「戦後日本は江戸の偉人たちを故意に抹殺したのだ!(推論)」という言葉も記されている。江戸時代の文化の豊かさを思うとき、この言葉は傾聴に値する。

 

残念ながら非売品。5月3日旅猿ツアーご参加の皆様には回覧予定。

(A5版 28ページ)

 

2016・4・20 

川本伸寛編『渉成園と頼山陽』

 

先日、好評のうちに終了した本願寺の春の宝物展「渉成園と頼山陽」のために書き下ろされた一冊。


 

他に堀尾哲朗氏「日本外史を読む会」、頼祺一氏による「梅颸日記」(天保12年)の翻刻、見延典子による同解説など盛りだくさんの内容。会員に配布。

 

問い合わせは頼山陽記念文化財団

☎082-542-7022

 

 

4・14 頼山陽記念文化財団会報

  「雲か山か」103号

 

頼山陽記念文化財団会報「雲か山か」103号が発行された。

 

湯谷祐三氏の連載「雲華上人の古玩帖」が始まった。

年に2、3回発行。今回は18ページ。
年に2、3回発行。今回は18ページ。

2016・3・24 湯谷祐三

「広瀬淡窓より見たる雲華上人の人間関係」

 

副題に「雲華院釈大含信慶講師年譜稿」補遺とあるように、すでに一冊にまとめられている「雲華院釈大含信慶講師年譜稿」を広瀬淡窓が遺した日記資料によって補おうというもの。

 

雲華上人の継嗣に関する新たな考察もある。

 

A5版 25ページ。

 

お読みになりたい方は頼山陽ネットワークまでメールでご連絡ください。追ってご連絡致します。

 

 

 

 

3・19 有吉佐和子『恍惚の人』②

         『日本外史』「恍惚」の記載個所

 

『日本外史』の「恍惚」の記載個所へのお尋ねをしたところ、さっそくお返事をいただいた。

 

『日本外史』巻之九「足利氏正記 足利氏下」に以下のようにある。

 

「時に(三好)長慶老いて病み、恍惚として人を知らず」

 

三好長慶(1522~1564)は阿波を本拠地とする戦国時代の武将、大名。後に畿内をほぼ制圧し、「日本の副王」とも呼ばれたという。

 

『日本外史』を読み、自著のタイトルに用いた有吉佐和子(1931年 ~1984)はいかにも才女と呼ばれた作家らしい。

 

情報を寄せてくれたのは頼山陽ネットワークの石村良子代表。こちらもさすががある。

 

2016・3・18 

有吉佐和子『恍惚の人』

 

ご紹介するのが遅れたが、2015年11月1日付北海道新聞にこんな記述を見つけた。

有吉佐和子の超ベストセラー『恍惚の人』の「恍惚」は頼山陽の『日本外史』から取ったというもの。

 

『日本外史』のどのあたりの文章からの引用か。ピンときた方、ご連絡ください。

 

 

2016・2・2 夏目漱石著『吾輩は猫である』に頼山陽

 

明治の文豪 夏目漱石の名作『草枕』に頼山陽、頼春水、頼杏坪が描かれているという話は以前、このコーナーで書いた。同じく夏目漱石の近代文学の金字塔『吾輩は猫である』でも頼山陽が出てくる。

 

迷亭先生が主人公の珍野苦沙弥に向かって次のようにいう場面。

 

「昔、ある人が山陽に、先生近頃名文は御座らぬかといったら、山陽が馬子の書いた借金の催促状を示して、近来の名文はまずこれでしょう、と云ったという話があるから…(略)」(引用は現代仮名遣い)

 

『吾輩は猫である』は明治37年(1904)に執筆され、翌年に発表された。明治37年は日露戦争が始まった年で、『吾輩は猫である』にもその話題は散見する。

 

ただ、漱石は山路愛山のように頼山陽を政治に結びつけようとはしない。まして神格化もしない。これは『草枕』と同様。

 

すぐれた文学者とは本質をとらえるものだ、という見本であろう。

 

 

2015・12・17

頼山陽書翰集(上巻、下巻、続編)

 

文豪と呼ばれる条件の一つに書簡集が出ているか否かがあげられると何かで読んだ記憶がある。

 

 

その伝でいえば、頼山陽は文豪中の文豪であろう。ずっしりと重い書翰集が上巻、下巻、続編と3冊も出ている。

 

昭和2年発行で、編者は徳冨猪一郎、木崎愛吉、光吉元次郎。昭和55年に復刻。古本屋で見かけることがある。

 

頼山陽に興味はあるが、『日本外史』を読むのは面倒、詩もわからないという方は思いきって書翰集から入ってみてはいかがだろうか。解説つきなのでスラスラ読める。

 

なんだ、頼山陽ってこんな人なのか、と気づき、誰かに話したくなるだろう。

 

 

2015・10・23  高島俊男氏『明治の荻生徂徠』②

 

頼山陽が明治政府から最初に「評価」されるのは、明治14年の50年祭だ。祭し料として100円が下賜される。

 

明治16年、頼三樹に祭し料として50円が下賜される。

 

さらに明治24年、まず4月、頼三樹に正4位追贈されたあと、12月、頼山陽に正4位追贈。

 

頼山陽の前に、息子の頼三樹が贈位された理由は、頼三樹は吉田松陰とともに安政の大獄で刑死したからだと思われる。

 

明治26年、山路愛山「頼襄を論ずる

(まだ冷静に判断できる人がいたことは書いた)

 

明治42年、頼山陽の叔父頼杏坪に従4位追贈。

 

大正4年、頼山陽の父頼春水に従4位追贈(100年祭)

 

昭和6年、頼山陽に従3位(100年祭)

     祭し料300円下賜

 

倒幕に回った側には下士と呼ばれる人が多かったが、彼らが作ろうとした社会の一端がうかがえる。利用できる歴史上の人物には贈位するということだ。

 

 

2015・10・21

高島俊男氏『明治の荻生徂徠』①

 

講談社の読書雑誌『本』11月号に

高島俊男氏の漢学雑談という連載があり、今月号の「明治の荻生徂徠」で、頼山陽が出ているので紹介しよう。

 

この雑誌は定価90円だが、書店に行けば無料でもらえる。

 

内容は江戸の学者荻生徂徠が明治以後どのような扱いをうけたかを、贈位という観点から考察したもの。

 

詳しく書いては著作権に触れると思うので、ほどほどのところでとどめなければならないが、高島氏は丸山真男氏の書物から引用して、凡そ以下のように書いている。

 

「歴史上の人物に位をやるようになったのは明治10年前後からで、明治9年、新田義貞に正3位、楠正行に従3位が贈られた」(楠正成については書かれていない)」

 

「その他の江戸の学者では荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤の国学4大人に加え、山崎闇斎、頼山陽を加えた6人が従3位で特別なのだ」

 

「彼らと比べ、荻生一門は中国崇拝のため、贈位されたなった」というのが趣旨である。

 

ところで、頼山陽は確かに最終的に従3位を贈られているが、これは明治の話ではない。昭和6年のことである。

 

贈位が、時の権力者の都合で贈られるのかを考える上でよい例になると思うので、頼山陽を例に、この話題を続けよう。

 

 

 

 

 

「頼山陽」(後ろから3行目)
「頼山陽」(後ろから3行目)

2015・9・13

「漢詩人 広瀬淡窓」

 

紹介するのが遅くなったが、少し前、中津のオッサンが送ってくださった。

 

「漢詩人 広瀬淡窓」(平成26年度咸宜園教育センター特別展)の図録である。

 

淡窓が交遊した人物として、頼山陽について、数ページを割いて紹介している。

 

 

   向かって右が頼山陽の肖像画
   向かって右が頼山陽の肖像画

頼山陽の肖像画は京都大学博物館蔵のものが使用されている。

 

この肖像画は壮年期の山陽の姿を生き生きと伝えている。

 

咸宜園には「日本外史」「日本政記」「通義」「新策」など山陽の著作の多くが所蔵され、塾生に読まれたという。


淡窓と山陽の「まさか」のエピソードも載っている。


中津のオッサン、ありがとう。




2015・8・11

小久保均『流れてやまず―宇品築港と千田貞暁』

 

昭和54年渓水社刊

 

明治13年、広島県令(知事)として広島に赴任した千田貞暁が明治22年、広島の宇品港を完成させるまでの話。

 

頼春水、山陽親子の書の話が出てくる。特に山陽の「宿志固有在(宿志は固く在に在り)」の書は主人公の心情が変化する際の重要な場面で使われる。


当初は「奔放に見えて小心な筆」に見えたはずの山陽の書が「何と雄渾で気概に充ちた筆であることか」と変化する。


この書についてはさらに続きの話があるが、それは実際に読んでいただくことにしょう。





2015・8・5

湯谷祐三

『雲華上人との交流と田能村竹田の画業』

 

雲華上人の研究を進められている湯谷祐三氏が雲華上人との交流から田能村竹田の画業を見た論文。

 

 

湯谷祐三氏は頼山陽記念文化財団の会報の最新号にも「頼山陽の友 雲華上人の実像」を寄稿されている。

 

山陽や竹田と極めて近い距離にいた雲華上人については、これまでほとんど知られていなかった。

 

そもそも……

山陽が浄土真宗の学僧である雲華上人と親しかったこと自体、明治以降、神道と結びつけて語られてきた頼山陽像を大きく打ち壊すもののとして、極めて痛快な話なのである。

 

会報のほうには雲華の名前の由来、雲華が意外にも酒が呑めなかったこと、妾とされた女性との関係などについても言及して、雲華上人の知られざる一面を伝えている。

 

                   

 

 

2015・7・10

安藤英男『頼山陽詩集』

 

頼山陽の詩が171首、年代順に収められている。

 

昭和57年に発行 近藤出版社

 

語解、大意、余考がついて読みやすいが、現在は古書店でしか入手できない。

 

 

 

 

 

 

2015・6・23

頼成一 伊藤吉三訳注『頼山陽詩抄』

 

頼山陽の詩が300首が、詩の形式順に収めれらている。但し、現代語訳はない。

 

頼成一氏は頼山陽の直系の子孫。

 

昭和19年(1944)に発行

平成21年(2009)に復刊

岩波文庫

 

 

 

 

2015・6・20

揖斐高訳注『頼山陽詩選』

 

頼山陽の詩120首を年代順に並べ、注釈と現代語訳を付してある。

 

頼山陽の詩を扱った本としては最も新しい。

 

平成24年(2012)に発行

岩波文庫

 

 

 

2015・4・18 

湯谷祐三著

『雲華上人年譜稿』

 

湯谷祐三さんという方と知り合った。

 

雲華上人を調べていらっしゃるという。頼山陽の周辺にはいろいろな文人がいるが、雲華を調べているという方に出会ったのは初めてである。

 

しかもご自分で雲華の年譜まで作成して、発表されている。

   雲華上人の行動や周辺の出来事が年ごとにまとめられている。
   雲華上人の行動や周辺の出来事が年ごとにまとめられている。

こういうものを見ると、すぐ横取りするのが頼山陽だが、私はちゃんとお願いして譲っていただいた。

 

雲華上人の側から見る頼山陽というのも新鮮である。

 

とともに当然のことながら、雲華上人にかかっていたベールのようなものが消えていく感じだ。

購入希望者のために、発行元などをのせておくが、残部があるかは不明。

 

譲ってくれるも不明。

 

その件につき、責任は負いません(笑)

 

 

 

 

 

2015・4・16

先哲遺墨集②

 

4・8に紹介した『先哲遺墨集』だが、その厚みが十分伝わっていないのではないかと危惧し、写真をとりなおした。

 

 

 

最近、ほとんど使わなくなった電話帳をさらに二回りくらい大きくしたサイズだ。

 

しかも収録されている遺墨は「頼山陽」に限ったわけではない。


好事家が所蔵している軸類を片っ端から収録しているような感じだ。

 

その目的はといえば、頼山陽文徳殿の建設費を募るためである。



山陽文徳殿は昭和6年、頼山陽没後100年祭を機に、広島市が中心になって建築した。頼山陽が神様になりかけた頃の建物で、現存している。

 

ただ、『先哲遺墨集』に関しては日本の「書画文化」が一覧できる内容である。ここに収録されている「遺墨」の中には、あるいは原爆で喪失したものがあるのかもしれない。

 

2015・4・8 先哲遺墨集①


愛知県にお住いの山根兼昭さんから荷物が送られてきた。


ずっしり重い。


開けてみると、『先哲遺墨集』とある。



 

山根さんは先日の旅猿ツアーにも、ご参加くださった。

 

その折、この本を譲ってくれるというお話をされていたが、こんなに立派なものが送られてくるとは想像もしていなかった。

 

そういうわけで、恐縮しつつ、おそるおそる開いてみる。



なんと2冊組(乾、坤)である。


重さを計ったら、2冊で4、5キロ(笑)


いや、そのようなことをやっている場合ではない。


発行の趣旨は「凡例」に掲げられている。


昭和8年3月25日発行。1年4月後の昭和9年7月25日にはすでに4刷になっている。


発行所は広島市役所内の「頼山陽文徳殿建設翼賛会」とある。


頼山陽の名が全国を席巻していた頃の遺墨集である。


     続きます。




2015・4・11

「雲か山か」100号

 

頼山陽記念文化財団が発行している会報「雲か山か」が100号を迎えた。

 

創刊号は昭和59年1月27日。30年が経過し、記念すべき100号となった。


頼山陽没後の『梅颸日記』も連載中で、翻刻は頼祺一氏、解説は見延典子が担当している。

 



会員も募集中。

 頼山陽記念文化財団FaceBook

 

2015・2・27

『蒙古襲来』を読んでみた

 

広告に惹かれて服部英雄著『蒙古襲来』(山川出版社)を読んでみた。

 

著者の服部英雄氏は1947年生まれ。現在は九州大学大学院比較社会文化研究院教授。

 

ずいぶん専門的な書物であろうとは思っていたが、予想通りであった(笑)

 

 

この本の広告を見て、何に心が騒いだのかといえば、「神風」という言葉だ。

 

蒙古=元寇といえば「神風」が思い浮かぶ。

 

服部氏は第一次資料を読み込み、そもそも「神風」など吹かなかったのではないか、という着眼点から、「蒙古襲来」という史実におおわれた虚構を剥ぎ取ろうとしている。

 

本書によれば、「神風神話」はすでに鎌倉時代からあり、近代になるまで日本の政治、思想、歴史に影響を与え続けたという。

 

神風思想の最大の悲劇は「神風特攻隊」ではないかとも。

 

頼山陽の「蒙古来」(蒙古来る)には「神風」は出てこない。「東風」という言葉で詠まれている。

 

だが詩の内容から考えて、「神風神話」に「蒙古来」は利用されたのではないか、というのが私の仮定であったが、残念ながらそんなことはどこにも書かれていなかった。

 

もう少し調べてみたい。

 

 

2015・2・21

『頼山陽全書』全八巻から「詩集」

 

頼山陽が生涯に詠んだ詩2000首が網羅されている。

 

但し、「読み下し文」さえついていない。

 

この詩集を読みこなせる現代人がどのくらいいるのだろうか。

 

日本人は何を忘れ、どこに向かおうとしているのか。

 

 


でもご安心を。平易に書かれた本も出ている。


しかも読んでみると、いろいろな発見がある。


日記を残さなかった山陽だが、詩集が日記がわりではなかったのか。


『頼山陽全書』は昭和6年(1930)の頼山陽生誕100年を記念して出版された。「詩集」は年をまたぎ、昭和7年の出版。


ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

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 『私のルーツ

 

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