宣伝になって恐縮です。日清戦争に至る広島市の知られざる歴史を知りたい方はは必読。見延典子著『汚名』(本分社)
2017・7・31
「頼山陽文徳殿」を考える⑤御便殿
堀尾哲朗さんのコメント
御便殿の記載は誤りとおもい、私の考えを添付ファイルで送ります。御便殿は帝国議会の中に造られた、天皇の控え室でした。帝国議会場が解体され、天皇に関係する施設として比治山に移されたものです。日清戦争時に、天皇の休息場所として比治山に造ったものではありません。
堀尾哲朗さんへ
私は自分が書いた文が誤りとは思いません。しかし誤解されては困りますので、以下のように改めます。
元の文
明治27年、日清戦争で広島市が兵站基地になった際、明治天皇の休憩所として建てられたもので、その後、この地に移築され、原爆で倒壊したそうです。
改めた文
明治27年、日清戦争で広島市が兵站基地になった際、明治天皇の休憩所として帝国議会仮議事堂の東側に建てられたもので、その後、比治山に移築され、原爆で倒壊したそうです。
ところで堀尾さんが送ってくださった図面にもあるように、「御便殿は帝国議会の中に造られた」(堀尾さん)のではなく、東側に独立して建てられています。渡り廊下で結ばれていますけどね。その後「御便殿」は払い下げられ、左右の部屋を含めて全体を移築したのでしょう。仮議事堂そのものは解体されました。
次回こそ「頼山陽文徳殿」について書きます。
2017・7・30「頼山陽文徳殿」を考える ➃グランマさんに答える
バッターボックスに突っ立ったまま、次々に飛んでくるボールを右翼側、左翼側と打ち分けている見延典子です(笑)
まずは直球をバットの芯で打ちたいと思っているのですが、その前のグランマさんにお伝えしたいことがあります。
「山陽文徳殿」を考える③
ー広島市はいつから戦争という言葉をつかわなくなったのかーそれは、広島が軍都となった歴史にさかのぼるのではないか?
広島市が比治山を「平和の丘」として整備する構想を出したとき、初めて陸軍墓地の方まで足を運んでみた。美術館がある方と違って、南に延びた尾根は広島の負の歴史を感じさせる空気が漂う空間であった。(単一なる平和の丘ではくくれない・・)
「博愛」という一語で、過去の不幸な事実を包み隠してはいけない。明治以降の広島のたどった歴史的役割、そして責任・・・宇品港を見下ろすことのできるその場所に立つと、戦争に巻き込まれた軍都広島の責任がのしかかる。原点の歴史を踏まえないで、どうして「平和の尊さ」が子孫に伝わるでしょう。
「頼山陽文徳殿」があらためて活用されるのであらば、その歴史価値から一考されることを願います。(それぞ、山陽さんの本望では?)さらさらコンサートなど催すところではないと考えます。
上の2枚の写真は広島県立文書館が
ネット上で公開している絵葉書
ですが、広島市発行の比治山「平和の丘」基本計画概要版ではまったく触れられておらず(写真右)、一般市民はわかりにくいと思います。
上記がグランマ三のご投稿です。
実は比治山公園の現代美術館がある方角にも「広島の負の歴史を感じさせる空気漂う場所」があるんですよ。「御便殿広場」です。
御便殿? なにそれ? と思われたら、左の写真をご覧ください。明治27年、日清戦争で広島市が兵站基地になった際、帝国議会仮議事堂の東側に明治天皇の休憩所として建てられたもので、その後、比治山に移築され、原爆で倒壊したそうです。
長くなりました。当初の主張の通り、比治山は片側だけでなく、全体が「戦争の丘」であることをご紹介したかったまでです。
それと私は「山陽文徳殿」でコンサートを催すことには賛成ですよ。
ただ、福山雅治や浜田省吾を被爆二世だからと特別扱いするのは反対です。まずは被爆問題にまったく関心のないエレファントカジマシあたりを招いてはいかがでしょうか。
…明らかに三振したようなので、出直します(汗)
2017・7・25
「頼山陽文徳殿」を考える③
堀尾哲朗さんに答える
頼山陽文徳殿の問題は思いのほか反響が大きく、グランマさんに続き、堀尾哲朗さんからからもご意見が寄せられ、コメント欄に載せた。
堀尾さんはウイキペディアを検索した上で、原爆投下後の頼山陽文徳殿の歴史の一端を紹介し、「見延先生のご意見は、正当と思いますが、被爆建物として活用される中で、この建物を多くの市民に知って貰うことが、まず大切と思います」と書き、
「結論 まず山陽文徳殿を改修・公開することで、誰もが活用できる、市民の教育の場となる中で、頼山陽を少しずつ知って貰う努力が必要と考えます」としている。以下、ご投稿全文。
頼山陽ネットワークを拝見しています。
頼山陽文徳殿については詳細が分からず、ウイキペティアを検索したところ、歴史の概要が書かれていました。それを読んで、現在の私の考えを少し書いてみます。
原爆投下後、広島市役所の出先機関、浅野図書館として使用されていたようです。しかし昭和30年以降、使用の実態は書かれていません。そして今日まで、荒れ放題の建物でした。 誰の責任なのでしょうか? 今回の市の計画で、比治山一帯の再開発により、建物が再び活用される事は嬉しいことですね。見延先生のご意見は、正当と思いますが、被爆建物として活用される中で、この建物の歴史を多くの市民に知って貰うことが、先ず大切と思います。
我々は頼山陽を尊敬し、広島が生んだ偉人と考えていますが、一般の人は広島を棄てて京都に走った人物とも考えているかもしれません。頼山陽史跡資料館も「刀剣展」「ひな人形展」「南画展」ばかりで、頼山陽の考えをもっと知って貰う努力が必要でしょう。頼山陽の「日本政記」や「通議」「日本楽府」 更に頼春水の学問所での役割、役人としての頼杏坪の庶民のための活動を通して、頼山陽の実像を知ってもらう努力が必要と考えます。
結論
先ず、山陽文徳殿を改修・公開することで、誰でもが使用できる、市民の教育の場となる中で、頼山陽を少しずつ知って貰う努力が必要と考えます。
つまり被爆建物としてでもいいから、山陽文徳殿を整備、公開し、広島市民が活用していく中で、頼山陽のことを知って貰うように努力する必要がある、ということのようだ。
しかし逆に堀尾さんにお伺いしたい。山陽文徳殿を多くの人に知って貰い、頼山陽を少しずつ知って貰う「努力」が必要…、その「努力」をするの言葉の主語はいったいどなたなのでしょうか? 堀尾さんですか? それとも広島市ですか? ひょっとしてウイキペディア?
「頼山陽とは何か?」という命題を解くのに山陽文徳殿ほどふさわしいテキストはないと私は考えています。然るに、堀尾さんが拠り所としているのはウイキペディアだという現実があります。私はこれからウイキペディアには書かれていないことを書こうとしています。
再度、スタートラインに立ってもいいですか?
見延典子
2017・7・27
「頼山陽文徳殿」を考える② 「戦争」が消えた街 広島市
コメント欄でもご紹介した通り、グランマさんから以下のようなご投稿をいただいた。ありがとうございます。
「頼山陽文徳殿」を考える①について
比治山公園「平和の丘」構想(広島市による)によって、「頼山陽文徳殿」の存在意義が埋没されてしまうのではないか?という見延さんの危惧に全く同感です。単なる被爆建物の範疇に区分けされしまうのは、反対です。頼山陽ネットワークとしてこの際、文徳殿の設立趣旨、そしてあの独特の建物がいつ、誰の手で何の目的で建てられたのか(私も勉強不足で知らないのですが・・)、建物の中には何があるのか、再認識していただくよう広島市企画室に働きかける必要があるのではないか—と思います。
「頼山陽文徳殿」が建てられた背景を知ることによってこそ、その活用の仕方が解ってくるのではないかと考えます。
文徳殿について書く前に以前から気になり、かつ今回広島市発行の「平和の丘構想」のパンフレットを読んで感じたことを書いておきたい。
それは「広島市はいつから『戦争』という言葉を使わなくなったのか」ということである。少なくともこのパンフレットには「戦争」という言葉は一度も使われていない。「陸軍墓地」の説明にさえも、である。
このようなことを敢えて書くのは、今までもそうであったように、今後も頼山陽文徳殿について書く際は、「戦争」という言葉を繰り返し使うことになるだろうと思うからだ。
見方によっては「戦争」という言葉を回避しているようにも、「戦争」という言葉を「被爆」という言葉に置き換えようとしているようにも感じられる広島市の姿勢が、「頼山陽文徳殿=被爆建物」という発想につながっているのではないか。
もちろん続きます。
その際、わたくし見延典子は「気になるのは、山陽文徳殿を改修する目的として『被爆の実態を伝える見学会の会場に使えるように』とある点。そのような目的で使用できる既
2017・7・25
「頼山陽文徳殿」を考える①
単なる被爆建物にしないために
広島市が被爆70年まちづくり先導事業として打ち出している「比治山公園『平和の丘』構想」。その中に「頼山陽文徳殿」の改修が入っていることは2月7日付けで紹介した。
存の施設は広島市内には多数ある」と記したが、広島市企画総務局企画調整部政策企画課が今年3月発行の「比治山公園『平和の丘』基本計画」というパンフレットを改めて読むと、このままでは「山陽文徳殿」が単なる被爆建物の範疇に区分けされてしまいかねないという危惧、というか危機感に近いものを覚える。
というのもそこには「頼山陽文徳殿 昭和9年に頼家一族の墓地に隣接する地に建設され、昭和20年の原爆の惨禍に見舞われた。頼山陽文徳殿を被爆建物の見学会や被爆樹木の説明会など、被爆の実相を伝えるとともに、演奏会などの市民活動の場としても活用します」と明記されているからだ。
頼山陽文徳殿が「被爆建物」であることを否定するつもりはない。だが結果として「被爆建物」になったのであり、建てられた目的にこそ頼山陽文徳殿を後世に伝えていかなければならない本当の意味がある。おそらくその辺りを広島市の皆さんはもちろん、広島市の担当部局の皆さんもわかっていないのではないか。
戦後、頼山陽は広島市においても顧みられることはなかった。もちろん頼山陽文徳殿の歴史的意味など、ごく少数の人々を除いて考えようとしなかった。その結果が「頼山陽文徳殿=被爆建物」というあまりにも短略的な発想につながったのではないか。
続きます。
2017・2・26
広島県令「千田貞暁」を描いた映画
2月25日付中国新聞で、広島の宇品築港を主導した千田貞暁を描き、1945年5月に公開された「生ける椅子」(大映 主演坂東妻三郎)の複製DVDを地元の千田翁遺徳顕彰会が入手したことを伝えている。
もっとも実際に入手できたのは80分の作品のうちの7分間だけという。
拙著『汚名』では千田貞暁をモデルとする男性を登場させた。なぜ千田が私財を投じてまで宇品港をつくろうとしたのか。それは千田自身が書き残しているように広島の産業を振興させるという目的だけであったのか。
明治27年の日清戦争では、すべての兵士や物資は宇品港から戦地の朝鮮半島に送られた。日露戦争もそれに近い。二つの戦争に勝ったことが当時の「国益」というなら、そうかもしれない。
千田は宇品港落成の直前、新潟に転任になったと左遷のように書かれることが多いが、『呉市史』には宇品港の落成式と同じ日に行われた呉の鎮守府開庁式に千田が出席したと書かれている。これは何を意味するのか。
千田貞暁が広島に着任した明治13年から、宇品港が開港する明治22年まで、日本史レベルまで視野を広げてこの問題を見つめ直せば、自ずと答えは出るだろう。
まず2017年度はまんが図書館前の広場に屋根を設置、老朽化に伴う陸軍墓地の礼拝堂を取り壊す。頼山陽文徳殿の改修(空調と屋外トイレの設置)は同年設計して、2018年度に工事をする。予算案として4000万円が計上された。
(2月7日付中国新聞 写真も)
2017・2・7
比治山「平和の丘」構想着手へ
2年前に広島市がうち出していた比治山「平和の丘」構想。2017年度から着手するという。
気になるのは、頼山陽文徳殿を改修する目的として「被爆の実態を伝える見学会の会場に使えるように」とある点。そのような目的で使用できる既存の施設は広島市内には多数ある。
なぜ頼山陽文徳殿のような建物が建てられたのか、なぜ陸軍墓地が作られたのか、そしてなぜ頼山陽文徳殿も陸軍墓地も顧みられなくなったのか、という点を検証し、歴史を語り継いでいかなければならない。
広島市が掲げる構想の名称は「平和の丘」というより「戦争の丘」のほうがふさわしい。平和という名のもと、戦争の実相がさらに薄まっていくことを危惧する。
「頼山陽ネットワーク」公式ホームページ会員の桑野恭彬さんによれば、昭和5年頃の地図には陸軍墓地は載っていた(下の写真)
もちろん現在、ヤフーやグーグルの地図にも載っていない。いったい何があったというのだろうか。
2016・8・15
地図から消えた墓地
先日、比治山にある陸軍墓地を参った。広島市民でもこの墓地を知らない人は少なくない。
ところが昭和58年頃の地図からは陸軍墓地の記述が消えている。(下の写真。いずれも桑野さん提供)
この日は数人の男性グループと2人の男子高生に会った。男子高生は近くに住み、小学生の頃から参拝に訪れていると話してくれた。
上の略誌を読めば、昭和39年までの経緯がわかるが、それからさらに半世紀が過ぎている。
あくまで個人的な感想ではあるが、この墓地に来ると、戦争で名もない兵士が死ぬということがどういうことなのか、わかる気がする。
比治山を下り、平和公園近くにさしかかると、多くの街宣車。最高気温は35度。暑い日だった。