特に記載のない場合は見延典子が書いています。

頼山陽が『西遊詩巻』を書いたとされる「野菜町通」の石碑(鹿児島市中町)と野間の関、頼山陽公園(阿久根市)と合わせて、もしくは時期を区切りそれまでに集まった鹿児島の頼山陽関連の石碑の写真としてCDーROMに圧縮してお送りすることも検討しています。また、小川内関所から亀嶺峠へ向かう道幅の狭い坂(亀坂)に頼山陽の詩碑が建っているようです。頼山陽は鹿児島に滞在中、各地で詩を残し、それが石碑か個人宅に所蔵されるといった形で残されているようです。

2021・11・4

山下幸太郎さん

鹿児島県出水市「野間の関」

 

野間の関趾の石碑は知られていますが、裏の碑文が気になっていたところ、現地に行くことが出来ましたので、お送りします。写真についてはお待ちください。

 写真/野間の関跡

 2019年10月24日見延が写

 す。こちらでも紹介しています。


表)

野間之関趾

   元帥海軍大将伯爵東郷平八郎書

 

(裏)

野間ノ關ハ今ヨリ三百年ノ昔藩主島津義弘公ノ時代群雄割據ニ際シ他

國ノ侵入ヲ防カンカ為メ國境ノ關所ヲ設ケ以テ往來ノ人ヲ檢セリ安永

六酉年之ヲ改修シ關吏トシテ出水郷士八戸ヲ同所ヘ移住セシメラレシ

ヨリ一層取締ヲ厳ニセリ寛政四年二月中旬上野ノ志士髙山彦九郎正之

薩摩ニ入ラントシテ此關ニ来リ關吏ニ通行ヲ請フ關吏容易ニ許サス此

ニ於テ正之一首ヲ詠シ關吏ニ與フ薩摩人いかにやいかに刈萱の關もと

ざさぬ御代と知らすや關吏正之ニ返詠スラク刈萱の關もとささる御代

なれと君のかためし野間と知らすやト正之入國ヲ歎願シテ止マス關吏

出水向江ノ人宮内卯左衛門以下協議スト雖モ容易ニ決セス故ニ早飛脚

ヲシテ關所取締出水麓郷士是枝七兵衛ニ計ル彼曰同行シテ余ノ宅ニ來

レト蓋嘗テ江戸参勤交代ニ際シ知友タレバナリ其他僧月照ノ如キ幾多

ノ志士モ入国ヲ拒絶セラレ道ヲ他ニ轉シタル者多シト斯クモ嚴重ナル

關門タリシコト誌ニ明ナリ然ルニ維新以來廢藩置縣明治昭代トナリ全

ク其趾アルノミ郷党以テ遺憾トスルコト久シ曩ニ町教育會ハ古蹟保存

ノ策ヲ講シ有志ノ義捐ヲ募集シ且會費ヲ以テ土地ヲ購ヒ提供セシヲ以

テ茲ニ町制施行ニ際シ町ハ此碑ヲ建テテ後世ニ傳フト云爾

 

 大正十二年八月中浣        米ノ津町長紙屋次太郎謹誌

 

2021・10・28 「薩摩川内市にある『頼山陽宿泊碑』」②

 

頼山陽全伝で確認したところ、石碑の漢字と違う箇所がある

 

晩宿逆旅擔簦    滿室歌酒如澠

言是重陽正客    不顧孤旅守寒燈

吾自有酒遠提挈    獨酌微吟酬佳節

瓊津友贐是瓊漿    汝酒似否芳烈

缺月窺擔影婆    今夜瓊津定如何

 

また「長井瀬兵衛」とフルネームで書かれている。「吾自有酒遠提挈    獨酌微吟酬佳節」は重陽の節句の祝い酒を飲める賑やかな騒ぎをよそに、長崎で選別に送られた瓢酒を飲んでいるという意味である。

                        

2021・10・25

山下幸太郎さん「薩摩川内市にある『頼山陽宿泊碑』」

 

 薩摩川内市にある「頼山陽宿泊碑」の資料が準備できました。写真と碑文を送ります。

 この碑については市の指定文化財ではなく、場所も病院の敷地内ということで、写真の使用についてなど分からない点もありますが、必要に応じて調べていけばいいと思います。

 石碑は写真で分かるかと思いますが、石碑のすぐ後ろがフェンスのため、背面の碑文を見るには少々窮屈に感じました。詩を挟んで前後の文は事前に調べていた資料にはなかったので、新しい発見でもありました。書き出しが「文豪頼山陽」で始まることに石碑に対する強い意図を感じました。この石碑は地元でも殆ど知られていないようです。亀嶺峠と同じく、石碑に隠された歴史は多いようです。

表面)

    山陽宿泊阯

(裏面)

    文豪頼山陽文政元年九月九日重陽之節當日薩摩の

    名旅宿川内大小路町永井之旅宿深夜次の詩作あり

     晩宿逆旅御擔簦    滿室歌乎酒如澠

     言是重陽正会客    不顧孤旅守寒燈

     吾自有酒遠提挈    獨酌微吟酬佳節

     瓊津友贐是瓊漿    汝酒似否比芳烈

     缺月窺擔影婆裟    今夜瓊津定如何

    此碑材は當時の永井旅館の築山石に利用されし遺品

    にて森園松義氏の寄贈せし〇〇

       昭和廿六年十二月建設

               市長  岩 滿  重

             内 市   郷土史研究会

※〇の字は判読不能

※最後の二行は市長の上は川内、郷土史研究会の上にも川内の文字が刻まれていると思われる。

 

2018・9・8 山根兼昭さん「阿久嶺」

 

文政元年(1818)9月8日、九州遊歴中の頼山陽は熊本から陸路で野間原の関を通過し、阿久根駅に至り一泊、さらに翌九日、南へ二里ばかり行った牛の浜で、その絶景を詠んだ作。

 

 阿久嶺(あぐね)         頼山陽

 

危礁 乱立す 大濤の間  眥(まなじり)決すれば 西南に山を見ず

骨鳥影(こつえい)は低迷し 帆影は没す 天 水に連なる処 これ台湾

(大意)

怒涛の逆巻く海辺に、奇岩怪礁が乱立している。目を見張って遠く西南の方を望めば、一点の山影も見えない。ただ、はやぶさが海面に飛び交うのと、帆影が波間に消えて行くのみである。その水平線の彼方には、台湾があるのだろう。

 

野間の関は、関ケ原戦(1600)前後に、 薩摩藩と肥後藩の国境の要地であったこの地(野間原)に設けられた。 島津藩から派遣された出水の地頭は、代々国境の警備が重要な任務であった。 藩政時代の領外への主要陸路は、出水、大口、高岡の三筋で、中でも出水筋は最重要視された。それぞれの藩境の要地に関


所を設け、さらにその左右の間道に辺路番所が置かれた。 野間の関の周辺には、狩集・草木原・芭蕉・青・椎・上場・切通に辺路場所が置かれ、水も漏らさぬ警戒陣であった。 藩境の境川(当時は橋はなかった)は、4km先である。 ここには、関守として8人の郷士が駐屯しており、辺路番所にも番人が駐屯していた。 関の規則は時代によって異なるが、他領への旅行者や物資の出荷を検査し、無証文の者は絶対に入れなかった。 江戸時代後期の尊王思想家・高山彦九朗や歴史学者の頼山陽等が入国に苦労した記録が残っている。 「薩摩びといかにやいかに刈萱の関も鎖さぬ御代と知らずや」 これは、薩摩に入ろうとした尊王思想家・高山彦九朗が、大宰府の刈萱の関さえも通してくれる時代なのに、 野間の関で足止めされたことに憤慨して詠んだものである。 徳川泰平の世となり、各藩は国境の警備を緩めたのに、薩摩藩はその藩体制を堅持する為に、ますます取締りを強化したのである。 しかし、明治維新、廃藩置県を経て、野間の関もその役目を終え、関所の跡をとどめるだけに至った。

       (出水市教育委員会の案内板より・絵図も)ネットより

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

『俳句エッセイ 日常』

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感想② 感想③

感想④

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 監督 東陽一

 原作 見延典子

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