2018・9・23 

見延典子「頼山陽の命日」

 

頼山陽は安永9年(1780年)12月27日、頼春水の長男として大坂の江戸堀で生まれ、幼少期から青年期にかけて広島で成長したあと

終の棲家水西荘(京都市)
終の棲家水西荘(京都市)

天保3年(1832年)9月23日、肺結核により京都の終の棲家水西荘で亡くなった。※すべて太陰暦

 

一般的には享年53歳といわれるが、満年齢では51歳10カ月で逝ったことになる。人生50年といわれた時代、父母や叔父たちは比較的長寿であった。

 

山陽の訃報に接し、母の梅でさえその「才」が失われたのを惜しんだ。山陽の人生を語るとき、「遊蕩」の2文字はついてまわるが、残した著述の量で測れば、かなりの勤勉家であったことがわかる。その振り幅が山陽の最大の魅力である。

                    

2018・4・26 がらんさん「二、三気づいたこと」

 

碑石関係でたどり着きました。頼山陽網羅ということでゆっくり拝見したいと思います。二、三気づいたことを

 

2015・10・27  KISHI Satoruさん 「長楽寺」

忠魂碑とされている篆書は「記恩碑」を読みます。画像が不明瞭ですが

「明治17 頼復謹記 頼謹書 宮原謹篆額」とあるようです。

は読めませんでした。

 

 

2015・10・31  KISHI Satoruさん  「長楽寺」

 漢文の比較的新しい碑は以前、拓本で読んだことがあります。満州の国務大臣鄭孝胥の作の漢詩「謁山陽先生墓」の碑です。

 

秋空抱尊王志 未有山陽史筆功 

破曉穿林来一揖 晴愁文字掩英雄

 謁山陽先生墓、孝胥 印;鄭孝胥印 太夷


2015・10・31 

KISHI Satoruさん

「長楽寺」④

 

「頼山陽ネットワーク」公式ホームページ会員のKISHI Satoruさんが送ってくださった写真の最後は、やや小さめで、並ぶように建てられた2基の墓。

 

残念ながら文字が見えないが、頼山陽の次男(実際は3男)の頼支峰(又二郎)と後妻の墓ではないかと思われる。


右のような碑の写真も送っていただいたが、詳細は不明。

 

頼山陽の評価が偏りはじめてから建てられたもののようにも思えるが、残念ながら、学がなく、読めない。

 

あるいは支峰が書いたのか。これは想像にすぎない。裏面に何か書いてあるかもしれない。

 

おわかりの方は教えてください。

 

KISHI Satoruさん、ありがとうございました。また何かございましたら、お願いいたします。

 

 


素っ気ないようにも感じられる、質素な藤井竹外の墓
素っ気ないようにも感じられる、質素な藤井竹外の墓

2015・10・27 

KISHI Satoruさん

「長楽寺」③

 

「頼山陽先生墓所」には藤井竹外の墓もある。

 

藤井竹外(文化4年1807-慶応2年1866)は摂津高槻藩士。頼山陽に詩を学ぶ。晩年は京都に隠居したという。

 

高槻市に詩碑があるというが、未確認。

 

 

 

 頼山陽墓所に墓が建立された経緯も、今のところ不明である。

 

見延典子著『頼山陽』には、竹外が頼山陽を慕うあまり、万一のことがあった場合のは山陽の近くで眠りたいと許可を得る場面が描かれている。

 

 

 2015・10・27 

KISHI Satoruさん

「長楽寺」②


「頼山陽先生墓所」を入ったところからの続きである。

 

KISHI Satoruさんが送ってくださった写真には、これまで紹介していない、安政の大獄で刑死した頼山陽の息子、頼三樹の招魂(恩?)碑もある(下の写真)

 

 

 

招魂碑の由来については知らないが、明治政府にために尽くした人物に建てられると思われる。やがて忠魂碑となっていくようだ。

 

この碑の文面には、明治14年3月21日、宮内省より頼山陽に祭し料100円が、明治16年12月10日(全伝には16日とあり) 頼三樹に祭し料50円が、京都の平民の頼支峰(又二郎 山陽の息子で、三樹の兄)に下賜されたとある。

 

この碑が建てられたのは、1年後の明治17年11月。文面を書いたのも支峰かと思うが、養子の潔とも読める。不鮮明なのが残念。支峰(明治22年没)は父の評価、三樹の名誉回復が嬉しかったのだろう。

 

こちらもご参照ください。

 

それであれば、招恩碑でもいいのか、と思う。

 

記憶では、支峰が建立に奔走したと何かで読んだ記憶がある。支峰は刑死した三樹のみならず、頼家の名誉回復に後半生を捧げた印象が強い。

 

頼三樹の招魂碑はもう一基、大津市付近(琵琶湖畔の寺)にあると、これも何かで読んだ記憶があるが、未確認。ご存じの方はお知らせください。

 

長楽寺の頼三樹の墓(2014・10・10に写真を掲載)の他に、東京都世田谷区の吉田松陰神社にも墓(及び遺骨)があり、こちらのほうが建てられたのは早い。

 

最後に、残念ながら、正面からの写真はないが、頼山陽の弟子の児玉旗山の墓もある。

 

児玉旗山は加賀の大聖寺に生まれ、頼山陽に師事。

 

通称は三郎。頼山陽の著述の手伝いをした。

 

のちに、家塾を開いて頼三樹を教えたが、頼山陽が没して3年目後の天保6年、35歳の若さで亡くなる。

 

 旗山の生涯を振り返るとき、山陽の墓所に葬られるのは、意味のあることだった。旗山本人も含め、山陽の傍らで眠ることがもっとも幸福であり、自然であると思われたのであろう。

 

(詳しい経緯は見延典子著『敗れざる幕末』をお読みください)

 

 

 

2015・10・25 KISHI Satoruさん「長楽寺」①

 

これまでも何度が取り上げてきた京都の長楽寺。

 

頼山陽の墓所がある寺で、頼山陽に関心をもつ人はまず訪れる。

 

 今回、「頼山陽ネットワーク」公式ホームページ会員のKISHI Satoruさんが全体がわかる写真を送ってくださったので、ご紹介しよう。

 

山門には「頼山陽先生墓所参拝道」の石碑
山門には「頼山陽先生墓所参拝道」の石碑


境内を進んでいくと、小さな橋に行きあたる。

 

「外史橋」という名前。

 


やがて「頼山陽先生墓所」へ

 

          続きます。

 

お先にご覧になりたい方は、以下へどうぞ。

 

KISHI Satoruさんのブログ

 

『最澄の創建。頼山陽、平家物語ゆかりの京都「長楽寺」』

 

 


長楽寺は京都市東区にある古刹。建礼門院が落飾した寺としても有名。



途中、尊攘苑があり、水戸藩士・原市之進、三輪友右衛門や水戸藩家老・大場一真斎などの墓所がある。



2015・1・6  匿名さん「女性のお墓の件」


匿名さん

女性のお墓の件ですが、私の母方の祖母(京都の人)も実家の姓で書いてあります。後妻でしたが、先妻さんも実家の姓を名乗るのでわかりやすいというか。ひとりずつお墓のあった時代の話ですね。今はみな一緒ですから。

 

匿名さんへ

そうですね。あの時代のお墓は一人一基ずつでした。女性の場合、結婚すると多くは姓が変わりますが、旧姓を残しておくと、いろいろなつながりがわかりますね。

ところで頼梨影の墓には「貞節君」とあります。これも女性に多い書き方だったのでしょうかまた教えてください。

2015・1・4

読者からの投稿写真 長楽寺「頼梨影(りえ)の墓」

 

読者が長楽寺にある頼山陽の妻「梨影の墓」の鮮明な写真を送ってくださいました。

 

「小石氏」は養女に入った先です。

この時代、女性の墓は旧姓を用いるのでしょうか。それとも中国式を模したもの? ご存知の方がいらっしゃれば教えてください。

 

写真は昨年12月23日に撮影したものだそうです。

ありがとうございます。

 

 

2014・10・10

「頼山陽の墓」の写真を、愛読者が送ってくださいました。

 

以前、「頼山陽の墓」の写真を送ってくださいとお願いしたところ、読者のYさんが送ってくださいました。

この写真だと墓所の様子がよくわかります。

ありがとうございます!

頼山陽の墓に寄り添うように梨影夫人の墓が立っている。

 

Yさんはもう一枚、送ってくださった。


同じ墓所内にある頼山陽の三男(ほんとうは四男)の頼三樹の墓だ。


頼三樹の墓は、東京世田谷区の吉田松陰神社にもある。


実際に遺骨が埋葬されているのは吉田松陰神社だろうが、生まれ育った京都の地で、両親の近くで眠るほうが、三樹にはふさわしいように思える。

2014・9・23

頼山陽の命日 長楽寺(京都市)

 

頼山陽は天保3年(1832)9月23日、京都の自邸水西荘で、妻子や友人や弟子らに見守られながら、53歳で没した。肺結核であった。

 

といっても、当時は陰暦だから、太陽暦に直すと、10月下旬あたりだろうか。今年で183回忌。

 

儒教では183年祭というらしいが、はたして山陽は宗教としての儒教を信奉していたのだろうか。

 

遺言して作らせたという墓は、むしろ仏教式に近い。

 

2014・9・24

頼山陽の墓 長楽寺(京都市)2


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


これが頼山陽の墓(京都市の長楽寺)である。

「山陽頼先生之墓」と読める。

 

続いてこちらが山陽の妻梨影(りえ)の墓。

 

「貞節小石氏之墓」と読める。

 

結婚前、小石氏の養女になったからだが、頼という文字が見えないのは、現代人の我々には奇妙な感じを受ける。

 

これらは2008年の写真。

 

暗い上に墓所の様子もわかりにくい。

 

 

どなたかもっとよい写真があったらお願いします。


ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

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