石村良子代表のブログです。
2020・6・13
岡藩の骨董商
骨董好きは骨董商を寄せる。
田能村竹田の紹介で 上方に来た骨董商綿屋文作と知り合いになった山陽の骨董熱もいや増してくる。
17両で端渓の古硯を求め、頼まれもしない書画も橋本竹下のために取り置き竹下が買えば硯は12両になるなどと手紙を出している。さらに小硯、それを入れる皮箱次々欲しくなるのであった。
皮箱に水精(水晶)
梅に水晶を取り合わせ楽しんだという(氷妃は梅の事)
九州旅行も骨董収集が目的の1つで有った。「揮毫料は全部獲物」にという手紙も残している。
ものを 理不尽に所望仕り候事もいかがわしく候、さればとて金子など差出しいかようにても譲りくれられ候やと申す事も尋ね難く候」と今井某に斡旋を頼んだり 琉球箱は縁談騒動があったばかりの江馬細香に頼んで、返事がなければ「だめなら駄目と言ってくれなければ困る」と書き送っている。
2020・5・28
端渓の硯と琉球の箱
青貝の書棚を手に入れた翌年 山陽は揮毫の旅で見かけた 他家の唐硯、琉球の箱を手に入れようと画策する
「なにとぞ私に譲りくれられ候よう仕りたく候」「是まで所持せられ候
文化10年3月1日 頼春水は餘一13歳を伴い有馬入湯のため広島発程、3月26日に大坂で父子対面「勘気御許面」となる。
2020・4・23
頼山陽と骨董病
骨董病はかかると古来より金のあるなし、鑑識眼のあるなしによらず,重症化することが有り、直りがたい病 依存症かする、という。
その時の餘一土産金一両で青貝の書棚を求めたという(頼山陽書翰集7月の母への手紙)
このころから気分も余裕が出来たのか 山陽の骨董文具、書画への常人離れした、異常なる?としか言いようのない旅が始まる。
(右上写真)浦上春琴の「玉堂壽像」はこの時、鴨川のほとり平安第一楼での春水歓迎の宴の際、描かれた。春水、山陽達は明の沈嘉則の詩巻の鑑賞や宴の様子を描いた春琴の画に詩を賦したという。
2020・3・26 静か静子か③
古文書教室に広がる「こんな人だっのか感」私もその一人だった。
頼惟勤先生の日本漢学論集には、「頼成一(元孚)先生の「山房随筆」補筆頼惟勤先生 飯岡義斎の紹介の論考の唯一の物」と紹介があった。
○義斎は道を以って人に厳なると同時に自己に対してはより以上の厳厲さをもってのぞんでいる。そこに義斎の浩然の気象が存し又半面の温潤さが生じてくる所以がみとめられる。
○静子が頼氏に嫁いで以降 倅の山陽の養育は勿論のこと、娘の美穂、孫の聿庵,曾孫の誠軒、養子、景譲、その子の達堂、京都から支峰、一人として静子の世話にならぬはない.当時一族の厄介な問題は、皆持ち込むところは静子の所で又皆静子によって処理されている。
○頼家に静子がいなかったら、せっかく取り立てられた藩儒の家も春水一代で立ち消えとなったかもしれんと思うほどである、是は要するに義斎庭訓の結果とみるのが至当である
成一先生はこの書の最後で静,直を透して義斎の半面たる温潤さを知ることが出来るとしておられる。くどくど、過保護であると思われた義斎も、見方、受け手次第で真心は通じたという事か。
上の写真
広島県史跡、広島多聞院頼家の墓説明版
左の写真
広島多聞院、頼春水、静の墓碑
2020・3・10
静か静子か➁
古文書教室で頼先生に静ですか静子ですか?と尋ねるも答えは「わからない」の一言。
義斎から静への手紙のあて名はというと 静23歳嫁いで広島に行った初めは 静子へ、次にお静殿へ,お志津殿へ、お静どの お静女郎へ、となぜか少しずつ変わっている。お志つどの、久ぼんははじゃ、お志圖殿,もある。
ちなみに孔子の子は尊称で名は丘 義斎も静の結婚当初は改まり「子」を付けたものか。
静は可愛くてならない娘だったようで、「われらも後には、そこ(広島)に住みたいと思う」とまで言っている。 つづく
2020・3・9
春が来た➁
料理出来ました
前右 焼き筍 木の芽のせ
前左 焼きシイタケ、ちりめん、ネギ、ちくわ、大根
明治時代ギャマン(江戸ガラスは30万はするので代用)に日本酒
2020・3・8
春が来た
竹原のTさんより春の便り 初出の筍 焼いて食べると良いの添え書き
春の雨をたっぷり吸った大きなシイタケ こちらも焦げが付くまで焼いて水洗い絞って、ちくわ、ネギの小口切り、大根すりであえて食する
2020・3・7
静か静子か①
現在 頼山陽史跡史料館古文書教室では 頼山陽の母静の父 飯岡義斎が娘にあてた手紙を読んでいる
普段は古文書の内容について感想は言われない頼先生も広島弁で「くどくどしとるのー」と
教室内も思わず「うっとうしい父親じゃね」とこちらも広島弁
見延さんの本の題名から勝手に描いていた人物像とは違う姿に「すっぽらぽんのぽん」ではなかったの? 石村うんざりでしたが 頼惟勤先生の意見は違った。続く
玉堂1794年4月、50歳の時 春琴、秋琴2児をつれ出奔江戸に出、さらに秋琴と会津に赴き、秋琴11歳は会津藩に仕官させ、ここより一人になり本格的な流浪の旅を始める
玉堂琴賦に「浅水橋」というのが有り哀切な琴の調べは玉堂の魂にふれる思いがする
2020・2・6
賈茶翁、浦上春琴、頼山陽の共通項
4月26日 頼山陽史跡史料館で会館25周年記念「酒と煎茶と古琴の会」をさせていただく
三人の共通項は「出奔」私はここにいたる三人三様の情熱に大変興味がある
【浅水の橋の とどろとどろと降りし雨 古りにしわれを 誰ぞこの 仲人たてて 御許のかたち 消息し 訪らひに来るや さきむだちや】
浅見橋は 枕草子にも橋はあさんず(あさみ、あさむつ)とあり、西行も和歌にうたう
北陸道と美濃街道の分岐点、さまざまな人々の往来を見つめ続けた由緒ある橋
2020・1・16
YOUは何しに…
頼山陽史跡史料館の 阿萬主任からJapanese gardens and landscopes(写真)という本のChapter3「time and space in a cup of tea」の訳文をいただきました
この章では大枝流芳、賣茶翁と頼山陽の三人の煎茶家取り上げてあり
頼山陽について「he fainds proof that academic theories exist in the real world, whith is agein a typical literati Position on perception」
山陽は現実世界には学術的理論が存在する証拠を見つけたが、それは同時に文人としての認識に関する典型的な見地であった(阿萬主任訳ママ)
山陽が旅をし 画を描き 篆刻をし 茶を煎じる 中国文人を意識し、気韻生動の絵画理論を実感として其の文章に反映させたという事なのでしょうか?
日本外史を読む会の堀尾さんにお尋ねしたいものです
戸外の気韻にこだわるのは 東洋人の記憶か
2020・1・6
石村良子代表「初詣の出会い」
正月も落ち着いたところで 出雲大社に初詣
食事処で奇跡の出会い
頼山陽史跡史料館日本外史を読む会 堀尾さん
素敵な奥様と御一緒でした
2020・1・4
新年のご挨拶
新年あけまして御目出とうございます
令和初めてのお正月 干支も子の年 温故知新の語のもと明るく楽しく頼山陽ネットワークの輪を広げていきたいと思います 今年も宜しくお願いします
会員希望さん「山陽の書簡、読めるように」様
私事ですが頼山陽史跡史料館古文書教室に20年来通っておりますが
読めないことはご同様です
山陽の書簡がこんなにたくさん残っているのも第一面白い、読めば人間味あふれる山陽の人となりもよくわかります。
お仲間が増え嬉しく思います。新しい情報有りましたら又お知らせください。