JR防府駅てんじん口
    JR防府駅てんじん口

2015・2・9

山口県防府市(三田尻、大道)

 

文政元年(1818)39歳の頼山陽は九州遊歴に出た。

 

その往復、現在の山口県防府市の三田尻や、JR防府駅からやや西に行った大道に立ち寄っている。

 

   この道も山陽道の名残であろうか
   この道も山陽道の名残であろうか

大道には上田堂山(少蔵、不昧)という土地の有力者がいて、山陽は往復、屋敷に泊まっている。

 

ただ、今回紹介するのは山陽ではなく、山陽の叔父の頼杏坪にまつわる碑である。

    正面から見た碑
    正面から見た碑
       碑の後ろ側
       碑の後ろ側

 天保3年壬辰正月(1832)とある。刻字はほとんど傷んでいない。
 天保3年壬辰正月(1832)とある。刻字はほとんど傷んでいない。

この地では蝮や蛇などの害があり、上田堂山が中心になり、それらを退治した話を、安芸に住む頼杏坪にまとめてくれるように頼んだようだ。

     「安芸 頼惟柔」
     「安芸 頼惟柔」
    「堂山・上田少蔵」
    「堂山・上田少蔵」

左の写真にある「頼惟柔」が杏坪のこと。天保3年、杏坪は78歳。

三次奉行を2年前に引退し、さらにこの2年後の天保5年、80歳で亡くなる。上田家と頼家との交流の様子がしのばれる碑である。


右の写真。「元治元年」という年号が見える。

 

左の石灯篭は歳月に磨かれ、堂々とした風格がある。


   碑の正面に広がる田園風景
   碑の正面に広がる田園風景
   背後の丘から眺めた風景
   背後の丘から眺めた風景

周辺には往時をしのばせる風景が広がる。

上田家の屋敷があったあたり。水路の脇には石段がある。


防府天満宮にも足を延ばした。



防府天満宮は大宰府天満宮、北野天満宮とともに三大天満宮に数えられる。

 

防府天満宮の大鳥居前は、萩往還と山陽道の分岐点であった。

 

山陽も歩いたのだろうか。

   防府天満宮から約3キロ
   防府天満宮から約3キロ

 

防府天満宮を出てほどなく「三田尻港」の標識に出会う。

 

案内に従い、海のほうへ行ってみるが、工業化が進み、かつての面影を感じさせるものは見つからなかった。

  かつては塩田で栄えたという
  かつては塩田で栄えたという
  現在は工場地帯が広がっている
  現在は工場地帯が広がっている

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

οο 会員募集 οο

 

「頼山陽ネットワーク」の会員になりませんか? 会費は無料。特典があります。

 

 詳しくはこちら