2016・8・28
山根兼昭さん
「執念の探究、遂に成就」
去る7月27日、美濃善応寺に行った後、美濃市図書館へゆき、「村瀬藤城コーナー」で「美濃の漢詩人とその作品」と云う千頁以上の本の中から、「善応寺訪禅智師」という頼山陽の漢詩を発見いたしました。(その3で紹介) 今まで、1年半に及ぶ調査の中で唯一見つかったのは、「西部(にしべ)萬年に郡上八幡を案内されたお礼の詩」のみです。
西部萬年に贈る(仮題) 頼 山陽
奚嚢(けいのう)、勝ち探る 百峰の間
落日に頭を回らせば 不破の関
知らず北行 深さ幾里なるか
林端忽ち得たり 加賀の山
(大意)重なる山々と深い谷、夕日に目をやればその山の向こうは不破の関、飛騨の山並みは幾里あるか知らねど、その先は加賀の国である。
それで後日、美濃市教育委員会へ電話し、事情を話すと、「市史編纂の準備中なので話を聞きたい」と云うことになり、8月16日の懇談会になったわけです。
その時の資料「禅智禅師の逸話」は、仏教界の雑誌「大法輪」ー昭和8年発行ーの記事の中から住職が探し出してきたものです。
この資料により、1829年(山陽五〇歳)美濃善応寺全焼、山陽の遺品ほか重宝灰燼に帰す。村瀬家三代後に断絶、所蔵品は殆ど売却、という衝撃的な事実が明らかになったわけです。
この状況を受けて、美濃市史編纂委員会では、市で山陽や藤城の遺韻の展示会を呼びかけ、蒐集を図りたいとのことです。
特に善応寺ご住職には、ご協力賜り感謝申し上げます。
2016・8・23
山根兼昭さん
「頼山陽と高僧禅智師、村瀬藤城」
この三人は、一八一三年十月上有知(美濃)で出会います。本来ならばその記録として、詩幅、書簡などが残り、文献として後世に伝えられたと思いますが、この一年美濃市図書館を中心に
調べても、それらしきものは何もないのです。それで八月一六日、岐阜県文化財保護協会K理事、美濃市史編纂委員F先生、善応寺住職の方々にご出席をいただき懇談会を行いました。
1、善応寺禅智禅師の逸話ー善応寺住職提供―抜粋ー
文化十年十月上有知の門人村瀬藤城を訪うた。村瀬家は弟に画家の秋水、医者の立斎あり、頗る文墨の家であリ富裕であって、山陽などの世話もしていた。村瀬家は善応寺の門前に有って、山陽を案内して善応寺に禅智禅師を訪うた。
一夕の風雅、予想外な清興を得て忽ち古詩一篇を賦した。山陽詩抄第一巻の「善應寺訪禅智師」(前出)
時に山陽三四歳、放縦なる一書生である。禅智禅師は実に五七歳、堂々たる老師家である。山陽は嘗て経験のない詩禅一致の大教訓を得たのである。
禅智禅師はこの後、大坂の鳳林寺へ栄転になりますが、その数年後、祝融(火災)の災いに罹り、本堂他全焼してしまい、什宝も大半灰燼となり、山陽の遺韻は一変を留めない。
端溪の硯、程君房の墨、古帖黄庭経なども今は見ることができない。
村瀬家には、その後も、山陽と詩書の往復があり、資料も大分あったろうが、藤城の後、秋水 雪峡と二代続いた文墨の名家であったが、此の後 藍水が夭逝して跡を継ぐ者がいなくなってしまった。それで、山陽から贈られ所蔵していた田能村竹田の「一楽帖」なども売られてしまったのであります。
今、善応寺にあるものは、贋作と言われた山陽の書簡です。実はもう一枚写真の書簡がありました。これを解読できれば新たな事実が解かるかもしれません。
例の「山陽が藤城に贈った屏風の書」についても意見を求めましたが、異論は出ず納得していただきました。
善応寺門前に有った村瀬家も今は全く跡形もなく、系譜を見ても断絶してしまったことが伺えます。
2、美濃市史編纂
市史編纂委員から「村瀬藤城氏系譜」の提供がありました。
当時親族で保管していた書類がまだ相当未整理であり、これから一年かけて整理を進める予定です。
2016・8・18
山根兼昭さん「頼山陽から村瀬藤城への書簡」(善応寺所蔵)
善応寺で書翰を見せていただいて1年以上になりますので、お礼と説明をするため7月27日に訪問 いたしました。
書翰の内容
山陽一筆、日本外史の写本ご卒業され、写本が揃われました事、扨さて目を見張る思いです。年来の宿志を遂げることができました。長期間の滞在にも皆様方に親しく気配りいただき、楽しく過ごすことができました事も、ご尊父様からのご意見も以外のことでした。この刀一振りを私に下さる由まことに忝く思いますが、それ故わざとご挨拶がましきことは致しません。日本外史の原本を近日中に送りますので暫くお待ちください。その節は期待を下さい。 早々頓首
十月一五日 襄
村瀬士錦(藤城の雅号)様
此の解読は、ネットワークの石村代表がされ、それを頼祺一先生に補正いただいたと説明しました。善応寺住職 雲山文夫師よりお礼のあと、「この書翰は本物ですか、町の研究家が他に同じような物があると云っている。」と言われましたので、実は頼祺一先生も贋作だと言われております。住職も納得され、この文面には頼山陽の人間性がよく現れ貴重なもので大事にしたいと言われました。
2015・11・17
頼山陽の礼状は贋作
以前、ご紹介した村瀬藤城宛て頼山陽の礼状について、頼山陽ネットワーク(顧問は頼祺一先生)は贋作の疑いがあると判断した。
まったく同じ文面の書状が存在しており、この礼状は藤城宛てに書き換えたものと推測される。
以上は頼山陽ネットワークの見解であり、頼山陽と村瀬藤城の交流を否定するものではありません。
2015・5・17
頼山陽、美濃を去る
山根兼昭が追加の写真を送ってくださった。
以下、山根さんの解説による。
善応寺で美濃最後の夜を過ごした山陽は、11月8日別れの酒を酌み交わし、上有知湊から村瀬藤城と乗船。1キロ下の下渡船着場で藤城は下船。
10日、美濃赤坂の江馬邸に立ち寄り、細香に求婚するが叶わず。
12日、熱田の渡しで下船した山陽は名古屋の知人の小林紅雪に会い、1週間くらい滞在。
その後、3度目、美濃大垣に行き、菱田穀斎に会い、大垣―桑野―四日市を経由して、12月6日帰京。
この時に詠んだのが「舟発大垣赴桑名」
蘇水遥遥入海流 蘇水遥遥海に行って流る
櫓声雁語帯郷愁 櫓声鴈語郷愁を帯ぶ
独在天涯年欲暮 独り天涯に在って年暮れんと欲す
一蓬風雪下濃州 一蓬の風雪濃州を下る
2015・3・22
美濃市の善応寺
山根兼昭さんから送られてきた写真で、紹介するのを忘れているものがあった。
岐阜県美濃市にある善応寺の写真だ。
『家庭の山陽』によれば、「赤坂(大垣)より北濃に入り、善応寺に僧禅智を訪う」とある。
ただ、山陽は善応寺には一泊しただけで、ほとんど村瀬藤城の屋敷に宿泊したらしい。
「山陽は美濃を一度しか訪れていませんが、和紙の里である美濃滞在中はさぞ書を楽しんだことでしょう」とこれは山根さんの言葉。
たぶんその想像は当たっていると思う。
山陽の実像は「文人」そのものだ。
2015・3・21
頼山陽と村瀬藤城の詩碑
岐阜県大垣市には江馬細香の墓もあり、紹介しなければ、と思っているところへ、愛知県にお住いの山根兼昭さんから、岐阜県美濃市にある頼山陽と村瀬藤城の詩碑の写真が送られてきた。
村瀬藤城(1794-1853)は美濃の上有知村の豪農、尾張藩53カ村総庄屋。「梅花村舎」を営む教育家であり、治水など民政にも尽力した。
頼山陽の初期の優秀な弟子であったが、庄屋の務めが忙しく、詩文に専念できにくい状況があったようだ。
山陽より14歳年下ながら、その財力から、山陽のスポンサーでもあったと思われる。
ところで山陽と藤城の出会いは、『藤城遺稿』によれば、文化8年(1811)、藤城18歳のときに大坂に出て、混沌詩社に加わった。そこには篠崎三島、小竹親子もいて、京に出て間もない山陽が訪れ、初対面になったという。
その2年半後の文化10年10月、山陽は美濃赤坂のある江馬家を訪ねた後、長良川を舟で北上し、上有知の湊から上陸。藤城と再会した。
この時、山陽は17歳の後藤松陰を伴っていた。二人は藤城の屋敷に逗留。また藤城の案内で斎藤招桂という人の別荘を訪れるなど、美濃滞在を楽しんだ。
詩碑には山陽が上有知を去る際の師弟心情が刻まれている。
その後、文政6年(1823)、藤城30歳の時には、梁川星巌(35歳)、紅蘭(20歳)、江馬細香(37歳)ら白鴎詩社を結成。いわゆる文化サロンである。
文政7年3月3日年には、45歳の山陽が藤城を相手に酒を飲んだという記述(出典は『家庭の頼山陽』)もあり、交遊の一端がうかがえる。
以上、山根さんの資料をもとに紹介しました。頼山陽ネットワークでは皆様の投稿をお待ちしています。
合戦地の近くには関ヶ原町民族資料館があり、両軍の陣営が一目でわかる地図があり、映像も視聴できる。
左は竹中半兵衛(東軍)の像。
周辺は田畑が広がる。ここで日本の行方を左右する野戦が行われたとはにわかには信じられない。
右の写真。なんでも、首を突っ込みたくなるもので(笑)
各所に説明板があり、わかりやすく解説されている。
ひっそりとある「首洗いの古井戸」。ものすごい霊気が漂っていた。
2015・3・11
張紅欄生誕の地
張紅欄(ちょうこうらん)もまた大垣(曽根村)の女性だ。
夫の梁川星巌とはふたいとこ(はとこ)で、結婚後も別姓であったのは中国式にならったからといわれる。
「張」は「尾張」からとったという説が有力。
もっとも近年は梁川紅蘭と呼ばれるようだ。
そのほうが日本では自然だからだろう。
紅蘭は幼いころ華渓寺で学んだのち、星巌の梨花村草舎で漢詩を学んだ。
やがて星巌は「師」から「夫」になったのだった。
旅から旅の暮らしを続ける二人は「おしどり夫婦」と呼ばれた。
華渓寺の境内には梁川星巌の辞世の詩が刻まれた詩碑が建っている。
また二人の墓もある。墓には「梁川星巌」「梁川紅蘭」とある。建立の時期については調査していない。
星巌は晩年、政治活動に入り、安政の大獄で捕縛される直前にコレラで亡くなった。人は「死(詩)に上手」と呼んだ。
星巌とともに、一ツ橋派とした活動をしていた頼三樹が、追っ手から逃れて大垣で匿われたという話も残っている。
紅蘭は夫の身代わりに捕縛され、晩年は京都で私塾を開いた。
星巌と紅蘭のなれそめは『竃さらえ』に収録の「一花一草」をご参照ください。
2015・3・7
岐阜県大垣市「江馬細香の詩碑」
岐阜県大垣市は松尾芭蕉『奥の細道』の結びの地として知られる。
市内のあちこちにゆかりの碑が立っている。
「輪中」でも有名だ。
「輪中」とは洪水から集落や耕地を守るため、周囲を堤防で囲んだ地域のことをいう。
濃尾平野を流れる木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川は時に洪水となり、住民は力を合わせて集落や耕地を守った。
大垣といえばもう一人、頼山陽ゆかりの人物がいる。
女弟子の江馬細香である。
頼山陽と細香の交流については諸説ある。
『竃さらえ』に収録された「節」では細香から見た山陽が描かれている。
はたして真相はどうなのだろう。
冬の夜、80歳の父と明りをわけあいながらは読書をしている。父は読書に励んでいるのに、娘の私は飽きてしまって栗や芋を想像してしまう。とても父にはかなわない。父の目は曇りがなく、はっきりしている。わが身を恥じ入るばかりだ、というほどの意味。
父は大垣藩の医師の江馬蘭斎。
このとき、細香は40歳。
ユーモアもある女性だったようだ。
2015・3・5
岐阜県大垣市
2009年3月3日、岐阜県大垣市にある「華渓寺」を訪ねた。
『竈さらえ』に収録されている「一花一草」にも出てくる頼山陽の友人 梁川星巌、紅蘭夫妻ゆかりの寺である。
小説『頼山陽』の連載は2007年10月に終わっているから、執筆を終えてたから訪ねたことになる。
当日、早朝、広島は季節外れの大雪で、新幹線がはたして動いているのかと心配しながらの出発であった。
幸い新幹線は動いており、在来線に乗り換えて大垣に着いた。
大垣では梁川星巌顕彰会のHさんが案内してくださった。
そういえば、二、三月か前、Hさんから電話をいただいた。頼山陽を通じて交流が続いていくのはうれしい。
6年前の写真だが、大垣周辺をご紹介しよう。