見延典子が書いています。

2020・2・27

広島陸軍被服支廠➁

 

そもそも広島陸軍支廠は明治19(1886)東京本廠、36年大阪支廠が設けられた後、建設が始まった。日清戦争の折り敷設された国鉄宇品線に隣接し、敷地は約7万坪という大規模な軍事施設である。


戦前の広島には、「宇品陸軍糧秣支廠」(現在は広島市郷土資料館)、「広島陸軍兵器支廠」(現在は跡地に広島大学病院、中国管区警察学校、段原中学校、市営住宅などが建つ)と陸軍の三廠があった。

 

労働者数でみれば、広島陸軍支廠が最大で、大正期には男工250人、女工3100人前後、計550人程度が雇用されていた。シベリア出兵中の大正11年(1924)には男工430人、女工850人、計1280人と平時の2倍近くが雇用された。

 

1日の賃金は官営であるため比較的高賃金で、男工1円20銭~4円、女工は90銭~3円と、能力により差があった。また年2回~4回の昇給、年2回の賞与のほか、勤勉な人には精勤賞が授与された。

 

共同組合もあり、購買会では日用品や食事を廉価で提供され、春と秋の2回、慰安会として名所遊覧、観劇、運動会が開かれ、診療所と保育所も設置された。職工と家族のための入浴場や理髪店もあり、時には有徳の士を招いての講演会や女工のための家事講習会も開かれた。軍事物資をつくるための労働環境が整えられたいたわけである。

        (参照/『陸軍の三廠』広島市郷土資料館。平成25年)

 

内部には入れないが、周辺には見学者の姿も
内部には入れないが、周辺には見学者の姿も

現存するのは大正2年(1913)に建設された10番庫から13番庫で、戦後活用されたこともあるが、平成9年(1997)以降は閉鎖された。10番庫(現在は4号棟と呼ぶ)は中国財務局、11~13番庫(現在は1~3号棟と呼ぶ)が広島県の所有で、この3棟の扱いが問題になっているのだ。先週は与野党の国会議員も見学にきて、与党のある議員は「ユネスコの世界遺産に推薦すべき」と発言するなど、一気に保存の機運が高まっている。

頼山陽文徳殿の保存、活用と何が異なるのだろうか。

 

2020・2・24

広島陸軍被服支廠①

 

最近、広島で保存か解体かと話題になっているのが広島陸軍被服支廠である。陸軍関連の軍服や軍靴などを作る目的で、日露戦争中の明治38年(1905)に建設が決まり、一番庫から13番庫まで建てられた。


枯れ葉がたまったままの石段
枯れ葉がたまったままの石段

さすが専門家、川島先生から頼山陽文徳殿を設計した当時広島市営繕課勤務の小田技師が名古屋の大学の建築科を卒業していたことを教えていただく(『頼山陽と戦争国家』参照)

頼山陽文徳殿内に、           なぜかタイヤが持ち込まれている。
頼山陽文徳殿内に、           なぜかタイヤが持ち込まれている。

しかも内部のいたるところに段ボールや梱包荷物の山。なんと、明らかに頼山陽文徳殿とは無関係の車のタイヤまで持ち込れている。

段ボールには何が入っているのか?
段ボールには何が入っているのか?

2020・1・18

荒廃する頼山陽文徳殿

 

京都から京都華頂大学教授の川島智生先生(専門は建築)が、社会人学生10数名を引率して広島に来られた。初対面ながら、頼山陽文徳殿を調査するというので同行する。

川島先生と社会人学生の皆さんは広島市内の建物の調査のため、京都から来られた。
川島先生と社会人学生の皆さんは広島市内の建物の調査のため、京都から来られた。

頼山陽文徳殿の内部に入るのは、昨年4月の旅猿ツア一以来。おそらくその後一度も清掃されていないのではないか。全体に汚れ、荒廃が進んでいる印象をうける。

これらは頼山陽文徳殿の裏手に住み、この日も案内をつとめていたM氏の私物であろう。頼山陽文徳殿は広島市が所有。なぜ私物を置くことが許されるのか。川島先生はご本の出版のため内部写真を写された。無法の保管物が写された写真は、時代の証言者として後世に伝えられる。


ホームページ編集人  見延典子
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 石村良子代表の編集

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感想② 感想③

感想④

南々社
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 監督 東陽一

 原作 見延典子

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