2018・7・31 山根兼昭さん「石村代表の、山陽の行程表に思う」

 

「1827年3月28日、大槻盤渓を迎え、水西荘に開宴」

江戸中期の蘭学者、杉田玄白の弟子・大槻玄沢、その弟子が大垣の江馬蘭斎であり、小石元瑞であります。頼山陽が単身上京した時、この元瑞に巡り合えた事が山陽の人間関係の将来を決定ずけたと言っても過言ではないと思います。

大槻玄沢の子息、盤渓はこの時27才、長崎へ留学の途中、山陽宅を訪問したわけですが、盤渓はこの時始めて、同席しておりました江馬細香に会い、以来交友が続いたのであります。

また、書斎で「日本外史」の原稿を見せられた盤渓は、内容について意見を言ったため、山陽に叱られたようですが、後年、「日本外史」を読んだ盤渓は、「その箇所」が訂正されていたことを知ったのであります。

 

(感想)今迄、盤渓が山陽宅を訪問したのは、長崎の帰りと思っておりましたが、間違いでした。山陽は、当時の長崎で外国、特に清朝と英国の動静を気にし、盤渓からの情報を意識していたと思います。長崎からの帰途に期待したかもしれませんが、「玄沢危篤」の報に急ぎ帰国するも間に合いませんでした。

漢詩「平泉懐古」「春日山懐古」 大槻盤渓作、は多くの吟詠家からも慕われております。

 

1796年に清朝はイギリスよりアヘンの輸入禁止をしますが、以降も増え続け両国関係が悪くなり1840年アヘン戦争が起こり清朝が負けてしまいます。

大槻盤渓は長崎で当時の状況を聞き、山陽も当時、第11代徳川家斉の治世を見て、欧米の動向からそう遠くない将来幕府は開国を迫られるであろうと察したと思われます。

 

「敗れざる幕末」-見延典子著ー

 

山陽はそれからを日本外史の推敲を重ねますが、1832年自らの余命を察した山陽は、弟子の関藤藤陰、江木鰐水を呼び、「日本外史」の完成と、7割くらい書かれた「日本政記」と「通議」の補完を指示し、20年後に発刊するようにと伝えたのであります。二人の弟子は山陽の遺言を完遂しその後、福山藩に仕官したのであります。丁度藩主阿部正弘が老中となり、日米和親条約締結のおり二人は山陽の指導によって培った知識をもとに大活躍するのであります。

そうして「日本外史」は1844年川越版、1848年頼氏版が発行されます。明治維新まで20年です。幕末に活躍した多くの志士たちは、丁度10代で多くの藩校初め私塾で皆、朱子学を学び日本外史を教材にしたのであります。

当時の歴史家は、「あれは歴史物語だ」と揶揄しましたが、山陽は朱子学を学んだ人ならだれでも読める歴史書を意図したのでした。

 

「頼山陽とその時代」-中村真一郎著ー

 

ー今日、改めて「外史」を通読して感じることは、全巻に著者の勤王思想が一貫して脈打っていることで、これは予想外なほど率直に表現されているのである。維新の世代がこの書によって感奮興起したのも無理からぬと思う。だから山陽は「外史」が禁書となることを恐れ、幕府の独裁的執政者、松平定信に序を乞うたのである。

 

 「明治維新」

1、1866年  徳川慶喜、第15代将軍(12月5日) 孝明天皇崩御(12月25日)

1、1867年 明治天皇即位(1月9日) 徳川慶喜大政奉還(10月14日)

1、1968年 4月江戸城無血開城、 7月江戸を東京と改称、 9月8日、「慶応を明治」に改称、

                    

 明治15年頼氏増版
 明治15年頼氏増版

2018・7・2

山根兼昭さん「徳川氏論賛」

 

書き下し文 外史氏曰く。吾れ嘗て江戸に遊び、その城闕の壮、侯伯邸第の夥しきを観る。既にして東海を歴て、尾濃の間を彷徨し、北は信越の諸山の綿旦重畳して来たり、斜めに京畿に赴くを望む。而してその南は沃野洪濶、三遠と接す。真に天下の衝路、千軍万馬の馳驟を想見す。今の邸を布き第を列する者、その初め、皆鬻背をここに決せるなり。・・・


而して、織田、豊臣氏はその間をもって近畿を俺有し、俄かに強大をいたす。蓋し公を以て遅鈍となさざるはなし。而して天の公を成す所以は、即ちここに在るを知らず。二氏の天下における、唯々速やかにこれを得たり。故に速やかにこれを失う。公は未だ嘗て天下を取るに急がざるなり。而して天下の釁(きん)、毎に以て公を開くに足る。嗚呼。これその永く天下を有ち、以て今日の盛業を基する所以なるか。 (日本外史巻之二十二終)

 

(大意)私は嘗て江戸に遊んだおり、広大なる江戸城や、おびただしい数の大名屋敷が連なる壮麗な街並みを見た。そしてこれらの大名たちが、一様に徳川氏に忠義を誓っていることを今更ながら思い 我が国を支えてくれている徳川氏の盤石さに、つくずく感じ入ったものである。・・・江戸に屋敷を構えている大名たちの家々は、まさにここであの時に、徳川氏に従うか背くか、重要な岐路に立たされたのである。遠い昔源平争乱の時代から、群雄は領地を奪い合い争っているうち幾百年も経ってしまった。

ところが、どうであろう。今、私は気軽に帯を締め、小袋を無造作にぶら下げていても、追剥の心配もせず、腹が減ればいっぱい食べられる宿もあり、安心して旅も続けられる。この夢のような安心はどなたのお陰であろう。言うまでもない。この国に長久の太平をくださった、江戸幕府初代将軍・徳川家康公である。

私は以前から主張してきた。そもそも徳川氏が天下を取りえた最大のきっかけは、世間で思っているような「大坂冬の陣、夏の陣」の戦いではなく、その前の「関ヶ原の役」である。否、さらにはその前の「小牧の合戦」である。「小牧の合戦」こそが、徳川氏が天下を取るべき武家として天に認められた戦いであった。

織田氏も、豊臣氏も余りにも早く天下を取ろうとした。だから天下を手に入れたと思ったらすぐに失った。所詮は付け焼刃の天下取りだった。

対して家康公は一度として天かを取ることに焦らなかった。だから天は、家康公を選んだのである。これこそが、徳川氏が今日まで永く天下を保ち世を泰平たらしめ、これほどに国を栄えさせてくれた根本だったのである。

 

(感想)「小牧長久手の戦い」地元でも一応の関心はあっても、これほど歴史的意義があったという理解はありませんでした。将に頼山陽の指摘により、地元の三英傑の功績を再認識すると共に江戸時代の繁栄があって、今日があると云う事を肝に銘じた次第であります。

 

 

展示会の様子
展示会の様子

一足先に展覧会を見てきましたが、ジェンダーを扱った近年の展示の中でも一際優れていると感じました。

場所柄、足を運んでいただくのが難しいので、展覧会の様子も少し添付させていただきます。もし、イスラエルにご友人などいらっしゃいましたらぜひ案内をお願いいたします。

政治や文化に翻弄されてきた場所ならではの美術の必然性を感じた展覧会でした。

 

 

2018・6・22

鈴木涼子さん

「エルサレムで展覧会」

 

6月21日からエルサレムの美術館” Museum on the Seam

THE WOMEN BEHINDという総勢19名の作家による展覧会が開催されています。

 Museum on the Seam
 Museum on the Seam

 講座風景
 講座風景

2018・6・17

山根兼昭さん

「日本外史ー武家の台頭」

 

「維新の仕掛人・頼山陽」

 

今回の講座出席者20名の中、15名は始めてでしたので前半は写真を使い、「美濃尾張遊歴」「九州旅行・長崎」の話をし興味を以ていただきました。


「日本外史」武家の台頭ー

大化の改新(645)以来、天皇と藤原氏による治世が次第に確立し、奈良時代をへて794年平安遷都、894年右大臣菅原道真の遣唐使中止、藤原時平の讒言による大宰府左遷など時代が揺れる中 939年、関東で平将門が勢力を伸ばしておりました。山陽は「外史氏曰く。我が国の人間は等しく天皇の臣下であるが、神武天皇以来こともあろうにあの平将門が天皇になろうとした。とんでもない事であるが、平貞盛が将門を退治したので、まあ平家一門としては合子である。」

そして1118年平清盛の誕生、1123年源義朝が誕生致します。ここから「桓武平氏」と「清和源氏」宿命の対決が始まるのであります。

1147年義朝と名古屋熱田神宮の宮司の娘との間に出来た子が頼朝でありました。その後、義朝は伊勢平氏によって野間大坊にて暗殺されますが、清盛は頼朝を伊豆へ流刑。後に生かしたことを悔やんだのであります。

1185年、壇ノ浦の戦いで勝利を収めた源氏は、1192年征夷大将軍源頼朝が鎌倉幕府を開き、ここに武家によるが始まるのであります。

しかし、1199年頼朝は、52歳で不慮の死を遂げます。そして1219年、源実朝が北条時政によって暗殺、ここに清和源氏は絶えてしまうのであります。「外史氏曰く。この時義経おらば。鎌倉幕府の実権は頼朝の妻・政子の家 北条家にまんまと取られてしまった。あきれた話である。」

鎌倉幕府を手中にした北条氏は、1274年元寇の役「外史氏曰く。執権北条時宗は、元の侵略者を打ち破ったことを評価したい。」

しかし1318年、後醍醐天皇即位するも謀反により、南北朝へと時代は移って行くのであります。    以降次回

長崎花月・山陽碑(上)

長崎丸山・竜馬の道(右)

 

 


2018・6・8

山根兼昭さん 🔁 見延典子

山根兼昭さん「日本外史論賛2」

 

日本外史(上)岩波文庫・解説ー本書では、「勤王」もしくは「尊王」が武士にとって至上の道徳的義務である。・・新井白石は「読史余論」の中で、事実上において足利氏を皇室に代わる新しい君主と認めたとすることに対し、山陽は「名分の在る所、踰越すべからず。」と君臣上下の秩序を絶対化し、民心を統合する手段を失うことになると白石を非難したのでります。

 

山陽は、論賛の中で「天皇による政治」云々とは言っておりませんが、名分論を前提としているため不必要な表現はしなかったし、江戸時代後期、現実を見ていると幕府政治に限界を感じていたと思います。

 

もそも、平安時代に平将門が出現し、こともあろうに天皇の地位を得ようとしたが、平貞盛によって打ち取られ平氏の汚名を返上できた。その後、清盛の出現により武家の治世が始まるのであります。そして、源頼朝が征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府を開き、「武家政治が確立した。」と言われております。信長は「天皇による政治」はしておりませんが、時の正親町天皇は実質財政破綻し、危機的状態にあったところを支え回復させたのは、織田信長でした。

 

思えば、645年の大化の改新以来、天皇と藤原氏によって築かれた朝廷が、国を守るため武士の力を利用した治世を行い、約1000年後に、江戸時代が始まります。そして、265年後、大政奉還によって約850年の武家政治は終焉するのであります。

 

(感想)色々なご指摘により、固定観念が払拭され大分整理出来ました。「明治維新の仕掛人」は少し大胆な設定だったと思いますが、「日本外史」の内容が「まあほどほどに書かれているのがよい」-定信翁ー、名分論を前提に書かれている論賛は、山陽が言葉を省略していて、逆に読む方は解釈が膨らんでしまう結果になったと思います。まだあったらご指摘ください。

 

山根兼昭さんへ

山陽は源頼朝をさほど悪くは書いていません。一方、足利尊氏は筆誅を加えています。織田信長を評価したことと併せて考えれば、山陽の言う「名分の在る所、踰越すべからず」の意味は明らかと思います。

                            見延典子

 

2018・6・6

山根兼昭さん 🔁 見延典子

山根兼昭さん「日本外史論賛」

 

見延典子さんへ。

山陽の活躍した江戸後期、家斉が治めた50年は財政状態が悪く、後、老中水野忠邦は天保の改革で倹約令を出して引き締めを行いました。

日本外史は、最後に徳川氏論賛「外史氏曰く。吾れ嘗て江戸に遊び・・・・嗚呼。これその長く天下を有ち、以て今日の盛業を基する所以なるか。」と結んでおります。

山陽が、平清盛から書き始めた武家政治を鳥瞰するなかで最も心に留めた時代は、室町時代応仁の乱で京は焦土と化し、政治が乱れ戦国時代となって国中が疲弊してしまったことであります。

「日本外史、織田氏論賛」 外史曰く。・・・織田公の来るに及んで、始めて観るべきありという。それ応仁以還、海内分裂し、毎に兵馬馳逐の場となる。右府に非ざれば、誰か能く草莱をへき除し、以て王室を再造せんや。・・・・

(大意)、こんにち我が国があるのはも、織田信長公のお陰なのだ。と言って何ら差し支えないのである。織田氏、豊臣氏、徳川氏の三氏が我が国の平和を作り支えてきた。

その歴史は、初めに織田氏が荒れた土地を切り開き、建材を集める。つぎに豊臣氏の仕事は、黒縄、斧、釘などを揃え家を立てて行く。最後に家をきれいに仕上げ、人々を招き安心して住まわせる。これが徳川氏の仕事である。

そもそも「武家政治」は平安中期、1118年に平清盛が誕生、のち政治の実権を握ったことから始まるわけですが、徳川家康が江戸幕府を開くまで約五百年間、朝廷は武家に権限を与え

武力によって国を治めてきたわけです。「日本外史」はそのことを克明に描いてきた。山陽はそこに明確な意思を「論賛」の形でを加えたのであります。

江戸時代後期になり、特に経済は、石高本位から貨幣経済になり「経世済民」を求められた江戸幕府は高度な経済運営を求められるようになりました。

頼山陽は、若い時からお金には苦労し、揮毫した作品は決めた値段でしか売らなかった、とか外史の写本なども、村瀬藤城には、三両一分という請求をしております。

日本外史の論賛には、山陽の思想、信条などが織り込まれ、多くの読者の共感を得たことと思います。

(参考資料)1、日本外史・上・中・下 (岩波文庫)  2、長尾剛著、日本外史・超現代語訳で読む。(PHP研究所)                     以上

 

山根兼昭さんへ

お示しの「織田氏論賛」を読んでみました。

ですが、織田信長が朝廷や王室を大切にしたことは書かれこそすれ、山根さんがお書きのように「武士の政治に限界を悟り、天皇による政治にしなければ庶民の幸せはないこと」までは書かれていません。

そもそも信長は「天皇による政治」を実現していません。山根さんがお書きのように、織田氏、豊臣氏、徳川氏と続く「武家政治」の「土地を切り開き、建材を集める」作業をしたのです。

                          見延典子

 

2018・6・4

山根兼昭さん 🔁 見延典子

山根兼昭さん「維新の仕掛人、頼山陽」について

 

見延典子さんへ

 

講座の冒頭、このタイトルについて私は、「多くの歴史家がいますが、このような見解を見たり、聞いたことはありません。しかし4回の講座で、確かに山陽によって書かれた「日本外史」の影響によって幕末の多くの志士たちに、多大な影響を与え維新の成就に貢献した、と思うかどうか最後のアンケートにお答えください。」と前置きいたしました。

 

「論拠」

1、徳川家康は幕府を開くとき、朱子学派の儒学者林羅山をブレーンとして登用し、後 家光の侍講にしている。

2、将軍によって保護された朱子学は江戸時代を通して発展し、1790年「寛政異学の禁」によって完全に江戸の学問となった。

3、朱子学の大義名分論は「将軍と家臣」のきずなを一層強固なものにして江戸時代の発展に寄与した。

4、しかし山陽の生きた53年間は、11代将軍、徳川家斉(1787~1856)一人で、財政的に厳しく、1両の金貨に1両の銀貨を加え2両の金貨にした。その影響でインフレになり、庶民の生活が苦しくなったことを山陽も実感した。

5、山陽はその体験から、武士の政治に限界を悟り、天皇による政治にしなければ庶民の幸せはないことを「日本外史の論賛」に書き込むことによりことにより尊王論を訴えたのであります。

6、山陽は死のまぎは、関藤藤蔭と江木鰐水に「日本外史は20年後に世に出すように」と遺言します。しかし1844年川越版が出たため、頼氏版は1848年に発行されます。

7、寛政異学の禁から全国的に識字率は飛躍的に向上し、多くの志士たちはじめ庶民も含め「日本外史」は「読まない人は無かった」と言われるほど読まれたのであります。

8、「フルベッキ群像写真」は1865年に長崎致遠館で上野彦馬によって撮影された、とされ坂本龍馬始め維新を動かした新政府、幕府の志士たち44名が映っております。

9、これらの志士たちは間違いなく全員が「日本外史」を読んでおります。断言できるのはほかに読むべき歴史書はなかったのです。

10、山陽は「日本外史」を書き終えたとき、40年後に天皇の御代になることを予想したかどうかわかりませんが、山陽の強い思いが時代を動かしたと言っても過言ではないと思います。

11、「日本外史」は明治の歴史家から「あれは歴史書ではなく歴史物語だ」と揶揄されましたが、山陽の意図は「誰でも読める読みやすい書」で、中村真一郎は「頼山陽とその時代」の中で母が台所をしながら外史の一節を暗記して口ずさんでいる、と書いております。   

 

(写真)フルベッキ群像写真、オランダ人宣教師フルベッキと44名の志士。

西郷隆盛、坂本龍馬(1867,12暗殺)も映っておりますが慶應年間の撮影はあり得ないとの説もあります。

山根兼昭さんへ

早速のご返信をいただき、ありがとうございます。

5について、『日本外史』論賛のどの部分を指しているのか、具体的にお示しいただければ幸いです。

余談ながら、8、9についてですが、私もお示しの写真(上)を拡大したものを持っています。明らかに合成写真ですよ。一人ひとりの影を見ていくと、同時に撮られたものではないことがわかります。何かの雑誌の付録と聞いたことがあります。

                          見延典子

 

 

尾張旭市民塾で講師を務める山根兼昭さん
尾張旭市民塾で講師を務める山根兼昭さん

2018・6・3

山根兼昭さん 🔁 見延典子

 

山根兼昭さん

平成30年度尾張旭市民塾

「維新の仕掛人、頼山陽」

6月1日(金)

第1回「歴史書への執念」


今年、明治維新150年、山陽が生涯をかけた歴史書への執念が「日本外史」として結実し、時代は維新へと進んで行くのであります。

頼山陽は、14歳の正月、母静子に「葵丑の歳偶作」見せ、感心した静子は直ぐ江戸の父春水のところへ送ったのでした。それを昌平坂学問所の教授柴野栗山に見せたところ

「これからは、朱熹の通鑑綱目を読むように」といわれたのであります。

山陽は、叔父頼杏坪より朱子学を学び、通鑑綱目はじめ、国内の歴史本など読み、歴史書執筆の意思を固めたと思いますが、当時の状況は厳しいものがありました。

以前(平成25年8月)史跡資料館の花本先生に「山陽はどうして脱藩したのか」と照会したところ「諸説があって・・・」と言葉を濁されたので、「山陽に脱藩男という汚名をかけたくない」という親心を感じました。

結果として、山陽は、頼家から除籍され、妻淳子とも離縁させられ、天涯孤独の身となってしまいました。しかしこの境遇を活力として、27歳の頃には「日本外史」の草稿をほぼ書き終えていたのであります。

 

「葵丑の歳偶作」       頼 山陽

十有三の春秋 逝く者は巳に水の如し

天地始終無く 人生生死有り

安んぞ古人に類して 千載青史に列するを得ん

(大意)十三年間はあっという間に過ぎてしまった。人生には生死があるが、天地は無限である。何としても先人のように、名を残せるような人になりたい。

次回講座、六月十五日 第二回目「日本外史より、武家の台頭」

 

山根兼昭さんへ

いつもご投稿いただき、ありがとうございます。

さて平成30年度尾張旭市民塾「維新の仕掛け人、頼山陽」というフレーズですが、これは山根さんが考えられたものでしょうか? それともどなたかがお書きになったものの引用でしょうか? もしそうであれば、その方のお名前、発表された媒体、出版物であれば本のタイトル、著者名、出版社、出版された年を教えていただきたく、よろしくお願い致します。

                            見延典子

 

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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