2018・3・25
ちづPさん「この方を発見!」
広島市内を歩いていると…この方を発見!
お煎餅買いました(^。^)
ちづPさんへ
この頼山陽像は初掲載です。 ただ赤いマフラーはそろそろ外したほうがいいかもしれませんね。
頼山陽ネットワーク
2017・12・5
「修路記」の碑
石村代表のブログにある広島市中区の鶴見橋の近くの「修路記」。山田十竹(養吉)と頼山陽の孫 頼元啓(誠軒)の交流ぶりが察せられて興味深いが、数日前、十竹をご研究中の畠眞實先生から、明治25年に十竹が「山陽祭」(忌祭だろう)に出席している話を伺ったばかり。
ネットには畠先生の教え子さんと思われるブログに畠先生の現代語訳が掲載されていた。謹んで転載する。
「修路記」碑文
我廣島市自竹屋町至段原村鶴見橋田間行路迂而窄卑而湿不
可車不可馬潦則人亦不可行於是八木理助菅原英之助木本岩
助絹川保蔵亀屋圓暁池田格次郎長尾慎平七人為侶首捐資修
繕應者三十餘人県吏西村益三亦與而有力馬自竹屋町經田中
町至鶴見橋通直道長二百二十七歩役夫二百人費財七百金創
工於明治庚寅七月告竣於明治辛卯四月比於故道捷八十歩
廣十有二尺高二尺則車可行馬可行潦亦行行人大喜於是諸
人請余記其事石嗚呼世皆設溪壑於方寸中而計利己抛不關於
痛痒之毛爪而利人亦不為也或利人也而問其効則茫乎捕風
捉影矣而今諸人則不止不利己捐己而利人而其効又如此余亦
毎往還此路喜其便也不辞而記之
明治廿三年 修道校主山田養吉撰 必正舎主頼元啓書
<現代語訳(畠眞實先生)>
わが広島市の竹屋町より段原村鶴見橋田間の道路は曲がりくねっており、狭い上に道路面が低くて、じめじめしている。車も通行が難しく、馬も通行が難しい。長雨が降れば人もまた通ることができない。
そこで、八木理助、菅原英之助、木本岩助、絹川保蔵、亀屋圓暁、池田格次郎、長尾慎平の七人が仲間の先頭にたって私財を投じた。(この道路の修繕の趣旨に賛同して)修繕に応じた者は三十余人。県の役人西村益三もまたこれに加わり、労役に使う馬を提供した。
竹屋町より田中町を経て鶴見橋通りに至る真っ直ぐな道路の長さは二百二十七歩。そこに役夫二百人を当て、資財七百円を費やした。明治二十三年七月に工事を始め、翌明治二十四年四月頃に竣工を告げた。それによって道路は八十歩短縮され、道路の幅は十二尺に広がり、道路面も二尺の高さになった。
それで車の通行が可能になり、馬の通行も可能になり、長雨が降っても通行が可能になった。通行する者は大いに喜ぶに及んだ。そこで多くの人々が私にその事を石に記すようにと要請するところとなった。
ああ、世間の人は皆心の中に次々とわき上がる欲望を潜ませていて、自分の利益をはかり、自分のものをなげ出すにしても、その痛みや損害を髪や爪に感じるほどでもなく、人に利益になることもまたしないのである。あるいは人に何か利益になることをするにしても、その行為が(自分とって)どういう成果をもたらすかを問題にするのである。
すなわち、その空しいことといったら、まるで風をとらえ、影を捉まえようとするようなものだ。それなのに今、(この道路の修繕に関わった)大勢の人々は、自分の利益を求めない態度を変えることなく、じぶんのことはさておき、人のために尽くす。そしてその成果はまた先に述べたごとくである。
自分もまたこの道路を往き来するたびに道路が通行しきやすく便利になったことを喜ぶものである。それで人々の要請を断ることなく、この碑文を記した。
明治廿三年 修道校主 山田養吉 撰 必正舎主 頼 元啓
余談ながら、鶴見橋が初めて架けられたのは明治13年。それまでは渡し場があった。こうして考えると、頼家の人々の比治山安養院の墓参も、現在のように徒歩60分とはいかなかっただろう。
※山田十竹は漢学者。教育者。修道学校の最初の校長。
鶴見橋は頼山陽文徳殿のある比治山近くにある橋。
頼山陽が著した『日本外史』が時代の変遷とともに時の権力者によって利用され、頼山陽の人物像も大きく歪められたとする記事の論旨は、『頼山陽』執筆以降の見延典子の主張と重なっている。広島に本社を置く新聞社が頼山陽の評価の変遷をここまで掘り下げて書いたのはおそらく初めてであろう。見延は山城氏から一時間ほど取材を受けたが、「頼山陽ネットワーク」公式ホームページに書いた記事の影響が随所に感じられる内容になっている。
2017・6・12
中国新聞 変遷「勤王」の頼山陽像
6月12日、中国新聞に「変遷『勤王』の頼山陽像」(中国新聞特別編集委員山城滋)が掲載された。
第7代藩主浅野重晟の命により庭園内の亭、橋などに名前をつけたのは頼春水であったといわれる。
縮景園内は着物姿の女性が多く、華やいでいる。茶会も盛況で、一日で数千人が煎茶を楽しむ。
縮景園と隣接する広島県立美術館の近くでは、尾道大学の男子学生による野点が開かれていた。男子学生が着ている着物は頼家から譲られたものとか。着物と共に、「文人文化」も次世代に受け継がれていく。学生の皆さん、よくお似合いになっていますよ。(写真右)
2017・6・5 縮景園
浅野家の別邸だった縮景園は当初、「泉水屋敷」と呼ばれていた。6月4日、「菖蒲茶会」(財団法人煎茶道三癸亭賣茶流)が開かれるというので出かけた。
煎茶を好んだ頼山陽、浦上春琴の軸も掲げられて、格調高い雰囲気。
2017・2・20
石村良子代表
「新甫墓碣 頼山陽代作」
新甫墓碣は、頼景譲の墓碑文で頼春風の次男である権二郎(景譲)のために山陽が作った(春水の代作)
前掲ブログのように墓の全面は剥落している是だけでも何んとか立て看板がほしい。
権二郎は山陽の脱藩,廃嫡がもとで15歳の時宗家の養嗣となるも26歳で早世した。
小原千秋氏が「頼景譲年譜」をあらわしておられ これは新甫墓碣の碑面の推察や権二郎の人となりがしれる貴重な本である(写真上)。別の面からの山陽も見れる。
広島市比治山の多聞院内にある頼家墓所。頼景譲の墓は水害で表面が削れたとの話です。頼山陽が碑文を書いているのに残念です。
2017・2・17
石村良子代表
「中津のオッサンの記事に思う
頼家墓所(広島市)の場合」
中津のオッサンの投稿、広江殿峰の石碑が破棄されたという話、後継者の点で考えさせられますね
墓はそのものが頼家の問題なのはわかりますが、広島市が頼山陽文徳殿改修などに4000万かけると聞き、それぞれの碑文についての立て看板を立てられないものかと思います。
2016・11・26
石村良子代表「縮景園清風館の額」
雲従龍風従乕
(雲は龍に従い風は乕に従う)
頼元協
(頼山陽長男聿庵)
意味=相似た性質を持った者どうしが互いに求め合う。りっぱな君主のもとにはすぐれた臣下が現れるということのたとえ。ほんとうに心が通じ合うとは、すぐ側にいるということでなく、どんなに離れていようとも、心はいつでも離れずに側にある(「易経」乾卦から)
また多門院の東側には、昭和6年(1931)山陽の没後100年を記念して建てられた「頼山陽文徳殿」がある。
2016・11・23
土饅頭と頼山陽文徳殿
すでに紹介済の多聞院の頼家墓所。ここに眠る頼春水(山陽の父)、梅颸(母)、聿庵(子)ら数名の墓は「土饅頭」と呼ばれ、民俗学的にみても珍しい。
残念ながら、「文徳殿」は現在、諸事情から一般公開されていない。貴重な文化遺産であれば、早期に公開していただきたいものである。
梅颸の残した亡くなったわが子を悼む文は 涙なくしては見れない 乳を含む力もだんだん弱くなり まったく飲めなくなる様子など克明にしるす 江戸時代は七歳以下の人別帳にのらない子供が死んでも 葬式はしないが 梅颸は大二郎の墓参りもかかさない
残された文によると 大二郎はろうたけて美しく 池の表を竹でたたき みずしぶきのあがるのを喜んだり
2016・10・11
石村良子代表「頼山陽の弟」
頼山陽には 夭逝した弟がいた 墓は広島比治山多聞院(安養院)にある 儒教の墓は前に墓碑があり後方に墳丘がある これは見慣れぬ形をしている 三歳(寛政六年七月∼寛政八年五月)で亡くなった大二郎の墓である
いつも出入りする人の刀をいくつも抜いてこれは誰のというと 間違えることもなく言い当て 春水が外から帰ると 父のいつもの居場所に、ここへここへとふすまの塵をはらい 先にたち 忙しそうにする孝心あつき子であったという 和歌に「母よとて よびしは耳に とどまりて ありかもしらぬたまの生末」
頼山陽にちなんだ菓子としては他に頼山陽もなか、久太郎饅頭、忠孝煎餅などがある。それなりの需要があるようだ。
2016・4・10 頼山陽煎餅
広島市内に芸陽堂という菓子屋がある。頼山陽煎餅が売られていて、ときどきマスコミでも紹介される。
ところで芸陽堂の看板には頼家家紋の双瓶子も使われている。また頼山陽の「陽」の字が「易」になっている。これは間違いではなく、山陽自身も用いているという。
かんじんの頼山陽煎餅の写真はいずれまたということで…
2016・4・1
鶴見橋の頼山陽詩碑
猿猴橋の詩碑(説明板)のところでも書いたように、頼山陽が詠んだ猿猴橋にさしかかった時の詩碑は、京橋川のもう少し下流、鶴見橋の河岸に建立されている。
十数年前、東南ロータリーが建てた際には、猿猴橋の近くに建てられない事情があったのかもしれない。
今回、猿猴橋が復元されるにあたって、この詩碑を猿猴橋近くに移す案があったらしい。
ところが詩を刻んだ石が大きすぎて、設置できる場所を確保できない。それで説明板だけを立てることにしたそうである。
石碑の文字は頼山陽、説明板の詩の部分の文字は日比野貞勝(広島文教女子大学教授)による。日比野貞勝氏は昨年、頼山陽史跡資料館に建てられた頼山陽先生像の文字も書かれている。
(写真 / 石村良子)
2016・3・30
猿猴橋に頼山陽の詩碑(説明板)
3月29日、90年ぶりに復元された猿猴橋(えんこうばし)。
そのすぐ近くに頼山陽の詩碑(説明板)が建てられた。
文政8年(1825)10月6日、頼山陽(当時46歳)が京都から広島に帰省の際、猿猴橋にさしかかった時の詩である。
といっても今回復元されたのは大正15年(1926)に造られた橋で、山陽が渡ったのはそれ以前の木橋であったと思われる。
実は広島市内の鶴見橋近くに、十数年前、東南ロータリーによって建てられた同じ詩を刻した石碑がある。
当時は猿猴橋近くには建立できない事情があったのかもしれない。
今回、その石碑はそのままに、新たに詩碑(説明板)がこの地に設置された。
(写真 / 石村良子)