石村良子代表のブログ

 現在残る石灯籠 
 現在残る石灯籠 

後に昭和天皇は原爆について「遺憾ではあり広島市民は気の毒で有るが戦争中であり致し方なかった」といわれたことが有る 「神として生まれ人になった天皇」心中計り難いが被爆した広島でもアメリカの悪口は聞かない 水に流したのかどうか 意外と「戦争だから」派が多いのに驚かされる 第9代国連事務総長グテレス氏は「2017年を平和な年にしよう」と世界中の市民にインターネットで訴えた「戦争で勝つ者はいません。全員が負けるのです」この言葉をかみしめたい

 

 

2017・8・13

比治山御便殿跡

 

さらに まんが図書館隣の御便殿跡広場に行く

明治天皇行幸の際の休憩所で明治42年広島市に払い下げになり比治山に移築された 原爆で倒壊し広場になっている 石灯籠のみ現在も残っている 広場の中に天皇在位60年記念碑が建つている 揮毫者は灘尾弘吉 (頼山陽顕彰会初代会長)元衆議院議長 広島市名誉市民

昭和天皇が昭和22年爆心地である相生橋ご通過の折 鳴りひびく「平和の鐘」をお聞きになり 広島の立ち直る姿をお詠みになられたものである「大御歌 広島 ああ広島平和の鐘も鳴りはじめ たちなほる見えてうれしかりけり」

 

 

天皇在位60年記念碑(左上)と背面
天皇在位60年記念碑(左上)と背面

 文徳殿写真額
 文徳殿写真額

光本半次郎(鳳伏)は安政4年(1857)竹原で生まれ、昭和23年(1948)3月20日に92歳で亡くなり、照蓮寺に葬られている。中略 先哲の研究に没頭し「山陽先生の幽光」をはじめ、「山陽先生の神髄」「山陽いろは歌」「山陽遺墨集」などの著書もある。

2017・8・12

比治山の文徳殿2

 

文徳殿に写真額がある

文徳殿建設翼賛会会長 光本鳳伏 

この方は竹原の方で家は春風館隣 光本邸は現在「今井政之陶芸の館」

『山陽先生の幽光』竹原書院図書館よりの記事 光本鳳伏 口述 / 山崎南岳 筆記 大正14年 広島市の芸備日日新聞に大正12年11月から300余日にわたって連載されたものをまとめたもので1000ページ余りの頼山陽の研究書。

 

竹原光本邸土蔵今井政之陶芸の館(写真上、左)竹原市観光ホームページより

一枚目の写真、隣の百働大学の額は 文徳殿が戦後書道教室に使われていた時のものだという「百働会」は、広島大学初代学長の森戸辰夫( 後に文部大臣) だけれど?

 

 

 


文徳殿頼山陽像1931年没後100年記念
文徳殿頼山陽像1931年没後100年記念

外は手入れが行き届かない様子だが 内部は昨今の事情で厳重なセキュリティーで守られている

頼山陽史跡資料館 1935年山陽記念館開館

頼山陽像 2015年頼山陽史跡資料館開館20周年記念

2017・8・11

比治山の文徳殿

 

続いて文徳殿 内部を特別に見せていただく 普段は非公開「平和の丘構想」の下見の随行

 竹原頼山陽像              1980年生誕200年記念
 竹原頼山陽像              1980年生誕200年記念

826,27日全日本煎茶連盟夏期大学で花本哲史氏の講演「頼山陽について」があり大盛況定員オーバーで次々申込を断っている状況だという うれしいことです


私達の茶会も申込多数どうなる事やらですが頑張ります

なんだか頼山陽がきております

 

 

西南戦争、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、ノモンハン事件、太平洋戦争で戦死した沖縄を除く、全国46都道府県の兵士の墓が並んでいます。出入り口近くには放射線影響研究所(旧ABCC)があり、自由に参れる日がくるとは想像もしていませんでした。

 

 

2017・8・10

比治山の陸軍墓地

 

8月盆の月に、比治山の陸軍墓地を初めて訪れました。足を踏み入れることはないと思っていた場所です。


文徳殿の内部 arch-hirosimaより転載
文徳殿の内部 arch-hirosimaより転載

2017・8・1

「広島の建築・都市を紹介するサイト」を紹介

 

「arch-hirosima」は転載フリーになっている 有難い、室内に頼山陽像もあるという。個人的には共感できる。他の記事も面白い


頼山陽文徳殿については「広島都心部の被爆建物は、建物の外壁は残っても内装は焼失しているケースが大半であり、本作の存在はとても貴重だ。ごく小さな片鱗にすぎないが、広島にも確かに高い建築文化があったことを、実感を持って確認することができる」と書かれている

 

話は変わり、 右の写真は「先哲遺墨集」  頼山陽ネットワーク公式ホームページ会員の山根兼昭さんより見延典子さんに寄贈されたものという。

 

発行の趣旨は「凡例」に掲げられている。昭和8年3月25日発行。1年4月後の昭和9年7月25日にはすでに4刷になっている。 発行所は広島市役所内の「頼山陽文徳殿建設翼賛会」とある。

頼山陽の名が全国を席巻していた頃の遺墨集である。

 

 


2017・7・31

「頼山陽文徳殿 正面玄関の額を揮毫したのは…」

 

文徳殿の正面玄関の額に書かれた文字、写真でよく見てみると「山陽文徳殿 玄孫元孚拝書」となっていました。

 

山陽 → 聿庵(子) → 誠軒(孫) → 古梅(曽孫) → 成一(玄孫)

 

額を揮毫したのは頼成一先生でした。先生の号は「元孚」です。

 

※左の写真は頼山陽文徳殿の内部。

 

 

 


頼山陽文徳殿の正面玄関の「頼山陽文徳殿 玄孫元孚拝書」の額。頼山陽の玄孫頼成一氏の揮毫。
頼山陽文徳殿の正面玄関の「頼山陽文徳殿 玄孫元孚拝書」の額。頼山陽の玄孫頼成一氏の揮毫。

先日、図書館で「頼山陽全書」を借りたいと窓口まで行きましたら「よりやま?」でした 広島のタクシーに乗りまして頼山陽史跡資料館を知っている運転手さんは半分もいません。

このような現実の中、頼山陽をいかに後世に伝えていくか 皆で考えたいと常に思っております。 昨日、古文書教室に参りまして写真の本を買ってまいりました。 いい本ですのでご紹介いたします

頼山陽史跡資料館主席学芸員の花本哲志さんが、頼杏坪について寄稿しておられます。

2017・7・29

グランマさん、堀尾哲朗さんへ

 

ブログへの投稿有難うございます

私が待っていたのは このような御提案、御意見です 皆様で活発になることを期待します。

頼山陽史跡資料館主席学芸員の 花本哲志氏が頼杏坪について寄稿
頼山陽史跡資料館主席学芸員の 花本哲志氏が頼杏坪について寄稿

私も、頼山陽史跡資料館で茶会をさせていただいておりますが 堀尾さんの結論をお借りして「先ず、頼山陽史跡資料館で茶会をすることで、誰でもが使用できる、市民の教育の場となる中で、歴史家、文人頼山陽を少しずつ知って貰う努力を 重ねてまいります」 先ずは子、孫、知人ですね

 

 

 

文化元年九月 市川米庵が柴野栗山の送序を紹介状に、広島頼家を訪れている 長崎の帰途で山陽とも初対面で有った 以後親交が続く。この時の事、米庵の紀事によると弥山に登り風邪をひいて頼家に戻り大熱を出し 山陽に付きっきりで看病してもらい 岡岷山の「竹の画」を贈られるとある。

2017・7・23

友達の友達

 

古文書教室で「頼山陽脱藩始末」を読み終えた所で 木崎愛吉編「頼山陽全書」の当該所に目を通してみる

色々面白い


(当時山陽は憐二と名乗り25歳仁室に屏居中、米庵26歳)

江戸時代の文人は友達の友達は友達(と同じ)で 友達をすごく信頼している。自分の友達の友達なら絶対いい人に決まっている!ってお互い思ってたんでしょう。山陽が仁室から門外自由になった時など、春水の同僚が皆々「まるで夜が明けたような気がする」と喜んでおりました。藩での春水の立ち位置がよくわかります。山陽西遊も春水の交遊あればこそです。

後年 市川米庵は書の弟子が5000人超いたという

写真の本は現在に至るまで まさに「墨場必携」手放せません

 

 宮島外宮社とある 
 宮島外宮社とある 

宮島管弦祭でおなじみの地御前神社に国道開墾碑 (明治11年起工 地御前から大竹県境まで) があります

 御社殿 祭神 市杵島姫命
御社殿 祭神 市杵島姫命

碑文中に「事を成すは衆力」とありました

2017・7・17

地平天成の碑 頼誠軒

 

ぎ天る 「書経」大禹謨(だいうぼ) の一文で 平成の典拠のひとつとなったものです

 平成は、198918日から 始まりました。いまから29年前の事です、残すところわずかとなりました

「写真上」 治平天成の碑 題字 有栖川熾仁親王 「写真左」 碑文 広島藩の儒学者河野小石撰文 頼山陽の孫の頼元啓謹書(聿庵の子誠軒)

 


2017・7・13

蘇東坡曰く 文人画は②

 

七月既望は赤壁の日で 頼家をはじめとして文人にとって大切な日だった

※ 左の絵は 赤壁の図  頼春水と

  も親交在った 谷文晁

  呉の孫権,魏の曹操を赤壁におい

  て懐古の図


赤壁賦  蘇東坡  

 

壬戌之秋、七月既望、 蘇子與客泛舟、 遊於赤壁之下。清風徐来、水波不興。挙酒属客、誦明月之詩、歌窈窕之章。 少焉月出於東山之上、徘徊於斗牛之間。中略 惟江上之清風與山間之明月 耳得之而為声、目遇之而成色取之無禁、用之不竭。是造物者之無尽蔵也。而吾與子之所共適。後略   

壬戌(じんじゅつ)の秋、七月既望(きぼう) 蘇子 客と舟を泛(うか)べて、赤壁の下に遊ぶ。清風 徐(おもむろ)に来りて、水波興らず。酒を挙げて客に属(すす)め、明月の詩を誦し、窈窕の章を歌う。中略 惟だ江上の清風と山間の明月とのみは、耳之を得て声を為し、目之に遇うて色を成す。之を取れども禁ずる無く之を用いるも竭(つ)きず 是れ造物者の無尽蔵なり 而して吾と子との共に適する所なりと  後略
 

壬戌(元豐五年 1082年)の秋 七月十六夜、わたし(蘇子)は客とともに船を浮かべて、赤壁の下に遊んだ。清風がゆるやかに吹き、川面には波も立たない。酒を取って客に勧め、(「詩経」の)明月の詩を誦し、窈窕の章を歌った。しばらくして月が東山の上に出、斗牛(南斗星と牽牛星)の間を徘徊した。中略 そもそも天地の間にあるものは、それぞれ所有者がある。いやしくも自分が所有するものでないならば、一本の毛(ほんの少し)といえども取ってはならない。ただ長江の上を吹く清々しい風と、山あいの明月だけは、耳に入れば心地よい音となり、目に映れば美しい景色となる。これらを取っても禁じるものはなく、使っても尽きることがない。これは万物の造物主の無尽に蔵するものなのだ。そして私と君とともに心に適うものである」と 後略

 

 

上は石村 下は娘の画      残念ながら娘の方が
上は石村 下は娘の画      残念ながら娘の方が

2017・7・11

蘇東坡曰く 文人画は①

 

「形が似てる事ばかり問題にするのは、児童の見解であって 求めるのは天工と清新のみ」だという 

 

又 分与可の竹の画について、「与可が竹を画く時竹をひたすら見て我が身を忘れていた。その身は竹になり切って いつ果てるともなく 新鮮で清々しい竹を描きだした」と絶賛している 

 

形似という絵画要素から逸し、「意」と「韻」の表現を重視する

私も南画教室で その身は犬になりきって 完成させました

 

自題「狗子に仏性ありやなしや」

          続きます

 


  にゃらんホームページ
  にゃらんホームページ

先生と師匠は同じ様で ニュアンス的にすこし違いますよね 先生も夏目漱石「こころ」の先生のような深刻なのや一部代議士先生などは 単体でキャラが立っておりますが

2017・7・4

師匠と弟子

 

師匠と弟子といえば

にゃらんとその弟子

今や日本一有名な師匠と弟子 杉本七段と藤井四段

 

藤井四段と師匠の杉本昌隆七段        NHKニュース
藤井四段と師匠の杉本昌隆七段        NHKニュース

少なからず「先生と呼ばれるほどのばか(じゃなし)」と言われる先生と これまた似た者同士の弟子という組み合わせも見受けられるようです 茶華の世界もいつの間に

お師匠さんから先生に格上げに(格下げ)なりました

 

藤井四段は「師匠には技術的なものだけでなく、将棋や対局に臨むことについて、たくさんのことを教えていただいた」と感謝を述べてました。 連勝が止まった時の師匠杉本昌隆七段の言「経験のなさが出た 投了するまえ背広の上着を着用お水を一口飲んで負けましたと言ったのには驚きました」

これは師弟さすがですね

 

約三さん手書 指南書大正三年とある
約三さん手書 指南書大正三年とある

教室で初めてお会いした時は全く接点のないかたに思われましたが

ある時 「こんなものがあった 煎茶の本だけど お宅には関係ないかも うちのおじいさん 約三さんが習われ手書きしたものだけど」 みれば 関係ないも何も我が流儀そのもの

戦前縮景園茶会 清風館前 野点で五つ紋付昔は家元主催茶会は正装だった

2017・6・26

浅からぬ縁

 

またも竹原ご出身のMさん 月琴や二弦琴変わったものが出てくる方です 

私のお祖父さんの孫弟子 まるで「里見八犬伝」のように 縁あるものは集まるのでしょうか  Mさん いつか茶会で展示させてください

 


蘇州盤門風景区  世界遺産 
蘇州盤門風景区  世界遺産 

アッもう一人 呉人のお姑様もちMさんが 今や半端ないキャラクター「呉氏」

  ねじ梅煎茶碗「戦前ははるばる呉の国より小舟一杯 積んで売りに来ていた という                 三原Sさん談
 ねじ梅煎茶碗「戦前ははるばる呉の国より小舟一杯 積んで売りに来ていた という 三原Sさん談

 

頼山陽があこがれた「雲か山か呉か越か」も身近では有りませんか 先日呉市倉橋町にて再現された「遣唐使船」を車窓から見た石村は確信しました 3番目説を

 

 

 

2017・6・19

雲か山か呉か越か

 

介護中のTさんの口癖はお姑さまを「なんせ呉人ですから」と尊敬を込め 半ばあきらめ口調で仰る 

呉氏「呉市イメージキャラクター」    ホームページより
呉氏「呉市イメージキャラクター」    ホームページより

呉て変な名前ですよね その由来は諸説あるものの 「孫権の呉の落人説」が堂々と3番目に 呉の孫権は大の母親思い恩に報いるため瑞光搭を建てたという

倉橋「遣唐使船             「倉橋長門造船歴史館ホームページ」
倉橋「遣唐使船             「倉橋長門造船歴史館ホームページ」

趙陶斎「竹中隔て井を汲めば窓を開き香を焚くが見ゆ」
趙陶斎「竹中隔て井を汲めば窓を開き香を焚くが見ゆ」

最近Aさんが5月号の「ひととき」に 賣茶翁の記事が載っている と教えてくださいました。佐賀の賣茶翁の寺 龍津寺が載っております。

 賣茶翁の記事 
 賣茶翁の記事 

春水の文人ネットワークは素晴らしいの一語です。趙陶斎は春水の先生ですが 清国南京の来舶商人と丸山遊郭花魁との間に生まれました 

頼山陽と花月の因縁の一端は 此処にあります

 

 

 

2017・6・12

頼山陽と花月の因縁

 

頼山陽西遊200年記念行事を来年に控え 九州に関するニュースをお寄せくださればと思います 

 ひととき5月号
 ひととき5月号

「賣茶翁は57歳のとき、師の化霖が遷化すると、突如、龍津寺を法弟の大潮に任せ、京都に上洛し 61歳で、東山に通仙亭を構えた」と云う所の 突如の訳の一端が なんと頼春水「在津紀事、趙陶斎の逸事」に載っております。この辺の研究は為されていないので、もっと深める必要がありそうです

佐賀龍津寺
佐賀龍津寺

寛政9年(1797年)秋、藩に願い出て、内陸部の渓谷 美探勝の旅に出ました 紀行文「都志見往来日記,同緒勝図」として残っております

2017・6・9

岡岷山レポートをお願いします。

 

見延典子「竈さらえ」でおなじみ広島藩の御用絵師岡岷山。

 

 呉 二河の瀧も描いている
 呉 二河の瀧も描いている

6月17日 午後1~4時

湯来福祉会館で岷山による町おこしフォラムが開かれる模様  

 

どなたか近くの方 レポートお願いします

 

 


季節の豆 竹の子 お土産届いた荷物
季節の豆 竹の子 お土産届いた荷物

厄除けの効あり 幸い今の所検査しても悪いところなし

2017・5・30

山陽先生の遺徳

 

今年の端午の節句は5月30日(旧暦)   原のT先生より 今年も届きました 

右寄り 黄菖蒲 本菖蒲(黄色いのが花)ヨモギ 栴檀(せんだん) 粽 

竹原では まとめて 軒の上につるし置く あと風呂にいれる

 

 


円山応挙画「狗子」
円山応挙画「狗子」

頼春水は大坂時代の交遊録「在津紀事」で 『当世高名な応挙の画を京都から来る人が「たくさん集めているので」と贈ってくれるが 自分の趣味は別の所にあるので そのまま人にあげて一つも残っていない、これは応挙だけに限らないが』と 

2017・5・28

頼春水と円山応挙と池大雅

 

石村が今月南画教室で勉強している川端玉章は円山応挙を慕い 近代円山派を称した

同じく円山応挙画「狗子」
同じく円山応挙画「狗子」

又 福原五岳を尋ねたとき そこに五岳の画の先生池大雅が居り「高野に行って山水を写そうとしているのに 服装も改めない」と話すのに 半ば出来上がっている五岳は酒を命じて春水と倒樽までのみ大雅を呆れさせている様子を書き残している

参考 春水(17461816)

    応挙(17331795)

    大雅 17231776

左の絵は 大雅の弟子で尾道出身 福原五岳画「池大雅」

平田玉蘊は五岳の弟子

 


2017・5・25

小人閑居して

 

缶バッチを作りました。


石村 敷き写しの練習
石村 敷き写しの練習

教室の場所も3転した 何んとか続けて来れたのも先生の寛容とおおらかさのおかげ

 岡原先生画 猫と牡丹と蝶 
 岡原先生画 猫と牡丹と蝶 

2017・5・22

南画 石の上にも3年以上

 

岡原太崋先生の芥子園画伝の教室は月に1度だけれど 早くも9年目 

  手本 竹と犬で一笑の図     こちらは川端玉章 人間国宝
  手本 竹と犬で一笑の図     こちらは川端玉章 人間国宝

 

今月は犬 来年の干支で早めの挑戦

 

先ずは敷き写しの練習

 

Sさんにいただいた蝶の筆立てを始めて使う 蝶は脱皮して成長する(長寿)という 縁起物らしい

 

画はは来月仕上げ 脱皮します 

 

 

 

 

 


 M家の二弦琴 台なし?
 M家の二弦琴 台なし?

頼先生は「春風館」にはなかったといわれる これはM家の祖父 祖母が持っていたという(竹原頼家出身)二弦琴は出雲琴ともいわれ 神様に供える音楽を演奏するという 

 新聞記事
 新聞記事

2017・4・30

ちょっと待って


何でも出てくるM家から 又写真のようなものが出て捨てるという
見たことが有る 二弦琴のようだ
頼山陽ネットワーク7周年森川邸で 竹原竹鶴家に残る二弦琴を借り坂田進一琴士に演奏していただいた
いずれにしても 貴重なもの 捨てるのは待ってほしい

石村家の断捨離とは物が違う

 竹原戦前の演奏写真 真ん中は甲冑
 竹原戦前の演奏写真 真ん中は甲冑

竹原は山崎闇斎の儒学垂加神道(人間の「敬」を最も大切な徳分とし、敬を全うすれば天地と合一できる「天人唯一の理」を唱えた。この「敬」の実践行為とは「正直」であるとした)が盛んであった 厳島での頼先生の講義で春水が仕官するとき亨翁は「恭敬」の二字を忘れないようと与えたというし 旅の終わりをいつも「神のめぐみなるべし」と結んでいる 

 

 


 

受賞理由は 「多年にわたり頼山陽の研究と献詠詩 の募集,編集に尽力した」 というもの。

広島県立三津田高等学校はJR呉駅から徒歩   20分くらい。小高い丘に建ち、呉市内や 呉港を眺めることができる。
広島県立三津田高等学校はJR呉駅から徒歩   20分くらい。小高い丘に建ち、呉市内や 呉港を眺めることができる。

 

私の行ったごろの呉三津田高校は 呂山先生だけでなく個性豊かな先生ばかりだった 良く叱られたものだが思い出は皆懐かしい 三津田高校の正門の所にある呂山先生の詩碑を紹介したいと思う  

 

 

2017・4・19

第一回 頼山陽記念文化賞

 

頼山陽記念文化賞受賞者栄えある 第 一昭和 58 年度)太刀掛重男(72 歳)呂山先生は三津田高校(広島県呉市)での我が恩師である 

先生は私の父(煎茶家で 当時東三津田在住) を尋ね 頼山陽の漢詩談義をしたり 山陽の本を借りにきたりしておられた 長身の先生が風呂敷包みを小脇にかかえ 東三津田の坂を上がってこられる姿は今でも忘れ難い


詩訳

伝統誇るに足りたり()(つたが)(おか)
 師生(しせい)切瑳(せっさ)して校風優なり

仰ぎ望めば突兀(とっこつ)として(はい)峰聳(ほうそび)
 俯瞰(ふかん)すれば(おう)(よう)として呉海流る
 意気天を()く千幾百
 誦絃(しょうげん)耳に()つ八旬秋
 請ふ看よ(じゅう)()(せい)(かん)(もと)
 歩武(ほぶ)堂堂(どうどう)新修を誓ふを
    密蔦陵詞     呂山詩痴

語意  密蔦丘:みつたがおか三津田高校のある丘の通称
    灰峰:はいがみね 灰ケ峰のこと 呉市の山
    十字星冠:学校の校章の形

     歩武堂堂;歩き方が堂々としている

 

 

 

 戸田社
 戸田社

 

次の戸田社 「ちょっとその日はと」いわれる 「広島からですのでとか頼山陽のおじいさんがなどと」なお食い下がる 「では2時からお祭りが有るのでそれまでなら」といわれる

2017・4・16

人麻呂が呼ぶ

 

いよいよ来週となった高角もうで(石見高津神社、戸田神社和歌の旅)宝仏殿は平生は しまっているという 先ず高津神社こちらは許可していただけた

 遺髪塚
 遺髪塚

続けて「小さいお宮ですが柿本の人麻呂の命日ですので」

思わず 「エッ」 人麻呂さん 心を込めて参拝いたします

 

 頼惟勤著作集Ⅲ
 頼惟勤著作集Ⅲ

この間の事情は5.6行で済む話ではないが 城勤めのリスクより 理想の実現を目指し邁進するところ 山陽は受け継いだのではと思ってしまう

亨翁の書 山陽の守り袋にいれられ終生の「護符」となる輪郭だけ写し取った物 頼山陽の生涯展  頼山陽記念財団出版より 
亨翁の書 山陽の守り袋にいれられ終生の「護符」となる輪郭だけ写し取った物 頼山陽の生涯展  頼山陽記念財団出版より 

2017・4・9

春水藩儒士官への道

 

頼惟勤著作集Ⅲによると 春水は大坂時代 尾藤二洲や古賀精里と共に作文会を開き 道義について互いに口論し 本朝の歴史に深い関心を

 

持つようになった

「懐徳堂」の「大日本史」を借り写本し 1780年に芸洲藩に献納許可され(竹原町役人を通し献上) 翌年藩儒への道を開いた

山陽脱藩始末部分 山陽囲(仁室)から本借用所望の手紙 見延典子「頼山陽上巻」も御覧ください
山陽脱藩始末部分 山陽囲(仁室)から本借用所望の手紙 見延典子「頼山陽上巻」も御覧ください

この本には 現在古文書教室で勉強している「山陽脱藩始末」も掲載されているが 此の中の山陽の手紙には勝手ばかりいっているようでも亨翁や父祖の願いである 「文で世の中に貢献する」春水の未完に終った「修史事業 監古録」に代わる歴史書の完成 への熱い思いが述べられている

 

 

 頼先生の資料
 頼先生の資料

2017・4・2

亨翁は春水の士官に反対だった

 

亨翁の和歌の旅をたどる旅猿も 此の度で三回目となる

一回目 二回目と 頼先生に亨翁について講演をお願いしている ここが感心するところだが 先生は自分のスタイルを決して変えられない 一回目の講演場所は宮島 江戸時代芝居茶屋の二階 写真のような大学の授業なみのプリントが配られ 文字通り授業が始まった(子(のたまわ)く)結果皆の反応は 意外にも大好評 わかるわからぬを超越した境地(お経なみ)で 皆二段ぐらい上等な人間になった(ような気がした)


 ところで 一回目の内容は 「亨翁は春水の藩儒仕官に反対」という手紙 大坂で学者の道を究め人の役に立つようにというのが亨翁はじめ父祖のねがいであったという また親心として 「学のたらぬ 身分の低い身(紺屋という商い)で仕官して朝晩どうなる春水の苦労が目に見えるようというもの」と手紙に残している それに対して春水は ここで思い出されるのが頼山陽の脱藩理由 

                      次回に続く

 

 

 景品のエコバック  
 景品のエコバック  

勉強すればするほど誰かの影響を知らず知らず受けてどこかで見たことが有るは 悪い意味でなくあると思う 

 

鄭燮は文人画家でありながら 画の値段を壁に貼っていたという 理由は高い謝礼をもらうと張り切ってよい作が書けるという

 鄭燮の竹の書
 鄭燮の竹の書

2017・3・26 

書画同源

 

旅猿の景品 エコバックこれに揚州八怪の一人 鄭燮(号は板橋)の書の一部がプリントしてある 黄庭堅の筆法をまねたというが 広げてみると書法は蘇東坡を遠祖とするとある

 論書 全文
 論書 全文

誠に正直で 当時の評判になり 彼以後書画に値段をつけて売るのは有りになったという

上海博物館の土産物店は 同博物館収蔵作品からコピーされ品質もなかなかで おしゃれなものがある

 

国立で罰則が厳しいのか コピーのコピーは見かけないという

 

 

 


頼春風 頼杏坪の長崎旅行の所は先日いったばかりなので格別興味深い 春風先生竹原より300万近いお金を持参したのに長崎を出るときには80万程になり心ぼそくなったとか出納帳に残されているようだ 

緒言で、桃三郎先生は「50歳に近くなり やっと頼家をはじめとする文人の手紙は 其の日常の瑣事、苦悩,悲歎すべて生地の日本人の生活感情と伝統的な民族ムードに満たされて 日本の知識人層の精神生活をのぞかせてくれ 生の人間像は小説より面白い」と書いておられる

2017・3・14

頼桃三郎先生「詩人の手紙」

 

頼桃三郎先生の「詩人の手紙」という本をいただいた 

早速読んでみた

 

春風杏坪の訪れた蘭館の様子
春風杏坪の訪れた蘭館の様子

又先生は「私の雑文は何の深い考証を試みたこともなく 書くにした

したがって少数の同好の士にのみ読んでいただき 幸に寄せられた訂正や示唆、、、」などとあくまで謙虚である

この本の中に書かれた先生曰くの「頼千蔵についての全く無用と思われる手紙の紹介」は貴重な記録に思える


ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

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 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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