山根兼昭さんへ

 登録商標されていることに、気づきませんでした。

 今更ながら、頼家がなぜこの家紋なのかを知りたかったのですが。ありがとうございました。

          見延典子

 

2021・11・25

山根兼昭さん ⇔ 見延典子

頼家家紋・双瓶子

「煎餅屋の登録商標にも」

 

広島市、頼山陽煎餅本舗「芸陽堂」の登録商標が、頼家の家紋「双瓶子」です。


2021・11・23

頼家の家紋

 

原爆にも耐えた頼山陽史跡資料館、正門の側面。

左右、いずれの側面にも頼家の家紋「双瓶子」が刻まれている。(この家紋について詳しい方はご連絡下さい)

 

 


頼山陽史跡資料館は爆心地から徒歩15分 現在の頼山陽史跡資料館
頼山陽史跡資料館は爆心地から徒歩15分 現在の頼山陽史跡資料館

2016・7・27

昭和22年8月の写真

 

整理をしていたら、昭和22年8月、頼山陽史跡資料館(当時は頼山陽記念館)の写真を載せた中国新聞の切り抜きが出てきた。

門の右側、徳富蘇峰が書いた「頼山陽先生日本外史著述宅趾」の石塔が折れているのがわかる。

 

戦後2年を経ても、修復が進んでいない様子がうかがえる。

 


2015・11・3 頼山陽先生像 除幕式

 

11月3日、頼山陽史跡資料館(広島市中区袋町)が開館20周年を迎えた。

 

これに併せ、頼山陽先生像の除幕式が行われた。

頼山陽記念文化財団会長橋本宗利氏の挨拶
頼山陽記念文化財団会長橋本宗利氏の挨拶
「頼山陽ネットワーク」顧問の頼祺一先生
「頼山陽ネットワーク」顧問の頼祺一先生
銅像の設置場所は資料館の正門を入って正面
銅像の設置場所は資料館の正門を入って正面

 

頼山陽先生像が除幕された瞬間。

 


頼山陽ネットワークが確認している頼山陽の像は、広島県竹原市、広島県尾道市、熊本県苓北町の3基で、新たに4基目が加わったことになる。(これ以外にご存じの方はご連絡ください)

 

〇漢詩「広島を発して家君に別れ奉る」

 

頼山陽の漢詩(五言律詩)を紹介しよう。

 

漢詩というだけで敬遠する方もいるかもしれないが、山陽が家族を詠んだ漢詩は心情をよく伝え、わかりやすい。

 

山陽が杉ノ木小路の屋敷に住んでいた頃、向かい側には浅野家の菩提寺の国泰寺があり、海岸線も近かった。

 

広島から京に居を移した山陽は、やがてこの屋敷に帰ることを許されるが、脱藩の廉で廃嫡された身であれば、住み慣れた屋敷で家族と暮らすことはできず、再び京都に戻っていく。

 

その折りの心境……

 

そうそうとして杯酒を尽くして

遅遅として門閭を出づ

   あわただしく別れの杯をかわして、

   別れがたい思いを引きずりつつ屋敷の門を出た。

 

首をめぐらして諸弟につぐ

侍養われに代わるを煩わすと

   見送ってくれる従弟たちに告ぐ、

   自分の代わりに家を守らせて申し訳ないと。

 

舟進みしま移りて城ようやく遠し

はるかに見る送者の崖より返るを

   自分をのせた舟は町から離れていき、

   はるか見送ってくれた者たちが帰っていく姿が見える。

 

一株蓋のごとく薄暮にたつ

なお認む爺が家の門に対する樹

   薄暮の中、一本の木が車の覆いのように堂々と立っている。

   あれは父の屋敷の門の前の大くすのき……。

   

このとき山陽35歳

父の春水69歳

 

直接、春水を描かず、国泰寺の大くすのきに象徴させる。

「家君」の威厳が伝わるとともに、山陽にとって父親の存在がいかに大きかったが伝わる。

 

 

〇頼山陽資料館の正門(広島市中区)

 

もとは頼山陽の父の春水の賜邸があった地。

 

山陽は個々で11歳から30歳までの青少年期を過ごした。

 

〇「頼山陽先生日本外史著述宅趾」の石柱(正門右手)

 

昭和2年(1927)に建てられた。

 

原爆に倒れた傷跡がある。

 

書いたのは徳富蘇峰。

 

蘇峰についてはいずれ書こう。

 

 

〇杉ノ木小路(東方向を見る)

 

頼山陽史跡資料館の前の通りはかつて「杉ノ木小路」(すぎのきしょうじ)と呼ばれていた。

 

下級武士の屋敷が並んでいたと思われる。

 

〇杉ノ木小路(西方向を見る)

 

西方向を真っ直ぐ数分歩くと、平和記念公園。

 

西隣は旧日本銀行。

 

さながら都会のオアシス。

〇頼山陽史跡資料館の玄関

 

平成7年(1995)にオープンした頼山陽史跡資料館。

 

来年、開館20周年を迎える。

頼山陽彫像。

 

頼山陽資料館の玄関を入って左手の棚の中に置かれている。高さは20センチメートル足らず。

 

説明書によれば……

「袋町芸術館(2011年に閉店した貸画廊)から寄贈された」「作者とみられる『一角斎』(不詳)の刻印がある」

「戦前はこのような彫像が数多くつくられ、頼山陽の顕彰活動が活発に行われた」

 

頼山陽が「神様」になりかけた頃の遺物というべきか。

 

 

〇頼山陽居室

 

21歳の時、脱藩を図った山陽が幽閉された居室を再現したもの。

 

閉居の日々は5年間におよび、その間『日本外史』の草稿を書いた。

 

原爆で焼失したため、昭和33年(1958)復元された。

 

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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