特に記載のない場合は見延典子が書いています。
2021・12・26
長崎の上陸地点に掲示板
頼山陽が長崎に赴いた際、最初に上陸した長与に、掲示板があることがわかった。長与町役場に連絡したところ、写真を送ってくださった。漢詩の解説などは「頼山陽史跡詩碑めぐり」に収録予定。
2018・5・28
進藤多万さん「袖咲 肖像画の賛」
2018年5月23日「頼山陽ネットワーク」9周年記念式典が、長崎市の史跡料亭「花月」で行われた。その際「頼山陽ネットワーク」の進藤多万さんによる解説があったが、
その進藤さんから「花月」集古館に所蔵されている袖咲の肖像画に書かれた賛の解読文が寄せられた。
風流出上考 風流 上考(じょうこう)より出(い)で
媚態有誰多 媚態 誰か多く有らん
春風吹羅袂 春風 羅袂(らけつ)を吹き
秋水駐横波 秋水 横波(おうは)に駐す
不過情河過愛河 情河に過(よ)ぎらず 愛河に過(よ)ぎる
何時得並此嬌娥 何(いず)れの時にか 此の嬌娥(きょうが)に並ぶを得ん
江芸閣 題
【訳】
風流においては 上考(じょうこう)より 秀で
媚態は 誰も勝るものはいない
春の風は うす絹のたもとを吹き
秋の水は 流し目にとどまる
情の河にいたらず 愛の河にいたる
いつの日にか この美人に並ぶことができるだろうか
江芸閣 題
【上考】官吏の成績の最上級。
頼山陽は此の銀行裏手銅座川に面する所、葉子韶の別荘に武元登々庵の紹介により寄寓していたという。
*武元登々庵(たけもと とうとうあん)(1767〜1818)漢詩人・書家・医者。名は正質。字は景文。号は登々庵・行庵。和気郡北方村出身閑谷学校へ入っては、神童といわれた。病身であったため家督を弟君立に譲って諸国を旅行し、20歳の頃、江戸柴野栗山の門に入るが、のち眼科医となる。
江戸時代地図の花月地図右(引田屋)
銅座町(坂本箕山の頼山陽によると山陽の長崎の寓居は三井銀行長崎支店の裏手銅座川に面する楼閣、蘭船唐船の見える所とある。
しかし山陽は、江馬細香から託された詩文を、清人の江芸閣に手渡すつもりだったので、肝腎の江芸閣が清国へ帰り、不在であったため、長崎に来るまで待っていたのではないかとも思い直しました。
九州旅行から帰った山陽から、細香のもとへ手紙と詩が送られてきたのであります。江芸閣は、山陽から、江馬細香のこと、細香の作る詩画のこと、細香の生き方を聞き、新鮮な魅力を感じたようであります。
写真提供 / 石村良子代表
2017・3・10
山根兼昭さん「石村代表の長崎旅猿
『江芸閣と江馬細香』」
改めて頼山陽の人脈の広さを感じます。九州旅行の際、長崎に3カ月も逗留したことは、よほど居心地がよかったのかなと思っておりました。
「細香女学士に寄せ贈る」
書を能くし 画を能くし 文章を総べ
女有り 清貞細香と号す
京洛の風草 芸学に遊ぶ
此の生 鴛鴦と作るを喜ばず
姑蘇 江芸閣