2021・4・20
赤松昇さん(姫路市在住)
曽根天満宮 奉納漢詩
頼山陽『靈松詩』探求の顛末(後)
頼山陽が崎門学の儒教学者であり、政治学者であることを踏まえてこの訳詩を読んでみますと、頼山陽の気持ちが分かります。
描写も素晴らしいです。もし、この漢詩の詳細講義があれば、受講したいです。※崎門学の國體思想は王政復古です。
『靈松詩』から『易経』の二つの卦を思い浮かべました。風沢中孚(兌下巽上)誠心・誠意の道の卦と地火明夷(離下坤上)不遇対処の道の卦です。「孚の真心と不遇」、悲しく辛い思いと、悔しさが込み上げてきます。
今回の『靈松詩』探究に関して、私が思うこと。
①復刻版があるものの、戦前の書籍には誤植か翻刻に問題があることに注意する。
②同じ題材で複数の漢詩を詠んでいることもある。
③漢詩のレベルが高く、素人には難しいが、素晴らしい描写から頼山陽の人として、また政治学者としての思いが強く感じられる。
④私の人生時間は残り少ないが、漢文、漢詩を学びたいと思ったこと。
⑤先学の菅原道真公と、後学の頼山陽の孚の心と、あるべき姿(政治)への思いを感じた。
皆様はどのように感じられるでしょうか。
2021・4・18
赤松昇さん(姫路市在住)
曽根天満宮 奉納漢詩
頼山陽『靈松詩』探求の顛末(前)
私はものづくりの出身で、漢詩の世界は全くわからない人間です。そのような私が頼山陽を知ったきっかけは、私が住んでいる街の裏山に姫路藩の河合寸翁が設立した仁寿山校跡があったからです。そこに四回も特別に招聘されたのが頼山陽でした。そのことを知り、郷学と賢人としての河合寸翁と頼山陽の探究活動が始まりました。今回、曽根天満宮に奉納された『靈松詩』探究の顛末とその内容を掲載させて頂きます。
経緯を箇条書きにします。
①四年前に曽根天満宮に頼山陽が奉納した漢詩『靈松詩』がある事を知る。
②曽根天満宮様に確認し、兵庫懸神社誌に掲載されている情報を得る。活字に起こされた資料は曽根天満宮様には無いとのこと。
③姫路市立図書館で該当書籍を見つけたものの、現代語訳はなく、途方に暮れる。
④進藤様より、『山陽詩鈔』の靈松の詩ではないかと情報を頂いた。しかし、曽根天満宮の『靈松詩』は未登録であることが判った。
④昨年夏、見延様と進藤様に訳注のお願いを行う。
⑤今回、進藤様より書籍に誤植があるとの連絡が入る。
境内にある靈松堂(上の写真)。この中に古靈松(手植えの松)がある(下の写真)。幹回りが6mの立派な霊松曽根の松は残念ながら秀吉の播州征伐の兵火の影響で衰弱し枯死した。二代の松は壮観で大正十三年に天然記念物に指定されたが、松喰い虫に襲われ昭和24年に枯れてしまった。手植松の幹は、霊松殿に保存されている。
⑥曽根天満宮様にお知らせすると、兵庫縣神社誌には誤植があるとのことで、原本の写真撮影の許可を頂き、後日撮影を実施した。
⑦写真を進藤様にお送りし、今回、訳注が実現した。
⑧曽根天満宮様にも書面と口頭にて報告した。
それでは進藤様が訳注してくださった内容の中核の部分を掲載させて頂きます。
この度、残り1首について赤松昇さん(姫路市在住)が進藤多万さんに依頼されていた訳注が完成した(昨年8月10日付け姫路の項参照)。
(見延典子記)
曽根天満宮について
延喜元年(901)菅原道真公は無実の罪により九州大宰府へ左遷される。途中伊保港に船を寄せて、曽根天満宮西方の日笠山に登られ「我に罪無くば栄えよ」と祈って山上の小松を植えられた。これが霊松曽根の松で、現在も幹が保存されている。その後四男淳茂公が家臣13人と共にこの地を訪れ、父君ゆかりの場所に社殿を建てお祀りしたのが創始とされる。
2021・4・17
曽根天満宮で詠んだ頼山陽の漢詩
1825年(文政8)頼山陽は曽根天満宮(兵庫県高砂市曽根)で菅原道真が植えたとされる松(=靈松)についての2首の漢詩を詠んだ。うち1首は『山陽詩鈔』に収められているが、残り1首は未収録だった。
曽根天満宮ホームページに掲載されている菅原道真と靈松「曽根の松」のイラスト。左の紹介文も同ホームページから。
次回から、赤松昇さんの解説文、並びに漢詩を紹介予定です。