2022・1・27

山下幸太郎さん「北條子譲墓銘の拓本、書き下し」

 

北條霞亭墓碣銘の拓本、書き下し文です。いづれも『神辺の歴史と文化』を参考にしています。拓本については石碑と文字配列も一致しています。

 

「北條子譲墓碣銘」拓本

北條君子讓慕唐陽城為人自命一字景陽嘗徴余書其説時

酒間不遑詳其旨諾而未果而君沒於江戸後九年其子進之

寓昌平學計建墓碣来請曰在先友伊勢韓聯玉最舊菅翁嘗

託之銘未成翁逝韓亦踵沒使翁在必更託之於子先人亦頷

之也余與君同庚又前後同掌菅氏塾教余辭君就如代吾勞

者且進之在東所識鉅匠匪尠乃遠求於余余寧可辭況有宿

諾於君乎君諱讓通称讓四郎號霞亭又天放生志摩的屋人

系出於早雲氏後仕内藤侯侯國除曽祖道益祖道可考道有

皆隠醫本邑考娶中邨氏生六男四女君其長幼喜讀書考以

次子立敬承家聽君遊學入京及江戸學成一藩侯欲聘致之

會聯玉来偕遊奥以避之又寓越後南歸為勢林﨑院長院蔵

書萬巻因益致深博素愛嵐峽山水就其最清絶處縛屋挈弟

共居襄硯壺酒蕭然自適歳癸酉遊備後訪菅茶山翁ニ欲留

掌其塾諮之父ニ命勿辭福山藩給俸五口時召説書尋特召

之東邸給三十口班大監察将孥東従居丸山邸舎三年罹疾

不起實文政癸未八月十七日享年四十四葬巢鴨眞性寺君

為人癯而晢隆準眼有光嗜酒風神脱灑而狷介不苟合友於

諸弟交友有終始至一同醉之情或終身弗忘而治己端愨不

自欺嘗曰學無益於己與人猶不學也其學主洛閩而輔以博

覧患東邸士習駁襍授小學書欲徐導之未遂而沒尤善詩叙

實而不俚使事而不窒清勁如其人所著有霞亭摘稿渉筆嵯

峩樵歌薇山三觀及杜詩插注等配井上氏為菅翁姪生二女

皆夭養藩士河邨氏子退為嗣即進之余重進之之請已叙吾

所知又就嵐峽訪於其舊識僧僧曰吾驟往見其焚香静坐不

見甚讀書也作詩亦不甚耽吁乎君益欲自驗其所學者也其

慕陽城豈非慕其雖求適己亦能濟物哉不然烏能舍其所楽

而役役以沒也是可以槩君之心跡矣銘曰

處則孝友出則忠藎接物以和行已也峻唯不遇事遇則必奮

展矣景陽于陽是憲天假之年頽俗可振

 

           友人頼襄撰并書 孤子退建

 

北條君子讓、唐の陽城の人と為りを慕ひ、自ら一の字を景陽と命ず。嘗て余を徴して其の説を書く。時に酒間其の旨を詳にするに遑あらず。諾して未だ果さず。而も君は江戸に没す。九年の後、其の子進之昌平学に寓す。墓碣を建てんと計り、来たり請ひて曰く、先友在り、伊勢の韓聯玉最も舊し。菅翁嘗て之に銘を託す。未だ成らずして翁逝く。韓亦踵いで没す。翁をして在らしめば、必ず更に之を子に託さん。先人亦之に頷くなりと。余と君とは同庚、又前後して同じく菅氏の塾教を掌る。余辞して君就く。吾が労に代れる者の如し。且つ進之東に在り。識る所の鉅匠尠からず。乃ち遠く余に求む。余寧ぞ辞すべけんや。況や君に宿諾あるをや。君、諱は讓、通称讓四郎、霞亭と号し、又天放生とも。志摩的屋の人。系は早雲氏より出づ。後内藤侯に仕ふるも、侯国除かる。曽祖道益、祖道可、考道有、皆医をもって本邑に隠る。考中邨氏を娶り六男四女を生む。君はその長、幼より書を読むを喜ぶ。考次子立敬を以て家を承がしめ、君の游学を聴す。京及び江戸に入り、学成る。一藩侯之を聘致せんと欲す。会々聯玉来たり、偕に奥に遊び以て之を避く。又越後に寓し、南帰して勢林崎院長と為る。院書を蔵すること萬巻因りて益ます深博を致す。素より嵐峡山水を愛し、其の最も清絶なる處に就いて、屋を縛し弟を挈して共に居す。襄硯壺酒、蕭然として自適す。歳癸酉、備後に遊び、菅茶山翁を訪ぬ。翁留めて其の塾を掌らせんと欲し、之を父に諮る。父辞すること勿れと命ず。福山藩俸五口を給し、時に召して書を説かしむ。尋ひで特に之を東邸に召し、三十口を給ひ、大監察に班す。孥を将ゐて東徒し、丸山邸舎に居ること三年、疾に罹りて起たず。実に文政癸未、八月十七日なり。享年四十四、巣鴨真性寺に葬る。君の人と為り癯にして暫、隆準にて眼に光有、酒を嗜み、風神脱灑、而も狷介にしても合わせず。諸弟を友とし、交友終始あり。一たび同酔の情たらば、或は終身忘れざるに至る。而も己を治むること端愨として、自から欺かず。嘗て曰く、学己と人とに益無くんば、猶ほ学ばざるがごときやと。其の学は洛閩を主とし、而て輔なふに博覧を以てす。東邸士の習ひ駁襍なるを患ひ、小学の書を授け、徐に之を導かんと欲するも、未だ遂げずして没す。尤も詩を善くし、実を叙べて俚からず。事を使て窒がず。清勁なること其の人がらの如し。著わす所霞亭摘稿・渉筆・嵯峨樵歌・薇山三観、及び杜詩挿注等有り。配井上氏は、菅翁の姪たり。二女を生めるも皆夭す。藩士河村氏の子退を養ひ嗣と為す。即ち進之なり。余進之の請を重んじ、已に吾が知れる所を叙す。又嵐峡に就き、其の舊識の僧を訪ふ。僧曰く、吾驟に往きて、其の香を焚き静座するを見れども甚しく書を読むは見ざるなり。詩を作るも亦甚しく耽らずと。吁乎、君は蓋し自ら其の学ぶ所の者を驗するを欲したるなり。其の陽城を慕ふるは、豈に其の己に適するを求むと雖も、亦能く物を済するを慕ふにあらざるか。然らず、鳥は能く其の楽しむ所に舎る。而して役々として以て没するなり。是れ以て君の心の跡を槩べし。銘曰く、處れは則ち孝友、出づれば則ち忠藎。物に接するに和を以てし、已に行なふや峻し。唯だ事に遇わざるなり。遇はば則ち必奮ふ、展ぶるは景陽。陽に干るは是れ憲なり。天之に年を假さば、頽俗して振ふべし。

               友人頼襄撰并書 孤子退建

 

2022・1・19

山下幸太郎さん「頼山陽が書いた、北條子譲墓銘の改訂版」

 

以前送った原文には空白や誤字がありました。改訂したものを送ります。訂正は赤字に直してあります。

 

「北條子譲墓碣銘」

北條君子讓慕唐陽城為人。自命一字景陽。嘗徴余書其説。時酒間不遑詳其。諾而未果。而君病沒於江戸。後九年。其子進之寓昌平學。計建墓碣。來請曰。在先友。伊勢韓聨王最舊菅翁嘗託之銘。未成。翁。韓亦踵沒。使翁在。必更託之於子先人亦頷之也。余與君同庚。又前後同掌菅氏塾教。余辭君就。如代吾勞者。且進之在東。所識鉅匠尠。乃遠求於余。余寧可辭。況有宿諾於君乎。諱讓。通稱讓四郎。号霞亭。又天放生。志摩的屋人。其先出於早雲氏。後仕内藤侯。侯除。曾祖道益。祖道可。考道有。皆隠醫本邑考娶中邨氏。生六男四女君其長。幼喜讀書。考以次子立敬承家。聽君遊學。入京及江戸。學成。一藩欲聘致之。會聯玉來。偕遊奥。以避之。又寓越後。南歸。為勢林崎院長。院蔵書萬巻。因益致深博。素愛嵐峽山水。就其最清絶縛屋挈弟俱居。襄研壺酒。蕭然自適。歳癸酉。遊備後。訪菅茶山翁。翁欲留掌其塾。諮之父。父命勿辭。福山藩給俸五口。時説書。尋持之東邸。給三十口准大監察。将孥東従徙。居丸山邸舎。三年罹疾不起。實文政癸未。八月十七日。享年四十四。葬巣鴨真性寺。君為人癯而晢。隆準。眼有光。嗜酒。神脱灑。而狷介不苟合。友於諸弟。交友有終始。至一同醉之情。終身不。而治已端愨不自欺。嘗曰學無益於己人猶不學也。學洛閩而輔以博覧。患東邸士習駁雜。授小學書。欲徐導之。未遂而沒。尤善詩叙實而不俚使事而不窒清勁如其人。有霞亭摘稿。渉筆嵯峨樵歌。薇山三觀。及杜詩插注等。配井上氏。為菅翁姪。生二女。皆夭。養藩士河邨氏子退為嗣。即進之。余重進之之請。巳叙吾所知又就嵐峽。訪於其舊識僧。僧曰。吾驟往。見其焚香静坐。不見甚讀書也。作詩。亦不甚耽吁乎。君益欲自験其所學者也。其慕陽城。豈非慕其雖求適己。亦濟物哉。不然。烏能舍其所楽。而役役以沒也。是可以槩君是心跡矣。銘曰 処則孝友。出則忠藎。接以和。行已也峻。唯不遇事。遇則必奮。展矣景陽。於陽是憲。天假之年。頽俗可振。

 

2021・12・10 

久保寺辰彦さん

「井伊家の菩提寺 豪徳寺」

 

 

井伊直助の墓所で、井伊家の菩提寺でもある豪徳寺の写真です。


2021・12・8 久保寺辰彦さん「松陰神社 頼三樹三郎の墓所」

 

安政の大獄で処刑された頼三樹三郎の墓所のある松陰神社と処刑した側の井伊直助の墓所で、井伊家の菩提寺でもある豪徳寺へ行ってきました。

松陰神社と豪徳寺は歩いて10分程度の距離です。

 

史蹟・詩碑めぐりの参考になれば幸いです。


2021・11・21

山下幸太郎さん「森鴎外『北條霞亭』と頼山陽」

 

 森鷗外の作品に『北條霞亭』があります(森鷗外全集などに収められていると思います)。碑文を打ち込んだ際に気になっていたので読んでみました。

 森鷗外は作品の冒頭で頼山陽の墓碣銘を読み解くことから始めています。その碑文は「山陽遺稿に載せてある」とし、墓碣銘の末には「友人頼襄撰幷孤子退建」(退とは河村悔堂)が記してあるとしています。そして「今少し広く世に知られるべき筈の金石文字ではなかろうか。」とし、

山陽遺稿と石刻の文の比較を行い、二・三点の文字の相違まで指摘しています。

 頼山陽が「北條子譲墓碣銘」を作成するに至った過程について、北條霞亭が亡くなったのは1823(文政3)年です。菅茶山は山口凹巷に作らせようとしたが、文政10年に菅茶山が亡くなり、天保元年に山口凹巷が亡くなったことで、河村悔堂が頼山陽に依頼したとしています。また、この碑文は最初は750字程あったものを削って681字にしたとも記してあります。「北條子譲墓碣銘」が完成したのは天保3年ですが、頼山陽が6月に喀血し、翌月に墓碣銘を完成させ、9月に頼山陽が亡くなったという点を指摘していることからも、頼山陽にとって最後の作品とも言えるのではないでしょうか。

 

2021・11・15

山下幸太郎さん「北條子譲墓碣銘」

 

『山陽遺稿』より「北條子譲墓碣銘」を発見しましたので送ります。

おそらく「霞亭先生北條君墓」に刻まれている碑文ではないでしょうか。

九州が終わったら関東方面に移るということで、今後の一助になれば幸いです。

 

「北條子譲墓碣銘」

北條君子讓慕唐陽城為人。自命一字景陽。嘗徴余書其説。時酒間不遑詳其音。諾而未果。而君病沒於江戸。後九年。其子進之寓昌平學。計建墓碣。來請曰。在先友。伊勢韓聨王最舊菅翁嘗託之銘。未成。翁述。韓亦踵沒。使翁在。必更託之於子先人亦頷之也。余與君同庚。又前後同掌菅氏塾教。余辭君就。如代吾勞者。且進之在東。所識鉅匠匪尠。乃遠求於余。余寧可辭。況有宿諾於君乎。諱讓。通稱讓四郎。号霞亭。又天放生。志摩的屋人。其先出於早雲氏。後仕内藤侯。侯〇除。曾祖道益。祖道可。考道有。皆隠醫本邑考娶中邨氏。生六男四女君其長。幼喜讀書。考以次子立敬承家。聽君遊學。入京及江戸。學成。一藩矦欲聘致之。會聯玉來。偕遊奥。以避之。又寓越後。南歸。為勢林崎院長。院蔵書萬巻。因益致深博。素愛嵐峽山水。就其最清絶処縛屋挈弟俱居。襄研壺酒。蕭然自適。歳癸酉。遊備後。訪菅茶山翁。翁欲留掌其塾。諮之父。父命勿辭。福山藩給俸五口。時名説書。尋持名之東邸。給三十口准大監察。将孥東従徙。居丸山邸舎。三年罹疾不起。實文政癸未。八月十七日。享年四十四。葬巣鴨真性寺。君為人癯而晢。隆準。眼有光。嗜酒。神脱灑。而狷介不苟合。友於諸弟。交友有終始。至一同穂醉之情。〇終身不〇。而治已端愨不自欺。嘗曰學無益於己〇人猶不學也。學生洛閩而輔以博覧。患東邸士習駁雜。授小學書。欲徐導之。未遂而沒。尤善詩叙實而不俚使事而不窒清勁如其人。有霞亭摘稿。渉筆嵯峨樵歌。薇山三觀。及杜詩插注等。配井上氏。為菅翁姪。生二女。皆夭。養藩士河邨氏子退為嗣。即進之。余重進之之請。巳叙吾所知又就嵐峽。訪於其舊識僧。僧曰。吾驟往。見其焚香静坐。不見甚讀書也。作詩。亦不甚耽吁乎。君益欲自験其所學者也。其慕陽城。豈非慕其雖求適己。亦〇濟物哉。不然。烏能舍其所楽。而役役以沒也。是可以槩君是心跡矣。銘曰処則孝友。出則忠藎。接者以和。行已也峻。唯不遇事。遇則必奮。展矣景陽。於陽是憲。天假之年。頽俗可振。

 

北條霞亭の墓がある東京巣鴨の真性寺
北條霞亭の墓がある東京巣鴨の真性寺

2021・11・13 

久保寺辰彦さん「北條霞亭の墓碑」

  ↔ 見延典子「よろしく」

 

千葉の久保寺です。

 

関東方面で山陽の碑といえば、北條霞亭の墓碑です。ということで、北條霞亭の墓がある巣鴨の真性寺へ墓参へ行ってきました。

残念ながら予想通り、分厚いアクリルボードで覆われていて、山陽の碑文があまり見えませんでした。アクリルボード設置は山陽の碑文を無断で拓本しようとするものが後を絶たないからだとか。アクリルボードを


 

水洗いしてみましたが、見え方にあまり効果はありませんでした。

他にも関東方面に山陽の詩碑があるのなら、行ってみたいと思います

 

久保寺辰彦さんへ

九州が終われば、関東です。湯島聖堂、頼三樹の墓くらいしか準備できていません。御地周辺でご存知の史跡、詩碑があればお知らせください。

                         見延典子

 

正面
正面
右側面
右側面
京都長楽寺、頼三樹三郎の墓。 手前に山陽と梨影の墓がある。
京都長楽寺、頼三樹三郎の墓。 手前に山陽と梨影の墓がある。

その後、三樹三郎(号・鴨厓、古狂生)は、大坂の後藤松陰や篠崎小竹の下で学び、天保13年江戸昌平黌に入学するのであります。傍ら佐藤一斎や、梁川星巌等の下に出入りするようになり、弘化3年(1846)昌平黌書生寮を退去させられ、東北蝦夷地を遊歴、この時、松浦武四郎(三重県出身・北海

2018・10・7

山根兼昭さん

「安政の大獄・160年祭」その2

 

頼三樹三郎と江馬細香

 

頼山陽没後、江馬細香は未亡人となった梨影に姉妹のように接し、励ましました。そして遺児となった支峰や三樹三郎は、細香を叔母のように慕ったのであります。

 江馬細香の筆塚
 江馬細香の筆塚

道の名付親)と知り合います。

 

嘉永2年帰郷、ペリー来航後、尊王攘夷論を唱え、星巌や梅田雲浜らと連動したため、官憲に追われている身となり、一時大垣にて小原鐵心、細香らが匿ったのですが、安政の大獄で捕らえられてしまうのであります。

 

この間、細香に度々書簡を送り、詩の添削を依頼しております。

その後、梨影は安政2年9月17日43歳で没、三樹三郎は安政6年10月7日、安政の大獄で刑死、35歳。

江馬細香その2年後(文久元年)9月4日、75歳没

 

江馬細香「湘夢遺稿」の絶筆

 吾ガ年 七十四  情味 灰ヨリモ冷ヤカナリ

 病ヒ無キニ 身ハ仍ホ痩セ 綿衣窄ク裁タント欲ス 

   (門玲子著・江馬細香、湘夢遺稿参照)

 

(感想)細香は山陽没後29年生きますが、晩年、梨影、三樹三郎に先立たれてしまいます。しかし死の直前、山陽先生の命日よりは20日早いが、これで先生の下へ行けると喜んだと言われております。何かすべてが終わってしまった感じですが、三樹三郎の160年祭にちなんで、その存在を回想しました。

 

東京回向院の頼三樹三郎の墓「鴨崖墓」と刻されている。 写真/頼山陽ネットワ一ク
東京回向院の頼三樹三郎の墓「鴨崖墓」と刻されている。 写真/頼山陽ネットワ一ク

2018・10・2

山根兼昭さん

「安政の大獄・160年祭」

*吉田松陰・安政6年10月2日(1859・10・27)

江戸小塚原にて斬首。

 辞 世        吉田松陰

吾 今 国の為に死す 死して君親に負(そむ)かず

悠悠たり 天地のこと 鑑照 明神に在り


注)刑死の7日前に、獄中から郷里に送ったものである。その気概は正に鬼神をして哭しむものがある。

 *頼三樹三郎・安政6年10月7日(1859,11,1)江戸小塚原にて斬首。

 

 獄中作      頼三樹三郎

雲を排し手ずから 妖熒(ようけい)を掃わんと欲し 失脚墜ち来る江戸の城

井底の痴蛙(ちあ) 憂慮に過ぎ 天辺の大月高明を欠く

身は鼎穫(ていかく)に臨んで家に信無く 夢は鯨げいを斬って剣に声有り

風雨多年 苔石の面 誰か題せん日本の古狂生

(大意)雲を押し分け、怪しい妖星を自ら取り払わんとしたが、事ならず、失敗して、江戸の地に墜ちてしまった。考えれば、今の為政者たちは、見聞の狭い、井戸の中の蛙に等しく、憂慮する事ばかりである。自分は今、刑に処せられようとしているが、家郷の妻子との音信もたたれて、実に断腸の思いである。しかし我が志はいよいよ高く、夢の中で悪人どもを切り捨て、一剣は高くなるのを聞く夢であった。自分はこれから刑場の露と消えるけれども、やがて幾年月を経て風雨に晒され、苔むした墓石の面に、「日本の古狂生」と題して我を弔ってくれる者がいるであろうか。

 

(感想)この時、三樹三郎35歳、同日に福井藩士・橋本左内26歳も処刑されてしまったわけです。前の老中、阿部正弘がもう5年生きていれば、幕末の才能が守られたと思いますが、歴史にタラレバはないですね。

 

 初めて裾野まで見えた富士山
 初めて裾野まで見えた富士山

東京駅から役10分御茶ノ水駅で下車 神田川にかかる聖橋の向こうに湯島聖堂が見える。ありがたい雰囲気(良い気)が漂っている。

(ような気がした)

曲阜に子貢が植えたとされる槐の木の子孫
曲阜に子貢が植えたとされる槐の木の子孫
 日曜公開の大成殿
 日曜公開の大成殿
 孔子像 大成殿内部
 孔子像 大成殿内部

2017・11・13

石村良子代表「湯島聖堂」

 

結婚式で東京に 明くる日湯島聖堂に行く。

 湯島聖堂
 湯島聖堂
 孔子像
 孔子像
 昌平坂と説明版
昌平坂と説明版

 昌平の名は、湯島聖堂に祀ってある孔子の生まれた中国魯の国の昌平郷にちなんでつけられた。

 


ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

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 紀行エッセイ

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