鶴市神社(中津市)にある頼山陽の碑

2018・1・23

中津のオッサン

鶴市神社に頼山陽の碑

 

先日、山陽さんの碑が旧中津市のはずれにある鶴市神社にあるとの情報がありました。おっとり刀でかけつけてみますと、お鶴、市太郎の母子が人柱として入水する前に腰を下ろしたという通称「腰掛石」に向かい合うようにありました。建立日の確認はできませんでしたが、正面下部に「湯屋社中」と大きく彫り込まれているので、旧湯屋村の方々が資金を出し合い建立したと考えられます。山陽さんも鶴市神社に雲華上人の案内で参詣し漢詩も残しており、一部の人は中津から耶馬渓への出発点と考えている人もいます


松田竹園「鶴市神社の碑」解説

 

【耶馬渓百勝記念の碑】

 天の下 たぐいなしてふ 耶馬渓を たづねむ人 栞ともなれ

 

作…正二位 伯爵 東久世通禧(ひがしくに みちとみ) 

1834年(天保4年)~1912(明治45年)公家 蛤御門の変、七卿落ちで長州に落ちた一人。

 

山陽先生の記に読る耶馬渓はこれより南東十三里の間、竹園子が画になれる百の勝景なり

 

書…正三位 子爵 平松時厚(ひらまつ ときあつ)

1845年(弘化2年)~1911年(明治44年)公家

 

松田竹園(まつだ ちくえん)

1849年(嘉永2年)~1923年(大正12年)本名・松田彦六

下毛郡城井村の人。もと紺屋を業としたが、耶馬溪地誌に詳しく、田能村直入がしばしば溪中に来遊するや、必ず従って溪中を案内した。ために深く直入に師事し、自らも筆をとって溪中の勝景を描くに至った。このため画作も多いが、竹園には「耶馬溪図巻」の著がある。竹園または不呑居士などと号した。没年など未詳だが、明治38年に鶴居小学校の塾跡に門人などが、竹園の記念碑を建てた。

代表作

 

出版元

刊行年月

彦山勝景古今百名家詩集

松田竹園 (彦六)

松田竹園

34.6

豊前耶馬渓真景画帖

松田彦六 画

湖月堂

25,26

豊前耶馬渓真景画帖

松田彦六 画

湖月堂

25,26

豊前耶馬渓真景画帖

松田彦六 画

湖月堂

25,26

 

 

 

 

「耶馬渓が日本遺産に認定されたのに、中津も玖珠も耶馬渓にまつわる展示資料が少なくて残念との館長の思いから実現した。『山陽翁書法帖・()()(とう)(きょう)奥書・(らい)(きよし)題筌並箱書・田能村直入所蔵品』も展示されていました。

     同展は2月11日まで。

 

 

2018・1・13

中津のオッサン

「文人墨客を魅了した耶馬渓」

 

昨年、大分県玖珠町にオ一プンした「久留島武彦記念館」で開催中の「やばけい遊覧〜大地に描いた山水絵巻の道をゆく〜特別展」を見てきました。


2018・1・10 中津のオッサン「耶馬渓盆踊り」の歌詞に頼山陽

 

年末に中津の図書館で蔵書検索をしていましたら、昭和8年・耶馬渓鉄道編・「耶馬溪と賴山陽」という古書を探し当て、その中に「耶馬溪盆踊り」が掲載されていました.中津耶馬渓では盆踊りの盛んな地域でお盆には一晩中踊りあかしたと聞いています。江戸期からの口説きなど多く残っていますが、山陽さんまで盆踊りになって踊られていたのに驚きました。

 

         耶馬溪盆踊り

                         好 尚 散 人 作

                         中津、米屋町 連 曲

 

  1. 百十六年そのむかしむかし    頃は師走の短い日あし

    日田のひろせの淡窓と      みちでわかれて守実(もりざね)

    ふるいなじみの館林       別れとむらい立話し

    いつまた逢へるか只独り     山国谷へとさしかかる

    (いわ)は手招く、谷間には   水のながれがさらさらと

    畫にも書けない筆すての     峰も手に取る如くなり

 

  1. そんな文句はワシャ嫌い     畫()いてみたいなこの景色

    アレ宮園のみねの松       雲の森から柿坂を

    越えて見えて屏風岩       猟師の手からいのししで

    瓢たんからつぽ古城へ急ぐ    葦もよろよろほろ酔いの

    顔を合して、雲華さん      山陽先生お早いお着ぢや

     

  2. あけて、ま一度屏風岩      きのふの猟師がふしん顔

    何の御用でござったな      来ないで何と正行寺

    雲華上人、先に立ち       ついてゆく程日本一

    けしきに見とれて山駕の     底のぬけたもご存じない

    落ちてまぶれて泥だらけ     むかし通った中仙道も

    雨ですべった妙義山       日本一は何うしても

    うちわが揚がる耶馬渓の     ことしもはづむ盆踊り

 

2017・12・14

京都の会員さん「『耶馬渓図巻』掲載の画集は?」

 

『耶馬渓』(近砂敦著)の書籍代を振り込ませていただきました。

予想以上のすばらしい資料で感激しました。ありがとうございます。

 

もし頼山陽の「耶馬渓図巻」が、大きめの写真で掲載されている画集をご存知でしたら教えてください。

頼山陽史跡資料館の『風流才子の交わり』に「竹下本」が掲載されていましたが、写真が小さすぎて細部が分かりにくいです。

小学館の『原色日本の美術(南画と写生画)』は大きな写真でしたが、全体ではなく一部分だけの掲載でした。

 

お尋ねの件につき、頼山陽史跡資料館(広島市)主席学芸員の花本哲志氏から、以下のような回答をいただきました。ご参考になさって下さい。

 

 

お尋ねの件ですが、「文人畫粋編」第十八巻(中央公論社刊)に雲華本の写真が大きく掲載されています。竹下本はありません。

 

当館の図録は、A4版で納めなければいけないこともあって大きくは載せていません。

 

広島県立美術館が1984年に開催した「頼山陽を中心とした南画展」の図録は2段組みで多少は大きいのですが、それでも限度があります。

 

やはり大判の本でなければ大きくは載せられません。「文人畫粋編」は大判ですので、一番御期待に添えるのではないかと思います。

 

ちなみに12月10日にBSTBSの日本遺産を紹介する番組で耶馬溪が取り上げられ、竹下本が紹介されました。

                     頼山陽史跡資料館主席学芸員 花本哲志

 

 

2017・9・17 中津のオッサン「広瀬淡窓の中津と耶馬渓 下」

 

耶馬渓の部分では「守実ニ至ッテ。始メテ奇尖ヲ極メタリ。ソレヨリ以東。一ッ戸ノ一峯最奇矗ナリ(注・矗はまっすぐにそびえ立つ)。柿坂厳勢奇(けわしい)。天ヲ刺ス。或人ノ曰ハク。賴子成(賴山陽を表しています)耶馬渓ノ図ヲ作ル。此ニ至ツテ筆ヲ絶テリト。柿坂ヨリ沓ノ林(口ノ林)ニ至ルマテ。地形(やや)ク寛ニシテ。奇峯怪岩。連綿トシテ絶エス。樋田ニ至ラントスル時。渓北ニ於テ。別路ヲ取リ。南岸ノ山ヲ望ム。奇峰刀ノ如ク。剣ノ如クナルモノ十(あまり)。簇〃トシテ立テリ。近人ソノ下ニ於テ。洞道ヲ鑿チタリ。故ニ過クルモノハ。

ソノ奇ヲ見ルコト能ハス。愚俗ノ人ヲ誤ルコト往〃此ノ如シ。(なげか)スヘシ。樋田ヲ過クシハ。奇峯怪岩一モ有ルコトナシ、樋田ノ上原アリ手斧立ト云フ。コレヨリ望ムトキハ。平遠空闊(広がりの規模が非常に大きい)。遥山遠海(はるかな山、遠い海)。蒼芒(広がる限り青々としている)シテ一碧ナリ。又偉観ナリ」と著しています。


私見ですが頼山陽が耶馬溪図巻記において柿坂の景勝地擲筆峰を「嗚呼造物奇怪、画手亦写し至らざるものあり」と激賞していますが、擲筆峰との表現はしていません。後年、先人が広瀬淡窓の懐旧楼筆記」の賴子成耶馬渓ノ図ヲ作ル。此ニ至ツテ筆ヲ絶テリト。に手掛かり作られた固有名詞ではないかと考えます。


広瀬淡窓 ・ 七言律詩 ・ 『耶馬溪』

耶馬渓           耶馬渓

       青帘往々賣新醅   青帘往往にして新醅を売り

壮宇花紅夏已回   壮宇花紅にして夏すでにめぐる

 一百里唯隨澗轉   一百里 ただ渓にしたがって転じ

  十三村総背山開   一三ヵ村 すべて山を背にして開く

    奇峯抜地尖於筍   奇峰は地にぬきんじ 竹の子よりとがり

 痩樹纏巌知似苔   痩樹は巌にまといて短苔ににたり

    怪得旅窓疇昔夢   あやしむを得たり旅窓 疇昔(昨夜)の夢

  剣門關下乗驢来   剣門關下 ロバに乗りたりて来たる

大意

酒屋が新酒の販売をつげるため青い旗をかかげ、いたる所ではためいています。

さつきの花が赤く咲き乱れて、夏がすでにめぐってきたような錯覚をおぼえさせます

耶馬渓の道はひたすら渓谷に沿って転じ、その道筋の一三ヵ村はすべて山を背にして開かれています。 めずらしい形をした峰は地をぬきんでて竹の子より鋭くとがり、やせ細った樹木が岩石にまといつき、その姿は苔が岩に生えているようにみえます。不思議に思ったのは、昨夜みた夢であるが、それは剣門(中国・四川省剣門県にある山の関所)のほとりを私がロバをムチ打ってとぼとぼとやってきたという夢であった。

「遠思楼詩鈔」に集録されています。


 

 

2017・9・16

中津のオッサン「広瀬淡窓の中津と耶馬渓 上」

 

広瀬淡窓

17821856) 江戸後期の儒者・漢詩人・教育家。名は簡、のち建。字あざなは廉卿、のち子基。旭荘の兄。日田出身。日本最大私塾:咸宜園かんぎえんを開設。門下に大村益次郎・高野長英らを輩出。著作は「約言」「遠思楼詩鈔」「淡窓詩話」「懐旧楼筆記 カイキュウロウ ヒッキショウ」などあります


 

文政元年(1818年)2月17日、頼山陽(39歳)さんは広島において父春水の三回忌法要をすませた後、九州遊歴の旅に出ます。 福岡→佐賀→長崎→熊本→鹿児島→熊本→大分、と九州を旅します、ここでは11月3日、頼山陽が日田隈町(大分県)に到着し、淡窓と詩席など開き互いに認め合った間です。

 

淡窓は75歳の生涯の内に三度耶馬渓を訪れています。「懐旧楼筆記」27巻(1828年・文政11年より12年淡窓47歳から48歳)によると耶馬渓を1794年(寛政6年)8月、13歳の時に父と宇佐神宮に参拝、耶馬渓の景観よりも生まれて初めて見る豊前布津部(宇佐市布津部・ふつべ)の海に感動を覚えています。1805年(文化2年)21歳の時、日田代官羽倉氏の子息佐門君の伴随として、宇佐神宮を参詣していますが、主人筋との旅であったために耶馬渓の景観を楽しむ余裕はなかったみたいです。1829年(文政12年)4月48歳の時に淡窓の代わりに日田掛屋、博多屋の跡を継ぎ当主である弟の広瀬久兵衛が豊前周防灘において新田開発に苦労しているのを見舞うため、豊後高田市と宇佐市の境である宇佐市寄藻川の浮殿の近くに久兵衛のもとを訪れています。耶馬渓を通過し中津市大貞・薦神社を参詣、四日市から宇佐市芝原にある善光寺を参詣し宇佐神宮を参詣しています。行きは伏木峠~守実~柿坂~青の洞門と山国川に沿って歩き、帰途は宇佐市四日市~桜峠~羅漢峠~羅漢寺とのコースで、耶馬渓の全景を踏破していると言えます。賴山陽が「耶馬溪図巻」で耶馬渓と命名してまた絶賛したことをふまえ、あらためて時間を懸けて歩いています。そして「耶馬溪」と題する七言律詩を残しています。

 

 

29頁にわたる特集
29頁にわたる特集

2017・6・22

湯谷祐三さん「手紙より見たる雲華上人の生活と思想」

 

雲華上人研究家の湯谷祐三さん(愛知県立大学非常勤講師)が「手紙より見たる雲華上人の生活と思想ー雲華書簡全五十通の翻刻と解題」(寺社と民衆第十三輯、民衆宗教史研究会2017・3)を発表している。


一般にはあまり知られていない雲華上人の人間像を知る上でも貴重な試みである。お問い合わせはメールのみ受け付け。

  民衆宗教史研究会編修委員会 minsyuuken@gmail.com

 

 

菓子折のような箱を開けてみれば、なるほど「一万円札」がぎっしり。

2017・6・17

お札せんべい

 

先日、中津に行った際「札束です」といただいた。

中津は一万円札に描かれた福沢諭吉のふるさと。そこでこんなユ一モアあふれる土産品ができた。番号まで入っているが、とうぜんというべきか、いずれも同じ番号。製造元のホームページによれば、一枚90円。話のタネにはじゅうぶん。

 

 


外園さんは中津市美術協会会員で80歳。本画集は「山國河百景」「山國河百景Ⅱ」に続く3冊目。残念ながら市販はしていないようだ。

2017・6・11

「日本遺産認定」盛り上がる中津市

 

中津のオッサンが外園雅美さん(中津市在住)の画集「山國河百景Ⅲ」を送ってくださった。頼山陽先生詩碑の絵も収録されている。

また中津市役所から「祝日本遺産認定」のパンフレット(写真左)が届く。今年4月28日の「日本遺産認定」により、中津市は盛り上がっているようだ。

 

 


 頼山陽の「耶馬渓」命名の経緯とは?

2017・6・5

見延典子の講演 in 中津

 

今年4月、「やばけい遊覧~大地に描いた山水絵巻」として国の日本遺産となった「耶馬渓」。名付け親である江戸後期の歴史家で漢詩人の頼山陽と耶馬渓の関係を探る講演会が


1日、中津市内のホテルであった。頼山陽関連の著作も多い、講師役の作家見延典子さん=広島市=は「山水画を好んだ頼山陽にとって、耶馬渓は特別に美しい風景だったに違いない」と話した。講演会は、中津法人会の主催で関係者など200人が熱心に聴き入った。

 

頼山陽は、大阪で生まれ、広島で育った。父親は広島藩の儒学者だった。30歳で京都に出て、文筆業などで才能を発揮。京都・大阪の多数の文人と交流した。歴史書「日本外史」は日本初のベストセラーと呼ばれる。

1818年、九州を一周する1年がかりの旅行に出掛ける。広瀬淡窓の知遇を得た日田から中津への旅の途中、当時「山国谷」と呼ばれていた渓谷で絶景を目撃することになる。中津市耶馬渓町柿坂の擲筆峰。見延さんによると、頼山陽は当時、熊本の藩医宅で見かけた見事な山水画を譲ってもらえず、かなり落胆していたという。見延さんは「寝ても覚めても目に浮かぶ山水画と耶馬渓の風景が見事に一致したのでは」と推測する。

 

頼山陽は「耶馬の渓山 天下に無し」と激賞。水墨画「耶馬渓図巻」などを残す。見延さんは「耶馬渓が全国的に知られるようになるきっかけは、頼山陽の人生最大の感動だった」と締めくくった。

                                 =2017/06/03付 西日本新聞朝刊(写真も)=

 

2017・6・1 中島由美子さん「流された頼山陽先生詩碑」

 

大分県中津市耶馬渓町ご在住の中島由美子さんから貴重な写真が寄せられた。かつて山国川の河岸に建っていた頼山陽先生詩碑である。2006年11月、「筆祭」の際に写したと思われる。写真の背後に流れるのは筆を燃やして出た煙。2012年の豪雨で流されることになろうとは…。

前列左から2番目は後に燦燦プロジェクト代表になる吉森晶子さん。4番目が中島由美子さん。『頼山陽』連載中の見延典子を講演会に読んでくださった。その右隣が見延典子。
前列左から2番目は後に燦燦プロジェクト代表になる吉森晶子さん。4番目が中島由美子さん。『頼山陽』連載中の見延典子を講演会に読んでくださった。その右隣が見延典子。

2017・5・26

6月1日 見延典子の講演会

     「耶馬渓と頼山陽」

 

6月1日、公益社団法人中津法人会主催による見延典子の公開記念講演会「耶馬渓と頼山陽」が行われる。

どなたででもご聴講できます。

    

 6月1日15時30分~

 グランプラザ中津ホテル2階

      (JR中津駅徒3分)

 入場無料

 

 


2017・5・1 毎日新聞「日本遺産 やばけい遊覧」

 

 

28日には文化庁の「日本遺産」に中津市、玖珠町が認定されました。深耶馬渓はまさに「やばけい遊覧~大地に描いた山水絵巻の道をゆく」のストーリィの中にあります。「やばけい遊覧~大地に描いた山水絵巻の道をゆく」というタイトルは申請の際、役所の方が考えたそうです。これから緑が深まります。皆様も頼山陽が名付けた「耶馬渓」へ是非いらしてください。

 

 

2017・4・30

吉森晶子さん

  「耶馬渓新緑まつり終了」

 

4月29日、深耶馬渓公共駐車場をメイン会場に、旬菜館、耶馬渓アクアパーク、耶馬渓すっぽんをサブ会場に耶馬渓地域一帯で開かれた「耶馬溪新緑まつり」が終わりました。

略地図にも「中津」「玖珠」
略地図にも「中津」「玖珠」

中津のオッサン著「耶馬渓」好評発売中。お申し込みは事務局へ。
中津のオッサン著「耶馬渓」好評発売中。お申し込みは事務局へ。

2017・3・25 

中津のオッサン

頼山陽 中津・耶馬渓での書」

 

現在、中津では伝:頼山陽の書が多く私蔵されています。1916年(大正5年)421日新日本三景に耶馬溪が選出された記念に「耶馬渓百年祭」が中津市本耶馬溪青にて挙行され頼山陽、雲華上人遺墨展などが盛大に開催されました。


この時に全国から多くの古物商が全国から集まり、山陽の書が贋作も含め大いに販売されたとの話が残っています。「耶馬渓」の拙書を出したら、私蔵されていたいくつかの伝:山陽の書が持ち込まれました。

 

専門家ではありませんので真贋はわかりません。ただいえるのは山陽が中津耶馬渓での詩作はできうる限り調べましたが下記のものしかありませんのでお知らせいたします。

 

 戌寅(つちのとら・1818年)12月下毛郡月を見ながら下毛郡浄真寺において。

戌寅蠟月遊下毛宿浄真寺精舎戯写併題

群山顧眄谷多姿  石為肌膚樹作衣

平昔評山似評色  唯憐精痩不憐肥

 

 雲華上人と同行し耶馬渓の多彩な景観において

同大含上人探耶馬溪諸勝有此作

酒貯半瓢紅滴瀝  山徑千嶂碧崚

更欣一事尤難獲  復飲同遊有快僧

 

 全国に耶馬溪を紹介した「耶馬渓図巻記」

「入豊前過耶馬溪、遂訪雲華師、共再遊焉。遇雨有記。又得八絶句。」 

(八首之一)

峯容面面趁殊   「ホウヨウメンメン、ミルヲオウテ、コトナル」

耶馬渓山天下無  「ヤバケイサン、テンカニナシ」

安得彩毫如董巨  「イズクンゾ、サイゴウトウ、キョノゴトキヲエテ」

生縑一丈作横図  「セイケン、イチジョウオウズヲツクラン」

(八首之二)以降は省略

 

 曽木の曾木家に一泊した際に大雨にたたられ競秀峰が画されなかっ心境を詠んだ

淋漓溪雨乍傾盆  欲写山容眼昏  植杖探嚢筆屢授  笠襜餘滴暈生痕 

 

 鶴市八幡宮参拝。詩鈔などには確認とれませんが「耶馬溪百年誌」に参詣時の漢詩が記載されています。

荒涼鶴市廟    敗廡倚空林    代主名誉盛     利人功徳深

小與沈水底    巨石壓波心    懐古感無量     躊躇松柏陰

 

 

黒沢庄右衛門のお墓の案内板
黒沢庄右衛門のお墓の案内板

2017・2・14

中津のオッサン

「地方の偉人

      案内板を立てる運動」

 

先日来、広江殿峰の石碑のについて頭の片隅から離れなくて自分自身の結論のでない日々が続いています。


自宅の近くのお寺に陣野矢山いう人物の3mある石碑があります。彼は幕末期の中津の漢学者ですが詳しいことは資料がなく、ただ碑の碑文が青木周蔵が書き彫り込まれていました。

 

私塾を開き多くの門弟を育て、葬儀には2.000人を超す人々がお参りに押しかけたとしかわかっておりません。近年物好きの地方史を調べる方が挑戦しましたが、わからないままに見過ごさておりました。

 

45年前の台風で碑が砂岩で建立されていたために大切な碑文一面が剝げ落ちました。この時に、碑文の拓本を私も含め誰もがとっていなく悔やまれてならなかったことを思い出します。

 

お寺の坊守さんとの話の中で陣野矢山のことは知らなくまた、誰も訪ねてくる人もなく、無縁になった石碑とお墓はお寺にとって維持管理はとても大変なことだそうです。

 

このことが私の深い反省として現在、時間が比較的に自由になるので中津の地方史で忘れられてはいけない事柄に対して案内板を建てる運動をしております。

 

昨年の12月から中津観光協会のご好意で久留島武彦が少年時代、母の実家ですごした場所、明治初期の小学

案内板を設置した現地(中津市)
案内板を設置した現地(中津市)

中津藩藩財政改革者、黒沢庄右衛門のお墓などに案内板設置をこの2月初旬に建てたばっかりです。

 

このことは、近くに長く住んでいる人も知らない地方史ですが、新たな身近な歴史を知ることにより、「自分の住んでいる場所の歴史を知り、愛着が生まれてきた」との言葉をもらっています。  

 

知ることにより、愛着が生まれ、次代に受け継がれる。このことが大切だと思います。ご子孫がしっかりとしていれば、ただ見守っていればいいのですが、無縁になった、かつて功績、業績のあった方々の先人たち顕彰などは現在の市井の人によっておこなわれるしかないと思っております。

 

広江殿峰の石碑の場合、現在管理している●●寺さんの所有であり、広江殿峰と頼山陽のことを知らなかったのではと推測しています。このことが今回の悲劇が起こったのではと思います。

 

 

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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