2017・2・4
山根兼昭さん「頼山陽と梅花」
立春を迎え、梅の便りが聞かれるようになりました。
頼山陽と梅(梅花、梅樹)とのエピソードは、生涯を通して多くの作品として残っております。
「梅を詠ず」 頼山陽作―14歳、寛永5年(1793年)ー
一株 水に臨んで 清龍わだかまる
孤芳を養い 歳寒に倣らんと擬す
自ら 松篁の 相伴うに足るあり
墻(かき)を 過ぎ去って 人看を索(もと)むるを休めよ
(大意)一株の梅樹が、水面にさしかかって生えているのは、あたかも竜が静かにわだかまっているようだ。それは厳寒の候に雪や霜をしのぎ、一人芳ばしさを誇っているように見える。
その頼もしい気象は、同じく厳寒に耐える松や竹などと相親しみ、よき伴侶ともなっている。それは人生における、徳は孤ならず、必ず隣ありという君子にも似ている。
そのきりっとした姿をいつまでも保って、いたずらに垣の外までも枝を伸ばし、人の見るのを求めるような、さもしい態度をとることを慎んでもらいたい。
(感想)この詩は、山陽が14歳の正月「十有三の春秋・・」と詠み一躍有名になった詩に次いでの作品である。これが14歳の作品か、まさに天才、いや怪童である。
その後、二十代は波乱の人生で過ぎてしまい、三十代になってようやく梅に思いを寄せる心境になったと思われる。
三十四歳の十月、美濃の村瀬藤城、西部萬年は郡上八幡に案内する。「山陽先生の美濃に遊ぶや、余これに郡上に従い、すなはち 斉藤招桂なるものをその別荘「梅隠亭」に訪う。」
この梅樹園は花こそありませんでしたが、その絶景は山陽の脳裏に強く刻み込まれたことと思います。晩年五十二歳の二月「月ヶ瀬梅の勝、これを耳にすること久し。今年諸友を糾せ、往いて観る。六絶句を得たり。」
この時は、末広雲華、小石元瑞等そうそうたるメンバーで、終始雨にたたられながらの観梅でしたが、山陽の梅に対する執念を感じます。
頼山陽は、1813年10月この山里に20日間逗留いたします。その証拠となる作品を、このたび斉藤美術館、11代当主斉藤仁司館長より初めて開示していただきました。
その詩幅をこの度、美濃の西部家6代目西部晋司当主より拝見させていただくことが出来ました。
郡上八幡の写真(最初の写真)端の中腹に、この詩碑があると言われましたが、現在は車も入れず確認できませんでした。
2016・10・14
山根兼昭さん
「郡上八幡で頼山陽に逢う」
岐阜県郡上八幡(ぐじょうはちまん)は、美濃市の北方30キロにあり、飛騨の山々に囲まれた古い街です。夏7月から9月にかけ民謡郡上節で毎晩踊られる盆踊りは有名です。
この時山陽は、村瀬藤城、西部萬年と三人で美濃より陸路を北上いたします。長良川の両岸を飛騨に山々に囲まれた絶景を「奚嚢、探勝百峰の間・・」と詠みました。
2016・9・21
山根兼昭さん
「9月23日 頼山陽185年祭」
新発見、村瀬藤城筆「梅荘百年楼記」で頼山陽185年祭を偲びたいと思います。
―弘化4年、山陽没後15年、村瀬藤城57歳、筆跡ー
(本文)昔、山陽先生の濃に遊ぶや、余これに郡城(郡上)に従ひ、すなはち斉藤招桂なる者をその別荘「梅隠亭」
に訪う。時にその藩朝の執政、小出公純と俱にす。亭築はその郊外にあり。渓流に沿いて而してゆくこと数理にして、これを翠微のところに得る。その四囲清廉にして、梅樹を裁うること五六十なるべし。余、視て而してこれを羨む。襟を正して言ひて曰く、「僕もまさに他日、隠遁生活を梅花に託さんとす。またまさにこの如くなるべし。」山陽先生、諸公これを哂ふ。二十年を超えて後、余、遂に梅荘を郷の北峡にはじむ。 …以下 略…
(解説)美濃の村瀬藤城が山陽を郡上八幡に案内したことは、よく語られられていることですが、この「百年楼記」によって初めて確認できたという思いです。
藤城は老後を、梅樹園を作り、そこで暮らしたいと言ったら、山陽先生に笑われたというのも微笑ましい情景です。
その二十年後、藤城は本格的に梅樹園作りにかかり、浪速より三千本の苗を取り寄せ植樹しました。そしてその中に、念願の梅荘を作り「余、常に期す。日来、ここに同志を集め、もって書を講ずるを。」
此の「私塾梅花村舎」には美濃一円に門弟数百人を持つに至りました。
新発見その2、
郡上八幡(岐阜県郡上市八幡町)の斉藤招桂について調べたところ、「斉藤美術館」を見つけました。
早速、手紙をつけて、「頼山陽、美濃尾張遊歴」の冊子を送りました。
先日、返事が来ました。「頼山陽や藤城の軸が数本あると思うが、どうしてうちにそれがあるか解らなかった、あなたの本を読んで納得した。整理して展示するのに一カ月くらい掛るので、追って連絡する。館長十一代当主 斉藤仁司」
頼山陽の185年祭がえらい事になってきました。