特に記載のない場合は見延典子が書いています。

 小田海僊模写「山鬼の図」(原図不明)
 小田海僊模写「山鬼の図」(原図不明)

屈原は、まず楚という国の君と民への忠義に殉じた熱烈な愛国者でした。次いでおそらくは中国文学史上最初の、そして屈指の浪漫主義者でした。その国難への殉死の壮烈さゆえに、愛国詩ばかり注目されて、日本ではあまり有名ではありませんが、屈原の詩には女性の恋の情熱をうたった詩も多いのです。硬派でありながら、かつ女性になりきって恋の詩も詠む、そんなイメージが屈原にはあります。

2022・4・2 

新江利彦さん

小田海僊模写「山鬼の図」(原図不明)とスタジオジブリ「サンと山犬」

 

今回は頼山陽とはあまり関係ない話題です。

最近、ベトナム近代歴史学の祖・ダオズイアイン(陶維英)によるベトナム語訳『楚辞』(1974年、伝・屈原撰、紀元前278年頃)を読んで、頼山陽の親友・小田海僊による「山鬼の図」(1860年頃)を思い出しました。屈原は二重の意味で、いかにも頼山陽好みの詩人です。

 スタジオジブリ「サンと山犬」
 スタジオジブリ「サンと山犬」

そして、その恋の詩は壮大な自然を背景とする、抒情詩というより抒景詩のような迫力と清冽さをもちます。

頼山陽と小田海僊はほぼ同年代ですが、小田海僊のほうが若干若く、小田海僊の絵は頼山陽との交流の中で変化していきます。

伝・屈原作の「山鬼」という詩の主人公は、山に住む長寿の女の精霊で、ダオズイアインは「山の神」とベトナム語に訳します。彼女は山のくまに住み、いたびの樹皮を腰に巻き、さるおがせを帯に巻き、赤い豹に乗って野山を疾駆し、山を訪れた凛々しい貴公子と相思相愛になります。獣皮と樹皮で身を包み、狼に乗って野山を疾駆し、勇者アシタカを憎からず思う。宮崎駿監督、スラジオ・ジブリ制作のアニメーション映画『もののけ姫』(1997年)の女主人公サンは、このサンキ(山鬼)からとられたもののようです。小田海僊が描く山鬼は何らかの原画の模写らしいのですが、構図もジブリ的です(添付)。ダオズイアインによるベトナム語訳は、大変な自由訳なのですが、わたしは気に入っています。

ふたりは、おそらくは結縄(キープ)で逢引の日を決めますが、もともと険しい、昼なお暗い山奥に住む女の精霊は、恋人に贈る花さがしに手間取り、遅れてしまいます。雲の上の山頂で、ひとりがっくりとする女の精霊ですが、下界を見下ろせば、さいわい東風がもたらした雨のために、恋人はまだ山を下り切っていない様子。さあ、愛しい男をとどめて、素敵な時間をすごしましょう。わたしは長寿の精霊で、あなた以外にわたしを愛してくれそうな人はいないのだから。以下「山鬼」の前半の書き下しです。

 

若有人兮、山之阿  (ひとならざるも)ひとあるがごとし、山のくまに   

被薜荔兮、帶女羅   いたびをはとり、さるをがせを帯とす

既含睇兮、又宜笑  (われ)すでにぬすみみをふくみ、またよく笑ふ

子慕予兮、善窈窕   きみわれをしたふ、よくしとやかなりと(反語)

乘赤豹兮、從文狸   赤豹に乗り、文狸(まだらのじゃこうねこ)をし

           たがへ、

辛夷車兮、結桂旗   こぶしのかんむりに、かつらの旗を結ぶ

被石蘭兮、帶杜衡   ひとつばをはとり、かんあおいを帯とす

折芳馨兮、遺所思   かほるはなををり、おもひびとににおくらんとす

餘處幽篁兮、終不見天 われふかきたかむらにありて、ひねもすそらを見

           ず

路險難兮、獨後來   みちけはしくして、ひとり(あひびきに)おくれ

           きたる

表獨立兮、山之上  (きみさりしのち)われあらはれてひとりたつ、山

           の上に

雲容容兮、而在下   雲は容容として、下に在り

杳冥冥兮、羌晝晦   杳として冥冥として、ああ昼なほくらく

東風飄兮、神靈雨   東風(こち)ふき、神霊雨をふらす

留靈脩兮、憺忘歸   霊修(ゑをとこ)をとどめ、憺(たん)として帰 

           るを忘れしめんか

既晏兮、孰華予   としすでにおそし、だれぞわれを華さかしめん

 

としすでにおそし、だれぞわれを華さかしめん」の句は、頼山陽には耳が痛いかもしれません。頼山陽は自立した聡明な大人の女性を好みましたが、一方、彼女たちにとって、頼山陽は恋愛相手としては最後の男であったかもしれず、必ずしも誠実な恋人とは言えなかった頼山陽によって女ざかりをむなしくさせられた恐れもあります。その点、『もののけ姫」の終幕における勇者アシタカは頼山陽よりもずっとしたたかです。彼ははサンに結婚しようとは言わず、ただ「会いに行くよ」とだけいうのです。

 

 河南源兵衛
 河南源兵衛

海運業で栄えた阿久根。その発展に大きく貢献したのが河南源兵衛です。16世紀末、薩摩藩は明国と薩摩に服従していた琉球を足掛かりにして、中国と貿易を行い、当時、高値で取引をされていた「唐物」で利益を得ようとしていました。そこで抜擢されたのが、藍会栄(のちの河南源兵衛・写真)。藍会栄(らんかいえい)は中国の明王朝の側近として仕える家柄の役人でしたが、16世紀末のころに満州から女真族(のちの清王朝)が侵攻してきて内乱状態となり、琉球へ亡命の身でした。薩摩藩は、名国内部の事情に明るく、品物の目利きができ、中国語が堪能であった会栄を藩の士分として迎え、唐通詞(通訳)として取り立てました。こうして会栄は藩から名字帯刀が許され、故郷である中国の河南省から「河南」をとって姓とし、名を「源兵衛」と名乗ることになりました。これが初代「河南源兵衛」のはじまりといわれています。久根市ホームページより(写真も)

2022・3・20

見延典子 →  新江利彦さん

「目からウロコ」

 

 従来にない視点でのご教示に感謝申し上げます。

 『日本楽府』は10年程前、勉強会で渡部昇一さんの本をテキストに全文読み通しましたが、あまりにも難解で、お手上げ状態でした。山陽が生きた時代の多くの文人たちも、内容を理解できなかったといいますから、わからないのも無理はないだろうと、早々諦めておりました。

 今回の新江さんご解説で、なぜわからないのか、その理由の一端がわかってまいりました。山陽は日本史を中国史(こんな言葉があるかわかりませんが)と重ねて詠んでいるわけで、中国史が理解できない以上、山陽『日本楽府』も理解できるはずがないのです。

 もっとも『日本外史』その他の山陽の著作においても、山陽の中国通の一面が多々見られ、その分野を理解することでしか、頼山陽という希有な文人の業績の全貌は理解できないだろうとは思ってはおりました。

 

1659年の南京決戦で南明軍は清軍に完敗し、朱舜水は日本に亡命して水戸黄門の学術顧問となり、鄭成功は台南に移って東寧国を建国し、三代五十年間、台湾海峡をはさんで清国と対峙します。頼山陽が鄭成功を倭寇とみなすのは、近松門左衛門の「国姓爺合戦」(1715)の影響もあるでしょうが、正確です(厳密には漢人倭寇の子ですが)。


  山陽は九州遊歴中「台湾」を入れた漢詩を詠んでおり、なぜだろうと思っておりました。その折り、山陽は阿久根で豪商河南源兵衛と会っています。河南源兵衛は中国河南省出身の帰化人で、明治に入り子孫が「山陽先生真蹟西遊詩」を出版しました。そんなことも、新江さんからのご指摘により、私の中でストンと落ちてくるものがありました。(阿久根、台湾入りの漢詩、河南源兵衛も刊行予定の『頼山陽史跡詩碑めぐり』で紹介しています)

 

 遅ればせながら「国性爺合戦」も読みはじめました。引き続きよろしくお願い致します。

 

2022・3・18 

新江利彦さん「頼山陽『日本楽府』は、本家「楽府」の本歌取り」

 

頼山陽「日本楽府」(1828)は中国・明の李東陽「擬古楽府」(1516頃)に倣って書かれたとされていますが、「擬古楽府」じたい、文字通り、本家の「楽府」(魏晋南北朝、3世紀~6世紀、現存のものは郭茂倩が1100年ごろ編集)に倣ったものです。南北朝とくに北朝の詩は、いかにも楽府(音楽に付けて歌う歌)らしく、字数の整ったものや韻を正しく踏んだ、後代のような漢詩らしい漢詩があまりありません。むしろ「楚辞」に近い感じです。

 

最近、山陽先生は本歌取りをしているのではと思い、「日本楽府」をぱらぱら見ていたところ、それらしい箇所がありました。本歌は「楽府」の企喩歌、本歌取りは「日本楽府」の胡蝶軍、本歌から取り入れられた語句は「可憐な虫」です。「楽府」南朝梁の横吹曲にはいくつか北朝の歌が混入し、そのうちの企喩歌は、昔懐かしいテレビ時代劇「大江戸捜査網」の冒頭言「死してしかばね、ひろうものなし」の由来として有名です:

 

本歌(企喩歌):

男児可憐虫 男児は可憐の虫なり

出門懐死憂 門をいづれば死の憂ひあり

尸喪狭谷中 しかばねは峡谷の中にすつられ

白骨無人収 白骨はひらふ人なし

 

北朝の武者たちは同情すべき虫けらである。

外に出れば七人の敵に狙われる。

死してしかばねひろうものなく、

野ざらしになるだけだ。

 

本歌取り(胡蝶軍):

胡蝶軍 飛還聚 胡蝶のいくさは、飛びまたあつむ

飛去飛来江南路 飛び去り飛び来る、江南の路へ

蝶来非是関東風 蝶の来るは東風にかかはるにあらず

西人自誇捕捉功 西人自ら捕捉の功を誇るも

東風却吹朱氏火 東風かへって朱氏の火を吹く

扶桑産出可憐虫 扶桑の産出、可憐の虫なり

 

明の愛国的な武者たちは、かつて明に敵対した倭寇の胡蝶軍のように、伏兵と離合集散を繰り返す

江南地方を清から奪い返すため、飛び去ってまた飛来する

蝶(武者たち)が集まって来るのは必ずしも東風(鄭成功)の力ではない(個々の愛国心による)

西人(清人)が明の旧皇族や将兵の捕捉の功績を自慢するから

よけいに、東風が明の皇室である朱氏の火徳を鼓吹することになる

東風は日本生まれの同情すべき虫けらである

 

胡蝶のいくさというのは、倭寇の用兵が蝶の離合集散に似ていることから出た倭寇の異名です。ここでは、胡蝶軍は、1644年に明を滅ぼした北京の農民反乱軍(闖軍)と、その直後に侵入してきた満州の清軍という、ふたつの圧倒的な兵力に対抗した、南京の元学生・朱舜水や明に帰順した元海賊(倭寇)・鄭成功らからなる南明軍(東都軍)を指します。しかし、1659年の南京決戦で南明軍は清軍に完敗し、朱舜水は日本に亡命して水戸黄門の学術顧問となり、鄭成功は台南に移って東寧国を建国し、三代五十年間、台湾海峡をはさんで清国と対峙します。頼山陽が鄭成功を倭寇とみなすのは、近松門左衛門の「国姓爺合戦」(1715)の影響もあるでしょうが、正確です(厳密には漢人倭寇の子ですが)。代表的な倭寇でありベトナムの国民叙事詩である「金雲翹」(1820頃)の主人公・王翠翹は、もとは山東の裕福な商家の娘でしたが、運命の流転により、情夫の徐海とともに、鹿児島・坊津を基地として、日本人と漢人を率い倭寇活動を行っていました(1540-1550頃)。徐海は平戸の漢人倭寇頭目・王直の弟子筋であり、鄭成功の父・鄭芝龍も平戸に基地を置く漢人倭寇(1620-1630頃)であったと考えられています。なぜ山東漢人であり坊津倭寇の女頭目であった王翠翹がベトナム叙事詩のヒロインであるのかは、よくわかりません・・・

 

 

2022・3・2 新江利彦さん ベトナム語による頼山陽②

      「頼山陽は漢代「史記」や史記以前の古漢文を完璧に復元」

 

ホアン・ロン・チエウ・ハイさんの指摘は二点あると感じます。

 

1,清代の銭懌(銭子琴、1882年没)による評価などに見られるように、頼山陽は漢代「史記」や史記以前の古漢文を完璧に復元しています。個人的には、司馬遷の怨霊に憑依されたんじゃないかと感じています。特に見延先生の描く山陽の気質は霊媒にはうってつけです・・・

https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/singaku-33.html

https://www.nishogakusha-u.ac.jp/eastasia/pdf/kanbungaku/12kanbun_02.pdf

 

山陽の詩(韻文)は漢代以前の上古中国語音(上古音)や唐代中国語(前期中古音)の音韻規則にきわめて忠実である一方、宋代の韻書である「広韻」が示す宋代中国語(後期中古音)において歌部の漢字グループに起きた音韻変化(母音変化)であるアウォ(歌:カgā→クォ)を反映しません。たとえば不可(フカ)を北京語でプクォ(ペケ)と読むような現象を、山陽の詩法・押韻は反映せず、歌部(カ)と麻部(マ)の母音を同一のアaと認識します。これが、ハイさんのいうところの、宋代「広韻」規則からの逸脱です。この後期中古音にみられる音韻変化は、唐代中国語(前期中古音)を輸入したベトナムを含む周辺諸国には波及しませんでした。

 

2,また、同様に、宋代以降において起きた音韻変化である一部の下平声の上昇調化(麻:mā→má)と、去声の下降調化という声調逆転(低平声調が上昇し、上昇声調が下降声調になる)を反映しません。この変化は、宋代「広韻」においてもまだ反映されておらず、より後代の元代・明代中国語(近古音)における現象と考えられます。

 

唐音(前期中古音)を輸入したベトナム語(越語)、朝鮮語、日本語では、古漢文と同様に、歌部(カ)と麻部(マ)の漢字グループは、声調高低も母音も同一で、問題なく押韻できます。しかし、中国本国の宋音(後期中古音)~現代北京音では、声調が異なり(歌部は下平声「ー」のままだが麻部は上昇調平声「/」に変化)、母音も異なる(歌:カからクォに変化、麻:マmā→máつまり「a」のまま)ので、北京語を日常語とする中国人においては、歌部と麻部の漢字グループは二重の意味で押韻できません。そのために、ほかの面ではきわめて正確に漢詩の詩法を守る中国国外の詩人たちのあいだに、下平声の歌部と麻部の漢字グループの押韻にかんしてだけ、中国ではありえない詩法がみられる。ハイさんの分析は、かいつまんでいうと、こういう感じのことだと思います。

 

隔離が明けたらハノイ市内や越国内各地を訪れて、また4月以降は吉田さんと意見交換しながら、頼山陽や儒教・日本とベトナムのつながりに関する情報や写真などをお送りしたく思います。

 

 

2022・3・1 会員の新江利彦さん

             「ベトナム語による頼山陽『川中島』」

 

2/25金曜にベトナムに渡航しました。二年間の勤務になります。きのう、ベトナムの漢詩ブロガー、ホアン・ロン・チエウ・ハイさんのブログに頼山陽の詩法の分析があったので、その箇所だけですが、訳出しました。ネットワークのみなさまにご笑覧たまわれればさいわいです。ベトナムに

 

 新江利彦さんへ

 初のご投稿をありがとうございます。しかもその内容がまったく知らない話だったので、驚きました。頼山陽の漢詩がベトナム人にまで愛吟されているなんて。ベトナムで、さらなる情報がありましたらお知らせください。よろしくお願い致します。

                    見延典子

 

http://hoanglong-trieuhai.blogspot.com/2015/03/

Về một thi pháp thơ chữ Hán

漢字詩の一詩法に就いて(抜粋)

Hoàng Long Triều Hải

皇龍朝海

2015/3/18 (Sat)

2022/2/27 (Sun), 新江利彦訳

概要:

ベトナム(越南)の漢詩ブロガーであるホアン・チエウ・ロン・ハイ(皇朝龍海)による非中国語母語話者の漢詩押韻に関する初歩的な分析である。陳彭年撰『広韻』(宋大中祥符元年、1008206部のうち、特に下平声(平声低)の第七韻(歌部)と第九韻(麻部)に注目する。中国語の声調(トーン・アクセント)を言葉で説明するのは難しいが、おおまかにいうと、下平声は低く平らな声、上平声は高く平らな声、上声は下降して上昇する声、去声は上昇する声、入声は上昇してつまる声(促音)である。日本語上代特殊仮名遣いは母音の違いを漢字の声調の違いで示したため、遣唐使の廃止後、知識人の中国語能力の衰えとともにいったん失われたが、江戸時代に中国語音韻学を研究して日本語歴史仮名遣いを完成させた本居宣長らにより再発見された。中国語北方(中原)方言では平仄のうちの平声は高低二つに分かれ、また入声が消滅してその多くが去声に編入されて、全四声調からなる。これに対し、南方方言やベトナム語(越語)では平仄のうちの仄声(上声、去声、入声)も高低二つに分かれるため、平声二、仄声六の全八声調からなる(広東語は平声が更に高低中の三つになるため、全九声調からなる)。ここでは、その頼山陽「題不識庵撃機山図」分析の部分を抜粋して日本語訳する。

 

抜粋:

Bài thơ sau của Rai San’yō (Lại San Dương) người Nhật cũng cho thấy cách gieo vần giữa hai vận bộ ca và ma.

次の日本の頼山陽の詩も、歌と麻の二つの韻部の間で韻を踏む方法を示している。

 

Đề Bất thức am kích Ky San (Cơ Sơn) đồ

ダイ フシキアン ゲキ キザン ズ

題不識庵撃機山図

 

Tiên thanh túc túc dạ độ hà

ベンセイ シュクシュク ヤ トカ(カカ)

鞭声粛粛夜渡河(過河)

 

Hiểu kiến thiên binh ủng Đại Nha

ギャウケン センペイ ヨウ ダイガ(タイガ)

暁見千兵擁大牙

 

Di hận thập niên ma nhất kiếm

イコン ジフネン マ イッケン

遺恨十年磨一剣

 

Lưu tinh quang để dật Trường Xà

リュウセイ クヮウテイ イツ チョウダ

流星光底逸長蛇

 

Ở bài thơ này, vần hà thuộc vận ca đã gieo với vần nha, xà thuộc vận ma.

この詩では、河は歌部の韻であって大牙(象牙旗)の牙と韻を踏み、また蛇は麻部の韻である。

 

Vậy tại sao thi pháp thơ chữ Hán này chỉ thấy xuất hiện ở các nước đồng văn với Trung Quốc, trong khi ở chính Trung Quốc lại không xuất hiện ?

このような漢字詩の詩法は、ただ中国の同文諸国において出現するのが見られるだけで、当の中国においては出現しない。なぜであろうか。

 

Ngoài ra tiếng Việt, tiếng Hàn, tiếng Nhật thuộc các hệ ngôn ngữ khác nhau và phải chăng trong các ngôn ngữ này các vần thuộc vận ca, qua quá hài hoà với các vần thuộc vận ma,

ベトナム語(越語)だけでなく、韓語、日語もまた中国語とは異なる語族に属しており、これらの言語では、下平声第七韻(歌部)、第八韻(戈部)は下平声第九韻(麻部)と極めて調和するために、

 

nên các nhà thơ đã phá bỏ nguyên tắc Quảng vận mặc dù họ luôn tuân thủ quy tắc này một cách chặt chẽ ở các trường hợp khác ?

 

これらの諸国の詩人たちは、『広韻』の原則をほかの各場合においては厳守しているにも関わらず、この場合には破ってしまったのではないだろうか?

 

2021・11・6

11月20日(土) 頼山陽と日本外史(英語)

 

11月20日(土)10時~11時半 オンライン

お問い合わせ先 公益財団法人広島平和文化センター

2021・10・5 ロバート・タック先生に訊く 最終回

「『日本外史』の英訳はどこまで進んでいますか? また完成はいつですか?」

 

Q(見延)

『日本外史』の英訳はどこまで進んでいますか? また完成はいつですか?

 

A(タック先生)

今現在『外史』の最初の十一巻、つまり全文の約半分を完成しています。これから校正したり、脚注を入れたり、戦の地図などを作ったりしています。

『外史』の場合では、翻訳というのはただ言葉を訳しただけで終わったようなものではなく、英語圏の国の読者にとってどんな補助・説明が必要なのかというも考えなければいけません。かなり充実した説明がなければ、読んでも意味が分からないという可能性があると思います。

例えば明治初期(18712年)のサトー氏の『外史』の部分的英訳を見れば、補助の必要性が自ずから明らかになってくるでしょう。英語を母国語としている一般の読者でも、サトー氏の英訳は単刀直入にいえばわかり難いと言っても大袈裟ではないと思います。私はサトー氏の犯したような間違を繰り返すつもりはありませんね。

 

 

新型コロナウイルスなどの影響で進歩状況が少し遅れてしまったのですが、これからうまくいけば2024年の終わりごろに全文の完成を目指しています。これからも一生懸命頑張りたいと思っております。

考えてみれば頼山陽の『外史』の執筆は20年もかかったので、翻訳も例えばその半分の10年かかっても、誰も文句は言えないのではないでしょうか…

 

(見延)

ご多忙の折り、質問にお答えいただき、ありがとうございました。

タック先生の『日本外史』全文英訳の完成を楽しみにしております。

ご健筆をお祈り申し上げます。

 

    ※タック先生にご許可をいただいた上で、先生からのメールをそのまま掲載

     しております(見延)

 

2021・10・3 ロバート・タック先生に訊く③

「『日本外史』のどこがおもしろいか?」

 

Q(見延)

「日本外史」のどこがおもしろいと思いますか?

 

A(タック先生)

一番最初に自分の注意を引いた『外史』のところはやはり戦の場面や名セリフだったと思います。例えば、上杉謙信の「争う所は米塩にあらず」など、本能寺で明智光秀による織田信長の暗殺(本能寺の変)などが挙げられます。これはすごいな、英訳すれば関心のある読者はきっといるだろう、とその当時に思ったのです。そういう箇所、つまり戦やセリフ、に『外史』の独特な味わいがあると思います。

 

    ※タック先生にご許可をいただいた上で、先生からのメールをそのまま掲載

     しております(見延)

 

2021・9・30

月刊ウエンデイ広島に「タック先生の『日本外史』英訳」

 

月刊ウエンデイ広島に連載中の「戦前の広島30回」(2021年10月号)に「タック先生の英訳」が掲載された。

wh239-202110.pdf (wendy-net.com)

2021・9・26

ロバート・タック先生に訊く②

「『日本外史』を英訳しようと思った理由」

 

Q(見延)

そもそも『日本外史」を英訳しようと思った理由を教えてください。

 

A(タック先生)

 2008年の春(博士課程3年目にあたりますが)にコロンビア大学で日本漢文のゼミを受けていました。そのとき、漢文の読み方を習う教科書として、駒井明TH.ローリック 共著の『An Introduction to Japanese Kanbun(「日本漢文入門」、名古屋大学出版部)を使っていました。

 

 その本の中には『日本外史』の数か所が例文として入っており、例えば第十一巻の上杉謙信・武田信玄のやり取り「争う所は米塩にあらず」や第十二巻の小早川隆景、「明人をして、日本に小早川隆景なるものあるをして知らしめん」などが特に記憶に残った個所でした。そのときに、これはすごいなと思って、いつかは『外史』を英訳すると決心したのです。

 

 しかし大学院の当時、主な研究テーマは俳人の正岡子規及び明治時代の詩歌と出版文化との関係であったので、『外史』の英訳という長い作業に乗り出す暇はありませんでした。結局2018年に、やっとのこと、拙著の『Idly Scribbling Rhymers: Poetry, Print, and Community in 19th Century Japan』が出て、研究テーマを変える余裕が与えられました。そこで10年も抱いていた『外史』を英訳する希望が実現するようになりました。

 

    ※タック先生にご許可をいただいた上で、先生からのメールをそのまま掲載

     しております(見延)

 

ロバート・タック先生
ロバート・タック先生

2021・9・23

ロバート・タック先生に訊く①

「『日本外史』の英訳に際して使用している文献」


 先日の「第12回アジア学者国際大会(ICAS)」の後、ロバート・タック先生(アメリカのアリゾナご在住)に直接メールをして、現在全文英訳中の『日本外史』についてお尋ねした。

 

Q(見延)『日本外史』の英訳に際して使用している文献はなんですか?

 

A(タック先生)

 1844年に出た保岡嶺南校正の『校刻日本外史』(漢文)をメイン・テキストとして使っています。『日本外史』は元々漢文であったという事実は、それだけの意味があると思いますので、書き下し文だけ読めば、漢文というメディアの意義を消去してしまう恐れがあると思います。

 保岡嶺南校正の『校刻日本外史』
 保岡嶺南校正の『校刻日本外史』

 例えば徳富蘇峰は山陽が「不自由なる漢文」で『外史』を書いたというのを遺憾に思ったと言っていますが(『頼山陽とその時代』1898年)、山陽自身にとって漢文で『外史』を書くことはごく当たり前のことだったと思います。そうは言っても、私は明治以降に出版された書き下し文・現代語訳などを完全に無視しているというわけではありません。

 

 参考に使っている本は数え切れないほど多いですが、特に明治7年の『訓蒙日本外史』、大町桂月の『絵本日本外史』(大正7年)、頼成一氏の『日本外史解義』(昭和6年)、興文社の『日本外史講義』(昭和8年)などが挙げられます。そして、明治初期の『日本外史字解』など、『外史』の表現をほとんど一つ一つ説明しているいわゆる「外史辞書」もたくさんありますので、それらも参考に使っております。

 

    ※タック先生にご許可をいただいた上で、先生からのメールをそのまま掲載

     しております(見延)

 

2021・8・29 4元中継、オンラインで頼山陽

 

 すでに告知していたように、8月28日「第12回アジア学者国際大会(ICAS)」で、頼山陽についての座談会がオンラインで行われた。

 

 テーマは「The Legacy and Times of Sanyo Rai: The nexus of history and historiography in Robert Tuck’s forthcoming Nihon Gaishi translation.」(頼山陽の遺産と時代。ロバート・タックが翻訳を予定している『日本外史』における歴史と歴史学の結びつき)

 ニューヨークにいるベッテイーナ・オカ上智大学教授の司会進行により、『日本外史』の全文英訳に取り組んでいらっしゃるアラスカ在住のロバート・タックアラスカ大学教授からお話を伺った。

 

 また広島にいるジョンさん、山口さん、上口さん、見延は、頼山陽や『日本外史』との関わりを語った。京都の精華大学が主催なので、ニューヨーク、アラスカ、広島、京都の4元中継ということになる。

 

 座談会は英語で行われるということで、ジョンさん、山口さん、上口さんのご協力のもと、高校時代の受験英語以来のトレーニングを重ねてきた。細かなミスはあったが、ベストは尽くした。皆さん、ありがとう!

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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