2017・11・3
山根兼昭さん「頼山陽と広瀬淡窓」
1818年11月3日、頼山陽は九州旅行の途中、九重高原から日田に着き、8日広瀬淡窓の私塾咸宜園を訪ねました。広瀬淡窓は山陽より3歳年少、高名な碩学で、咸宜園からは多くの著名な人士を輩出したのであります。
広瀬廉卿を訪う 頼 山陽
?唔(いご)の声する処 柴関を認む 村塾新たに開く 松竹の間
斗折 蛇行 筑水に臨み 竹批 馬耳 豊山を見る
羨む 君が白首 その間に在るを 愧ず 我が青鞋(せいあい) 何れの日にか閑ならん
かつ喜ぶ 一樽 醒酔を共にし 細しく詩律を論じて 手 しきりに刪(けずる)を
(大意)読書の声がする処、柴の門が見える。ここは広瀬淡窓の私塾・咸宜園で、松竹の間に新たに開設されたのである。曲がりくねった筑後川の向こうに英彦山の勇姿が見える。
この仙境に年老いるまで気楽に暮らされる主人の淡窓はうらやましい境涯である。
ひるがえって自分はいつまで漂泊の旅を続けているのであろうか。恥ずかしい思いであるが、ここまでやって来たのだから、君と一樽をくみかはし、ともに醒酔して詩律を論じ、至極の楽しみにひたるつもりだ。
(広瀬淡窓先賢顕彰会発行「広瀬淡窓手ほどき」記載より)
頼山陽を評価
わざわざ日田に淡窓を訪れた名士は数百名に及ぶが、もっとも有名なものは頼山陽であった。山陽を日田に迎えたとき、淡窓三七歳、山陽は三九歳であった。山陽は大学者である春水の子であるが、春水以上の大秀才である。私は先年、山陽と詩のやり取りをした間柄なので、当地では私のところだけを尋ねた。
山陽の人物評価としては、「山陽は現在第一流の人物で、この人より才力のある人物はいないと思う。ただその人柄が高慢であり礼儀を知らず、また欲張りである。その為にどこででも憎まれ、度々その地を追われた。誠に惜しいことだ。」
大変手厳しいが、同時代の学者でこれだけあけすけに山陽を批評できるのは、淡窓のほかには少なかったであろう。
(感想)この二人は歳も近く、神辺・廉塾時代から旧知であり、また十代から持病や難病に侵され、克服してきたという共通点もあり、お互い歯にものを着せない言い方が出来たと思う。淡窓が指摘した山陽評はなかなか面白く、山陽を共感できる一面でもあると思う。
観光地として知られるのは豆田町で、私達が歩いたのは「隈(くま)町」。豆田町から西へ徒歩20分。
頼山陽は日田に滞在中、熊本に戻っている。山陽ならではの目的とは? 近砂敦著「耶馬渓」収録、見延典子「獲物」をお読みください。
次回、いよいよ山陽が歩いた中津正行寺までの道を辿ります。
2017・6・10
頼山陽が歩いた道➁「日田隈町」
日田には行ったことがあるけれど、今回紹介しているような場所は知らないという方は多いのではないか。
豪商の多い天領日田は頼山陽にとっては誠に居心地がよかったようで、福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、再び熊本、大分の竹田を8カ月かけて巡った後、日田で1カ月ほど滞在するのである。詳細を書こうと思ったが、すでに中津のオッサンがリポートしてくださっている。このページ下方をご参照ください。
山陽は京屋(山田家、写真右)でも世話になり、新築した亭に「如斯亭」と命名。もちろん無料で、ということはないだろうけど(笑)
石碑(写真上、右)は樹木に覆われ、教えていただかなければ見過ごしただろう。
続きます。
2017・6・8
頼山陽が歩いた道①「日田隈町
6月2日、中津市在住の郷土史家
中津のオッサンこと近砂敦さん、島藤寿敏さんのご案内で、199年前、頼山陽が歩いた日田から正行寺に至る道を辿った。
上の写真、お二人が立っているのは鍋谷(森家)悠然亭前付近で、その前を三隈川が流れ、右手に亀山公園がある(写真左) 山陽はこのような光景を眺めつつ、広瀬淡窓はじめ日田の著名な人々と交流した。田能村竹田からの紹介状は相当の効力をもっていたようである。
2016・2・17
中津のオッサン
「頼山陽 日田の足跡」最終回
11月29日前後、京屋、山田子襲(小三郎)が亭を新築していたので、求めに応じて「如斯亭(じょきてい)」と命名、亭の扁額に揮毫。如斯の意味の「かくの如く」は肥後、肥前、豊後、豊後、筑前、筑後、五国の流れを集め筑後川の大河になるように、山田氏の富と繁栄は五国の富が集まり続けるとして名付けたと「如斯亭記」を著す。
山陽は森五石に「寒林山水之図」森春樹に「山水之図」森春明に「山水之図」森荊田に「秋景山水之図」を送呈し、この四幅は「森家四幅」といわれていた。
12月3日 広瀬淡窓、中島子玉をともない悠然亭を来訪。日田での所縁の人々が集まり、別れの宴が開催される。山陽は日田滞在中、世話をやいてくれた森家の家僕、清兵衛に書を与える。
12月4日 日田を去るにあたり、森春樹、森荊田、山田子襲らが迎えに来て、館林萬里等と咸宜園の広瀬淡窓を訪問。歓談する。館林萬里とともに宿泊。
12月5日 日田発 ~ 伏下峠 ~ 一ッ戸隧道 ~ 宮園村(民泊)
山陽は、広瀬淡窓、中島子玉らに見送られ隈町からは森春樹、森荊田らが加わり、淡窓らは豆田を過ぎ花月川を渡った河原町まで見送り、森春樹らは羽野の天神様あたりで別れを告げ、館林万里に案内されて、一ノ瀬(日田市市ノ瀬)からに伏木峠を越えて、龍(中津市山国町守実龍)を過ぎ、守実まで来て、館林万里とともに一宿し翌朝、別れ一人旅になる。 (了)
写真も中津のオッサン
森五石の配慮で宿泊地は当初、鍋屋という大商家であったが、朝早くから、夜遅くまで人の出入りで騒々しいのと親族間で宿泊地の奪い合いが起こるのを恐れ、隣の西教寺座敷に移る。食事等は悠然亭で接待。
日記に「山陽が再び隈町に戻ってきた」とあり。中島子玉、広瀬淡窓に代わり挨拶に来る。
2016・2・11
中津のオッサン
「頼山陽 日田の足跡」②
11月4日 咸宜園の講義を聴講、中島子玉(中島米華)が風邪をひいていた広瀬淡窓の名代として来訪して挨拶。
11月8日 夕刻、館林万里の案内で広瀬淡窓を訪問。淡窓の伯父広瀬平八(月化)、千原幸右衛門同席。文化5年に淡窓は菅茶山に自作の詩文を送り批評をもとめ山陽は称賛し、初対面
であったが、互いに認め合った間。咸宜園内の秋風庵に一泊。
11月9日 広瀬淡窓「秋風庵」を訪問、夕刻まで会談。夕刻、隈町にもどる。各家の求めに応じて揮毫、書、画、漢詩など芸術論などを話す。この頃に森荊田(当時32歳)の書屋に「竹香書屋」と命名。
11月中旬、森春樹とともに筑後川を下り、久留米に藩儒学者、樺島石梁を訪問し熊本に村井琴山所有の釈如泰の書巻をもとめに出発。
11月25日(冬至)日田隈町戻る、淡窓日記に「山陽が再び隈町に戻ってきた」とあり。中島子玉、広瀬淡窓に代わり挨拶に来る。
11月26日 夜、館林萬里と広瀬淡窓を訪問。課題の詩席を開催、淡窓の伯父酢屋清太郎、幸右衛門が同席、蕎麦を食べて暁近くに散会。
写真も中津のオッサン 次回最終回
参照 大分県中津市の地方史
2016・2・6
中津のオッサン
「頼山陽 日田の足跡」①
文政元年(1818年)2月17日、頼山陽(39歳)は広島において父春水の三回忌法要をすませた後、九州遊歴の旅に出る。
福岡→佐賀→長崎→熊本→鹿児島→熊本→大分、と九州を旅するが、ここでは11月3日、頼山陽が日田隈町(大分県)に到着し、12月16日まで中津を離れるまでの行程や活動の様子を、残されている資料と口伝を活用して解明を試みる。
11月3日夕刻。
頼山陽は前泊地の豊後竹田から、田能村竹田(42歳)と加島富上(古田藤助)の紹介状をもって、隈町紺屋町、鍋屋、森五石(当時72歳)の隠居所「悠然亭」に到着。
山陽は「田能村竹田を始め多くの人々から、小さな町ではあるが、豆田には広瀬淡窓もいるし、隈町には文化に造詣が深い人達がそろっていると勧められるので訪問しました」と挨拶。
森五石、森春樹(五石の長男・48歳)は歓び、森家親族、縁戚の京屋(山田家)などを集め、歓迎の宴を開催し、しばらく日田に留まるように説得した。
広瀬淡窓は、自身の日記に「賴徳不老、隈町に至るを聞く」「発熱悪寒極甚」とあるように風邪をひいていた。
写真も中津のオッサン。続きます。
参照 大分県中津市の地方史