2017・5・31 山田淳一さん
「頼杏坪『遊石稿』と頼春水の『高角行程図記』筆写の時期など」後編
さて、杏坪はこの紀行を兄春水に示して正を求めたが、春水はこれを友人中井竹山に示し、竹山これを見て「健筆縦横、琳瑯目ニ萬ツ」と感嘆し、杏坪の学殖を認めたという。
光本鳳伏口述・山崎南岳筆記『山陽先生の幽光』(芸備日日新聞社刊、大正十四年、一九〇頁)に、竹山の(春水への)返書なるものが掲載されているので次に掲げる。
積善(竹山)拝覆、千秋(春水)尊兄座下、令弟(杏坪)遊石ノ紀稿ヲ受ケ讀ムヲ得テ、健筆縦横、琳瑯目ニ萬ツ、所謂難兄弟ナルモノ實ニ敬嘆スベキナリ、積善昨日泛舟賞月ノ約アリ、午後出ルニ臨ンデ貴諭を領シ斯稿ヲ示シ及ハレ且命スルニ指摘ノ擧ヲ以テセラル、是豈敢テ當ランヤ、又承的便甚ダ急ニテ明日ヲ出デズ、若他冗アラバ必トセズト、昨夜還レバ四更、▲(酉偏に垂)▲(石偏に匋)少ナカラズ、(中略)愚ノ令弟ヲ見ル猶ホ尊兄ノゴトクナレバ何ゾ必スシモ不遜ヲ飾リテ貴意ノ懇到ニ負カンヤ、故ニ又冗ヲ撥シテ草々疏出シ、固陋ヲ忘レテ千慮ノ一得アランコトヲネカフ者左ノ如シ、幸ニ狂妄ヲ恕セヨ
八月既望
積善拝復
千秋尊兄 侍史 (傍線筆者)」
この書翰の日付は「八月既望」となっているが、頼祺一先生の『近世後期朱子学派の研究』(溪水社、一九八六年)の「資料編 頼春水在坂期書簡」に拠れば、安永六年の六月十四日と見られる書翰に、「右 千齢へ 高角行記ハ甲子ニして書込ミ可然候、日々掲候ニ及申間敷候、随分念入可被申候、後便必□□□候、片山、中井、尾藤へ見セ請正可申候、題□□□儀ハ別帋見可被申候、中井ノ手紙ヲ尾藤へ見セ候所未タ□ヘリ不申候」(同書・三八〇頁[書簡番号:35])という記述があり、また安永七年八月二日付の書翰の追啓に、「遊石稿ハ尾藤一見して片山へ遣し有之候、是ゟ中井へ遣候、可及浄書候」(同書・四四〇頁[書簡番号:73])とあって、これらの書翰から、
・「遊石稿」は、最初は「高角行記」と呼ばれていたこと、
・遅くとも安永六年六月十四日までには、初稿は杏坪から春水の許へ送付されていたこと、
・初稿中の日付について春水は、「甲子ニして書込ミ可然候、日々掲候ニ及申間敷候」と注意を与えていること、
・標題についても杏坪は春水に相談したらしく(「題□□□(「遊石稿」カ・筆者)儀ハ別帋見可被申候」六月十四日付)と述べられているが、安永七年八月二日付春水書簡では、既にはっきりと「遊石稿」と呼ばれていること、
・光本翁の報じている中井竹山の返書の日付「八月既望(十六日)」は、内容から見て竹山が「遊石稿」初見の時と思われることから、安永六年のことと推測されるが、安永七年八月二日付の書翰の追啓に「是ゟ中井へ遣候、可及浄書候」とあり、安永七年のことである可能性も全く否定することはできないが、恐らく、片山(北海)、中井(竹山)、尾藤(二洲)らの批正を受けた後、浄書を再び呈したのではなかろうか。ともあれ、安永七年八月中には竹山は「遊石稿」の浄書を目にしたであろう。
追記;亨翁一行の旅について、杏坪は「往還旬五」と書いている(「遊石稿」)。安永六年の三月は、旧暦では二十九日までしかなく、従って、亨翁一行は三月二十二日から四月七日までで、「15泊16日」ではなく、丁度「旬五」(14泊15日間)の旅をした訳である。付け加えておきたい。
「遊石稿」の訓・注はほぼ出来上がったので、S先生の批正を得ましたら30部ほど配布の予定です。
2017・5・30 山田淳一さん
「頼杏坪『遊石稿』と頼春水の『高角行程図記』筆写の時期など」前編
安永六(一七七七)年酉三月廿二日 石見國高角御社に詣奉らんととみに思ひ立て出でける」(「高角まうで」)――当時七十一歳の三頼(春水・春風・杏坪)の父頼惟清(享翁)は、歌聖柿本人麿を祀る石見国の人麿神社参詣の旅に出で立った。これに従ったのが四男(次男と五男は早逝)の杏坪(当時二十二歳)である。この時、亨翁は「高角まうで」という国文の和歌紀行(石村良子先生翻刻)を残しているが、杏坪は漢文で「遊石稿」という紀行を残した。従って、「遊石」の石は「石見」の意であり、「遊石稿」とは「石見に遊ぶ稿(紀稿)」の謂に他ならない。「高角まうで」と比べて「遊石稿」は若い杏坪の知的好奇心の旺盛さを反映してか、記述が詳細で具体的である。後に三次・恵蘇二郡の代官として民政に力を尽くす杏坪であるが、「山重壌乏、故民多作炭、女則製帋、帋炭皆入民税」と民に同情を寄せるところなどは、その片鱗を覗かせている。杏坪にとってこの旅は、見るもの、聞くもの、すべて新鮮であったに違いない。しかし、その興奮も分からぬではないが、兄春水は「随分念入可被申候」(安永六年六月十四日付春水書簡)と聊か揶揄しているようである。
さて、「遊石稿」を読んでいると、若干気になるところが一、二ある。一つは長兄春水が多賀庵風律の所から写し帰ったという「高角行程図記」の筆写時期についてである。
安永五年丙申〔一七七六年〕、春水は、父亨翁が七十歳となるので、その寿巻を作るべく諸方面に詩文を請い、それを集めて「引翼編」(原本春風館蔵)と名付けた。春水は、その寿筵(三月二、三日、於竹原)に列席するため、大坂から故郷竹原までを往還した。その日記を「引翼餘編」というが、この時、春水は、三月二十九日広島に向い、林堅良・茨原次らの歓待を受け、三日には多賀庵風律を訪い、七日には広島藩重職林愴洲(甚左衛門)と学談を行い、四月十日、帰家している。(頼惟勤著『頼惟勤著作集Ⅲ 日本漢学論集―嶺松盧叢録―』汲古書院、2003年、17-18頁参照)。多賀庵風律が六合とともに高角社に参詣した時(安永二年閏三月)作成した図を、春水が筆写した(「高角行程略図記」紙本墨書 一五・七×七六二・三)件ついては、頼桃三郎先生は、「父の七十賀宴のため大阪より帰省した春水は父の宿志である石州高角詣でについて風律にはかる所があった。翁はかねて石州の諸名勝の詳図を作り、その道路の険易に至るまで記入して後遊者の啓蒙に資する用意があった。春水はこの一巻を借り臨写して帰った、と杏坪の「遊石稿」は記して居るが、四月三日信宿の旅中にこの長巻を写し得たものか、或いは借帰って後にゆっくり大阪に於て模写したのか、おそらくは後者であろう。」(頼桃三郎著『詩人の手紙』文化評論出版、昭和四十九年、二一九頁)と、推測しておられる。
しかし、重田定一著『頼杏坪先生傳』(博文館、明治四十一年刊)の「附録」として収載(原本竹原頼俊直氏蔵)されている「遊石稿」十一頁には、「去年伯兄浪華自り歸り、壽を家庭に獻ず(亨翁の七十の雅宴のこと)。且つ某氏の招請に因りて遂に廣府に至る。適風律老人を問う。老人嘗て石の諸名勝を盡し、詳しく其の道路の險易を圖し、以て後遊の者を啓す。家兄臨み寫して歸る。家君高角に遊ぶの志有るを以てなり。」とあり、これをそのまま信頼するならば、春水はこの時、風律老人宅から「臨み寫して歸」ったと、杏坪は言っているのである。確かに四月三日の多賀庵風律訪問から七日の林愴洲(甚左衛門)との学談に至るまでの間の春水の動静については必ずしも明らかではなく、あるいは幾日か多賀庵宅に泊まり込んで筆寫した可能性も十分あり得るのである。
後編に続く
「旅猿ツア一」一行が訪問した4月18日は偶然、大礼祭の日。人麻呂は3月18日生まれたが、一カ月遅れで行われるそうだ。
創建は8世紀初め。その後本殿は文政5年、拝殿は明治29年に再建された。ただ、周辺のたたずまいは亨翁と杏坪が参詣に来たころとさほど変わらないのではないか。竹原からはるばる訪ねてきた父子は、どんな会話を交わしたのだろうか。
2017・4・25
戸田柿本神社
益田市には柿本神社が二社ある。
先に紹介した高津の柿本神社は人麻呂を祀る。一方、戸田にある柿本神社は生誕地に建てられている。
※旅猿ツアーの詳細は次号「頼山陽ネットワーク通信」でご紹介予定。ご参加の皆様と会員様に配信致します。
幹事をすると何かと気分が忙しく良い写真が取れなかった
あとから 参加者のMさんが杏坪の温泉津温泉の入湯記録を送ってくださる M家からは何でもでるようだ 温泉津は石見銀山の近くこの時杏坪67歳はひと月滞在したとか (写真右)
2017・4・23
石村良子代表「高角もうで」
今年の旅猿は頼山陽のお祖父さん亨翁の「高角もうで」 柿本人麻呂を祭る高津神社に続いて戸田神社に参詣
〇つのさはふ いわみの国の 岩間より いづる出湯は 千代にぬるまじ
頼杏坪
*つのさはふは枕詞 角障経
2017・4・20
柿本神社
安政6年(1777)3月22日、頼山陽の祖父頼亨翁(71)は三男杏坪(22)を伴い、安芸国竹原から15泊16日の旅に出る。目的は石見国高角にある柿本神社である。
「人麿公像」は平成に入って作られた(写真右)。拝殿の前で、宮司のご母堂から説明を伺う(写真下)
本殿(写真上)については、説明板に丁寧に書かれている(写真下)
亨翁は和歌を詠み、柿本人麻呂を敬愛していたことから、高角(現益田市)まで神社参詣の旅に出た。その様子は旅日記にして歌日記でもある「高津詣で」に残されている。
出立の日が太陽暦の4月18日に当たることから、頼山陽ネットワークでは顧問の頼祺一先生を講師に迎え、2017年4月18日34名の皆様と旅猿ツアーに出かけた。
宝物館にはゆかりの品々(写真下)
春の日 高角社宝前に侍る 詠二首和歌
頼亨翁
花
けふにあひてさくや高角山ざくらふかきいろ香を神に見るらむ
祝
あふぐさきちとせの後もさかへゆくこの神がきの松のことの葉