2016・8・7
深耶馬観光復興横断幕に頼山陽の絵
8月3日、耶馬溪町大字深耶馬の深耶馬商店会内駐車場で「深耶馬観光復興横断幕」除幕式典が行われた。
2016・8・4 ご購入会員様「感激しました」
素晴らしい耶馬渓の本に感激しました。耶馬渓に住んでいる親族に是非読んでもらいたいと思いますので、恐縮ですが、2部追加でお送り頂けませんでしょうか。
会員様へ
ありがとうございます。
すぐに発送致します!
頼山陽ネットワーク事務局
2016・8・3 石村良子さん「『耶馬渓』面白かったです」
近砂敦さんの『耶馬渓』は耶馬渓に焦点があたり、当地の方ならではの本で、面白かったです。
食べ物の話は興味深いです。尾道うまれの私は鯛そーめんがソウルフードですが、元は「田信」さんとは。柴野栗山に高机を送ったのも此の方でしょうか?
見延さんの「獲物」は駆け引きが面白いですね。手に汗握る、でした。山陽の情熱こそ見習うべき部分でしょう。
2016・8・1
近砂敦著『耶馬渓』刊行!
中津のオッサンこと近砂敦さんが『耶馬渓』を出版された。
頼山陽が「耶馬渓」と名づけて再来年は200年。新日本三景に「耶馬渓」が選出されて100年。地元在住の著者が満を持して出版。この一冊で「耶馬渓」がわかる。
目次の一部を抜粋
歌川広重『豊前羅漢寺下道』カラー掲載
頼山陽「耶馬渓図巻記」(雲華本)現代語訳
頼山陽耶馬渓来遊の足跡
頼山陽・中津・耶馬渓、日田に残る伝承
耶馬渓を訪れた著名な人々
耶馬渓の開発と観光開発
耶馬渓鉄道と宇島鉄道についての一考察
特別寄稿 見延典子の書下ろし小説『獲物』(西村緋禄史挿絵 再掲)
-頼山陽の情熱と執念 新たな「横取り伝説」誕生!
A4版 88ページ(他に地図、写真4ページ) 定価1300円
販売所
中津商工会議所(中津市殿町)
中津しもげ商工会(中津市耶馬渓町柿坂)
レストハウス洞門(中津市本耶馬渓町青)
頼山陽史跡資料館(広島市中区袋町)
頼山陽ネットワークは販売のお手伝いを致します。
ご購入希望の方はメールからご連絡ください。
その際、ご住所、お名前 お電話番号 冊数を明記して下さい。
送料は1冊300円。送付時、振込み先をお知らせします。
郵貯銀行に口座をお持ちの方は振り込み料無料。
(頼山陽ネットワーク会員には特典があります)
2016・4・18
中津のオッサン
「中津市正行寺 雲華まつり」
4月17日、昨夜の雨も上がり晴天に恵まれ頼山陽ゆかりのお寺中津市正行寺で恒例の雲華まつりが開催されました。
関係者のお話としてこのような時(熊本地震)に開催していいのだろうかとの話し合いがあったそうですが、このような時こそ、一致団結しての開催にふみ切ったそうです。
開催してみると、例年よりも多くの人々が集まり、10時過ぎに私が行きますと用意された駐車場はすでに満車。仕方なく、徒歩で15分はかかる場所に・・・
地元、緑が丘中学の吹奏楽部40人の演奏、囲碁大会、お茶席、婦人部の方々による売店。名物の竹の子ごはんはすでに売り切れ状態で大変賑わってきました。
雲華上人の遺墨展に「耶馬溪図巻」、雲華上人の富士登山の資料展示など興味をひきました。すっかり地元の行事に定着しました。
田信とは田中信平のこと。1748年中津生まれ。長崎で蘭方外科を学んだ医師。書画作家、食道楽の風流人。料理本「卓子式」を著し、中国式のテーブル料理(卓袱しっぽく)を紹介した。中津にカステラ、けんちんなどの菓子を紹介した、と中津市のホームページにある。
2016・4・8 田信宅址碑
これも以前ご紹介したが、大分県中津の地方史によれば、頼山陽は豊後中津の正行寺に滞在中の文政元年(1818)12月、田信宅を訪れているという。
経歴から推察するに蘭方医の範疇におさまりきらないユニークな人のようで、多くの逸話を残している。山陽とはいかなる話題でもりあがったのか。
中津市京町の南部公民館駐車場に田信宅址碑が再建され、題辞と碑文は山陽の子支峰の娘婿頼潔による。
大分県中津市の地方史によれば、次のように書かれているそうである。
田信宅址碑
撰文 君諱信市子孚田中氏文政○次甲申十二月九日殲亨年七十七葬本傳寺
大正十年十月 賴潔 書
写真も大分県中津市の地方史より転載しました
2016・4・7
再建された頼山陽先生詩碑
今さらなのだが、2013年12月に再建された頼山陽先生詩碑(中津市耶馬渓町)を紹介していないことに気づいた。
2012年7月、大分県を襲った大豪雨で流された頼山陽先生詩碑。それを再建しようと有志で燦燦プロジェクト(吉森晶子代表)を立ち上げ、募金活動により浄財を集めた。頼山陽ネットワークも微力ながら協力。2013年12月5日、関係者らが集まり、除幕式が行われた。
再来年の2018年は頼山陽が九州遊歴に出た文政元年(1818)から200年にあたる。何か記念に残ることができないか、考えている。ご意見があればお寄せください。
左の写真は流失される前の旧頼山陽先生詩碑。再建中の写真や除幕式の写真もいずれUP予定。
今回の写真はすべて大分県中津市の地方史から転載しました。
2016・1・22 中津のオッサン 「耶馬渓図巻記」全訳終了
中津のオッサンのブログ「大分県中津市の地方史」で頼山陽「耶馬渓図巻記」の全訳が終わりました。
頼山陽の一次資料です。「頼山陽の手紙」とともに頼山陽の実像に触れてください。
2016・1・18
中津のオッサン
「耶馬渓図巻記現代文編」
中津のオッサンのブログ「大分県中津市の地方史」で頼山陽「耶馬渓図巻記」の訳文連載が続いています。
初めての試みです。
2016・1・16
中津のオッサン
「耶馬渓図巻記現代文編」
中津のオッサンのブログ「大分県中津市の地方史」に頼山陽の「耶馬渓図巻記」の訳文が載っています。
数回に分けての連載。
2016・1・12
中津のオッサン「耶馬渓 頼山陽の足跡」
中津のオッサンのブログ「大分県中津市の地方史」で頼山陽が実際に歩いた道を辿る連載が始まりました。
中津市ご在住で、耶馬渓を知り尽くした著者ならでは調査。
ご一読ください。
2015・11・11
吉森晶子さん「頼山陽と雲華上人のかかし」
燦燦プロジェクト代表の吉森晶子さんから、今年も「やまくにかかしワールド」が始まったという連絡をいただいた。
「やまくにかかしワールド」は10月下旬から11月下旬、大分県中津市山国町(耶馬渓町の隣町)で行われるかかし祭り。町内各所に置かれたかかしはすべて地元民が制作したもの。
左の写真は、吉森さんが作成したかかし。
左が雲華上人、右が頼山陽。
二人で仲良くお酒を飲んでいるところを描いた。
このかかしが設置されているのは耶馬渓町柿坂。頼山陽詩碑のすぐ近く。
別のイベントで、頼山陽が耶馬渓で詠んだ漢詩のパネルを持って、説明している吉森晶子さん。
情報をいただき、ありがとうございます。
2015・4・28
村上医家史料館
(中津市諸町)
再び中津のオッサンにお願いして、写真を送っていただいた。
しかも解説つき。ありがとうございます。
いまから三百四十年前の寛永十七年(1640)に、豊前中津諸町に一軒の町医者が開業した。京都の古林見宜から開業免許を得た村上宗伯である。
宗伯は浄喜寺(行橋市今井)の五世村上連休の弟、良道である。
かくて村上家は初代宗伯、養元、玄水(初めの玄水)、玄洞、長庵、玄秀、玄水、宗玄、春海、又玄(田長)、和三、健一とつづき、当主は玄児氏で、実に十三代医業連綿という珍しい旧家である。宗伯開業のころは中津小笠原藩初代長次の時代である。のち奥平藩となり代々御典医(百石)をつとめた。
数年まえ刊行された高浦照明(大分合同編集局次長)の労作「大分県医療史」にも詳述されているように、7代玄水は、藩の死罪人の屍を自ら解剖し「解剖図説」を著わし、中津の花火術、立干し網漁の開祖で、薬草園にも手をつけた。また十代又玄(ゆうげん)村上田長で知られており、初代大分中学、師範学校長で玖珠郡長もつとめた。
郡長時代に豊後森~中津港間の「耶馬溪道路」の開鑿(さく)をやり、その頌徳碑が裏耶馬溪にたっている。
なお田舎新聞(編集長増田宋太郎、明治九年)創立者である。かの西鉄、井筒屋百貨店などの社長としてNHK経営委員として活躍した村上巧児は田長翁の四男である。
埋もれた秘話としてとりあげたいのは、玄水がかのシーボルト事件で追われる高野長英を邸内の土蔵に四十余日間も匿った逸事である。その土蔵はなお現存しています。
全国にも三百四十年間の医業文化資料の整理、調査がすすめられ、
平成8年5月1日「中津市歴史民俗資料館分館村上医家史料館」して開館されました(今永正樹氏、昭和56年8月6日、大分合同新聞、灯、より)
ギネスブックによると世界第一位の医家が続く家系は、スペインのヴァレンシアに住むバルシア家は1792年から7代にわたって医者を営む。と記されていますが、村上家は1640年村上宗伯から12代村上玄児先生まで360年で世界一位になります。
というわけで、その村上医家資料館の襖に貼ってある頼山陽の書の写真を送っていただいたが、残念ながら落款もない。
頼山陽が村上家を訪ねたかも、わかっていない。
ただ。頼山陽が中津でそれなりに認められていると再認識できたのはよかった。
中津のオッサンありがとうございました。
怒れる中津のオッサンのブログ
2015・4・25
頼山陽が宿泊した
曾木墨荘の屋敷跡
中津のオッサンが写真を送ってくださった。
耶馬渓の八木地区にある頼山陽の、一見、お墓にも見える碑の写真だ。
私も3年ほど前、ある方の案内で訪れたことがあるが、まだ紹介していななかった。
以下中津のオッサンによる紹介です。(ご許可を得ています)
山陽さんの日田中津間の旅と中津滞在について探究しているSさんが「曾木墨荘(そぎぼくそう)」について、実家である曾木家の屋敷跡を調べ行きませんかとのお誘いが。
山陽さんも雲華さんも一緒に一泊した屋敷跡なので、興味深々でミネちゃんと3人で本耶馬渓町(旧曾木村)に行きました。
本耶馬渓町の名勝青の洞門を通り、山国屋旅館の所を左折したら、旧曾木組の大庄屋「曾木家」の屋敷跡でした。
土地の老女に聞けば明治10年の西南戦争において呼応した中津藩旧藩士増田宗太郎の蜂起に地租改正以来の不満が一斉に爆発した耶馬溪一帯の百姓達が大規模な一揆を起こして
焼き討ちに遭い、打ち壊され、その後森林になっていたが、太平洋戦争中に切られ畑が開墾され、その後の農地解放で細分化され宅地になったのことです。
その中心になる場所に、昭和29年に建てられたというお墓のような「頼山陽先生之碑」がありました。
碑の横にが石祠あります。また、この場所からの競秀峰の風景は見慣れた私でも始めて観る秀でた景観です。
なぜ、山陽さんは耶馬溪図鑑で著さなかったのかはわかりません。
中津のオッサンへ
なぜこの場所にこんな碑が建っているのか、よくわかりました。曽木墨荘についてのリポートもお待ちしています!
2015・4・21
雲華上人ゆかりの正行寺③
「雲華まつり」は今年で20回目。区切りの年にあたり、中津のオッサンのご推薦で講演会の講師に招かれた。
正行寺は数回、訪ねているが講演は初めてである。
正行寺に着いて初めてわかったが、講演会の会場はなんと、国の登録有形文化財に指定されている本堂であった。
瀬戸内寂聴さんなら、さぞ絵になるのだろうが、はたして私で大丈夫であろうか。
幸い、皆様のおかげで100名ほどが聴講者が熱心に耳を傾けてくださった。ありがとうございます。
しかも思いがけないものを持参された方がいた。
頼山陽の『耶馬渓図巻』(写し)。しかも雲華本と竹下本の2種類である。
講演後、皆で見せていただく。
どのように入手したかお訊ねすると「骨董屋」というお話だった。
※『耶馬渓図鑑』は大分県県北部の奇岩・名勝を水墨で描き、その由
来を記した漢文「耶馬渓図巻記」と耶馬渓を詠んだ漢詩9首を書き入
れたもの。なお、耶馬渓の地名は、もと山国谷と言ったのを山陽が
この記で「耶馬渓」と中国風に称したことから広まった。雲華上人
のために書いた雲華本と、尾道の橋本竹下のために書いた竹下本の
2種があるが、雲華本の原本は現在不明になっている。
指さしているあたりが耶馬渓の柿坂。
この景観に出会った時の頼山陽の様子に思いをはせる。
文を書き、絵も描き、友を大切にする「文人 頼山陽」の会心作だ。
2015・4・15
雲華上人ゆかりの正行寺②
この日は、おなじみ「中津のオッサン」と初対面のミネちゃんが中津駅まで迎えに来てくれた。ありがとうございます。
「正行寺」の扁額は、豊前中津藩第5代藩主奥平昌高公の筆による。
昌高公も正行寺を訪ねている。
正行寺の本堂と山門、袖塀、鐘楼は国の登録有形文化財になっている。古刹である。
上の写真が雲華上人の肖像画。「雲華院釈信慶」とある。
頼山陽が宿泊したという「頼山陽の間」には、特別に多くの軸が飾られ、参拝客の目を楽しませていた。
下の蘭の絵は雲華上人の筆による。
離れで、欄間の説明を受けつつ、お抹茶をいただく。
雲華上人が好んだ「春蘭」(すぐ上、左の写真)と、昔の製法で再現した「浜大豆」(すぐ上、右の写真)。「浜大豆」は塩麹でまぶしたような感じで、お酒がほしくなる(笑)
まだ続きます。
2015・4・13
雲華上人ゆかりの正行寺①
4月12日、中津市の正行寺で、第20回「雲華まつり」が行われた
雲華上人(うんげしょうにん)は真宗大谷派の僧。
安永2年(1773)豊後国の満徳治に生まれる。
寛政3年(1791)豊前国正行寺の養子となる。
同年、東本願寺の学寮に入る。
天保5年(1834)講師に昇進。
嘉永3年(1850)寂。
雲華上人は学識が高く、漢詩もうまく、特に蘭の花を描くことを得意とした。頼山陽、田能村竹田ら当時の一流の文人と交流。名は大含、号は雲華など。
文政元年(1818)頼山陽が九州遊歴の最後に、正行寺の雲華上人を訪ね、とともに周辺を散策、道中で見た景観に感動して「耶馬渓」と命名した話は有名。
山陽は帰京後、雲華上人のために『耶馬渓図鑑』を完成した。
中津市木村記念美術館には「『耶馬渓図鑑』を書きあげたが、贈るのが惜しくなった」という雲華上人宛て、頼山陽の書簡が所蔵されている。
左の写真は正行寺の境内にある
雲華上人の顕彰碑
下の写真はその説明板
同じく、正行寺の境内にある頼山陽がデザインしたと伝わる鐘楼は、国の有形登録文化財に指定されている。
正行寺の紹介は続きます。
2014・12・12
中津のオッサンから資料が届きました。
中津のオッサンがわざわざコピーを送ってくださいました。
これらの葉書は耶馬溪に今もあるかぶと屋旅館が昭和初期に発行したものということですが、カラー写真というより後で色をつけたものでしょうね。
上の写真に「KAKISAKA SANYO KINENHI」、また左の写真の消印に
「ASOENDMUNTINOFRAKANJI
-YABAKEI」などローマ字表記がところどころに見られます。
消印は昭和17年5月15日で、ローマ字の規制はなかったことがわかりますが、いったいどのくらいの人が読めたのでしょうか、知りたいところです。
こんな観光案内図もあったんですね。
耶馬溪鉄道も描かれています。
耶馬溪鉄道は大正2年開業。耶馬溪、羅漢寺の観光振興も開業の目的の一つだったのでしょうね。そしてその観光に当時人気のあった頼山陽も担ぎだされた。「耶馬溪」の名づけ親ですから、当然ですね。
耶馬溪鉄道は昭和50年に全線廃止となっています。
中津のオッサン、ありがとうございます。
中津のオッサンのブログもご覧ください。
多くのアクセスがある人気ブログです。
2014・12・2 中津のオッサンから追加の写真
中津のオッサンから追加の写真が送られてきました。
大正年発行の耶馬溪観光案内で、耶馬溪観光開発に頼山陽が利用されたことがわかる資料です。
2014・11・30
中津のオッサンから耶馬溪「山陽翁来遊記念碑」の報告
中津のオッサンから耶馬溪(大分県中津市)に建つ「山陽翁来遊記念碑」についてのご報告がありました。
再建された「頼山陽先生詩碑」以外にも、耶馬溪には山陽の顕彰碑があります。ご報告に感謝しつつ、そのまま掲載します。
昨日(29日)、中津市耶馬溪柿坂にある、かぶと屋旅館に行ってきました。
と言うのも、今月初めにオークションで昭和初期にかぶと屋旅館が発行した記念絵葉書を入手した時に「山陽翁来遊記念碑」が確認され、その存在を知らなかったからです。現在、どのようになっているのか確認しかったからです。
突然に訪問したのにもかかわらずに、御主人と奥さまが丁寧に対応してくださり、色々な話を聞くことができ感謝です。
「山陽翁来遊記念碑」はかぶと屋旅館の裏、山国川をはさみ擲筆峰を望む位置にひっそりとたたずんでありました。
裏の碑文を読むと、永年の風化と私の無学の為に拾い読みでしたが、大正4年に耶馬溪鉄道の当時の社長であった中里真清氏が中心となり、賴山陽が耶馬溪という地名を耶馬溪図巻記において命名してから100年の記念に建立されたことがわかりました(数年のずれはありますが)。
大正3年に耶馬溪鉄道が伸長して、樋田から柿坂までが開通しています。柿坂は中津から玖珠町森町と山国町日田市に行く為の分岐点にあたり、特に昭和9年に久大線が開通するまで、玖珠郡の入る唯一の動脈線でした。
また、深耶馬溪の景観と温泉群の観光開発の重要な場所であり、ここで、賴山陽先生に出ていただいて顕彰することにより柿坂の地を世間に認識してもらう真意が推測されます。
ご主人のお話では、以前は擲筆峰を望む山国川の河川敷にあったが、いつこの地に移転されたか不明だそうです。多分、堤防が造られた時に移転されたのではとの事。
一昨年の大水害の時に下の部分は大水で浸かったそうですが、被害はまぬがれたと、また、かぶと屋旅館さんはあと数センチで床上浸水だったそうです。
耶馬溪(やばけい)の名づけ親は頼山陽
大分県中津市にある「耶馬溪」という地名の名づけ親は頼山陽である。
この件についてはいずれ触れようと思っていたが、リンク先の「あつし0611 大分県中津の地方史」様が地元ならではの記事をUPされていた。
中津にも熱心な頼山陽研究家がいらっしゃるようだ。
耶馬溪という地名の命名者ー頼山陽(6月18日、19日)
http://ameblo.jp/atsushi-gion/
耶馬溪には頼山陽関連の史跡が多数ある。
いずれ紹介予定。