2021・9・30 石村良子代表 → 久保寺辰彦さん

「水西荘、山紫水明処…菅茶山の手紙から推測」

 

色々お調べ下さり有難うございます。

山紫水明處の件の現在の疑問2点

   いつから有るか  頼山陽ネットワーク事務局は転居時を採用

   誰が建てたか

であると思います。

①は久保寺様も同意でしょうか

   ですが、以下石村の見解です

頼山陽書簡集上巻、茶山への手紙に少陵院浣花草堂と申候(杜甫の草堂)

…塾なども建て添え、庭園なども余程拵え候て

とありますので、何がしかの建物が在ったと推察しました。塾生も

寄宿者がいたようです。山紫水明處は,

A元あった亭を改装した。母屋への廊下、2畳の水屋等もです。

B全部建てたとすれば、当時の100両でどのくらい出来たのか不明です。今までのところ、断定はできません。引きつづきお調べ宜しくお願いします。

 

2021・9・29 久保寺辰彦さん → 石村良子代表

「水西荘、山紫水処処も山陽の普請では?」

 

葉の久保寺です。

山陽の最終居住地である東三本木の水西荘と山紫水明処は、いつ頃建てられたかについて引き続き調べ、考えてみました。

上の右側の書簡は、文政546日に春風に宛てたものです。左が同じく文政51119日に江馬細香、村瀬藤城に宛てた書翰です。119日に移転しているので、入居直後の書簡になります。

46日の書簡に「家を思様に建候て」「三本木と申に、一区空地有之」とあり、1119日に「空閑之地有之家建仕」とあります。「空地があるので、家を思う様に建てたい」「空地があったので建てた」とあることから水西荘も現存する山紫水処も山陽が普請させたと考えられないでしょうか。

前回、私は移転時にはすでに水西荘も山紫水明処もできていて、いわゆる建売を買ったのかと考えていましたが、この書簡をみると土地を見つけてそこに建てたように思いますがどうでしょうか。

 

2021・9・25 下村孝夫さん「山紫水明処の説明書」

 

十年ほど前に頂いた「山紫水明処」の説明書が出てきました

「山紫水明」を愛でるにしても何故か頼山陽には月見の宴が似合わなく感じるのは私だけだろうか。「動」と「静」で云えばやはり月光が映えるのは川面ではなく池面であることを想像する。つまり、同じ「山紫水明」を語るにしても消えゆく「陽光」を取るか、出でくる「月光」を取るかの感性が求められる。多彩な頼山陽が求める景色は我々に色々な解釈を教えてくれますね。

 

2021・9・14 石村良子代表「三本木の家」  

 

頼杏坪「十旬花月帖」(文政十年)より

私は三月上旬、京都へやってきた。甥の襄の家に、世話になった。この家は三本木にある。鴨川に近く、川の向こうに、東山の名勝地区を望むことが出来る。正面には如意岳があり、比叡山からも,遠くは離れていない。襄は、柳の木を、数本植えており、これがよく繁って,いい木陰を作っている.木には,わたが多く、花も少なからずある。それぞれ、いりまじって開いている。別の所に、小さな座敷を構えている。水際にあって、景色を眺めるのに都合がいい。お客があれば、簾をあげて、手すりに寄りかかり、酒や茶を飲む。談論風發、その楽しさには、限りがない。しかし、外出ばかりしていて、家にあまりいなかったので、詩が十分には作れなかった。今帰国するにあたって、できた詩のいくつかを、ここに、記録しておくものである。 

  数樹垂楊覆草檐  東山隔水列青尖 

幽窓打着閑唫士  不害隣楼阿鵲塩

 (読み下し)

数樹の垂楊草檐を覆う   東山水を隔てて青尖を列す 

幽窓打ち尽くす閑唫の士  害せず隣楼の阿鵲塩

 (大意)

数本の柳の垂れさがった枝が藁ぶき屋根の軒を覆っている。川を隔て

て、東山の青い峰が連なっている。

ひまつぶしに詩を捻っている此の人は、静かな窓辺を離れない。隣の二階屋から、お祝いの唄だろうか賑やかな音曲がきこえてくるのも気にしない。(織田俶明記)

2021・9・10 

石村良子代表→久保寺辰彦さん

「山紫水明處の

      ガラス窓なども・・・」

 

早速、いろいろお調べ下さり有難うございます。


水西荘については、新刊でも重要地点に定め、ご指摘の件含め移転時からのいきさつを掲載予定にしております。小出しにしますと、水西荘はもと料亭の跡地に建てられた売家で、山陽が塾など建て増し、改築(建物だけ購入100金かかったとあります。現在の1000万位)したものです。持ち主も変遷して、改築がされたと想像しております。

現在ある山紫水明處のガラス窓なども江戸時代に山陽が板ガラスを購入したこと考えられず(板ガラスの歴史をご覧ください)後からのものだと思います。

文政6年正月、山陽の春風の手紙に「別邸これあり、水に臨みて佳に候、是に逗留なれば、幾百日にても苦しからず」とありますから、初めからそれなりの体裁であったと思われます。(以上は木崎愛吉の頼山陽全書の記事です、この水亭を山紫水明處と明記していますので、資料を積み重ねる内、文政11年説から変更したようです)

残念に思うのは、多くの論文、書籍(中村眞一郎まで)が文政11年説をとっていることです。初めから有ったのと、文政11年では5年あまりの差があり、思想に違いがあるのではと勝手に思います

山陽が好みで作ったことに岡田博士ほど(改装はしたはずです)ロマンを感じません(笑)

 

        頼山陽ネットワーク内 ミステリーハンター良颸

 

2021・9・9

久保寺辰彦さん→石村良子代表

「確かに、山紫水明処は文政11年以前に・・・」

 

石村良子代表へ

 

詳しい説明、ありがとうございました。私も調べてみました。確かに山紫水明処は、文政11年以前にあっ


たのではないかと思える資料があります。例えば『頼山陽書簡集 上巻』631ページのタイトル「水西荘(其五)」は、文政613日に叔父の春風へ書き送っていますが、次のように書かれています。

「(本文略)尚々、小生移居之義、(中略)今春、母上々京之義勧遣申候、御一所にて誰ぞ御連被遊候はゞ妙と奉存候。私方は別亭も有之、臨水候而眺望も佳に御座候。(後略)」

これはまさに、現存する山紫水明処のことを言っているように思えます。また、杏坪も文政10年に梅颸と上京した際、次の賛を残しています。これは昭和573月に日本橋の三越美術館で開かれた「没後百五十年 頼山陽展」の図録に収められています。

「余 此歳(文政10年)三月上澣 京に入りて自り 家侄襄の僑居に寄食するに(中略)花卉も亦た尠なからず 別に小亭を置き 切りて水湄に在り(後略)」

仮に、現存する山紫水明処が転居した当時からあったとすると、山紫水明処を設計したのも頼山陽ではない可能性がありますね。

 

設計は勿論、材質選びも頼山陽がこだわったとする説明を見たことがありますが、事実はどうなのか、これからも調べていきたいと思います。今後ともよろしくお願い致します。

 

2021・9・8

石村良子代表→久保寺辰彦さん

「頼山陽ネットワーク事務局は『文政5年説』」

 

久保寺辰彦様

ブログを読んでくださり有難うございます。


現在 頼山陽ネットワークは『頼山陽 全国史跡&詩碑めぐり(仮題)』を出版するべく 色々調査しております

 

お尋ねの「山紫水明處」(現存する建物に限定)がいつ建ったのかは2説あります。イロハ二はそれぞれの研究者の見解です。

 

    文政5年  水西荘が建った時にあるとする

    文政11年 書斎三面梅花處が山紫水明處であるとする

 

イ、木崎愛吉(好尚)「家庭の頼山陽」出版明治年間 

   → 戦後「頼山陽全書全伝」① 但し本人明記なし

ロ、坂本箕山  「頼山陽」

ハ、岡田孝男  「史跡頼山陽の書斎 山紫水明處」

       財団法人頼山陽旧跡保存会 パンフレット

  ニ、頼山陽ネットワーク事務局  

 

頼山陽ネットワーク事務局が    とする理由   

頼山陽全書詩集の文政6年に 於山紫水明處 の詩がある。

取手市の、山陽揮毫の書に甲申秋杪(文政7年)於鴨水山紫水明處とある他に「梅颸日記」も参考にしました。

 

文政11年建った書斎三面梅花處は現在失われており、考察中です。

ご指摘の通り殆どの本、ブログ、京都市がの説をとっております。 

「ハ」のパンフレットが山紫水明處で売られているせいかと想像します。

 

以上は『頼山陽 全国史跡&詩碑めぐり(仮題)』の記事の一部です。この本はしばしば紹介しているように頼山陽ネットワークの総力をあげ、今までにない「頼山陽」の本とするべく日々編集作業を進めております。お尋ねの「木屋町の川座敷を山紫水明処と名付けたとする資料はあるのでしょうか」についても触れています。ご期待ください。

 

久保寺様、皆さま、頼山陽に関して既存の情報にとらわれない新情報があればお知らせください。よろしくお願い致します。

 

            頼山陽ネットワーク代表 石村良子  

 

 

2021・9・8 

久保寺辰彦さん「山紫水明処はいつ頃、建てられたか?」

 

いつも拝見しています。千葉の久保寺です。

石村良子代表の「山陽と光格天皇②」を読んで、山紫水明處について質問いたします。


石村代表は、「左の書が興味深いのは「甲申秋杪、於鴨水山紫水明處」とある所。山紫水明處が文政十一年前にあった事だ。」書いておられます。しかし、一般的には水西荘の敷地内に山紫水明處が建てられたのは、文政111月とされているようです。そこで見延さんの「頼山陽」を読み返しました。見延さん本には文政2年九州旅行の帰りに母と入京した年に「東山や鴨川の展望が良いため」(『頼山陽』中巻111ページ)「木屋町二条下ルにある柴屋長次郎という人の川座敷を借りて」(同巻、同ページ)そこを、「山紫水明処と名付けた」(同巻405ページ)とあります。

しかし、東三本木丸田町の水西荘に転居するのが文政511月、そこの東南に4畳半と2畳の別邸を文政111月に建て、それが現在も保存されている「山紫水明処」だと言われています。

木屋町の川座敷を山紫水明処と名付けたとする資料はあるのでしょうか。また、一般的に言われている山紫水明処はいつ頃、建てられたのでしょうか。御教示していただけたら幸いです。

 

2021・9・2

 石村良子代表

 

「山陽と光格天皇②」

 

「頼山陽全書」には、光格天皇御幸について山陽の言葉が出ている。御幸前日9月20日常陸取り手在の豪農海老原喜右衛門が山陽宅に何よりの老父への土産にと揮毫を所望に訪れた。折しも母に孝養中の山陽は 書斎まで導きいれ「私事も、国元より母人上り居り候、何かよろこばせ度、日々存じ居り候、親を喜ばしむるは、その好む品より,外にはこれなく候さゝ何なりともお出しなされ度 と先生至極のご機嫌にて、少し眼中に泪をさえふくまれ候様に相見え候」 さらに御幸拝見は如何と問い「御幸は後白河法皇の時に御座候いし以後,誠の御幸、これまでなく御座候,百五十年前三代将軍上洛の節、、御幸の形御座候も、本式にはこれなく候、この度は、古典、古礼、古法式の通り、段々お調べにて典礼の書も散乱いたし居り候を漸く綴り合わせての御幸に御座候間、古の太上天皇御幸通りに御座候。然れば、源平の乱後、これ無きことにて実に珍しき事に御座候」ただただ京中は御幸の話ばかりに御座候と記している。

取手市教育委員会所蔵 山紫水明處が文政十一年前にあった事だ


山陽も御幸に興奮、揮毫料もいらないと断っている。揮毫の書は「待母津城」三月大坂へ母を出迎えに下った時の七絶であった。左の書が興味深いのは「甲申秋杪、於鴨水山紫水明處」とある所。

民家に埋もれているという印象 川向こうの鳥料理専門店で様子聴いても「そんなん有りましたかね」状態

 だが山の景色は今も昔も変わらない三条大橋河畔に高山彦九郎皇居望拝之像がある  

 山陽の通った三条の骨董通り
 山陽の通った三条の骨董通り

2017・10・9

石村良子代表「山紫水明処」

 

山紫水明処を訪れる と言ってもこの度は内部の見学は申し込んでいないので 鴨川からの写真のみ

 山紫水明処 
 山紫水明処 
 看板明治初期ごろの丸太橋からの眺め
 看板明治初期ごろの丸太橋からの眺め

頼山陽「高山彦九郎伝」の中 三条橋の東がわで、皇居はどちらかと人に尋ねた。聞かれた人は、あちらだと指さした。正之はそのまま地面に正座すると、その方角を伏し拝んで言った。「草莽の臣、正之でございます」

 

 

 


第一部の設え(撮影:荻野)
第一部の設え(撮影:荻野)
第一部『床』の荻野(右から3人目)と  島村幸忠(左)(撮影:高橋保世)
第一部『床』の荻野(右から3人目)と  島村幸忠(左)(撮影:高橋保世)

 

荻野NAO之写真座談展『Λ』を通じて 

2017・6・19

荻野NAO之さん

「山紫水明処で写真座談会」

賴山陽所縁の酒器(撮影:高橋保世)
賴山陽所縁の酒器(撮影:高橋保世)
 第二部『山』風景(撮影:荻野)
 第二部『山』風景(撮影:荻野)

 

Ⅰ 写真座談展というこころみ

 

2017415日から56日までの毎週土曜の午後、計4回に渡り、荻野NAO之写真座談展『Λ』(ラムダ)の第一部を賴山陽書斎山紫水明處にて開催しました。これは今年で開催5年目を迎えるKYOTOGRAPHIE(京都国際写真祭)のサテライトイベントKG+の一つとして採択されたこころみです。

 

形式にとらわれることなく煎茶を飲みつつ清談したであろう江戸時代のサロン的な文化を想い、京都の山々を借景に、山紫水明と写真芸術との新たな出会いと、その場における人々の新たな交流の生動をこころみました。写真展というよりも車座で「花見」と「写真鑑賞」と「煎茶会」と「トークイベント」を全て一緒くたに合わせたような場創りを毎回三部構成でこころみました。

 

具体的な三部の構成は以下のとおりです。

 

荻野NAO之写真座談展(2017415日、22日、29日、56日)

・第一部『床』 13:0014:50

会場:賴山陽書斎山紫水明處、来場者定員7名要予約(入處料700円)

・幕間『渡』    15:0015:20

 会場:賴山陽書斎山紫水明處、来場者定員15名要予約(入處料)

 ※写真座談展ではなく、賴山陽書斎山紫水明處の簡易見学

・第二部『山』 15:3018時頃

会場:鴨川べり(山紫水明處の東隣)に御座、予約不要来場自由無料

  ※初日の415日は1時間のみの短縮版

・第三部『秘』 20:0022:00

 会場:非公開の場、招待制

   ※初日の415日は無し

 

そして3人の発起人:竹内万里子(批評家)、旦部辰徳(文学研究者)、荻野NAO之(発起人代表/写真家)と4人の幹事:川﨑仁美(盆栽研究家)、島村幸忠(煎茶家)、田口かおり(絵画修復士)、藤田乃里子(煎茶)とで来場者を迎えました。

 京都府からはKG+を通じて後援をいただき、何よりも一般財団法人賴山陽旧跡保存会及び賴山陽書斎山紫水明處より特例のご協力をいただき実現が叶いました。さらに、賴山陽に縁があって現存する、鳩居堂、剣菱酒造株式会社の二社からもご協賛をいただきました。この場を借りて御礼申し上げます。

 

Ⅱ アルルから山紫水明處へ

 

このこころみの水脈は、実は遠く南仏のアルルにあります。毎年7月から9月にアルル国際写真祭が開催され、発起人3人の共通点はこの写真祭に魅せられたことでした。Rencontres(出会い)をテーマに毎年開催されているアルルのフェスティバルでは、小さな町中で開催される多くの写真展やイベントと、小道に無数に展開するテラス、そして公開非公開共々開催される多数のパーティー等が相まって正にテーマの通り、文化が生動する貴重な出会いの場を育んでいます。この生動から受けた感銘を、日本ならではの形でこころみたのがこの写真座談展です。このこころみは、実に多くの奇跡と偶然と縁に寄って賴山陽書斎山紫水明處に導かれ実現しました。その奇跡と偶然と縁とをここで一つ一つ紐解くことは控えますが、開催した中で生じた天にまつわる奇跡のような情景について、触れておきたいと思います。

 

Ⅲ 天の水

 

初日415日の午後の天気予報は雨でした。山紫水明處内での第一部を開催している間、雨がしとしとと降りました。庭はいよいよあおあおと美しく、これが座談に独特な彩りをもたらし、話に蒼潤が増しました。ただ予報では雨脚はこれからより強くなるはずで、鴨川べりで開催する予定の第二部は雨天中止だとみなで覚悟しました。雨雲で一足早く山紫水明時のような光を味わえたのだからそれで良しと満足しつつ。ところが、第二部がはじまる間際、突如日の光が差しはじめたのです。狐につままれた思いであわてて第二部の準備に入り、初日は1時間だけの予定であった第二部を無事に川辺りで開催しました。場をたたみ始めると、また雨がポツポツと戻りはじめ、全てを車に積み終えた瞬間に大雨になったのでした。

 

3回目の429日に至っては、当日の天気予報は雷雨。そして天気予報のとおり、第1部の最中に照明器具の一切無い山紫水明處内はみるみる暗くなり、ついには雷鳴が響き渡り大雨が降り出しました。あの山紫水明處の中の光の変化と、雷鳴と共に現れた部屋の四隅の陰翳の奥深さ、そして窓の外の山々の暗い紫の翳を私は一生忘れないと思います。同じ感想が参加者からも寄せられました。賴山陽が設計し今に残る山紫水明處だからこそ、谷崎潤一郎が彼の世で既に失われつつあると嘆き礼賛した陰翳の世界を、今の世にまで残しているのだと感動を覚えました。雷鳴と陰翳との中で、床の間に掲げた写真『Λ』が微かにほの明るく脈動したようで、それに導かれるように、話の流れが陰翳の話題に及んだ際は、座談の場における天とΛと人々との繋がりを感じました。そして今度こそは誰もが第二部は雨天中止だと確信していました。それなのに、第2部を前にして、雷鳴は止み、雨も止んだのでした。第二部がはじまる予定の時間には見たこともないような異様な色を帯びた雨雲の割れ目から、妙に紫色をした日が射してきました。結局第2部はその紫の日差しを浴びながら、始終山紫水明時の中に閉じ込められたような光の中で、予定通り開催することになりました。第2部を通じて、ずっと異様な山紫水明時の光の演出を受けているような、夢の中にいるような不思議な場でした。

 

4回目の56日も、当日の天気予報は三度雨。そしてもう驚きはしませんでしたが、結局鴨川べりでの第二部の前に雨は止みました。18時を過ぎた終わりがけには鴨川の北の山々の稜線がいつも以上に幾重にも重なりあって見え、山が増えたかのような淡い山紫水明時の景色に、来場者は一時座談の言葉を奪われ見入ってしまいました。こうして最終日の最終回を終えました。

 結局全4回の開催日の内、3回は当日の天気予報が雨だったのにも関わらず、雨天ならば中止の第二部は一度も中止になることはありませんでした。賴山陽に守られていると思わずにはいられませんでした。ちなみに、写真座談展が終わった翌週の土曜日5月13日は大雨でした。

 

Ⅳ 山不得水 不生動

 

この企画の途中から私の中では、賴山陽著「那馬渓図巻記」に記されている次のくだりが頭からはなれなくなっていました。

            山不得水 不生動 石不得樹 不蒼潤

 (山水を得ざれば生動せず。石樹を得ざれば蒼潤ならず)

 この言葉にはじめて出会ったとき、私は大きく何かに打たれたようでした。一瞬目の前に宇宙を見せられたといってもよいような感覚でした。

 ここで見せられた「水」は、あの「天の水」や、鴨川に流れる「水」、私たちの身体の中で脈打つ「水」、お煎茶の「水」といった「水」ばかりではなく、文化の生動に欠かせない目に見えない「水」も含めて、これら全てが繋がった大きな「水」であるように感じています。

そしてこれらの「水」を思うたびに、「水」と共に見せられたあの「樹」がより一層大きく私の中で育っていくように感じられるのです。

 来場いただいた方々の心の中にも、この写真座談展を通じて、あの「水」や「樹」のようなものが現れて繋がりはじめているようなことがあれば嬉しい限りです。

 尚、初日の四月十五日の第一部、賴山陽書斎山紫水明處内での写真座談展は、一般財団法人賴山陽旧跡保存会の賴ご夫妻並びに、剣菱酒造株式会社の白樫政孝専務にご出席いただくことが叶い、賴山陽への剣菱の献杯と煎茶の献茶を実施して、賴山陽に捧げる会としました。

 

 
 

2015・12・11

山紫水明処の内部

(京都市)

 

8年ほど前になるが、山紫水明処の内部を写した写真があるので、ご紹介しよう。

 

頼山陽記念文化財団の研修旅行の際のスナップ写真である。

 

「山紫水明処」の扁額は、明治29年、広島藩最後の藩主浅野長勲が書いたものか。泥棒に入って盗まれたと聞いた記憶があるが…。

 

いずれにしろ、かつて脱藩という重罪から士籍まで奪われた頼山陽の評価の変遷の一端が覗える扁額である。

 

「山紫水明処」は「書斎」といわれることがあるが、本来は「亭(ちん)」であり、文人墨客らと酒を酌み交わしつつ、楽しく語らう場であったらしい。

 

2枚の写真だけではうまく伝えられないので、ぜひ実際にお訪ねすることを勧める。但し、事前に往復はがきでの申し込みが必要。

物入れの絵は確か小田百谷の作。      さりげなく水石も置かれている。
物入れの絵は確か小田百谷の作。      さりげなく水石も置かれている。

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

『俳句エッセイ 日常』

書店では取り扱いません。

残部僅少!

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石村良子代表の編集

『頼先生遊記帖』(『十旬花月帖』) 

  好評発売中!

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

「頼山陽と戦争国家

感想② 感想③

感想④

南々社
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『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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