10日間の大型連休。まちなみ保存地区は観光客でにぎわう。
2019・4・30
頼山陽まつり
恒例、竹原の頼山陽祭り、平成最後の今年は4月29日に行われた。
長年、頼山陽祭りに参列しているけれど、「頼一族」(竹原高校生が扮する)と写真をとるのは初めてかも。皆さん、ありがとう。
右から2人目石村良子代表。「頼山陽」をはさんで見延典子
2018・12・28
石村良子代表
頼春風先生碣です。
ただ、どうも隆景公自身は「ぜんぜん泣いとらんわあ、放っておいてくれえ、いちいち参られるて祀られることは勘弁せい」とおっしゃる可能性も充分ある。なんでかあいうと、ここ20年以上、梅庵が追いつづけた隆景公は、わしらの物差しでは測れん、途方もない偉大な御方じゃったんじゃ。そんな御方が、ちょっとゆかりの場所が荒れとるくらいでどうのこうの
2017・6・26
梅庵さん
「地元竹原の皆さん、なぜ小早川神社は荒れているのか教えて下さい]
④
そういえば、ここは一つ直系のご当主にお知らせしたほうがええんかもしれませんのう。ちとおせっかいかもしれんが、「おたくの御先祖(もちろん隆景公)が多分泣いとるよお~」と伝えたげるのが人として?正しい道かもしれん。
毛利・吉川・小早川三家揃踏みの石灯籠(上部は流失?)文化財?的な価値もあるんぁないかと思うんですが、どうなんでしょう。
騒ぎ立てるはずもなかろう。なぜなら、あの豊臣秀吉や黒田官兵衛が「日本一」の称号を隆景公に冠しておるのじゃ。まあ、話しゃあ長ごうなるんで。そりゃまたいつか。
それより雨が今晩はよう降りそうなんで、はよう田の水を止めてこにゃあいけんわい。
2017・6・25
梅庵さん ➡ 見延典子
「地元竹原の皆さん、なぜ小早川神社は荒れているのか教えて下さい」③
見延典子さんへ
早速にありがとうございます。そういった事情で終戦ごろの土砂災害から復旧できていないんですね。また、それくらい大規模な山津波が小早川神社にダメージを与えたんですぇ。
話は変わりますが、まあ、田圃に鍬を突っ込むことが専門の梅庵といたしましては、ここらで一鍬(ツッコミ)入れんといけんじゃろう、ということで、恐る恐るではありますが、「なんで広島の住吉神社が大水害から再興したのに、あの、大小早川隆景公を祀る小早川神社は再興しとらんのでしょう、と思うんであります。」
観光行政の他にもちょっと事情があったんじゃないんかあ思いまして、ちょっと仮説を勝手に立ててみたんじゃが、どんなもんですかいのう。
仮説1・・・土砂災害、太平洋戦争、終戦、原爆のダメージなどが重なり、復旧できなかった?(常識路線)
仮説2・・・住吉神社のように常勤(住み込み)宮司さんがいらっしゃられなかった?
仮説3・・・世は変わり、小早川隆景公の偉大さが地元でも忘れられていた?
仮説4・・・再興小早川家は東京在住で、地元との交流がなかった?
仮説5・・・三原市と竹原市との連携があまりスムーズではない?
(続く)
梅庵
2017・6・24 見延典子 ➡ 梅庵さん
「地元竹原の皆さん、なぜ小早川神社は荒れているのか教えて下さい」➁
梅庵さんへ
17、8年来、竹原に通っていますが、小早川隆景神社の話はほとんど聞いたことがありません。ただ、数年前、地域の皆さんが草刈りをしたという話を聞いた記憶があります。
気になって調べてみると、2010年5月「竹原市観光協会が昭和20年の豪雨による山津波で損壊した小早川隆景神社の境内を修復し、市民が集まれる広場を作ろうと乗り出した」というネット記事を見つけました。「今後の復興活動に協力できる市民を募集し、月に一度の会合を持ちながら整備を進める予定」とも書かれています。
僭越ながら2007年拙著『頼山陽』が出版された後、竹原市では頼山陽広場の移転、整備が行われました。その後、アニメ「たまゆら」の大ヒットで、カメラをもつ若者が竹原を訪れるようになり、さらに「マッサン」の空前のブームがあり、現在は大久野島のウサギブームと、竹原市の観光の目玉はめまぐるしく変化しています。この流れから小早川隆景神社の復興、整備は、おそらく協力してくれる市民も集まらず、竹原市観光協会の会長も代り、計画が頓挫したんでしょうね。
見延典子
それも頼一族を初め、小早川隆景を江戸・明治時代には大切に祀っていたはずの竹原で。土砂災害だけでこのようになりますでしょうか、不思議でなりません。
2017・6・23
梅庵さん
「地元竹原の皆さん、なぜ小早川神社は荒れているのか教えて下さい」
これが、小生が先月撮影した小早川神社です。石垣なんぞ、流石の重厚さなのですが、ほぼ幽霊が深夜終結されておられること間違いなしの佇まい(?)であります。
ここは是非、地元竹原の皆様に、どうしてこうなっているのか、お尋ねいただけないでしょうか。惨状は写真の通りでございます。
2017・5・18
梅庵さん 🔁 見延典子
「小早川神社」
田植えの準備で超多忙な梅庵です。目下、小早川隆景について調べており、先日、現地捜査に行ってまいりましたが、『こんなん、みたことない~』ありさまでした。
さて、頼家の先祖は小畑川隆景の家来で、「頼」は三原の「頼兼」に由来しているとのことですが、頼兼さんは、戦国をどんな感じで生き抜いたんでありませう。
今勉強している古文書教室での「頼山陽脱藩始末記」によると 山陽は仁室では先ず「孔子の論語で源流を究め根本を会得し色々勉強した後また論語に戻る」としているが 山が高すぎるので 先ずは手っ取り早く惟勤先生のおすすめからと思う
文天祥の字を写し(山崎闇斎よりもらった)刻したという説明があった 元は黒く墨がはいっていたという