見延典子が書いています。 (大分県竹田市)
2018・11・12
旧竹田荘③
旧竹田荘の前には、竹田の作品(レプリカ)を飾るスペースがあり、竹田像が置かれている。
竹田直筆の扁額も掲げられている。
続いて、山陽も訪れた洗竹荘址へ。豪商加島冨上の屋敷があった。
続いて竹田の墓へ。大坂で客死した竹田は大坂の浄春寺に墓があるが、生誕地の竹田でも長男の如仙が遺髪と歯牙を持ち帰り、建てられた。
今は石碑が建っているだけであるが(左)、耳を澄ませると、竹田文人たちの語らいが聞こえるようだ。
2018・11・9
旧竹田荘②
前回、ご紹介するのを忘れたが、旧竹田荘母屋2階は「對翠楼(雪月楼)」と名づけられた部屋があり、九重連山や町並みなどが望める。
補拙廬(右)は門弟の帆足杏雨、高橋草坪、田能村直入ら門弟の宿舎。
竹の格子(上)の向こうには岡城(左)も見える。一幅の南画だ。
そして頼山陽が宿泊したのが草際吟舎。1階が茶室、2階が書庫。山陽は2階に寝泊まりしたという。書庫には書物が多数あり、山陽は飽きることがなかったのではないか。但し、夜は明かりがなく、眠る前に読むということはできなかった。
近くには筆塚もある。山陽同様、竹田は道具を大切にしたようだ。石工は長崎の渡辺方發。尾道市千光寺に建つ「瘞紅碑(えいこうひ)」と一対になっているという。
茶室らしい網代天井(左)ここで煎茶を喫したのだろう。竹田と山陽の様子が思い浮かぶ。
庭石の配置は竹田が行い、当時のままになっている。
11月3日、耶馬渓で「頼山陽フオーラム」が行われた翌日、中津市在住の郷土史家・中津のオッサンこと近砂敦さんの車で、進藤多万さんともども遠路竹田まで頼山陽が辿った道を訪ねる。まずJR東肥線「竹田駅」で案内人のEさんと落ちあう。さらなる専門家との出会いに胸を躍らせつつ周辺を見渡すと、駅前には田能村竹田の真新しい像が建ち(写真右)、案内板には頼山陽の名前も見え、テンションがUPする。
2018・11・7
旧竹田荘①
「頼山陽てくてく」で頼山陽はすでに日田に入っているのだが、山陽も滞在した田能村竹田の居宅竹田荘について、後追いながら報告する。
Eさんの解説を聞きつつ、一路旧竹田荘へ。竹田荘を訪ねるのは2度目であるが、今回、ここが再建された建物であったことに気づく。
聞けば、西南戦争や土砂災害など人災、天災の被害にあったという。それでも再建されたのは、再建に値すると判断されたからだろう。
竹田荘では、さらに管理人が解説してくださる。
旧竹田荘には与謝野晶子、川端康成などの文学者も訪れている。康成といえば浦上玉堂を思い出すが、竹田の作品にも愛着があったと知り、勝手に親近感を覚える。
続きます。
この日、中津のオッサンは1818年、頼山陽が竹田から日田に入った足跡を確認するため竹田へ向かう。
写真右。竹田から瀬の元へ続く肥後街道。手前に旧街道が見える。山陽が歩いた道であろうか。
大分県中津市在住の郷土史家
近砂敦著『耶馬渓』(1300円、送料300円)好評発売中。
お申込みは「頼山陽ネットワーク」まで。頼山陽ネットワーク会員には特典があります。
2016・8・5
中津のオッサン「竹田荘が休荘」
大分県竹田市にある田能村竹田の旧宅「竹田荘」が石垣災害復旧工事のため、8月15日までお休みしている。「災害」とあるのは熊本地震をさすのであろうか。
写真左。日本一といわれる大パノラマ。国道442号から九重高原、遠くに阿蘇根子岳を望む。この風景も山陽は見たのであろうか。