特に記載がない場合は見延典子が執筆しています。

 

2018・5・9 中津のオッサン「腹の底から笑いました」

 

ネツトワーク」のぞいたら、なんと進藤さんまで酒の銘柄で参加されるとは。

 

「酒の銘柄一つでこれだけ引っ張る「頼山陽ネットワーク」の底力。頼山陽研究では世界一の集団といえるでしょう」という見延さんの感想もすごい!!  

 

私のたわむれの余談がここまで盛り上がる「頼山陽ネットワーク」集団の怖さに恐れおののきましたよ。

 

しかし、或る意味頼山陽と酒の話で、ここまでやるか! 知らない人がのぞいたら、スゲエ…と

 

久しぶりに腹の底から笑いました。

 

2018・5・8 「さわの鶴」の出典➁

 

進藤多万さんが「澤ノ鶴」の出典を教えてくれた。

田能村竹田の「卜夜快語」に次のようにあるという。

 

山陽 留滞の七日、岡仲達 日に攝醞を餉る。皐鶴と名付けられ甚だ美し。

(山陽の七日の滞在の間、岡崎仲達は毎日 攝津の酒を贈った。皐の鶴と名付けられてとても美味かった。)

 

豊後竹田で飲んだ摂津の酒が「皐鶴」であり、下関で飲んだ酒と同じとは書かれていないが、「皐鶴」は豊後竹田にはない酒で、竹田に滞在していた彦根藩医に分けてもらったという。それが「甚だ美し」だったというのだから、下関で飲んだ酒はこれであったのだろう。

 

それにしても酒の銘柄一つでこれだけ引っ張る「頼山陽ネットワーク」の底力。頼山陽研究では世界一の集団といえるでしょう(笑)

 

 

2018・4・30

「澤ノ鶴」の出典

 

山陽が下関で呑んだ酒について「澤ノ鶴」とする記述を、木﨑好尚『百年記念頼山陽先生』(昭和6年)に見つけた。

 

「鶴」は「澤ノ鶴」らしく…

 

これが初出なのか、引き続く調査を続ける。

 

 


松永花遁の詩集か。頼子成(山陽)、    子登の名が見える。(ネットより)
松永花遁の詩集か。頼子成(山陽)、    子登の名が見える。(ネットより)

2018・4・21 

中津のオッサン「博多の松永花遁」

 

頼山陽と弟子の後藤松陰は下関に滞在し、4月21日梅颸への手紙を神戸に向かう博多の松永花遁に託しますが、返事がこないうち九州に向かう日取りが近づきます。


博多の豪商松永花遁は之登(しと)ともいい、家業と窮民救済などの町政に携わる傍ら、優れた漢詩文集「花遁詩」などを残しました。

 

 

2018・4・14

中津のオッサン「長府へ」

 

頼山陽は4月○日長府まで足をのばし小田南畡(漢詩人?)を訪問し、漢詠史十八首を屏風に揮毫しています

 長府藩侍屋敷長屋 ネットより
 長府藩侍屋敷長屋 ネットより

漢詠史十八首は八幡太郎、九郎判官、楠木正成、武田信玄、長尾景虎(上杉謙信)などの国内の英傑、淮陰(韓信)、武卿、衛公などの中国の英傑を題しています。この屏風は現在どこにあるか、興味津々です。

 

現在の広江殿峰宅址            4月6日付けの写真と比較してください
現在の広江殿峰宅址            4月6日付けの写真と比較してください

ところで現在では「下関」と呼ばれているが、山陽の時代は「赤間関」と呼ばれ、「赤馬関」とも書かれたことから「馬関」と呼ばれることもあった。山陽は「赤関」を用いて詩文を残している。一カ月以上滞在し、源平合戦の壇の浦の地形も自分の目で調べて歩いた。『日本外史』を書く際、光景がありありと思い浮かび、筆が進んだであろう。

 

 

2018・4・11

下関、赤間関、馬関、赤関

 

頼山陽が下関で、灘産の鶴という勁い酒を飲み、酒に目覚めたという話は山陽自身が書いているが、その酒が雲華上人からの紹介という記述は見当らない。下戸の雲華上人が酒に詳しいはずもないから、広江殿峰あたりの勧めであったのだろう。

広江秋水の墓                写真は2枚とも中津のオッサンの提供
広江秋水の墓                写真は2枚とも中津のオッサンの提供

広江殿峰宅址(下関市)          写真は2枚とも中津のオッサン
広江殿峰宅址(下関市)          写真は2枚とも中津のオッサン

頼山陽が「鶴」を飲んだとする出典がわかった。「赤関竹枝の稿本の後に書す」で「余始め飲を解せず。赤関に洋の酒の鶴と単呼する者有り、甚だ勤し。余一たび嚥んで、その氣、斉に徹するを覚ゆ。是れより日として飲まざる無く、飲んで酔わざる無し(余始不解飲。赤關有洋酒輩呼鶴者、甚勤。余一挙、寛其氣徹干齊。自照無日瓢飲。無飲不酔)」。「洋」は「摂津灘」をさすという。

 

2018・4・6

広江殿峰と秋水

 

頼山陽が下関で滞在していた広江殿峯(1756~1822)は屋号を井豫屋といい、家業は醤油醸造で、長府藩ご用達であった。


殿峰は山陽が広島にいた文化5年(1808)にその才能を知り、自刻の銅印を贈ったと坂本辰之助著「頼山陽」に書かれている。三男の秋水は山陽の門に入った。

 

殿峰が亡くなったとき、山陽は「広江殿峰墓碣」を書いた。これは2メートルもある大きな石に刻されたが、中津のオッサンの調査によれば、心ない人により、遺棄されたということである。(上の写真)

 

 

現在の壇の浦     ネットより
現在の壇の浦   ネットより

2018・4・2 

灘産の酒『鶴』

 

石村代表が坂本辰之助著「頼山陽」(昭和4年)を紹介していたので、読み返してみた。山陽が飲んだ酒として「灘産の酒『鶴』」とある(出典があるはずだが、思い出せず)


おそらく当時「灘の酒」で鶴がつくのは「沢の鶴」だったということだろう。そして帰京後、山陽は伊丹の酒を十種とりよせ、勁(きつ)い酒を選び、注文するようになったという。

 

山陽は下関に一カ月以上滞在している。坂本辰之助はその点を「風波のため関門海峡の船が出ないので、渡航を中止したようだ」と記している。

 

また山陽は広江殿峰の屋敷だけではなく、竹崎町の白石家、西之端町の藤田家、河野西南部町の豊野家、廣石家の家にも出入り、交際した。(白石家は作家白石一郎の先祖ではないか)

 

さらに藤田家の「虹橋楼」、豊野家の「花香深処」は山陽がこの時名づけた屋号という。そして山陽が雲華上人と会ったのは「花香深処」(もしくは「虹橋楼」)としている。

 

 

2019・3・30 「頼山陽が下関で飲んだ酒」

                中津のオッサン 🔁 見延典子

 

明治に入って鉄道網が発達し、酒の輸送、拡散が可能になったのですね。軍隊の強化とも関係しているでしょう。呉の「千福さん」は呉が軍港になり、兵士が集まるにつれ、大いに売れたそうです。

 

もっとも江戸時代は船によって各地に運ばれています。上方で作られた酒は江戸では「下り酒」と呼ばれ、評判だったそうですし、蝦夷地の江差にも北前船で運ばれています。

 

ところで拙著『頼山陽』では、下関で雲華上人に勧められて飲んだ酒は「丹醸(たんじょう)」としています。「伊丹の酒」です。現在、「灘の酒」として知られる「剣菱さん」も、山陽が生きていた時代は「伊丹の酒」でした。(「剣菱さん」は頼山陽ネットワークの会員です)

 

「丹醸」について調べたことがあります。簡単にいえば、それまで酒といえば濁り酒だったのが、「丹醸」はいわゆる清酒になったと考えるのがわかりやすいかと思います。いささか強引ですが。

 

山陽が生きていた「沢の鶴」について、正直よくわかりません。それと雲華上人研究家の湯谷祐三先生によれば、雲華上人は下戸だったとのことですが、なぜ下関で山陽に酒を勧めたのか、これもわかりません。

 

酒屋の御曹司だった中津のオッサンを相手に、失礼しました(汗)

また教えてください。

 

 

2019・3・29 中津のオッサン「沢の鶴とは気がつかず…」

 

余談として書きつられた酒の話ですが、「沢の鶴」とは気がつきませんでした。

白鶴さんはの名称が確立されていたのは1747年

沢の鶴さんは名称が確立されていたのは1717年(?)

正直なところわかりません。

 

明治期、鉄道網が全国に張りめぐされていくにつれ、灘と伏見の酒が爆発的に売れ始めます。その時に、銘柄によりよく売れる場所が決まってきます。

例として白雪さんは関東一円、白鹿さんは博多、白鶴さんは河内一円と筑豊炭田などです。

沢の鶴さんと月桂冠さんは東海道線沿線でもてはやされていたと聞いています。

剣菱さんは生産量が少なかったために流通が少なく得意な場所はなかったと思います。

九州では沢の鶴さんの流通が少なかったため、私の頭の中に思いつきませんでした。(汗)

 

約50年前に、灘(白鶴さんなど)、広島(千福さんなど)の清酒は北九州の日明(ひあがり)港にあがっていて、おやじが酒の卸の専務をやっていて、夏休み、冬休みは朝早くからトラックの助手席乗せられ、取りに行ってた事をなつかしく思い出します。

 

2018・3・27 中津のオッサン 🔁 見延典子

          「頼山陽が雲華上人に勧められて飲んだ酒は?」

 

「頼山陽全書」によると、「余、始め飲を解せず。赤間にて洋(灘)の酒の鶴と単呼(白鶴)するものあり・・・」「剣菱などに比べては、鶴はまだ甘口なるを覚ゆ・・・」という清酒の評価記述があります。酒屋出身の酒好きから一言言わせていただければ、かつて灘の三白(さんぱく)と言われた(白鶴、白鹿、白雪)に厳しい評価ですが、白鶴は剣菱にくらべ現在でも甘口です。

さすが違いのわかる頼山陽さん、辛口がお好きだったのですなぁ。また、灘五郷の清酒がこの時代に全国流通を裏付けています

中津のオッサンへ

中津のオッサンが引用されているように、『頼山陽全伝』で木崎好尚は、山陽が雲華上人に勧められた飲んだ酒を「洋(灘)の酒鶴 白鶴」としていますが、どうやら「沢の鶴」らしいですよ。

ご存じの方はお知らせください。

                           見延典子

 

 赤間神宮                山口県下関市
 赤間神宮                山口県下関市

阿弥陀寺は壇ノ浦の戦いにおいて幼くして亡くなった安徳天皇を祀る。 江戸時代までは「安徳天皇御影堂」といい、平家一門を祀る塚がある。『耳なし芳一』の舞台であったが、廃仏毀釈により神社となり、現在に至る。安徳天皇の命日(3月24日)にその遺徳を偲ぶ先帝会を修したのが起源といわれます。最大の呼び物は『上臈・官女参拝の式』いわゆる『上臈道中』で、山陽さん達も上臈道中を見学したか、興味があります。

2018・3・23

中津のオッサン

「赤間神宮先帝祭と雲華上人」

 

3月24日山陽さんは下関で富士登山に上京途中の大分県中津市正行寺住職雲華上人と会い、広江殿峰の三男秋水などの案内で阿弥陀寺(現在の赤間神社)の先帝会に参拝。

 

壇ノ浦の戦いで敗れ、安徳天皇が入水したのは1185年3月24日。先帝会(祭)は江戸時代には3月24日に行われていたが、明治以降は太陽暦の4月23日になり、5月2日に改め、現在はGW中に行われている。

 

 


草津港から宮島を望む ひろしまフオト歩き
草津港から宮島を望む ひろしまフオト歩き

「今暁七頃(午前4時)厳島へ着岸」と日記にあるから、夜の舟に乗ったのだろう。武士の妻であった梅は行動も制限され、小旅行を楽しむ機会さえ限られていた。宮島に渡るのも寛政7年(1795)以来23年ぶりである。

宮島歌舞伎(ネットより)
宮島歌舞伎(ネットより)

2018・3・17

一行は宮島歌舞伎へ

 

頼山陽一行が下関に滞在している3月16日、広島城下で暮らす梅(ばいし 山陽の母)は宮島に渡っている。梅も2年間喪に服していた。前日の15日、頼家初代道圓の忌祭を終えての出立である。

宮島の桜(ネットより)
宮島の桜(ネットより)

同行者は杏坪(きょうへい)の息子菜真ら。一家で出かけたのかもしれない。荷物を宿の「はかたや」に運び、能見物へ。中入り後いったん宿に帰る。弁当を食べたり、また能、狂言を見たり。夜食の際は芸子二人、舞子一人呼び、三味線に合わせ舞う。さらに芝居(宮島歌舞伎)へ行き、宿に戻るのは明け方4時ころ。梅は数え59歳。世間的には隠居の身だが、まだ体力はある。

          続きます

 


2018・3・14

「頼山陽━西国街道を歩いた男」

 

3月11日「いま、シャレオは西国街道でござる」(主催広島市)のフィナーレで、寸劇「頼山陽━西国街道を歩いた男」(脚本見延典子)が披露された。出演は広島の若者集団「必殺洒落乙人」の皆さん。

「頼山陽」のアナウンス
「頼山陽」のアナウンス
猿猴橋の別れ
猿猴橋の別れ
父との永訣
父との永訣
母を背負う山陽
母を背負う山陽

終演後、脚本を担当した見延典子が紹介される(写真上、下)頼山陽に関する演劇が上演されるのは約30ぶり。感動的である。皆さん、ありがとうございました。

安芸武将隊のパフォーマンスに続き、いよいよ「頼山陽」のはじまり。名場面の一部をご紹介しよう。

脱藩場面
脱藩場面
ナレーションは熊野高校生
ナレーションは熊野高校生
京都「鞭声粛々」
京都「鞭声粛々」
端吹雪が舞う最終場面
端吹雪が舞う最終場面
MCの松川友和さん(右)と見延典子
MCの松川友和さん(右)と見延典子

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

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『もう頬づえはつか  ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。悪しからずご了承ください。

 

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 『私のルーツ

 

『汚名』(本分社)

 

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