「池田学問所小伝」提供 / 池田町教育委員会
「池田学問所小伝」提供 / 池田町教育委員会

2016・6・10

頼山陽が「杉山巣雲の寿碑」碑文を書いた経緯

 

頼山陽が「杉山巣雲の寿碑」碑文を書いた経緯について「池田学問所小伝」(池田町)では以下のように紹介されている(要約です)。

 


杉山巣雲が学問所を預かり、40年がたったころ、1000余名の門人から「巣雲先生も65歳を迎えられたことだし、寿碑を建立しよう」という声があがった。弟子の内山真弓が中心になって、碑文を天下に名を知られた頼山陽に依頼することにした。

 

その頃、山陽は『日本外史』を松平楽翁公に献上して、得意になっていた。そうでなくてもいつも威張っている山陽だから、簡単なことで田舎の師匠のために碑文を書くようなことしないであろうと思われたが、真心をこめてお願いしたところ、文をつくってくれた。真弓の和歌の師匠は香川景樹であり、景樹の口添えがあったのでは、と考えられている。

 

ところが文政11年(1828)に建立された山陽の碑文は、なぜか平安陰士文翼によって書きなおされた。

 

やがて昭和43年になって山陽の書いた原文を用いた寿碑を建てようという話がもちあがった。新しい寿碑の除幕式には山陽ご子孫の頼惟勤先生もれ列席されたそうである。

 

 

2016・6・6

長野県北安曇郡池田町教育委員会さん杉山巣雲の寿碑 碑文 内容」

 

長野県北安曇郡池田町教育委員会さんが送ってくださった「杉山巣雲の寿碑」の写真。頼山陽が書いた碑文の全文は、「池田町の文学碑」というパンフレットに、以下のように掲載されている。長くなるので、なぜ山陽は碑文を書くことになったかは、次回、ご紹介する。

 

信濃に郷先生あり巣雲と曰ふ。名は茂樹字は瑞翼一の字は亮蔵松本藩の人なり。姓は杉山氏相模の土肥より出づ徹翁なる者あり。来って藩士松井氏の嗣となり所適を生む所適二男あり。先生はその少なり。天明中仕を辞し城西に隠居す。是に於て杉山氏に復す。城を距る七里の所池田村あり。村中の長老胥議り先生を招き、郷の童蒙に教ふるに小学を以てす。先生指導して捲まず四十年一日の如し。今茲文政戊子先生令六十五。寿碑を建てんが為に邑人某をして来って余りに銘を請はしむ。余之を拒んで曰く。今世の文士紀するに足らざる者に於ても轍ち石を立て文を彫る。軽浮に習ひ吾の常に鄙厭する所なり況んや其の人一面の素無し安くんぞ能く之を状せんやと、其の曰く先生の我が郷に来りてより風俗日に敦厚に趨き人々非をなすを愧づ蓋し先生の化の致す所にして唯に童子の師たるのみにあらざるなり。故に相与に謀り後の人をして風に自って継ぐべきを為すを知らしめんとするなりと。余襟を正し危座して曰く。苟に然れば余安くんぞ敢て為らざらんやと。乃ち之が銘を為る曰く。隠れて而も事立つ仕ふるを必せず。芸と行と併せ化閭里に被むる紅塵の市に据り烏合の士を教ふ吾若人に於てや愧づること有り文政十一年歳戊子に在り春正月山陽外史頼襄撰幷びに書 昭和四十四年四月建立

 

 

2016・6・2

長野県北安曇郡池田町教育委員会さん

杉山巣雲の寿碑 碑文写真」

 

長野県北安曇郡池田町教育委員会さんに、頼山陽の真筆が使われているという「杉山巣雲の寿碑」碑文の写真をお願いしたところ、わざわざ写しにいって、送ってくださった。

ありがとうございます。

「碑面が鏡面のためストロボの有無に関わらずかなり反射してしまい、3方向からの撮影となってしまった」とのこと。


残念ながら原本は残っていないという。

 

なぜ山陽は碑文を書くことになったのか。その経緯について書かれた冊子(写真)も送ってくださったので、次回ご紹介しよう。

 

 

昭和44年、頼山陽の真筆をそのまま使って建てられた杉山巣雲の寿碑。
昭和44年、頼山陽の真筆をそのまま使って建てられた杉山巣雲の寿碑。

 

杉山巣雲は、天明8年(1788)に池田町に創設された庶民の子弟の教育機関「池田学問所」の初代の師匠として招かれ、以来40年余り池田の児童教育に尽力した。教育者。天保5年(1834)71歳で没。

 

池田八幡社境内には、2基の巣雲の寿碑が建てられている。文政11年(1828)に建てられた古い碑は、巣雲65歳に時に門弟たちにより建てられたが、碑文さえはっきりしないような状態になっている。そこで新しい碑は頼山陽に書いてもらった碑文を真筆のまま刻んで昭和44年に建てたものである。

 

以上はすべて池田町ホームページからの要約である。ご協力くださった同町ご担当者様、ありがとうございました。

2016・5・26

長野県北安曇郡池田町教育委員会さん

杉山巣雲の寿碑 碑文は頼山陽」

 

長野県北安曇郡池田町に頼山陽に関連する碑があるのを知った。同町に連絡すると、写真3葉を送ってくださった。杉山巣雲(そううん)の碑がそれで、碑文には山陽の真筆がそのまま使われているという。

2葉の写真は文政12年建立の寿碑。
2葉の写真は文政12年建立の寿碑。

頼山陽と杉山巣雲と交流や、山陽が書いた碑文の内容など、わからない点がございます。お心当たりの方はご連絡くださいますようお願い申し上げます。

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

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