2022・1・2

米山俊哉さん「小早川隆景公の御縁から」

ときは文禄2126日、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)において、日本軍と明・朝鮮連合軍との歴史に残る戦い、といやあ碧蹄館(へきていかん)の戦となります。奇跡の勝利は、小早川隆景をはじめ黒田長政、宇喜多秀家、石田三成、大谷吉継など多士済々な戦国武将たちが、なぜかこのときはおのれの家名や所領のためではなく「オールジャパン」のメンバーとして一丸となって戦い、ついに勝利を得た。そんでへとへとになった隆景を見て(画中ですけど)、山陽さんはかなり絶賛されとります。

ボクはあんまし真贋もようわからんけど、たまたま小早川家(明治になって復興)の家宝(毛利家から譲られた)を拝見する機会があって、その中からポロリと?出てきました。すでに有名なもんかもしれませんが、ここにご報告させていただきます。

聞くところによると、頼家はもともと隆景公の家臣頼兼氏、じゃないかとききました。ということは、山陽さんはそこんとこの「ルーツの機微」からも、この書に対峙されたんじゃろう、と勝手に思うのであります。

2021・12・22

久保寺辰彦さん

「臨書? 贋作?」

 

『頼山陽先生手簡 第三集』にある、文政6年の雲華上人宛てと言われている書簡です。

右の写真は、第三集の書簡を元に臨書したと思われますが、このレベルになると私なんぞは元の書簡と比較しないとわかりません。

細かく見ていくと、確かに起筆の違いがありますが、形などはほぼ正確

  頼山陽の書状の写し(久保寺蔵)


に書き写しているように見えます。

純粋に山陽の書を学びたかったのか、それとも贋作の専門家だったのか気になるところです。

頼山陽先生書簡 第三集
頼山陽先生書簡 第三集
 頼山陽の書状の写し(久保寺蔵)
 頼山陽の書状の写し(久保寺蔵)
 頼山陽先生書簡 第三集
 頼山陽先生書簡 第三集
 頼山陽の書状の写し(久保寺蔵)
 頼山陽の書状の写し(久保寺蔵)
家紋,光琳梅 
家紋,光琳梅 

2021・9・26 石村良子代表「梅咲う うめわらう」

 

 

古文書では、「咲う」と書いて、「わらう」と読む。咲は笑の異体字と辞書にはあるが、山陽の「笑社記」は、咲も笑も両方使っている、梅の所は「咲う」を使っている。


ある所には咲う(わらう)は漢語には、ないとも書いてある。山陽の文にも独特な言い方をしているところが有るので注意が必要だ。

 

 

2021・9・24

石村良子代表「頼山陽の友達との付き合い方 月見」

 

 

山陽は、気の合う友と「笑社」を結成し、酒を飲み、大いに笑おうではないかとその記を残している。記の最後に、但し、その笑いは梅を見て笑うというようなものでなくてはならず、必ず詩に残し、梅に笑われないようにせよと、戒めている。

登々庵当ての手紙には年の記載がないが、九州西遊前の手紙。長崎での山陽の下宿に登々庵の額があり、あまりの偶然にその人を懐かしんで喜んでいたが、この時、すでに登々庵は亡くなっていたのだった。

 

会友の一人、武元登々庵の病気見舞いの手紙

 

「今夜,前赤壁の夕、如何お過ごし為され候や、昨夜も明朗、くまなく御簾を隔て賞玩つかまつり候。今夜も晴れに違いなし。よって茶籠を携え奉り、御病気の側にて茶を煎じ、お庭の荷盆(ハス葉)上の露、珠に宿る月を看申し候て、清話つかまりたく、また佳夜虚しからず、如何。菓子も少々これあり候。御病中にて御慰みにもなり候はば、罷り出ずべく候、御用捨なくお答え承りたく候、頓首 襄    

登仁兄 」


2021・9・12

石村良子代表 

「頼山陽『笑社記』後」

写真は頼山陽「笑社記」 

頼山陽記念文化財団「頼山陽とゆかりの文人たち」究理堂文庫


この「笑社記」は小石元瑞の求めに応じて書いたとある「この文を作ってより五年たち、すでに梅庵(小森梅庵)を亡くし景文(武元登々庵)を亡くし景文の弟も亡くした.哭くのを以って笑うのに換えている、笑いは永遠ではないのである。今こそ、笑う事を計画しなかったならば、どうして地下の友にわらわれないであろうか」

文政2年「笑社記」稿本後改めて「眞率社」を作った。

 

「 貴殿は、社という名が意味がないといって笑われるが、私の方では貴殿

が私を笑うのを笑うのじゃ」前のように一々笑うの旨趣を述べたので、そ

の人は笑いながら帰った。今そのとうりを、書付て笑いの仲間の人々に見

せた。その上で仲間の者を戒め、盟約を決めることにした。「吾々が笑う

のは、お互いに気を付けねばならぬ、虎渓での陶氏や陸氏は、ただの浪人

者で又慧遠は山寺の和尚である、こんな賤しい者ではあるが、わずか一度

笑ったたことが五六千年の後でも、虎渓の三笑として音に聞こえておるの

じゃ。廬山の瀧の響きの、かまびすしいどころでもない、仰山な事じゃ。

此の笑う声の後世まで響いて居るのは、他の事でもなく、笑うべき友達を

得て笑うべき事が有って、笑うたばかりの事じゃ。また陳図南と云う人は

宋の太祖が天子の位についたという事を聞き 大笑いして馬から落ちたと

と云う.これは陳図南が丁度笑うべき時節に逢い笑うたのである。

吾々の仲間は,仕合せなことに太平の世に生まれたので、只笑い楽しむこ

とを相談している。いまでは誰も笑う事は難しいなど思わないであろう。

友に出合い、笑いながら酒を飲むのは実に楽しいことである。だが必ずし

も良い酒を用意するにも及ばず、肴も必ず旨い物にも及ばず、歌三味線で

興を添えてもらうに及ばない。全体美しい女が歌など歌うてお酌をするこ

とは、だれでも悪い気はしない、しかし中には美人の笑いのために家や国

をなくすこともある、新造のお酌などはわれの仲間の笑いに必要な物では

ない。わが仲間の者の笑いは簷(ひさし)の前に有る梅の花の咲くのを見

るだけで十分である。それで、一度笑う事があれば、必ず詩を作って、そ

の笑ったことを書き留めておくことにしょう。梅の花に、吾が仲間が無風

流じゃと笑われぬようにするがよい」一同笑って云うには「いかにも承知

した」そこで、此の次第を「笑社の記」とする

唐人の詩:杜牧の「九日,斎山に登高すにある、人生に口を開けて笑うようなことはめったにない」

崔恵童「一月に主人が笑う事が何回あるだろうか」

虎渓三笑:廬山に住む慧遠法師を陶淵明と陸修静が訪れた帰り、慧遠法師が二人を送る途中、話に夢

中になって超えないことにしていた虎渓を過ぎてしまい人で大笑いしたという故事である。 悟り

はどの道も同じ、陶淵明は儒教、慧遠法師が仏教、陸修静が道教を表す。

 

  

2021・9・10

石村良子代表 

「頼山陽『笑社記』前」

 

(原文漢文)文化12年

笑社の同人:武元登登庵、小石元瑞、浦上春琴、小田百谷、小森梅庵,物集西皐、小林香雲.方外に雲華、 客員に田能村竹田

 

私が、ある時に友人たち二三人と酒を飲み大愉快にて、笑い楽しんだことが有る。それより十日あまり、言うには、この間のような、笑いは二度とできようか、となって、笑うという事で集まることを、笑会とつけた。その仲間のことを笑社といった。このことをある人が聞いて、「一体社と名をつけるのは、ちゃんとした意義があるものなのに、只笑うと云う字を、社名にするとは、あまりあさはかではないか」と云う。私は答える、「いや貴殿のたやすいと云う所が、私の容易ならぬとするところじゃ。


其の証拠には、唐人の詩に、人間一生の内にも大口空いて、笑うような面白いことに逢う事はそうそう出来ぬ、又ひと月の内に、笑うような事は、幾度もあるものでもない。それ故、友達に逢うたなら、まあ酒でも飲んで楽しむがよいと、云うておる。一体笑うという事は唐人にしても、逢う事は難しいとか、又は一月の内に幾度あるかと指を折りて数えたりするもののようじゃ、思うに気の合うた友達を得る事は難しく、又おのれの心持に丁度叶うた事は、めったにある事ではない。前に云うた通りの事が二つ揃ってこそ、笑うようなことが有る。おまけに時節に合わなければ、とても笑って楽しむことは出来ぬものじゃ。笑うという事は、なかなか容易なことではないぞ、稲妻は天の笑いと云い、海上の大風を海の笑いと云う事で、天や海のような広く果てないものですら、毎日笑う事はならず、時々笑う事があるだけなのじゃ。春の山は,笑うようじゃと云ってあれば、山でも折々は笑うと見える。さすれば、人間はなおさら笑う事がなくてはならぬ筈である。であっても、人でも不幸にして、笑う事もならぬ者も中にはある。衛の君は、一つのしかめ面、一つの笑いをするのも容易ではないと云われた。この衛君などは、一生の中に笑うのは幾たびというほどであろう、中々一月の内、幾度どころだは、あるまい。それゆえ位の高い人ほど笑う事は、難しい物じゃ.吾々のような、身分の軽い身はまだ幸せ、さほど笑う事が難しくない、故に我々は身は賤しくとも笑う事は度々できるが、位高き人は、いたって自由に笑う事もならぬ、というて貴人を笑って居るが、例えれば、丁度ミソサザイが鵬鳥を笑うようなもの、おのおの其の身分を守り、その楽しむべき事を、楽しみ、そして笑うという事である。おかしくも無いことを笑うのは、則ち、世辞笑いで、夏田を耕すよりたいぎな事じゃ、おのれの身分に相当せぬ楽しみをしょうと思って鬼神に笑われないですむのは、少ないことじゃ。この様な者は、とりもなさず我々の笑う仲間の恥とするところで、我々社の笑うという意はこのとおりである。

 

2019・6・17

石村良子代表

頼山陽の母方祖父(飯岡義斎)から、娘(静=梅颸)への教訓文③

              「すぽらほんのほんと 心をやるべし」

 

()い出して(い出して)ふりぬく(振り抜く) これと同じ事 どういうたとて どうしたとて どうも こうもならず むこうの事 こちのよろず ちっともどうとも しょうなく だいたい わが心を立()へる(える)事より(ほか)は とんと とんとなき事なり。どのように世間の事 人間の事さまざま(様々)変事(へんじ)ありとも こうより(ほか)は しょうのなき事を(よく)(よく)かくご(覚悟)きわ()め ずっしりと てづよく(手強く)(いさみ) 志を立て立て(たち)すへ(据え) 鉄石(てつせき)のごとく びん(貧乏)ぼゆるぎも せぬに すっきり人情の やるせなきに まけず 人道の本然(ほんぜん)を立すへ戦場にむかって 馬にむちくれ 君に先だって打死(うちじに)にすべき心もち 常々の表にある事にて 今その気になれば それになり ぐにゃつけば ながれて(流れて) やく()たらず(足らず)になり ただただ心で心をとり立てとり立てすれば ()しょう()もつれて つよくなり りんりん(凛りん)として おかす(侵す)べからざるのみさほ()を 立て立て立すへ あっぱれ 手がら 剛のものよ 賢女よ (飯岡義)()の子 弥郎(弥太郎)が妻 久太郎が母よ 婦人のかがみよ 手本よと ながきよまでのわらひ(笑い) ほまれ()の わかれ(分かれ)を ()する()まじきものなり あなかしこ  

一 どうで(も) 侍の妻となりては町人 百姓のような根性(こんじょう)さげては やくにたたず 侍の妻とて 人に貴ばれ(とうとばれ)(うわま)はるるからは町人百姓どものような 根性をさげて()ては とんと身分がすまぬから かくべつ(格別)な所なければ ならず かつ べつな所とは 道を守りて 勇を剛きにあり ぐにゃぐにゃ なき(泣き)(つら)人に見すべからず 秋の霜のおかすべからざるごとく りんぜん(凛然)

すずしく 立あがるべし かりにも よわき(弱気)なみだもろき(涙もろき)根性あるべかず

心で心をとりなをし気で気をひきたて これの思ひあらば うと((和歌)歌う)ふて て心を放散すべし くよくよ()ねにたむ(に溜む)べからず おも(思う)はや()まひとなり 

つがざる(継がざる) これ等のこと わするべからず

すぽらほんのほんと 心をやるべし

うき事の かさなる事は いさぎよく 世をうとふべき 便りならまし

うき事は よにあるほどの ならひぞと おもひながして 心はるけき

何事も さだまる道と あきらめて まよひだにすな なげきだにすな

後二首は前にやりたるようなり

七月十八日      父 やや

静子へ 

 

湘瀟(しょうしょう)何事(なにごとぞ)等閑帰(とうかんかえる)の詩の(かき)たる(かり)の かくの(ごと)く書きたる小茶碗

其方(そのほう)(いき)有り候や(いなや)(きく)ばかり 返却(へんきゃく)には及ばず候

 

 

 

2019・6・9

石村良子代表

頼山陽の母方祖父(飯岡義斎)から、娘(静=梅颸)への教訓文②

                 「人らしき人にならんとおもはば」

 

書かれた時期の詳細は不明だが、静が20代、幼い山陽を連れ、実家に帰省したころ(1780年代)に書かれたのではないか。義斎は大坂の儒医者で、1789年、73歳で没している。

註:天明の飢饉 天明2(1782)年から同7年にかけての全国的飢饉、 同2年は天候不順で凶作、翌同3年は春から冷雨が続き,さらに洪水,浅間山の大噴火のため大凶作となった。死者は30万とも50万ともいう

 

住馴(すみなれ)親里(おやさと)を離れ 遠き国におるも (ただ)壱人(ひとり)の夫を頼りにして在る事なるに それだに又遠く離れし只ひとり おさな子をそだてくらす事 (たより)も力もなく いか(ばかり)のなげき かなしみ思いてくるも はてしなし

 

しかれども どのように ないても わめいても おどりはねても どうもこうも しょうなく こん(困窮)きゅうしごくせまり きったる事神々にいのり きせいし人々にたのみ願いても ならぬ事はならぬ 天命いかんともぜひなく いっそ死んだら 此おもい 此くるしみ あるまいとおもえど げんざい おさな子あり老たる親あり かなしみおもう夫あり こがるる兄弟 しぬるもしなれず かかる時いかんとかせん さりとて いきもならず ただむねに むせかえり くるしみ(ばかり)なり

 しかれども ここに にっちもさっちもゆかれぬ 人の道と いうものありて 

そのせまりつめたる中に 凛々(りんりん)たる道義立ちすわり びくともせぬ うろりともせぬ有るを 能々(よくよく)(あきら)め悟り (よく)そだて やしない堅く執り(とり)守るべし しかれ一切のなげき うれへは さらさらと ゆき() しも()の とけるごとくあんらくなるべし

 

ここを聖人(せいじん)憂うるなく 知者は惑わず 勇者は恐れずとこそ仰られし 君子

わたくし かってなきゆえ(ウレへズ)うるなし 人のうれいなげきは 皆多 わたくし()って() よく()より生ずるなり 知くらく 義理すじ道わかれぬから めったくたり やくにもたたぬ事を あんじ(案じ)くらし(暮らし) うろたえ(狼狽) まどう(惑う)なり 勇氣の志なきゆえ万事に へこたれあしこしすわらず ひょろひょろ さまざま びくびくし みれんさもしき事をするなり

さすれば 男も女も此勇の志 立すわるで仁も義も知も 信も出来るなり

とかく人らしき人にならんとおもはば 心の剛にして弱からぬが大徳にて 

心よわきものは大の(おお)ぞん やくにもたたぬを くどくど くよくよおもうも 皆勇なきゆへなり

勇とは 心いさみて つよくひるまぬをいう常々 此心をしゅ()()()べし 大の徳つく事なり 

 

すでに此たびの事でも 当時此天気にても さきだって順気にて 天下万民悦び楽しみしに かくふりつづきて民ぼっと とう(当惑)わくし いのりきたりし なき(泣き) 悲み(かなしみ)

 

うらみ(恨み) なげき(嘆き)のたらたら よまい事のたらたら かまひせ(構いせ)()けれども 天気 き よろしとして せいだし

 

2019・6・7

石村良子代表

頼山陽の母方祖父(飯岡義斎)から、娘(静=梅颸)への教訓文①

                         「人情と人道」

 

書かれた時期の詳細は不明だが、静が20代、幼い山陽を連れ、実家に帰省したころ(1780年代)に書かれたのではないか。義斎は大坂の儒医者で、1789年、73歳で没している。

註:天明の飢饉 天明2(1782)年から同7年にかけての全国的飢饉、 同2年は天候不順で凶作、翌同3年は春から冷雨が続き,さらに洪水,浅間山の大噴火のため大凶作となった。死者は30万とも50万ともいう

 

人には人情と人道とあり 人情はしのびがたく やまれぬものなり これなければ人にあらず

又人道というは道理のたがえられぬものあり これなければ人たるの本体(ほんたい)なし

 

故に人情の やむにやまれぬることありて むせびかえり こがれはつるかなしみ あればありとても 又そこからも たがえ(違へ)られぬもの有る事を天性也本心也人道也

能々(よくよく)(あき)らめ悟りて きっと情の行くままなるを制して ほしいままにせず

きっと道を立ちすへ堅く守りて(へん)ぜざる これを人の道を得たりとす

 

その人情のやまぬありとも 人道を以って制すべき事なるに 情欲のみ(もっぱ)らに盛んにして 人道を以って 制するすべをしらざる これ鳥獣の道にして 人たるの道にあらず

世間人間の上 まちまち さまざまの変ありとも かうより外 かく(覚悟)ごすゆべきなく万々の事 この準則を以って ゆくべきより外なし その(ところ)(よく)しれば 

まよい うろたえなきはずの事なり

ここが合点ゆかぬと 諸事 変あるたびに当惑 邪曲を生じ乱逆に至りて 人でなしとなり 世の笑いものとなり 終る事たちまちなり

 

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

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『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

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 『私のルーツ

 

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