2021・4・20 木舩さん「広島県上下町で頼聿庵の屏風」&菅茶山

 

広島県府中市上下町で偶然みかけた頼聿庵の屏風を正面から写したした写真と、菅茶山の書です。屏風や書を展示するというより、人形の背景として利用されているような印象でした。

2021・4・17 木舩さん「広島県上下町で頼聿庵の屏風」

 

先日、広島県府中市上下町を訪ねたところ、頼聿庵の屏風が展示してありました。係りの方に、「なんと書いているのか」と尋ねたところ逆に「教えてください」といわれました。菅茶山の書もありました。

手前の屋根が龍仙寺
手前の屋根が龍仙寺

「龍仙寺」のホームページには頼春水・頼杏坪・頼山陽・菅茶山など多くの文人が来遊とあります。ただ縮景園を改修した京都の庭師清水七郎衛門を招き、名勝「栢原山池」を築くも、「1836年(天保7年)の大洪水で破壊」とありました。

 

 被災前の庭
 被災前の庭

2018・7・18

ひろしまフオト歩きさん、

「頼山陽ゆかりの龍仙寺

      90年ごとの被災」

 

7月10日、広島県安芸区府中町の榎川が氾濫し、川のすぐそばに建つ栢原山「龍仙寺」は多大な被害に遭いました。

被災前の龍仙寺
被災前の龍仙寺

頼山陽や菅茶山など文人たちは、名勝「栢原山池」に向かって、いかなる詩を詠んだのか。一方、榎川は1836年・1926年(水害碑)・2018年と、約90年に一度氾濫が起きているという事実に気付き、驚きを隠せませんでした。

 

 


赤丸が「水害記念碑」。手前榎川。
赤丸が「水害記念碑」。手前榎川。

2018・7・16

ひろしまフォト歩きさん

「榎川(広島県府中町)は90年前大正時代にも氾濫していた」

 

「榎川」の氾濫したのと極めて近いところに「水害記念碑」(左)が建っていることに気づきました。

 

記念碑の後ろに記されている文言には「大正(1926)5年9月11日前夜半来大豪雨アリ榎川其ノ他ノ各河川氾濫シ堤防決壊・・・」という文字がなんとか読み取れました。

 

先人たちは、「大堰堤」の整備案内や「水害記念碑」で、今から92年前の悲惨な出来事をきちんと記録に残してくれていたのですね。


7月8日の榎川
7月8日の榎川
7月10日の榎川周辺 氾濫し赤茶に染まる
7月10日の榎川周辺 氾濫し赤茶に染まる

鵜上寺
鵜上寺

「鵜上寺」は石井城という由緒ある地にありますが、今では目立たないお寺の佇まいでした。「広島新四国八十八ケ所霊場」寺院に入っているものの、どうやら町内会集会所としても使われているようでした

白雲亭があったあたり?
白雲亭があったあたり?

※鵜上寺の南西に原田家の屋敷があり、庭園には松の古木が生い茂り、滝もあったという。原田家についてご存じの方はご一報ください。

    頼山陽ネットワーク事務局

2018・3・2

ひろしまフォト歩きさん

「鵜上寺近く頼家ゆかりの原田家」

 

相互リンクしている「頼山陽ネットワーク」さんの頼山陽西遊2百年特別企画「頼山陽てくてく 京都~西国街道~九州」に刺激され、広島県安芸郡府中町内で頼山陽の足跡のある「鵜上寺」を訪ねてみました。

境内にある手書きの説明には「この寺に頼山陽の父頼春水が山陽とたびたび遊びに来て詩文をつくった」「南西にある庭の名前白雲亭は春水が名付けた」とも書かれています。

また「この庭に珍しい手水鉢があり、この手水鉢に水を張ると宮島がうつっていた」とも記されていましたが、どこにあるのかよくわかりませんでした。

     ひろしまフォト歩き

これが珍しい手水鉢?
これが珍しい手水鉢?

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

οο 会員募集 οο

 

「頼山陽ネットワーク」の会員になりませんか? 会費は無料。特典があります。

 

 詳しくはこちら