2016・2・5

『蒙古来』を好んだ徳冨蘇峰

 

徳冨蘇峰①」で書いたように、中野好夫著『蘆花徳冨健次郎』(筑摩書房、昭和47)には蘇峰についての逸話がある。

蘇峰が外遊してロシアの文豪トルストイと歓談した際…「座興を求められた蘇峰は、かねて愛誦する頼山陽の『蒙古来』と『鞭声粛粛』の詩吟を、大声でやってのけた」

 

現在でも人気の高い「鞭声粛粛」はともかく、蘇峰が「蒙古来」を好んでいたという事実。

  徳冨家の人々。左端蘇峰。右端蘆花。
  徳冨家の人々。左端蘇峰。右端蘆花。

    若き日の徳冨蘇峰
    若き日の徳冨蘇峰

頼山陽の後世の評価に多大な影響を与えた蘇峰だけに、蘇峰の故郷熊本の隣の福岡に「『蒙古来』欅一枚板」があるのは、あるいはどこかで蘇峰と関連しているのではないか。

 

と、これもまたあくまで一つの仮説としてあげておく。

 

写真は中野好夫著『蘆花徳冨健次郎』より転載した。

 

 

 

 

 


2016・2・13 橋口文久さん「非常によく似ています」

 

ありがとうございます。

筆跡を現物と比べましたところ非常によく似ています。 (略)

またいろいろご教授をお願いします。

                      橋口拝

 

                

2016・2・9  石村良子代表「再び蒙古来」

 

お茶会で石川丈山の幅をかけることになり、『渉成園記』(頼山陽)を調べておりましたら、『頼山陽 新居帖 渉成園記 並十三景詠』(習字本大成六 昭和八年版)に以前話題になりました蒙古来とあとがきが載っておりました。 

左の写真がこれまでご紹介してきた「欅一枚板」の関連部分

 

下の写真が「頼山陽 新居帖 渉成園記 並十三景詠」

 

 


石村良子代表へ

 

さすがです。

「欅一枚板」の筆跡は頼山陽に間違いなさそうですが、第三者が本を見ながら書き写したという考えを否定できなくなりました。見比べるほどに、書き写したという感じを強く受けますが、いかがでしょうか。

もし「欅一枚板」に書かれている「蒙古来」の詩本体の筆跡と寸分違わぬ書か、もしくはそれが掲載された本が出てきたなら、「欅一枚板」の謎解明に大きく前進することになるでしょう。

                          見延典子

 

皆様からのご意見をお待ちしております。 

                           

同じ形状のものがもう一つある(右の写真)。写し方が悪くて、文字が見えにくい。

 

「煎茶鶴避煙」

 

進藤多万事務員のご協力で、判読できた。


  裏には落款のようなもの
  裏には落款のようなもの

2015・11・17

頼山陽の筆跡?

 

先日の旅猿ツアーで、柳井の「むろやの園」に立寄った際、屋敷の離れにかかっていたもの。

 

「洗硯魚呑水」

 

琴の板に彫られたようだが、ふと以前紹介した「欅の一枚板」を思い出した。


係員にお訊ねしたが、残念ながら、入手経路などすべて不明とのことであった。

 

 


2015・10・3 若き日の「蒙古来」

 

古本屋で木崎好尚著『頼山陽」(昭和16年 新潮社)を見つけた。

 

頼山陽に関する木崎好尚の著書は数多く持っているが、これは未読である。

 

パラパラとページをめくっていくと、「蒙古来」の山陽の詩幅が出ていた。

「大坂仮寓の日、中野子徳に与へしもの」とある。

 

山陽三十二歳の時だ。

 

生意気な言い方をすれば、まだ文字が若く、山陽でありながら山陽になっていない。

 

しかしこうしていろいろな「蒙古来」を見ていけば、見えてくるものがあるかもしれない。

 

(真贋に関しては木崎氏に従います)

 

2015・7・13 石村良子さん「どのへんが変わったのか知りたい」


蒙古来②

カッコのところですが (中ツ之を蔵すること久からざるに 今蔵するなき間)の方がいいかも知れません

古文書教室のOさんによると 昭陽は山陽を泊めたということで藩より

お咎めがあったという事です

Oさんはこの板の蒙古来がどのへんが変わったのか知りたいようです。


 


2015・7・12 石村良子さん「読んでみました」


蒙古来

読んでみました. 古文書教室では頼山陽が揮毫 彫ったのは誰か別の人 という意見が多数でした

内容は()のところはまた色々でした あくまで以下は石村私見です

 

此余十八九時所作咏史短古一篇有人傳似南冥

先生先生一讀激賞貼之壁毎酒酣輒朗吟稱

快哉聞之感其知己(中ツ蔵之久無令蔵)

間西人索閲覺語

意有所不足不足數句恨不起

先生算之

 

此れ余十八九の時 作るところの咏史短古一篇 人の

伝うるありて南冥先生にしめす 先生一読して

激賞し此れを壁に貼り 酒たけなわなるごとに

すなわち 朗吟して快哉ヨキカナと称ふ 之を聞きて

その知己を感ず (中ツ蔵之を久しく蔵しむるなき)間

西人書を此にもとむ 書に臨み再び閲ケミするに

語意の足らざるところ有るを覚ゆ 足らざる数句

起こさざるを恨み 先生之を算タダす

 

中(門蔵三久 無令蔵)などと読んでみたり  結局よく事情がわかっていないので 解読も出来かねております

 又新たに何かわかれば教えてください

 

此れは南冥が春水の家を訪ねた時春水が見せ 持ち帰った南冥が気に入って壁に貼っていた それを中津の雲華が見て 山陽に手紙で知らせた

 西人は雲華上人ですか?



2015・7・1 石村良子さん「頼山陽を真に理解するのは難しい」


蒙古来をコピーして貼りあわせる まず自分で読んで見なくてはととりかかる

まず颶風とあるのにつまずく 漢和辞典には秋令、颱颶時に起る。土人、正二三四月に起る者を謂いて颶と為し、五六七八月に起る者を颱と為す。(旧暦か?)颱は颶より甚だしくして、而して颶は颱より急なり。四方に吹く風とある

漢学の素養なくしては 山陽を真に理解するのは難しいらしい

山陽もだけど 今更ながら 諸橋轍次は偉大すぎる


 


2015・6・28 石村良子さん「橋口文久さんへ」

 

橋口久文さん

投稿有難うございました 実はずっと気にしておりました

南冥の先生の一人、佐賀ハスの池龍津寺大潮禅師は、私の尊敬する賣茶翁の法弟です 

欅の一枚板も何らかの縁でそこにあるのですね 先日私が投稿した文人ネットワークの文中、南部伯民の三田尻の墓は管茶山が墓にびっしりと墓誌銘を書いているということです(石工が彫った)

亨翁の旅 錦帯橋編で訪ねてみたいと 思っております

一枚板の件は写真を貼りついで、古文書教室の皆に意見聞いてみます

 

 

 

2015・6・24 橋口久文さん「どなたかご教授頂けると幸いです」

 

ご無沙汰しております。

かなり時間がかかりましたが、同僚とともに自分なりに解読してみました。わからないところは、どなたかご教授頂けると幸いです。

とりあえず漢詩の後書きにある画像を送付いたします。

 前半の漢詩と後書きは、明らかに筆跡は、同じと思います。

ワードで添付した太字部分は、何かの書物から引っ張り出したものと思われます。 彫刻した人は、漢詩の揮毫と後書きの揮毫を手本にしたと思われます。

 欅の経年具合から大正、昭和のような感じはしません。

 盆の裏側には、何も見当たりませんでした。

ご教授よろしくお願いいたします。


二伸

メールを書きながら思ったのですが、蒙古来の題の後に「襄識」とあるのを素直に信じれば山陽本人が製作したと考えれば色々な疑問が無くなるのです。私の個人的な考えですが。


 

此余十八九時所作詠史○右一扁有人伝似南冥

先生々一読激賞貼之壁毎酒酣輙郎吟称

快哉吟之感其知己中川蔵之久無○藤?

間西人索書此臨書再閲覚語

意有所不足々数句恨不越

先生笑之

 

 

○訳

この詩は、私が十八歳か十九歳の時に蒙古襲来のことを詠じたものである。右の一篇の詩を南冥先生に伝えたようである。

先生は、これを一読し、激賞してこれを壁に貼り、酒宴のたびごとに朗吟し快哉を称えた。(ここは、勘ですが、)九州にいるときにこの詩を探し出し再びこれを臨書したことを思い出した。意を伝えることが不十分だったので数句を足して満足した。南冥先生は、これを笑った。

 

○能古島博物館の官報に南冥先生についてふれた文がありましたので転記しました。

 

文政元年(一八一八)山陽が西遊した時、博多に入るや昭陽を訪い、詩酒徴逐、議論を上下すること一再にとどまらなかったという。四月二六日、山陽は、博多に亀井昭陽を訪うた。両家は、久しき以前より、親交があるゆえである。則ち、山陽の父春水と昭陽の父南冥とは、山陽が未だ生まれない時からの友人であり、春水が大阪に在ったころ、南冥も笈を負って京摂の間にあって、交わりを結んだ。爾来、南冥は、東遊の途次必ず春水を訪れていたので、夙に春水が子に山陽あるを知っていた。殊に山陽が『山陽が十八九歳の時に作した蒙古来の詩を示されたとき、これを一読、激賞して之を壁に貼り、酒酣なる毎に朗吟して、快哉を称えたということを聞いたので、山陽は、甚だしく知己を感じていた。』その後、南冥の門にある広島の山口鳴鶴より、南冥のことを語るに至り、益々傾倒し眷々の情があり、合見ゆるや頻りに西望して、南冥を慕うに至った。(中略)山陽が西遊した文政元年、時に亀井昭陽四五歳、頼山陽三九歳、広瀬淡窓三七歳、昭陽と山陽とは、親の代から子の代へと、との交わりは、益々深かった。・・・・・・・


橋口さんへ

ご解読文、新たな写真をありがとうございます。


どなたかご意見をお願い致します。

ご感想でもかまいません。

 

 

2015・4・20 石村良子さん「頼山陽揮毫で誰かが彫った」

 

昨年頼山陽ネットワークで尾道淨泉寺を訪れた際 手水表に「離垢」

裏に「頼山陽筆 石工何某」とありました。

これも頼山陽揮毫で誰かが彫ったのでは。 

裏に何かないでしょうか。

 

石村良子さんへ

そうなんです。「頼山陽揮毫で誰かが彫った」に同感です。

(この前提が崩れれば、後世の工芸品ということになりますが、これだけの大きさの欅に彫られていることを考えれば、工芸品の可能性はほとんどないのでは。失礼な仮定で、所有者の橋口さん、申し訳ございません)

問題はその「誰か」ですが、「いつ」「どこで」「誰のために」「どんな目的で」という部分もまた不明なのです。

後書きが解読されれば、必ずヒントが見つかるはず。

私も「裏」が気になっています。

 

 

2015・4・19 石村良子さん「後書は別人の書体にみえます」

 

後書に「余18.9のなんとか 先生がこれを賞して壁に貼り吟じた」とか何とか読めます。余は山陽 先生とは亀井南冥でしょうか。最後に「先生之をなんとか」とありますよく見えません。この欅板の字の詩の書体は山陽(風)後書は別人の書体にみえます。「人」の書体が違う?

で、これは南冥の関係者の作品ですか。

 

石村良子さんへ

振り出しに戻りましたね(笑)

現段階で、確定していることのほうが少ないのです。疑いはじめれば、失礼ながら後世の工芸品という可能性もゼロではないかもしれません。

今の段階で最も有効なのは、橋口さんの解読をお待ちするか、橋口さんが全文が読めるような、もう少し鮮明な写真を送ってくださることではないかと思います。少なくとも、後書きの内容が読み解ければ、今より先に進めると思うのですが。



2015・4・18 所蔵者の橋口さん

          「山陽にこれほどの技術があったか」

 

ご連絡、ありがとうございます。

現在、後書きの内容を同僚と解読中ですが、太宰府の中川家文書のことなど調べていますが、明確な答えは、出ておりません。色々調べていると山陽が勤務先近くの英彦山に泊まったことや太宰府に泊まったことなど福岡と関係が深いことに興味を持ちました。

南冥先生については、能古島博物館の官報に詳しく出ていました。

素人の私には、これ以上先に進めないように思います。

私が持っている山陽の漢詩の筆跡を見ると山陽自身のものと判読できますが、どうやってこの丸盆に書いた(彫った)のだろうかと同僚と悩んでおります。一字一字に墨が入っています。盆の上に書いたもの貼って彫ったのでしょうか。その後に墨を入れたのでしょうか。かなりの技術がないとできない作業だと思います。彫った文字を見るとミスがありません。縁どりが完璧になされています。山陽にこれほどの技術があったかどうか疑問が残ります。素晴らしい職人技だと感心しております。いつのことになるかわかりませんが、時間が経てば何かの拍子に分かることもあるかと思います。その時は、メールを差し上げますので思い出してください。

今後ともよろしくお願いします。

                        

玉楮象谷について調べると、高松市美術館の解説に「蒟ま(きんま)は、蒟ま剣で文様を彫り、その彫り口に彩漆を埋め、研ぎ出す技法。存清(ぞんせい)は、彩漆で文様を描き、輪郭や細部を線彫りする技法です。」とありました。墨ではなく漆かもしれません。後書きも含めて彫る手本となるものはどうしたのでしょうか。益々持って不可解な感じです。

                                                           橋口 拝

 

確かに、これだけの物を丸く削るだけでも職人技ですね。山陽が削ったり彫ったとは想像しにくいですね。注目したいのは、山陽が丸い縁取りに収まるように書いている点です。誰かの依頼か(あまり考えられないけれど)自発的に、すでにできあがっているこの欅の丸板におさまるように文字を書き、誰かが彫りあげて南冥に届けたのでは? 書いたのは丸く切った紙かもしれないけれど、直接、板に書いたと考えたほうがいいのでは。

その際の彫師が福岡の職人なのか、京都在住の職人なのか。京都で彫って南冥届けるという可能性もある。当時の人々はいろんなことに手間をおしみませんから。…と、想像ならいくらでもできますが、残念ながら証明する手立てがみつかりません。

 

若き日の玉楮象谷が彫った? 大胆な仮説です
若き日の玉楮象谷が彫った? 大胆な仮説です

2015・4・16

大胆な仮説ではあるが

 

そのままになっている「蒙古来」欅一枚板について。

 

頼山陽ネットワーク代表代行の石村良子さんが意外な話を教えてくださった。

 

 

文化4年(1807)高松で生まれた玉楮象谷(たまかじぞうこく)は若いころから鎌倉彫風の木彫や、彫漆の研究に専念。

 

文政9年(1927)20歳のころに京都遊学して、さらに研究を進め、東本願寺の雲華上人と知り合った。さらに雲華上人の口添えで多くの神社仏閣にある古今東西の有名な美術工芸品等を自由に見る機会にも恵まれ、大成するきっかけになったというのだ。

 

玉楮象谷の作品は、象谷塗、讃岐彫とよばれ、香川漆器の源流となったといわれている。

 

以上を踏まえ、改めて「蒙古来」欅一枚板を見てみよう。

 

大胆仮説=これを彫ったのは、若き日の玉楮象谷ではないか?

 

尚、『頼山陽全伝』文政11年(1927)12月28日、頼山陽が『日本楽府』の稿本を雲華上人に贈り(山陽はとられたと書いている)、礼として「旧蔵の華製盒子」をもらった(山陽は換えたと書いている)とある。

 

華製は唐物、盒子はふたのある入れ物のことで、堆朱の合子(ごうす)とか陶磁製の合子ではないかと推測され、残念ながら「蒙古来」欅一枚板とは別物と思われるが、当時の山陽や雲華上人の関心の方向性を考える上で、参考になる記述ではないか。(盒子については読者から教えていただきました)

 

どなたかご意見をお願いします。

 




2015・2・27

『蒙古襲来』を読んでみた

 

広告に惹かれて服部英雄著『蒙古襲来』(山川出版社)を読んでみた。

 

著者の服部英雄氏は1947年生まれ。現在は九州大学大学院比較社会文化研究院教授。

 

ずいぶん専門的な書物であろうとは思っていたが、予想通りであった(笑)

 

 

この本の広告を見て、何に心が騒いだのかといえば、「神風」という言葉だ。

 

蒙古=元寇といえば「神風」が思い浮かぶ。

 

服部氏は第一次資料を読み込み、そもそも「神風」など吹かなかったのではないか、という着眼点から、「蒙古襲来」という史実におおわれた虚構を剥ぎ取ろうとしている。

 

本書によれば、「神風神話」はすでに鎌倉時代からあり、近代になるまで日本の政治、思想、歴史に影響を与え続けたという。

 

神風思想の最大の悲劇は「神風特攻隊」ではないかとも。

 

頼山陽の「蒙古来」(蒙古来る)に「神風」は出てこない。「東風」という言葉で詠まれている。

 

ただ、詩の内容から考えて、「神風神話」に「蒙古来」は利用されたのではないか、というのが私の仮定であったが、残念ながらそんなことはどこにも書かれていなかった。

 

もう少し調べてみたい。

 

 

 

2015・2・24 

こんな広告が目についた

 

一つのことを気にかけていると、そのことに関連するものに出会うことがある。

 

今週の日曜日の大河ドラマ「花燃ゆ」でも、文永の役、弘安の役が出てきた。

 

そしてこの広告。

 

何気なくある出版社のPR誌を開いたら、いきなり飛び込んできた。

 

この広告を見て、何かを感じないだろうか? 

 

ともかく読んでみる。

 

 

2015・2・21 「『蒙古来』の件、時系列にまとめてみました」


欅の一枚板に書かれている詩文、「頼山陽詩集」にのっている詩と説明書きを頼りに整理してみた。


頼山陽の「蒙古来(蒙古来る)」は文永の役(1274)、弘安の役の(1281)の蒙古襲来を詠んだ一首。元のフビライは日本の入貢を求めたが、鎌倉幕府(執権北条時宗)は拒否。そこで元寇が壱岐対馬,博多に攻めようとしたが、強力な東風が吹き、逃げ帰ったという内容。


 1、寛政9年~10年 山陽18、9歳

   頼山陽「蒙古来」の前段階の「読元史(元史を読む)」を

   書く。


 2、文化6年 山陽30歳春、京阪に向かう。

   この年の冬、雲華上人は、博多に亀井南冥、昭陽親子を

   ね、山陽の「読元史」を見せたところ、斎壁(書斎の壁で

   はないかというご指摘がありました)に貼り、二人で吟じ

   た。その様子を雲華上人は11月22日、山陽に手紙で報

   告した。


雲華上人は豊前の正行寺の住職。東本願寺の学頭を務める。

亀井南冥は福岡藩儒。息子の亀井昭陽(昱太郎)は頼山陽(久太郎)、古賀穀堂(文太郎)とともに「三太郎」と呼ばれ、次代を期待されていた。


3、文化11年 

  亀井南冥亡くなる。

 

4、文政元年  

    山陽は九州遊歴の途中、3月、下関で雲華上人に会う。

    4月、博多に亀井昭陽を訪ねる。

 

5 文政11年12月

  『日本楽府』の稿なる。「蒙古来」収録。


、天保元年『日本楽府』出版。


、天保3年 山陽53歳で没。


、昭和6年

  頼山陽生誕100年を記念し、『頼山陽全書』出版。

    年をまたぎ、昭和7年『山陽詩集』出版。


 ここから見えてくるものとは?

 

 

2015・2・19 橋口文久さん

「『頼山陽全書 詩集』に収録されています」

 

ある方から以下の趣旨のメールをいただきました。

「『蒙古来』は元々『読元史』という題で作られたものです。寛政10年(1798)、山陽19歳の作として『頼山陽全書 詩集』に収録されています。御参考までにコピーをお送りしますので御覧ください」

 

また何かわかりましたら、ご連絡申し上げます。

     橋口文久さんへ

      なるほど。ここにありましたか。

      これを読むと、ある程度の類推できますね。


2017・2・17 中津のオッサン「雲華上人の字ではない」


掲示されている『蒙古来』欅一枚板を見せていただきました。雲華上人と山陽さんの往復書簡とかはわかりませんが、雲華上人の出身地(中津)の者として写真で判断させていただいただけで、即断はできませんが、雲華上人の字ではないと思います。彼の字はクセがありすぎ、こんなに素直な字ではないと思います。写して彫ったのではないかと思います。解読をお待ちしております。


       中津のオッサンさんへ

         早速、ありがとうございます。中津の雲華上人の名前

        が出ていたので、中津のオッサンにお尋ねしようか、と

        思っていたところです(笑)

         雲華上人の書き文字は知りませんが、この一枚板は

        明らかに頼山陽の字を模したものと思われます。

         写して彫った、というご指摘もその通りで、問題は誰

        がいつその作業をしたかです。

         もしこれとそっくりの書状が残っていれば、後世の人

        がそれなりの思いを込めて作ったのでしょう。

         ただ、山陽自身も文人の心得として篆刻をやっていま

        すし、親戚に篆刻家もいます。もし誰かに頼まれて山陽

        が彫ったとすれば、お宝としてさらに価値が出ますね!

         難点は日付がないところでしょうか。 

         以上、素人の好き勝手な感想です。


2015・2・17 橋口久文さん「『蒙古来』欅一枚板の写真」

 

2・14の欅一枚板の件、写真3枚を送ります

日本樂府の「蒙古来」と内容が若干異なるようです。

後書きは、雲華上人が頼山陽との書簡の中で

頼山陽に伝えたようです。漢字解読に時間がかかります。

よろしくお願いします。 

       橋口久文さんへ

        写真を送っていただき、ありがとうございます。

        ずいぶん珍しいものですね。

        山陽の場合、詩の字句が異なるのは珍しくはありませ

       ん。写真は、下のほうが若干見えにくいですが、そういう

       材質なんでしょう。

        しかも山陽の詩だけかと思ったら、「日本刀(詩の終わ

       り)」の後に文章がある。これが、橋口さんがおっしゃ

       「後書き」でしょうか。

        解読もされるようなので、判読できましたら、教えてく

       ださい。

        お住いの福岡県宗像市という土地柄、差しさわりがなけ

       れば、入手された経緯も教えていただきたいところです。

        この作成に山陽自身が関わっているのか、後世、作成さ

       れたものなのか、興味がわきます。

        私もできる範囲で、調べてみます。

 

        お願い!

        何かご存知の方、写真を見てお気づきになったこと

       など、ご連絡ください。感想でもかまいません。

        よろしくお願い致します。

 

2015・2・14 橋口久文さん「頼山陽の『蒙古来』」

 

はじめまして。橋口と申します。

福岡県宗像市在住の高校の教師をしております。

頼山陽の漢詩を71cmの欅一枚板の中から発見しました。

「蒙古来」襄識とあります。珍しいのではと思い投稿しました

 

           橋口久文さんへ

        ご一報いただき、ありがとうございます。

        文面から察するに、後世、頼山陽の「蒙古来」という漢

       詩をどなたかが板に刻んだということでしょうか?

        そうであっても珍しいもののように思います。

        よろしければ、写真を送ってください。このホームペー

       ジを通じて、解決できることがあるかもしれません。

       

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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