2022・7・16 最終回「北条氏論賛」
北条氏は政権を得ても執権になり、将軍にはならなかった。実権を握っているのに、非難できないようにした。皇帝の廃立、摂政関白の進退に手を出しながら、やむを得ない措置と見せかけた。北条氏の家法である。
北条氏論賛
北条氏の源氏における関係は、藤原氏の皇室における関係とほぼ同じである。北条氏も藤原氏もわずかな武器しか使わず、国家の権柄を奪い取った。なんと容易なことだろう。人の情として、自分の一族を大切に思わない者はいない。だが妻の一族を頼みに思う余り、兄弟や親族を排除して子孫のための心配を排除したと考える。それが兄弟親族を切り捨て、妻の実家を助けることになっていると気づかない。気の毒である。
源氏が政権を樹立した過程は、皇室が成立したものとはまったく異なっている。皇室では行なわなかった失策もやった。それゆえ源氏が禍を招いたのは、皇室より一層烈しかった。外戚の北条氏の陰密な計画、狡猾な知恵をもってしても、とうてい藤原氏などには及ばない。北条氏は源氏の兄弟叔姪を戦わせ、手足の家来を切り捨て、実権を黙って盗み、自分は無関係というように何食わぬ風を装った。
北条氏は政権を得ても執権になり、将軍を頂いて助ける様を装い、決して将軍にはつかなかった、そして実権を握り、利益はすてながら根本の権柄を執り、天下の者が非難できないようにした。子孫もそのやり方を守り、手落ちのないように行き届いた配慮をした。ついに帝王の廃立、摂政関白の進退まで手を出し、決済を自分で行なうまでになった。それでいて自分の関係の筋ではない、やむにやまれぬ措置と見せかけた。これが北条氏の家法であり、北条氏が長く天下の政権を握ることができた理由だ。そして人民を掌握する段になると、その熱心さは前後の武族随一であった。
思うに、北条氏は道に背き、大罪を犯していることを百も承知で、埋め合わせのために民事をつくして罪を購おうとした。中でも泰時が最も優れていた。世の論者は泰時について完全な人としているが、自分は承久の乱においては泰時こそ罪の渠魁であると思う。それは次の理由からである。
北条泰時の賢さが世間で言い伝えられている通りなら、承久の乱を平定して京都で大兵を擁していたとき、大きな処分はみな彼の手を経ていたのだから、朝廷と幕府を斡旋するときなぜ善処しなかったのか。彼にそれができる権力はあったのだ。それを考えず自分の父を大悪(上皇の島流し)に陥らせた。彼がその後善政をしたとしてもこの罪は消せない。
それでわかったが、『増鏡』に「北条泰時は父に御所へ行き降参するように勧めたが、聞きいれてもらえなかった。また自分が大将になって出かけるとき、父に「上皇が親征されるのに出会ったらどうしますか」と尋ねたら、「そのときは仕方ないから降参せよ。でなければ思いきって進め」といったと書いてあるが、歴史家は泰時のために過ちを飾ってやったので、信じるに足らない。彼が後嵯峨天皇を立てたのも、自分の家の恩と仇に対する私情から出たのだ。論者が天命とか正理というのは褒めすぎだ。
しかしながら北条七代の中で人道の上から論じる資格があるのは泰時だけである。義時は虫けら同然で、責めるに値しない。「義時は深見某を殺し、その子を近づけて、その子に殺された」と伝えられる。あるいはそうであったかもしれない。
昔、平清盛、源義仲はみな兵を挙げて、上皇に抵抗したが、讒人を除こうとしただけで、決して上皇を押し込めたりしなかった。それでも誅戮は免れなかった。義時は大逆賊であるのに、うまくいい逃れた。天は彼の家来の手を借りて彼を倒した。子孫にいたっては、新田氏の一撃で根拠をえぐり取られ、悉く殺された。天網恢々、疎にして漏らさずという語があるが、嘘でなく、その通りだ。
頼山陽は改まっていう。北条時宗が元寇を防ぎ、皇国を保持したことは、父祖の罪を償うのに充分である。元は宋を恐喝したように、我が国にも向かってきた。我が国はその使者を退け、受け入れなかった。これだけの話ではいずれが曲か直かわからない。だが元が兵を率いて壱岐、対馬を攻め滅ぼし、曲が元にあることがわかった。だから元の使者が再来したとき、捕まえ、殺したのである。元の暴威をくじき、国民の心を安定させ、元が我が国を侮る心を奪い消し、死を覚悟して元の来るのを待った。いかにも時機に応じた適切な処置であった。そうでなければ宋のようになったかもしれない。
その後、菊池氏が明に対してとった態度は、時宗の跡を継ぐに近いものであった。足利氏が膝をかがめて外国に帰順したのはいうに足りないことである。豊臣氏はわが国体を辱しめず、足利氏よりはるかに勝っている。しかし明と戦うにいたっては大がかりにやりすぎた。結果、国内が苦しみ、疲弊した。
豊臣氏は攻め、北条氏は守り、勢いこそ違っていたが、北条氏と比べ、豊臣氏のやり方ははるかに及ばない、北条氏のやり方は、上着の兵を用いて守り、外から挑発する煩いない。軍が要する費用も、経営を乱す乱費はしなかった。将帥に任せ、干渉しなかった。戦争も陸にいて、元寇を引き寄せて小舟でむかいうち、』短い武器で急に近づき戦った。これらは後の手本とすべきである。
私はかつて九州の人から蒙古襲来の絵巻を見せてもらったことがある。的は大砲で盛んに臨んで来る。しかしわが方は刀を振りかざして応戦した。元軍は手もとに飛び込まれて大砲を撃つ暇がなかった。思うに、日本には大砲がなかった。このことから、兵の勝敗はもっぱら人の如何にあって、道具ではない。我が国特有の技はあり、それで戦えるということがわかった。
2022・7・14 北条氏の残党
北条高時の次男亀寿は北条時行となり、足利軍と戦う。吉野の後醍醐天皇にも足利尊氏を討ちたいと上言して許されるが、どこで終わりを迎えたかは不明である。
北条氏の残党
北条高時には二人の息子がいた。万寿、亀寿といった。万寿の母の兄、五大院宗繁は高時の臨終の際に委託を受けて万寿を隠した。新田義貞は探した。宗繁は万寿を斬り殺して、首を義貞に送ろうとした。だが世間の動向を気にして、「敵が襲来しようとしているので、伊豆に逃げられたほうがよい」と欺き、万寿は従った。宗茂は義貞に密告したあと、万寿を斬り殺した。義貞は宗繁のやり方を憎み、彼を誅殺しようとした。宗茂は逃げたが、匿ってくれる者がいない。饑えて、野垂れ死にした。
北条泰時が諏訪盛高に「万寿は宗繁に託した。おまえは亀寿を守り、後々の企てをせよ。兄の高時は自分で禍を招いたが、天はわが祖先の徳をお忘れせず、再興させてくれるだろう」と諭した。このとき高時は葛西谷に逃げ込んでいた。亀寿はまだ幼く、母親に連れられていた。盛高がそこへ行き、腰元に「はやく亀寿をわたせ。高時と最期の別れをさせたいのだ。万寿は死んだと聞く。亀寿も逃げるのはむずかしい」といい、女たちは泣いた。盛高は怒ったふりをして亀寿を連れ去り、信濃の諏訪明神の神主諏訪頼重の家に隠した。
泰家は逃げようと思い、深手を負って郷里に帰る者を装い、畚(もっこ)の中に横たわり、血に染まった着物を着て、南部景家、伊達匡衡に担がせ、二人の兵卒に敵方新田氏の旗印をつけさせ、馬に背負わせ陸奥に逃げた、残余の兵士二百人は泰家が遠方へいったころ、屋敷に火を放ち、自殺した。新田軍は泰家はもはや死んだと思った。鎌倉と六波羅は十五日間ですべて滅んだ。
長門の探題の北条時直は時房の五番目の子であった。伊予の土居氏、得能氏に攻められ、海を渡って東へ逃げた。途中、高時が死んだと聞き、筑紫に帰ろうとした。筑紫の短大の北条英時は小弐貞経に殺された。時尚は貞経に降参し、死を赦され、病死した。
淡河時治は北条時房の孫である、越前に駐屯して北陸道をおさえていた。江忠の守護職名越時有が戦死した。越前の平泉寺の僧侶が時治を攻めた。時治は妻子と自殺した。北条時直と時治が滅んだのは鎌倉、六波羅が滅んだのと同じ月であった。
この月、北条(大仏)高直、二階堂貞藤、長崎高資らは楠正成のいた千窟城の囲いを解き、退いた奈良を守った。七月、京都を侵略しようと謀った、ところが官軍が攻めてきた。高直らは髪を削って降参し、阿弥陀峰で斬り殺された。貞藤は高時を諫めたことがあったので、特に赦されて領地に帰ったが、謀反を企てて誅殺された、
翌年、赤橋重時、僧憲法と、本間、渋谷、規矩、糸田氏(みな北条氏の残党)がいっせいに決起しようとしたが、皆敗れて討ち死にした。北条泰家がひそかに陸奥から京都にきて、藤原の公宗を頼った。公宗は藤原公経の子孫で、北条氏と昔なじみであった。共に朝廷の隙を窺っていた。当時朝廷は政治をしくじり、天下の武士、人民は皆北条氏を思慕していた。泰家は髪を伸ばして還俗し、名を北条時興を改めた。北条高時の子、亀寿は信濃にいて北条時行と改めた。時期を合わせて京都を攻めようとしたが、露見して公宗は誅殺された。時興は逃げて、どこで終わりを迎えたかはわからない。
だが時行は諏訪頼重とともに昔の味方をかき集め、十日ばかりで五万人を得て、鎌倉に足利直義を攻めて、敗走させた。足利尊氏は京都からきて、足利時行を討った。時行は名越時基を三万人の大将にして迎え撃たせた。出発の間際、台風が襲来し、屋根が飛んだ。時基は縁起が悪いと出発を見合わせ、占いによって日を決め、日夜進軍して橋本で戦った。しんがりの軍中には逃げる者が多かった。戦っては退いたりしながら相模川に到着し、川の前に陣取った。満水で、時基は油断して敵に備えなかった。足利氏は夜のうちに川を渡った。時基は大敗を喫し、三百人と逃げ帰った。諏訪頼重は時行を脱走させ、自分は四十人あまりと顔の皮を剝いて自殺した。足利軍は時行が討ち死にしたと思い込んだ。時行は兵を起こしたが、二十日余で敗れた。世間では二十日前代と呼んだ。時行が兵を挙げると、名越時兼も加賀の兵士に攻め滅ぼされた。
延元二年(一三三七)北条時行は吉野の行在所に使いをやって、後醍醐天皇に「私の父高時は罪あって天子様に誅されましたが、私は怨んでいません。怨んでいるのは足利尊氏です。代々我が家で恩をうけながら急に背きました。しかも今、天子様を苦しめています。願わくは尊氏を討って父の仇を討ちたいとぞんじます」と上言して許された。時行は五千人と伊豆を出立し、官軍の大将源顕家に従い、足利義栓を鎌倉で打ち破り、美濃に向かった。上杉憲顕らと青野原などあちこちで戦い、和泉へいった。顕家が敗北したので、吉野の行在所に行き佐馬権頭に任じられた。三年、宗良親王に従い遠江に行き、今川範氏の兵を匹馬駅で打ちやぶり、親王に従って井伊高顕のところに身を寄せた。その後どこで終わりを迎えたかはわからない。
2022・7・10 北条氏の滅亡
北条氏は源頼朝死後執権として幕政を握り、義時・泰時の代には有力な御家人を倒し、京都から藤原(摂家)将軍・皇族(親王)将軍を迎え、執権政治を確立。
連署・六波羅探題などの要職、諸国守護を一族で多数占めていたが、
1333年(元弘3)第14代高時のとき、幕府とともに滅亡する。
北条氏の滅亡
一日おいて、新田義貞は三道から鎌倉に攻め寄せた。北条高時は基時、北条(大仏)貞直、北条(赤橋)守時を派遣した。守時は長時の孫で、足利高氏の妻の兄であった。彼が子嚢坂を防いだが、大敗した。守時は「われは高氏と姻戚関係にあるので疑われる。早く死んだ方がよい」と自殺した。貞直は極楽寺坂を防いだが、負けて退いた。その家臣本間左エ門は罪を犯し、自邸に居たが、戦いに出て敵の大将大館宗氏を斬り、その首を貞直に献上して自殺した。貞直は非常に感激し、自分も敵陣に斬り込み、討ち死にした。基時は化粧坂で新田義貞とにらみ合った。義貞の選り抜きの兵は稲村ヶ崎から入り、鎌倉府中に火を放った。
北条高時は千余人を引き連れ、東勝寺の先祖の墓所に逃げ込んだ。金沢貞将は戦死した。基時、国時、塩飽聖遠父子はみな自殺した。三道の軍は壊滅した。安東聖秀が極楽寺から帰ってみると、幕府の屋敷はみな灰になっていた。彼は激高して「百年も天下を治めていた幕府の跡に、節義のために死んだ者の屍が一体もないのは何ごとか」といい、馬から降りて、自殺しようとした。
聖秀の姪は新田義貞の妻であった。その妻は聖秀に書面を送り、降参させようとした。聖秀は顔色を変え、「わが姪は侍の家の生まれたのに、なぜ恥知らずなことをいうのか。義貞もなぜ止めないのか」と怒り、書面で刀をくるんで握り、腹を斬って死んだ。
義貞の軍は鎌倉に進んでいた。もはや抵抗する者はいない。ただ、長崎高資の子、高重が力戦した。敵は四方から高重めがけて集まった。高重は左右に斬りまくり、向かうところ敵なしであった。やがて引き返し。高時に「こんなことになったのです。ご自害ください。その間、私は思う存分戦います」と言い残して、愛馬に跨がり、旗を外して刃を包み、百騎とともに新田軍に紛れ込み、義貞を狙い討とうとした。だがもう少しというところで敵に見透かされ包囲された。高重は大声で叫びながら、敵の一人を馬上にひき上げ、五六歩先に投げつけた。敵軍はたじろぎ、近づいてこない。
高重が東勝寺に走ってみると、高時以下は最期の酒盛りをしているところで、高重に杯を勧めた。高時は三杯飲み干し、これを摂津道準に渡して腹を斬りさき、はらわたをえぐりだした。道準は笑いながら「よい酒の肴だ」といい、なみなみと酒を注ぎ、半分のみ、諏訪直性に渡して自殺した。直性も長崎円喜もみな自殺した。高時も自殺した。それに従い、自殺した者は六千余人であった。
2022・7・7 北条氏 各地で苦戦②
足利高氏、新田義貞が背き、六波羅探題が負け、幕府は顔色を失う。
四月、北条高時は名越高家、足利高氏を北上させ、半分は京都を守らせ、半分は伯耆の船上山にある行在所を攻めさせた。名越高家は北条(名越)朝時の五代孫で、赤松則村と狐川で戦い、きれいな鎧を着込み、真っ先に進んで矢に当り戦死した。
足利高氏はそばで見ていながら戦おうもせず、馬から降りて酒宴を開いていた。高氏は官軍に降伏し、兵を集めて京都を攻めた。京都にいる北条の兵三万は大半が小役人で、戦いには慣れていない。そこで北条仲時、時益は溝を深く掘り、土塁を固くして、源忠顕を退けた。しばらくして城兵は潰え、残りは千人余になった。仲時、時益は糟谷宗秋の意見を聴き入れ、夜、後伏見、花園の両上皇と、新主の光厳天皇と太子をお連れして、東に向かった。途中、土着の兵が四方から矢を撃ちかけてきた。太子以下はばらばらになって逃げた。矢が光厳天皇に肘に当った。北条時益はついに討ち死にした。夜明け前、また敵兵数百人に出会ったが、これは打ち破ることができた。
翌日、番場駅に着くと、土着の兵士数千人が道をはさみ、亀山天皇の皇子守良親王を守って陣取っていた。糟谷宗秋は先方隊を打ち破ったが、兵士は疲弊し、矢は底をつき、ある寺に脱げこんだ。北条信時と相談して、近江のどこかの寺に立てこもろうとした。ところで近江の守護佐々木時信はしんがりをつとめて遅れた。いくら待ってもやってこない。伸時は「こいつもまた背いた」といい、部下の兵士に「官軍にわが首を献上せよ。わずかながら今までの諸君に報いることになろう」といって自殺した。糟谷宗秋以下四百人も自決した。光厳天皇と両上皇は捕らえられて京都に入られた。
北条高時はそんなことになっているとは知らない。ただ、足利高氏が背いたのを聞き、油断ができないと恐ろしくなった。上野、下野など六ヶ国の兵を挑発し、弟の泰家と京都に向かわせた。兵糧は各所で徴発した。ついで新田義貞の領地に向かった。義貞は挑発に来た役人を斬り殺した。高時は激怒し、兵はもっぱら北方の上野、貞義の領地に向け、金沢貞将、桜田貞国の二人に別々の道から攻めさせた。貞国は義貞と入間川で戦ったが、互角の勝負であった。
北条方は退き、久米川に泊まった。翌日、再び戦った。またうまくいかなかった。そこで退き分陪(ぶばい)河原に泊まった。高時は泰時を送って、助けた。夜明け方、三千人にいっせい射撃させ、全軍で進み、義貞に大勝した。泰家は驕って警備をしなかった。三浦良勝が背いて義貞につき、兵を合わせて襲ってきた。泰家は驚き、逃げた。横溝八郎、阿保道忍は引き返して戦い、討ち死にした。小山秀朝、千葉貞胤も背いた。金沢貞将は彼らと戦い、敗走した。諸軍が敗れて鎌倉に帰ると、六波羅が負けたという知らせが届いた。幕府の内外は驚き、顔色を失った。
2022・7・4 北条氏 各地で苦戦①
楠正成が兵を起こし、後醍醐天皇は隠岐島を脱出。北条氏の苦戦が続く。
北条氏 各地で苦戦
そのうちに楠正成が兵を起こした。皇子の護良親王、赤松則村も続き、河内の千窟、赤坂、大和の吉野、播磨の白旗などの諸城に立てこもった。北条高時は義子の阿曽時治に命じ、二階堂貞藤、北条(大仏)高直、長崎高資らと五万騎を率いて攻めに行かせた。
三年二月、阿曽時治は赤坂城を攻めた。人見恩阿、本間資貞が一番乗りした、貞治の子は十八歳であったが、父に従い、討ち死にした。城も陥落した。
閏二月、貞藤も吉野の城を陥落させた。彼は時治とともに北条(大仏)高直を助けて、千窟の城を取り囲んだが、陥落しなかった。
三月、六波羅の二帥北条伸時、時益は山陽道の兵士を挑発した。ところがその兵が赤松則村に味方して三井城を守った。則村は摂津の摩耶山にたてこもった。伸時、時益は四国の兵を徴集した。伊予の豪族も官軍についてしまった。伸時、時益は近江の兵を使い、まず則村を攻めたが、大敗した。そこで隠岐の守護に後醍醐天皇が逃げないように警戒させた。
ところが後醍醐天皇は隠岐を脱出して伯耆に帰られた。伸時、時益は万人の兵で則村を攻めさせたが、またしても敗走した。則村は藤原宗鎮と京都へ攻め、火をつけた。北条方は糟谷宗秋、隅田通倫に二万を与え、桂川で防がせた。則村の子則祐は川を渡って、撃った。
北条氏はまた敗走した。すでに夜であった。光厳天皇と両上皇は御所から出て、六波羅に入られた。伸時、時益は七条河原に兵を出した。陶山高通、河野通盛らは街中で闘い、赤松則村は逃げて、八幡、山崎を防御した。そのため六波羅へ兵糧を運ぶ道が塞がってしまった。北条仲時、時益は兵をやって討たせたが、伏兵に出会って敗北した。比叡山の僧兵も護良親王の命令で攻め寄せてきた。仲時、時益は騎射隊を派遣したので、僧兵は逃げた。大事をとって近江守護の佐々木時信に僧兵の襲撃に備えるように命じた。陶山高通、河野通盛は赤松則村を京都の南で破ったが、官軍の大将源忠顕が大軍を率いて攻めてきた。北条仲時、時益は武装した兵を繰り出し、城壁に昇らせて防御した。佐々木時信は五千人を引き連れて源忠顕を退けた。ところが急に結城親光が官軍に降りて士卒の多くも逃げた。形成が悪いので北条仲時、時益は鎌倉に危急を告げる使者を矢継ぎ早に出した。
2022・6・29 元弘の乱
正中の変に失敗した後醍醐天皇は再び鎌倉幕府の討滅を計画する。だが事前に六波羅探題が察知して、天皇は笠置山に逃れて籠城。翌年、隠岐島に流される。
元弘の乱
嘉暦元年(一三二六)太子の邦良親王が亡くなられた。後醍醐天皇は邦良親王を廃して、長男の尊良親王を立てようと考えておられが、北条高時が承知しなかったのだった。そこで第三子の護良親王を立てようと、使いに「後嵯峨天皇のご遺命通りに亀山天皇の子孫をたてよ」と伝えた。だが高時は、北条貞時が定めた十年ごとの交代を主張し、後伏見天皇の子景仁を立てて太子とした。後醍醐天皇は立腹し、護良親王と相談の上、諸寺の僧兵を味方にされた。護良親王を比叡山の座主とし、僧の円観らを呼びよせて祈祷によって北条氏を降伏されるまじないをされた。
元弘元年(一三三一)そのことが露見した。北条高時は円観らを捕まえ、取り調べて事実を白状させた。藤原俊基も捕まえた。後伏見法皇も鎌倉へ人を遣わし、後醍醐天皇の陰謀を伝えられた。北条高時は将士、役人らを集めてどのようにすべきか問うたが、意見をいう者はいない。長崎高資がおもむろに口を開き「天皇と親王を流し、公卿で与したものは斬りましょう。赦してしまえば悔いが残ります。これ以外策はないでしょう」
二階堂貞藤が「北条氏は代々皇室を尊んできた。だから百六十年も政治を執ることができたのです。だが今公卿を捕まえ、帝王を遠地に流そうとしている。そんなことで、天の大道をいかがされるのか。もしわれわれが一点の悪いこともなければ、朝廷も我々をどうすることもできないでしょう」と諫めた。
長崎高資は貞藤を睨みすえて「まわりくどく、つまらない論など聞きたくない。承久の変を憶えていられないのか」
高時は高資の意見に従った。
八月、二階堂貞藤らに三千騎を与え、京都に入らせた。北条基時の子、北条仲時と北条政村の曾孫北条時益の二人が六波羅の南と北とを鎮守していた。貞藤が到着したので、共に事を謀ったが、それが漏れた。後醍醐天皇は奈良にお逃げになった。
北条仲時、時益は兵に宮中を探させたが、後醍醐天皇をみつけることはできなかった。そこで後伏見、花園二上皇と、太子の量仁親王を六波羅の北方にお連れした。僧の豪誉が六波羅にやってきて「後醍醐天皇は比叡山におられる」と告げた。そこで近江守護佐々木時信を大将に、比叡山を攻めさせたが、うまくいかなかった。そのうち奈良の僧兵がきて「後醍醐天皇は笠置山におられる」といった。北条仲時、時益は近江の兵に比叡山の僧徒に備えさせ、検断の糟谷宗秋、隅田通倫らに笠置山を囲ませた。この白は堅固いで陥落しない。北条高時は援軍に北条(大仏)貞直、北条(金沢)貞冬を送り、数万騎で攻めさせることにした。そころがまだ到着しない。陶山義隆、小宮山氏真は五十人を率いて、風雨につけこみ、縄梯子を城壁にかけて入り込み、火を放ち、叫んで大騒ぎをはじめた。場外の兵もこれに応じて攻め立てた。城はすぐに陥落した。
後醍醐天皇は逃げられた。追いかけて捕まえ、六波羅の南方に拘禁した。北条高時は二階堂貞藤、安達高景を遣わし、太子の量仁親王を位に即かせた。光厳天皇である。北条(大仏)貞直に兵を引率させ、官軍の大将楠正成を赤坂に攻め、敗走させた。
二年、光厳天皇の詔を請うて、後醍醐天皇を隠岐にお流しした。千葉貞胤、小山秀明、佐々木高氏らが兵を率い、警護して送った。
2022・6・27 正中の変
後醍醐天皇は側近の日野資朝らと鎌倉幕府討伐を企てるが、事前に計画が漏れて失敗。資朝は佐渡に流されたあと殺される。天皇は無関係と釈明して事なきを得た。
正中の変
正中二年(一三二五)北条高時は中納言藤原(日野)資朝を佐渡に流した。北条氏を滅ぼそうと図ったからである。北条氏が承久の変を平定したときには後堀川天皇を立てた。後堀河天皇はやがて太子に位を譲れた。四条天皇である。四条天皇が崩御した。朝廷の評議では順徳天皇の皇子を立てることになった。北条泰時は土御門天皇が関東討伐の相談にのられなかったことを快く思っていなかったので、安達義景を遣わして土御門天皇の皇子をお立てしようと考えた。
義景は「すでに順徳天皇の皇子が立っておられたらいかが致しましようか」と訊いた。
「それを廃してでも土御門天皇の皇子を立てるように」
義景は京都に入り、土御門天皇の皇子を立てた、後嵯峨天皇である。その後、後嵯峨天皇の二子後深草、亀山両天皇が位に昇られた。後嵯峨天皇は亀山天皇を寵愛され、崩御のとき北条時頼を召して「亀山天皇の子孫が皇統を末永く受け継ぐようにせよ」と遺詔した。そこで長講堂の寺領を後深草天皇の料地とした。その後、後深草天皇は北条時宗の力を借りて政治の権柄を得ようとされたが、時宗は従わなかった。亀山天皇は太子に位を譲られた。後宇多天皇である。後深草天皇は憤り、怨まれ、髪を削って僧になられようとした。時宗は後深草天皇の皇子を後宇多天皇の太子にした。後の伏見天皇である。
伏見天皇が即位されて三年目、浅原為頼という賊が夜、御所に忍び込んで反逆を謀したが、失敗して自殺した。六波羅で調べると、亀山上皇と関係があった。亀山天皇は北条貞時に書を下され、他意のないことを誓われた。
伏見天皇はひそかに貞時に「亀山上皇は位に就いていらしたとき承久の変を憤慨され、ひそかに計画を立てておられたが、実行されなかった。その亀山天皇の子孫を立てることは貴公のためにはならないだろう」といわれた。貞時は伏見天皇の皇子を立てた。後伏見天皇である。後宇多天皇は使いを遣わし、貞時を責めた。貞時は後深草天皇、亀山天皇の二系統が十年ごとに交代で位に就かれるよう評議で決めた。
これより前、北条時頼は藤原氏を五派に分け、摂政関白を交代で任じることにした。、貞時が天皇の位を十年ごとに交代すると定めたのは、これに倣ったのである。
後二条天皇が崩御し、後伏見天皇の弟を立てた。花園天皇である。朝廷の評議では後二条天皇の皇子邦良親王を立てて、跡を継ぐようにした。亀山天皇は後宇多天皇の次男に心を寄せられ、北条貞時に使いをだして位に就かせた。後醍醐天皇である。そして邦良親王を後醍醐天皇の太子とした。
後醍醐天皇は北条氏が家来の分際で代々天皇の廃立に関与することを憤られ、ひそかに滅ぼそうと謀っておられた。北条高時が政治にしくじったのをご覧になり、ほくそ笑まれた。藤原資朝と右少弁藤原俊基らに美濃源氏の土岐頼兼、多治見国長らを誘わせ、呼び寄せるようにされた。そのことが露見した。ある人が六波羅の北方の北条範貞にこれを告げた。ちょうど摂津の民が乱を起こした。範貞はそれを利用して、四十八ヶ所のかがり火衆を呼び集め、二千人が集まったので、土岐頼兼、多治見国長を襲い、殺した。正中元年九月であった。
翌年五月、北条高時は藤原資朝、俊基を呼んで調べたが、なかなか罪を認めようとしない。高時は廃立を謀った。後醍醐天皇は起請文を下し、他意のないことを誓われた。高時はその書を返納して俊基を赦し、資朝を流した。
2022・6・20 北条高時、職を継ぐ
北条高時は頑固で、軽率な性格だった。賄賂がはびこり、また高時は犬に異常な関心を示して諸将に養わせ、田楽を好んだ。楽師は数千人もいた。
北条高時、職を継ぐ
北条貞時が死んだ時、長男の高時はわずか九歳であった。北条(大仏)宗宣と北条時村の孫、煕時が執権になったが、ほどなく二人とも亡くなった。北条長時の姪孫、北条基時と北条(金沢)実時の孫、貞顕が彼らに代った。北条高時の母方の叔父、安達時顕は仇と泰盛の弟であった。内管領の長崎円喜は平頼経の甥であった。この二人が貞時の遺命で高時を助けた。正和五年(一三一六)北条高時が執権になった。
文保元年(一三一七)高時が相模守になった。高時は頑固で、軽率な性格で、政治を安達時顕、長崎円喜に任せていた。二人は泰時のころの規則を用い、つつがなくやっていた。やがて円喜が隠居し、子の高資に代った。高資は多欲な性格で、人の禄位を決めるのにもっぱら賄賂を定めていた。
元亨二年(一三二二)陸奥の人、安藤尭勢(たかなり)が一族の季長(すえなが)と領地を争って訴え出た。双方とも長崎高資に賄賂を送った。そのため高資は判決ができない。両人は怒り、領地に立てこもって謀反を起こした。承久以来、武士でありながら北条氏に背いたのはこれが初めてである。北条氏は兵を送って討たせたが、勝てなかった。然るに北条高時は意に返さず、日夜酒宴を催していた。
ある日、高時は犬が庭で喧嘩しているのを見て喜び、役人や人民に貢ぎ物として大犬を持ってこさせた。集まった大犬は数千頭にもなり、諸将に養わせた。諸将はそれを乗り物に載せて行き来した。途中で大犬に会ったとき、土下座しない者は殺された。また大犬が群がり、吠え、闘って噛みつく様子は死肉でも争うようであった。
高時は田楽も好んだ。楽師は数千人もいて、彼らに与える花代は何万銭にも及んだ。ある夜、高時は酔って舞をはじめた。数十人の楽人がやってきて、歌いながら相手をした。腰元がのぞいてみると、楽人はみな天狗で、「天王寺の妖精星を見ないのか」と歌い、去っていった。後には獣の足跡が残り、高時が目覚めたときには跡形もなくなっていた。
高時が病気にかかった。長崎高資は髪を削って、北条(金沢)貞顕に執権職を譲るように勧めた。高時の弟泰家は自分に譲ってくれないことに怒り、髪を落とした。高時は病が癒えてから貞顕を殺そうとした。察した貞顕は髪を削り、誤った。諸将も争って真似をしたので、幕府に坊主頭があふれた。高時は高資に不満をもち、誅させようとした。高資が感づいたので、捕らえて流した。幕府の内外の者は高資に憤っていた。摂津の渡部氏、大和の越智氏は謀反を企てた。高時は役人に討たせたが、勝てなかった。
安達盛長は源頼朝の従者で、伊豆で罪人生活を送る頼朝を少年時代から支え続けた。頼朝が心を許す数少ない男だった。
2022・6・11 安達氏の滅亡
北条氏内部で権力闘争、粛正が続く
安達氏の滅亡
七年、北条時宗が没した。子の貞時はやっと十四歳になったころであったが、執権を継いだ。また従五位下左馬権頭も継いだ。
安達泰盛は貞時の母方の祖父というので、ますます専横であった。太宰府の勝利(元兵の敗退)には彼の子弟が働いたので、威力名声は日増しに高くなり、内管領平頼経と権力を争うまでになった。内管領とは北条氏の家令である。安達泰盛の子宗景は軽はずみな男で、「曾祖(景盛)は源頼朝の子である」といい、姓を源氏に改めた。平頼経は「姓を変えたのは将軍を狙っているからだ」と讒言した。十一月、北条貞時は兵を繰り出して、安達氏を滅ぼした。世間では「三浦氏を滅ぼした因果だ」と噂したその後、平頼綱も謀反を企てた。頼綱の長男宗綱が北条貞時に告げた。貞時は頼経を誅し、宗綱を流した。
正応二年(一二八九)鎌倉府下が騒がしかった。北条貞時が惟康親王の将軍を廃し、乗り物に後ろ向きにして座らせ、京都に送り還した。関東の者は「将軍が京都に流された」といった。貞時は後深草天皇の第三子、久明親王を将軍にした。
永仁元年(一二九三)長門に探題を設けた。四年、僧良基が故源範頼の子孫、吉見義世をつかって謀反を図ったが、捕らえられ、殺された。
正安三年(一三〇一)北条貞時は髪を削って隠居し、北条時頼の孫師時と、北条政村の子、北条時村の二人を執権職にした。師時の従弟、北条宗方は彼らと権力を争い、貞時の命令と偽って時村を殺し、師時も殺そうとしたが、貞時が怒り、北条(大仏)宣時の子、宗宣に殺させた。
延慶元年(一三〇八)将軍久明親王を廃し、久明親王の長男守邦親王を将軍にした。
応長元年(一三一一)北条貞時、師時が相次いで没す。貞時は政治に心を遣い、時頼の風態を慕っていた。北条時政、義時の時以来、各郡、各国に使いをやり「管理や人民で、無実の罪に陥っている者はいないか」と訊かせた。北条時頼や貞時は黒染めの衣装を着せた密使が四方に出かけ、悪事を摘発したので、役人は欺くことはできなかったが、その密使が徐々に悪事を働くようになり、時頼や貞時は自分から出かけることもあったという。
2022・6・8 弘安の役
再び元軍が攻めてくるも、大暴風が吹き荒れ、敵艦は大破する。
弘安の役
だが怱必列はあきらめようとしない。後宇多天皇の建治元年(一二七五)元の使者杜世忠、何分著ら九名が再び長門にやってきて、去ろうとしない。
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「どうしても返答を得たい」と訴える。北条時宗は彼らを鎌倉に呼び寄せ、龍ノ口で斬り殺した。上総介北条実政を鎮西探題にして、今まで京都を守っていた関西の兵を実政につけ、京都は新たに関東の兵で護衛させた。太宰府の水城を増築し、無駄な経費は省き、軍備に充当した。
弘安二年(一二七九)元の使者周福が再び太宰府にやってきた。また斬り殺した。二度までも使者を誅殺された怱必列は大いに怒り、漢人、蒙古人、韓人の兵あわせて十余人の海軍勢を繰り出し、笵文虎を大将に我が国へ向かった。
四年七月、元の群は水城に攻め寄せてきた。多くの軍艦の舳艫(じくろ 船首と船尾)がこれでもかというほど連なっている。まさに大軍である。北条実政の武将に草野七郎という者がいた。秘かに志賀島まで兵艦二艘を引き連れ、敵の軍艦を撃った。兵の首を斬り、捕虜にしたのは二十余人であった。
元軍は鉄の鎖で大艦をつないで並べ、石弓を張っているので、近づけない。河野通有が突進した。敵の矢が左肘に当ったが、ひるまず進み、帆柱を倒して敵の軍艦に架け、それを伝って敵の大将王冠を生け捕りにした。安達次郎、大友蔵人も続いて攻め立てた。元軍は上陸できず、残りの軍艦を鷹ノ島まで引き返させ、そこに立てこもった。北条時宗は宇都宮貞綱を大将にして、実政を助けに行かせたが、援軍はなかなか辿りつけない。
ところが閏七月大暴風、大雷雨が起こり、敵艦は大破した。少弐景資らはこの機を利用して、敵兵を皆殺しにした。死骸が海を覆い尽くし、海上を歩いて渡れるほどであった。攻め寄せてきたときは十万もいた兵のうち、元に帰れたのはわずか三人であった。元が再び辺境をうかがわなかったのは北条時宗のおかげである。
モンゴル帝国の第5代皇帝であり、
元朝の初代皇帝のフビライ
朝廷は鎌倉に下向して相談をさせた。時宗は「いかにも無礼な内容。返答する必要などない」と主張した。怱必列(フビライ)は使者の趙良弼を日本によこした。時宗は大宰府に命じて趙良弼を追い払った。元の使者がやってきたのは都合六回だが、皆拒絶した。
文永十一年(一二七四)七月、元の兵一万ばかりが対馬に攻めてきた。対馬の地頭宗助国は戦い、討ち死にした。元の兵は壱岐に攻め寄せた。壱岐の守護平景隆も戦って討ち死にした。それらは六波羅へ報告された。九州の諸将に命じて防御に赴かせた。少弐景資は死力を尽くして戦い、敵将の劉復亨を射殺した。元の兵士どもは逃げまどった。
2022・5・25 北条時宗、執権となる
文永5年(1268)北条時宗は18歳で第8代執権となる。
北条時宗、執権となる
北条時宗はそのとき十三歳で、従五位下に叙せられ、左馬権頭に任じられた。母方の叔父、安達泰盛が幕府の軍政に参与していた。
文永三年(一二六六)将軍の宗尊親王は病気になり、幕府に出てこられなくなった。僧の良基が祈祷した。だが薬は飲まれない。何かおかしいと鎌倉府下で噂が広まった。四方から兵士が集まってきた。良基は出奔し、近臣もだんだん離れていき、お側についているのは五人になった。宗尊親王は京都へ還られ、子の惟康親王を将軍とした。
七年、北条長時が没した。時宗が執権になった。時宗の庶兄北条時輔は、長時の弟北条(赤橋)義宗と六波羅を鎮め、おさえていた。時輔は平素から位が弟の下であることを不満に思っていた。
九年二月、北条時宗は北条(赤橋)義宗に時輔を討たせて殺した。造反の心があると聞いたからである。時宗は押しが強く、人には屈せず、ものごとにひるまない性格であった。幼いころから弓を射るのが得意であった。弘長年間、弓の大会が極楽寺にある屋敷で催されたとき、将軍だった宗尊親王が小笠懸をみたいと所望し、そこにいた武士に命じたが、誰も進んで引き受けようとはしない。北条時頼が「愚息の太郎が致しましょう」といった。太郎は時宗の幼名である。そこで早速呼んで、射場に上がらせた。そのとき十一歳。馬に跨がって出場し、一発で的中させた。大勢の見物客がいっせいに褒め称えた。時頼は「この子は親の業をうけつぎ、大任に耐えうる者になるでしょう」
2022・5・21 北条時頼の政治
北条時頼(義時の曾孫、5代執権)は倹約家だった。建長寺を建て、最明寺で隠居生活を送り「最長寺入道」と呼ばれる。
北条時頼の政治
北条時頼は泰時の定めた貞永式目を遵守し、内外ともによく治まったといわれた。だが時頼は普通の人には真似のできないほどの倹約家であった。北条時房の孫大仏宣時が夜更けに時頼のところへ行ったとき、時頼は壺に入った酒を持ち出し「さあ、飲もう」といったが、肴は手燭火を灯して、膳棚からもってきた皿に残った味噌であった。彼は人を採用するのに、家柄には拘泥しなかった。かつて青砥藤綱を抜擢したことがある。もともと微浅の者で、若いころから学問が好きで、僧の行印を師としていた。
ある年、干魃が続いた。時頼は僧を集めて布施し、自身も三島明神に願掛けした。このとき供え物を乗せた馬が小川に小便をした。藤綱は「おまえも北条殿の供養に倣うのか」といった。周囲の者が「なぜそのようなことをいうのか」と訪ねると、「干魃が続いている。もし牛がそれを知っていたら、田に小便をするだろう。今日、僧に布施しているが、強欲か清廉かは見た目ではわからない。ただ、来る者はみな欲道坊主に決まっている。布施をしても彼らを肥やすようなもので、牛が小川に小便するのと同じく。無益なことだ」。それを聞いて時頼は呼び出し、話をして気に入り、引き付け衆に抜擢した。
公文という者がいて、北条氏の役人と田地の境界を争い、訴え出た。多くの者は時頼を恐れて、公文が悪いといった。ただ、青砥藤綱だけは公文が正しいといった。公文は感謝し、御礼の銭をいれた包みを藤綱の裏畑に投げいれた。青砥は「天下の直を司っておられるのは北条時頼殿。公文を直とするのは、時頼殿を直とすること。だから時頼殿に御礼するべきである」といって銭を返した。
また青砥藤綱は夜に外出して、銭十文を川におとしたことがある。松明を買い、水の中を照らして拾い集めたが、松明は五十文であった。「それでは割が合わない」とある人がいうと、藤綱は「自分は五十文を失ったが、五十文を儲けた人がいる。もし十文を捨てていれば、それっきりの話だ。自分は六十文で世の中を益したのだから大儲けではないか」
青砥藤綱は自ら倹約して、人に施すことを好んだ。一日一尾の干し魚を食べ、木綿の着物を着て、馬乗り袴をはき、刀の鞘には漆を塗らなかった。時頼が彼の禄を増やしてやろうと思い「夢に神が現れ、おまえが太平の政治を願うなら藤綱の禄を増やせよといわれた」といったが、藤綱は固辞した。「辞退しなくてもよいだろう」と時頼がいうと、藤綱は「神様が藤綱の禄を増やせと仰せられてそのようにされるなら、首を刎ねよと仰せなら、その通りにされるのですか」というので、「では何か希望することはあるか」と訊くと鎌倉及び諸国の役人の悪行を並べ、「管子に『階前千里、門外万里』と書かれています。一日千里歩くとして十日歩けば千里遠方のことがわかります。もし人君が堂下で起ったことを十日も知らなければ、近くにある門庭が万里より遠いことになります。長い間、役人の姦悪を知らないことは、『階前千里、門外万里』にほかなりません」。時頼は特に悪い役人を罰した。世間は「時頼はよい人物を得た」と褒めた。
康元元年(一二五六)北条時頼は病気になり、髪を削った。これより前、時頼は禅を僧道隆に学び、建長寺を造ってやった。最明寺も造り、自分はそこに隠居した。長男の時宗はまだ幼く、重時の子長時を執権とした。
弘長三年(一二六三)時頼が没した。死去の際に偈をつくった。「俗世にあって罪業をなすこと三十七年間。たちまち死という鉄槌の一撃によって俗録を打ち壊され、寂滅為楽の大道は平々坦々の前に横たわっている」とあった。おそらく享年三十七であったから、三十七年といったのだろう。
2022・5・18 三浦氏の滅亡
北条氏とかつて結束していた三浦氏の滅亡。政子の「皇子を将軍のしたい」という希望を叶え、後嵯峨天皇の皇子宗尊親王を鎌倉の将軍に。
三浦氏の滅亡
故北条(名越)朝時の子、北条(江馬)光時は藤原頼経に寵愛されていたので、頼経をつかって北条時頼を滅ぼし、自分が執権になろうと図った。兵士が鎌倉府中に集まってきた。時頼は兵士で護衛しながら、役人や兵卒で辻々を防御させた。頼経の使者が来たが、対面しなかった。光時が剃髪して罪を詫びたので、伊豆に流した。
また頼経は京都に送り返した。そのとき近臣の三浦光村は護衛兵になって京都に行き、帰ろうとするとき泣くじゃくりながら頼経に「必ず北条を討ち取って主君の恩に報います」といった。光村は鎌倉に帰り、自領から兵士をひそかに徴集し、兄で、前若狭守の三浦泰村に謀反をさせようとした。だが泰村は決断力がなく、果たさなかった。泰村は義村の子である。義村はすでに亡くなっていたが、泰村の威厳は依然として盛んで、多くの一族郎党を束ねていた。
北条時頼の母方の祖父安達景盛は髪を削って高野山にいた。宝治元年(一二四七)四月、景盛は鎌倉にきて、しばしば時頼の屋敷を訪ねた。景盛は子の義景、孫の泰盛に「おまえらは三浦宇治が謀反をしようとしているのを、首を垂れて見ているだけか」といった。五月、鶴岡八幡宮の前に立て札がしてあり「三浦泰村は殺されるだろう」と書かれている。ある夜、時頼は三浦の家に泊まることになった。一族が皆集まり、酒を馳走する。入れ替わり立ち替わり人が出入りしている。時頼は怪しんだ。その夜、障子の向こうで鎧や冑の音がしたのを聞き、飛び起きた。「やはりそうだったのか」。時頼は一人の従者と歩いて帰宅した。泰村は驚き、嘆いた。翌日の夜、時頼は三浦の屋敷の様子を窺わせた。皆が武器を蓄え、戦いに備えていた。時頼はいよいよ警戒した。将士たちが競い、集まってきた。翌日、泰村の屋敷に匿名の書状がまいこんだ。「貴公は殺されるだろう。なぜ警戒しないのか」と書いてあった。泰村は「これは私を殺そうとする者の仕業だ」といって書状を破り、家来を時頼のところへ行かせた。家来は泰村の伝言として「世間の噂では、私が殺されるということだが、家来が集まり、守ってくれている。もし大勢の力が必要ならお助けしましょう」といった。時頼はその使者を慰め、諭して帰した。
大江(毛利)季光の妻は三浦泰村の娘であった。その娘が泰村に謀反の決心をするように勧めたが、泰村はまたしても決断しなかった。時頼から書状がきて「何もしないので、兵を解除するように」と書いてあった。泰村は非常に喜び、命令に従った。泰時は妻に勧められて食事をはじめた。まだ一口食べたところなのに、門外が騒々しい。安達氏の兵士が攻めてきたのだ。泰村は驚き、目をぎょろつかせ、これを防いだ。時頼は弟時定を大将にして三浦氏を攻め、金沢実時に幕府を守らせた。実時は泰時の弟、北条(金沢)実泰の子である。泰村の義弟大江季光は時頼に見方しようとした。その妻は「あなたは武士ではない」と怒った。季光は泰村についた。時頼は三浦氏の北隣の家を焼いた。泰村は大敗し、敗走して源頼朝の影堂に入った。弟の三浦光村は八十騎を率いて永福寺に立てこもり、泰村を呼んだ。泰村は行こうとしない。光村が堂中にやってきた。諸軍が取り囲んだ。三浦氏の一族は頼朝の画像の前にずらり座った。光村が「関白殿下(藤原頼経の父九条道家)のご指示通りに従っていれば北条氏を滅ぼし、わが一族が軍政を専断していたろう。兄の泰村がぐずぐずしていたからこんな恥辱をうけることになった」と嘆き、悲しんでから、刀で自分の顔の皮を引き剥がし「これで俺だということがわかるか」と訊き、自殺した。泰村は泣きながら「わが一族は義明、義澄、義村、泰村の四代が幕府のために功を積み、北条氏の外戚になって内外を補佐してきたが、それでも禍を免れることはできなかった。先君の義村殿が多くの人を殺した報いかもしれない。どうして北条氏を怨もうか」といったあと、一族二百七十名余りが自殺した。ただ、それぞれの妻子は許され、泰村の娘野本尼だけは乱を起こそうと謀り、殺された。
これより前、北条時頼の大叔父、北条重時が六波羅の北方に陣取っていた。時頼は鎌倉に呼び戻そうとしたが、泰村がとめた。建長元年(一二四九)重時を鎌倉に呼び、執権にした。時頼は相模守になった。
四年、藤原道家が急死した。藤原頼嗣は時頼を殺そうと、長久連を使って諸将士を引き込むように誘導したが、佐々木新が逆に頼嗣を捕らえ、時頼のもとに送った。時頼は頼嗣に将軍をやめさせて京都に送り返し、代わりに後嵯峨天皇の皇子宗尊親王を鎌倉の将軍にした。政子の「皇子を将軍のしたい」という希望を叶えたのである。
2022・5・16 久保寺さん「間違いがあったので」
口語訳『日本外史』毎回、楽しく読ませていただいています。
今回の「北条泰時の器量」で、単純な誤りがあったので連絡いたします。
「泰時は執権の権威をもったいても」→「もっていても」
「寛文二年」→「寛元二年」だと思います。
最初の方の「我が後世の子孫は、時房殿の子孫に決してそむいてはならぬ」は、「時房殿」ではなく「泰時殿」かなとも思ったのですが
原文の「武州の裔」が「時房」ということでしょうか。
久保寺さんへ
ありがとうございます。訂正しました。
見延典子
2022・5・15
北条泰時の器量
北条泰時は親族に情が深く、倹約を行ない、世の中の治平を求める。
北条泰時の器量
嘉禎二年(一二三六)北条泰時は従四位に進み、仁治三年(一二四二)六月、六十歳で没した。泰時は親族には情が深く、叔父の北条時房を尊敬し、下手に出ていた。かつて泰時が評定所にいたとき、弟の名越(北条)朝時の屋敷に狼藉者が闖入したと聞き、直ちに助けにいったことがある。平盛綱が「小さな事件にすぎない。貴殿は執権なのに、なぜ軽々しく行動するのか」と訊くと、泰時は「兄弟に凶事が起ったのだ。自分からみれば建保、承久の合戦とかわりない。兄弟を失うなら、執権もあったものではない」といった。
名越朝時は泰時の言葉を書きとめ、「我が後世の子孫は、泰時殿の子孫に決してそむいてはならぬ」といい、家訓として納めた。
泰時は執権の権威をもっていても、偉ぶることはなかった。常に諸将と交代で幕府に宿直し、年をとっても怠らなかった。当直の晩に寝るときも布団は使用しなかった。頼朝の墓に参拝する際は堂下で拝んだ。ある人が「堂の上にあがってはいかがですか」というと、「将軍がご在世のころ、私は身分が低く、堂には登れなかった。将軍が亡くなったからもういいなどということは自分にはできない」
泰時は四位に昇進したとき、「功労もないのに爵位を勧められた。おそらく有終の美は飾れないかもしれないが、神に無事を祈ろう」といった。するとある僧がきて「寺を建立すれば、将来は安全です」といった。泰時は「寺など建てればいたずらに財を費やし、人民を苦しめよう。何が安全か」といってその僧を追い払った。
泰時は一心に世の中の治平を求めた。政府に参入する際には人より先に入り、自ら倹約を行ない、将士を率いた。将士で金を借りている者に利息を払ってやった。際だって貧乏な者には元金も払ってやった。飢饉の年には倉を開いて人民を救い、救護所を設けて流浪の民を救った。彼が亡くなったとき、みな惜しんだ。
その子時氏は泰時に先んじて没した。時氏の子の経時が執権になった。泰時は平素から学者を愛し、孫の経時に「政治には学問が必要で、武力ばかり用いてはならない」と教えた。経時は政治に長じ、祖父の泰時の風格があるといわれた。それで将軍職を継いだのである。
元元二年(一二四四)将軍藤原(九条)頼経は職を子の頼嗣に譲った。頼嗣は六歳になったばかりであった。四年、北条経時が病気になった。執権を弟の時頼に譲り、没した。