりとご連絡ください。できうる限りお答えします。

                        中津のオッサン

中津のオッサンへ

 

えーと、お答えの内容は中津のオッサンがいうほどカンタンには理解できないですよ(笑)。墨壮は福岡の奥さんの実家の手伝いに忙しく、大庄屋曾木家は墨壮の弟の新治が継いだ。そこに頼山陽一行が泊まったという理解でOKですか?

                         見延典子

 

2017・7・2

山根兼昭さん 🔁 見延典子 

🔁 中津のオッサン「英彦山」

 

尾張旭市民塾・第3回目(6月30日)は、頼山陽の九州旅行から母・梅颸への孝養、晩年の活躍について話を致しました


丁度、頼山陽ネットワークで6月13日~27日まで8回わたり、豊後日田から中津正行寺までの探勝記を詳しく掲載いただき、山国川を北上して羅漢寺、耶馬渓、雲華上人の正行寺など非常に参考になりました。日田の広瀬淡窓は頼山陽より1歳年下ですが、山陽の廉塾時代からお互い切磋琢磨した間柄であったと思います。その中で、日田を出て伏木峠を目指す途中に「国道沿いの山」(写真上)。この山は「英彦山」ですか。

 

 彦 山      広瀬淡窓作

彦山 高き処望み氤氳(いんうん) 木末の楼台晴れて始めて分る

日暮天壇人去り尽し 香煙は散じて数峰の雲と作る

(大意)英彦山の高い頂を仰げば、もやに包まれ霊山の気が当たり、よく眺められない。やがてもやが晴れて英彦山神社がくっきりと拝せられた。先ほどまで賑わった社殿あたりも、日暮れと共に人影は去り、線香の煙だけが広がり、いくつかの峰をなして、やがて雲となって漂うばかりである。

 

山根兼昭さんへ

 

道路沿いにあった山で、たぶん英彦山ではないと思いますが。中津のオッサン、もしご覧になったらアドバイスをお願いします。

 

ついでながら、紹介し忘れていた写真をUPします。曾木墨壮宅址に立つ碑の裏側です。「曾木新治宅」とありますね。これって墨壮の通称でしょうか? 中津のオッサン、併せてご指導お願い致します。

          見延典子

 


また中津城下京町にある田中信平宅(写真右)を訪問、中津の文人と交流したと考えられる。

正行寺の頼山陽の間
正行寺の頼山陽の間
耶馬渓図巻には「雲華本」「竹下本」がある
耶馬渓図巻には「雲華本」「竹下本」がある
頼山陽「耶馬渓図巻記」の現代語訳も掲載。近砂敦『耶馬渓』
頼山陽「耶馬渓図巻記」の現代語訳も掲載。近砂敦『耶馬渓』

2017・6・27

12月13日~16日 

青村(曾木家)、正行寺

 

13日、曾木家を後にした頼山陽一行は来た道を戻り、正行寺に帰る。

頼山陽は近くの鶴市八幡宮(写真左)を参詣し、漢詩を残す。

正行寺では旅の記録や耶馬渓図巻の下絵をまとめる作業をしただろう。

雲華上人の肖像画
雲華上人の肖像画

頼山陽が設計したと伝わる正行寺の鐘楼(写真下)。鐘楼ほか、正行寺の本堂、山門、袖塀は文化庁の登録有形文化祭に登録されている。


頼山陽は9カ月にわたる九州遊歴の旅の最後に「耶馬渓」の発見という大きな土産を得て、16日、船で大里(北九州市門司区大里)から下関に向かう。九州遊歴がその後、頼山陽の文人としての業績に多大なる影響を与えたことは広く知られるところである。

 

頼山陽が歩いた道を駆け足ながら辿ってみて、当時の道が残っていることに驚き、感動した。いや、なんとなく「残っている」わけではない。地元の皆様の地道な調査と「残そう」という意志によって「残されている」のだ。本連載にあたり、『耶馬渓』著者の近砂敦さん、郷土史家の島藤寿敏さんのご協力に感謝申し上げます。

                       見延典子

 

 島藤さん作成のマップ
 島藤さん作成のマップ

山陽は、6日に立ち寄った茶店で、自分が見つけ出した南画を思わせる風景と対峙しつつ、心行くまで杯を傾ける。雲華上人に自慢した様子が目に浮かぶ。宿泊地は浄真寺。

浄真寺。山陽は地名と聞き間違えて「樋山寺」と記す。
浄真寺。山陽は地名と聞き間違えて「樋山寺」と記す。
 口の林 渡し場跡にある船止め石
 口の林 渡し場跡にある船止め石

なんと、橋を渡る際、駕籠の底が抜けて転げおち、泥だらけになったというのだ。しかしこんな話も旅の土産になっただろう。

 

 

2017・6・24

12月11日、12日 

尾形家、浄真寺、青村(曾木家)

 

頼山陽一行は、宿泊先の尾形家を11日朝発ち、城井(きい)峠を越え、戸原斑の口の林の渡しを渡り、山国川左岸の藩道を通り、柿坂を再訪する。

 柿坂「擲筆峰」に立つ頼山陽先生詩碑2013年地元の皆様のご協力で建立
 柿坂「擲筆峰」に立つ頼山陽先生詩碑2013年地元の皆様のご協力で建立

12日、雨が降る中、山陽一行は浄真寺を出立。雲華上人は馬に乗り、山陽は駕籠に揺られ、再び北上し、青村の曾木墨荘宅を目指す。ここで山陽は思いもよらない〃災難〃に遭ってしまう。

 周辺の様子。            頼山陽一行の道中に思いを馳せる。
 周辺の様子。            頼山陽一行の道中に思いを馳せる。

羅漢寺のロープウェイ乗り場につながる石段。初めての羅漢寺訪問
羅漢寺のロープウェイ乗り場につながる石段。初めての羅漢寺訪問

現在、羅漢寺にはロープウェイがある。徒歩で登った頼山陽一行に思いを馳せつつ、ロープウェイからの眺望を楽しむ。

案内されたものの、山陽は「山は水を得なければ『勝地』とはいえない。石は樹を得なければ『趣』がない」といい、羅漢寺のたたずまいには心を動かされなかった。人工的な感じが肌に合わなかったのだろう。山陽が絶賛するのはあくまで柿坂で眺めた風景である。そういうわけで、こんどは山陽が雲華上人らを案内して、柿坂を再訪することになる。

          続きます。

 

※山陽の心情を理解する上でも羅漢寺はお勧めスポット。雲華上人が自慢するのも頷けます。

          

 

2017・6・23

12月10日

尾形屋から羅漢寺

 

12月10日、尾形屋を出立した頼山陽一行は、雲華上人が自慢する羅漢寺へ向かう。

 残念ながら、羅漢寺内部は撮影禁止。  羅漢寺のホームページに掲載されている写真(上)で雰囲気を感じてください。
 残念ながら、羅漢寺内部は撮影禁止。  羅漢寺のホームページに掲載されている写真(上)で雰囲気を感じてください。

 

 <参考>

 近砂敦『耶馬渓』

 島藤寿敏「耶馬渓の名づけ親『頼山

     陽』と『日田・山国谷』」


 頼山陽が宿泊した中津古城の「正行寺」
 頼山陽が宿泊した中津古城の「正行寺」

山陽は日田を発った後、柿坂で見た山水画のような景色を熱く語る。それに対して雲華上人は「いや、もっと絶景がある」といい、9日、山陽を羅漢寺、仙人巌に案内することになる。せっかく来た道を戻る格好である。同行人は雲華上人のほか、曾木墨荘、松川北渚、僧侶の大宣。

 この道も歩いたはず。
 この道も歩いたはず。
雲華上人、山陽一行が泊まった可能性がある尾形屋があったと思われる家(中央)
雲華上人、山陽一行が泊まった可能性がある尾形屋があったと思われる家(中央)

2017・6・22

12月6日~9日

正行寺から尾形谷の尾形屋①

 

12月6日、頼山陽は九州遊歴の最終目的地である中津古城の正行寺に到着。雲華上人とは3月の下関以来、9カ月ぶりの再会を果たし、7日、8日と滞在。

 頼山陽が歩いた現在の勅使街道
 頼山陽が歩いた現在の勅使街道

中津のオッサン、島藤寿敏さんの入念な調査によって、頼山陽一行が歩いたであろう道を見つけ出し、案内してくださった。当時の山陽の思いを想像し、周辺の景色の一つ一つを目におさめていく。

 

 


2012年豪雨後、護岸工事が行われ、  景色も変わった「青の洞門」付近
2012年豪雨後、護岸工事が行われ、  景色も変わった「青の洞門」付近

2017・6・21

12月6日

宮園から正行寺②

 

柿坂(下の地図1)を出立した頼山陽は戸原村、口の林(2)、曾木、桶田(4)と北上を続け、その日のうちに、九州旅行の最終目的地 古城にある正行寺(5)に到着.


 昭和初期の耶馬渓地図 近砂敦『耶馬渓』より転載
 昭和初期の耶馬渓地図 近砂敦『耶馬渓』より転載

途中、青の洞門(当時は桶田の刳り抜きと呼ばれた)近く、現在の山國旅館のすぐ前に「頼山陽先生碑」(右の写真)が建つのを不思議に思っていたが、中津のオッサンからこの一帯は大庄屋曾木墨荘の屋敷跡であったと教えていただき、納得する。後日、山陽は雲華上人らと共にこの地再訪することになる。

          続きます。

 

 


山陽翁當遊記念碑(柿坂)
山陽翁當遊記念碑(柿坂)

この地こそ、頼山陽が「耶馬渓」と名づける由縁となった地。2012年の豪雨で頼山陽先生詩碑が流された後、燦々プロジェクトを立ち上げ、新たな詩碑を建立した。その代表である吉森晶子さんと再会。風格を増した新詩碑とも対面を果たす。

(写真右。吉森さんは日々の清掃してくださっている。感謝!)

錦秋の頃を想像する。
錦秋の頃を想像する。

山陽も見た「五泉龍」(写真右)については「群仙肩をならべてその半身を露わし、満松たてがみを振って雲中に鼓涛するがごとく、また廿五菩薩の楽を奏しているがごときなり」と書き残している。

(近砂敦『耶馬渓』より引用)

           続きます。

 

2017・6・20

12月6日

宮園から正行寺①

 

さて2日目、宮園村を出た頼山陽は山國川を下流へ進んでいく。行けばいくほど景色はよくなり、やがて柿坂の茶店に着く。主人に持参の酒を温めさせ、たまたま猟師が獲ってきた猪を料理させ、杯を傾ける。

2013年12月に再建された「頼山陽先生詩碑」。左から中津のオッサン、燦々プロジェクト代表吉森晶子さん、島藤寿敏さん
2013年12月に再建された「頼山陽先生詩碑」。左から中津のオッサン、燦々プロジェクト代表吉森晶子さん、島藤寿敏さん

猪料理に舌鼓を打ちつつ、一献傾けたあと、さらに北上。柿坂を過ぎても続く樹木、水、岩が織りなす錦秋の風景美に、酒がまわり、気分がよくなった山陽の心は鷲掴みにされてしまう。「耶馬渓図巻記」にはその感動の様子が連綿と綴られている。

「五泉龍」は近年水量が減ったものの、  頼山陽が感動した理由を感じさせる。
「五泉龍」は近年水量が減ったものの、  頼山陽が感動した理由を感じさせる。

「耶馬渓町」の標識が立つトンネルの右手に、街道の名残を残す道がある。

以前やはり島藤さんのご案内で訪れたことがある。なんど来ても雰囲気のある洞門である。山陽はここで松明を求め、「窓の所まで行って月が朗然として渓水にあるのを眺めた」

頼山陽が泊まったと思われる民家跡
頼山陽が泊まったと思われる民家跡

2017・6・18

12月5日

日田から伏木峠、守実、宮園泊③

 

諸事情で、ホームページ上では日数がかかっているが、まだ頼山陽が日田を出発して一日目である(笑)

トンネルの右手にある道を分け入る
トンネルの右手にある道を分け入る

いわゆる「一ッ戸洞門」。ここも間違いなく頼山陽は歩いている。

 一ッ戸洞門からの眺め
 一ッ戸洞門からの眺め

一ッ戸洞門を抜けると、一ッ戸宿場。宮園と呼ばれる地にある宿(民家)で、山陽は草鞋を脱ぐ。

          

          続きます。

 


修復した石畳道の脇に、修復前の道が残っている。こここそ頼山陽が歩いた道だという(写真下)

まさに往時の面影を残す道だ。

「龍」というバス停を経て、朝陽橋(写真下)に出る。昔かかっていた古い橋を山陽は渡り、中津を目指したのだった。

橋の下を流れる山國川の流れ。

2017・6・15

12月5日

日田から伏木峠、守実、宮園泊➁

 

石坂には「石坂修治碑」も建つ。広瀬淡窓が書いた由来記を隈町の森昌明という人物が清書した(写真下)

さらに進むと、「日田往還、中津街道」の看板が見える。

今は6月。山陽が歩いたのは12月。白い息を吐きながら、歩を進めた山陽の様子が思い浮かぶ。

現在は舗装されているが、かつては街道だった道(下の写真)。

マニヤックな旅を楽しむシルバー3人組。これでいいのだ(笑)

        まだ続きます。

 

 

 


日田から北上。二本目の赤「宮園」で一泊
日田から北上。二本目の赤「宮園」で一泊

 

島藤さん、私が乗る中津のオッサン運転の車は日田での調査を終え、北上しつつ旧道へ入る。くねくねの上り坂が続くが、中津日田道路ができる30年ほど前までは幹線道路だったという。伏木峠を目指す。

何分くらい走っただろう。「石坂」の看板が見える。「市ノ瀬と伏木峠を結ぶ重要な街道の一部であった」とある。周辺には石畳道が残る。

2017・6・13

12月5日

日田から伏木峠、守実、宮園泊①

 

文政元年(1818)12月4日、広瀬淡窓の自宅に泊まった39歳の頼山陽は、淡窓、中島子玉(米庵)らに見送られて出立。隈町から森春樹、森荊田が加わる。淡窓らは河原町まで、春樹らは羽野の天神で別れ、館林万里と二人旅に。

国道沿いの山
国道沿いの山

 

この道を頼山陽も歩いたのは間違いない。ただ、看板には「石の露出が多い急坂だったので、嘉永三年(1850)、隈町の京屋作兵衛(山田常良)が改修整備した」とある。ちょっと残念。

しかし改修工事の翌年、広瀬淡窓が由来を漢文で書いたとあり、淡窓が嘉永年間まで存命だったと知ったのは収穫であった。

 

           続きます。


ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

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