国の史跡「頼山陽居室」をめぐる見延典子のブログ
&「頼山陽居室とは何か」シンポジウムのご案内のページです。
パネリスト上口雅彦さんのホームページもご参照ください。
頼山陽煎餅を焼く畔柳(くろやなぎ)僚太さん(28歳)は焼き方をマスター中。3月2日中国新聞デジタルの一部
2024・3・15
シンポジウム参加者に
「頼山陽煎餅」を進呈
昨秋惜しまれつつ閉店した頼山陽煎餅の藝陽堂が、復活に向けて動きはじめた。引き継ぐのは建築資材メーカー「ナガ・ツキ」(広島市中区)で、煎餅を焼くのは愛知県出身の畔柳(くろやなぎ)僚太さん。
このほど藝陽堂からのお申し出があり、シンポジウムの参加者に。畔柳さんが焼く頼山陽煎餅が無料進呈されることになった。
畔柳さんもシンポジウムに参加される。短い時間ながら、お話を伺う予定。
頼山陽煎餅の味が忘れられないという皆さん、是非会場にいらしてください。
2024・3・14 厠つきの頼山陽居室
頼山陽居室には、右に厠がついていました。ここで頼山陽が5年間すごしたなら、山陽が使用したはずの厠。なぜ取り払われたのでしょうか?
厠つきの頼山陽居室
『廣島縣史蹟名勝天然記念物調査報告書』(1937)より
2024・3・5
内容見本、進呈
『頼山陽居室 虚々実々』の内容見本がほしいというお声がありましたので、実際の誌面(A4版2段組)5枚を内容見本としました。
ご希望の方は事務局までお申込みください。全103ページ、一冊2,980円。送料は300円。
2024・3・2 「頼山陽居室とは何か」シンポジウム」
お申込み受付中!
「頼山陽居室とは何か」シンポジウム(主催/頼山陽ネットワーク)まで2週間となりました。ひき続きお申込み受付中です。
よろしくお願いいたします。
江戸時代に頼山陽が幽閉されたとして、国の史跡になった
「頼山陽居室」は、なんと、明治に入って建てられていた!?
誰が? なんのために? 真実を語る「基調講演」にご期待ください。
頼山陽ネットワーク 見延典子
下はウエンディ広島3月号 情報掲示板より
2024・1・18「頼山陽居室とは何か」シンポジウムのご案内
「頼山陽居室とは何か」シンポジウムのご案内
日時 3月16日(土)14時半~16時半
場所 合人社ウエンディひと・まちプラザ
北棟6階 マルチメディアスタジオ
定員 100名(参加費500円) ご予約が必要です。先着順受付。
お申し込み方法
本ホームページから会員様はお名前、会員様以外はご住所、お名前、
お電話番号、「シンポジウムに申し込みます」と書いて送って下さい。
頼山陽ネットワークから「お申込みを承りました」というメールを差
し上げた時点で、ご予約が完了したことになります。
2023・1・15
頼山陽居室、23年前の論文
最近、23年前の2001年、広島県教育委員会文化課内の広島県文化財協会発行「広島県文化財ニュース」で、前頼山陽史跡資料館主任学芸員の荒木清二さんが「国の史跡『頼山陽居室』について」という論文を発表されていたことを知った。
ここでも、頼山陽居室が「実際に山陽の幽室であるという確証を得ることはできない」と書かれている。専門家がこのように書いた時点で、頼山陽居室の信憑性は広く議論されるべきだったのではないか。
2023・12・23
送料無料は年内限り
『頼山陽居室虚々実々』は年内受付分限り送料無料でお届けします。この機会によろしくお願い致します。
また来年3月16日「頼山陽居室」についてのシンポジウム(会場広島市内)を予定しています。年明け、まず会員様にお知らせします。こちらもよろしくお願い致します。
2023・12・14 見延典子 ⇒ 久保寺辰彦さん
「真実が主張できる時代に」
久保寺辰彦さんへ
貴重な情報をありがとうございます。
送ってくださった資料には1938年(昭和17)時点で、頼山陽居室は「150年以上も経った粗陋なる建物が、現に昔のまゝ残っている」「先生(山陽)が二十一歳より五年間の青年期を此処に幽屏せられ」などと、『頼山陽居室虚々実々』の見解と相対する記述が書かれている。
当時、検閲の名の下に言論の自由が否定されていたことがわかる。頼山陽居室が国の史跡になったのは1936年(昭和11)。87年たち、ようやく真実が主張できる時代になった。
見延典子
昭和17年発行「史跡頼山陽居室と山陽記念館」の冒頭部分
ところで最近、徳富蘇峰著の「頼山陽」(大正15年発行)を買ったところ、昭和17年頃と思われる頼山陽記念館のパンフレットと思われるものが挟まっていました。その中で、「仁室」について興味深い記述があったので参考までに送ります。
2023・12・13
久保寺辰彦さん
「昭和17年のパンフレット」
『頼山陽居室虚々実々』を興味深く読ませて頂いています。私も頼山陽史跡資料館(広島市)を訪れた際、何の疑いもなく、この離れの居室で『日本外史』の草稿を書かれたのかと納得していました。しかし、この本を読み、歴史というものは、必ずしも真実が伝えられているわけではないという当たり前のことを再認識させられました。
左/本文の最後「昭和十八年四月六日陸軍運輸部検閲済」の印が押されている。
2023・12・11
宇津志眞砂子さん「『頼山陽居室虚々実々』を拝読して」
ウーン!! 見延さんの真相への考察には頭が下がります。山陽が幽閉された檻は、現在の「国・史跡山陽居室」ー文豪の幽居ーとされている多門(正門わきの建物)ではない。
それでないと山陽出奔当時の春水書簡や梅颸日記の記録とつじつまが合わないということです。
坂本箕山(「頼山陽」「頼山陽大観」著者)は、頼山陽関連の自著を書くにあたり、頼一族をはじめ多くの関係者の協力があったと書いている。「奥座敷 北東奥上ノ間六畳敷」を山陽檻居室として「日本外史ハ此室二テ草稿シタリ」と述べている。
そうしますと~「頼山陽居室」虚々実々・・・ 時の流れの中で~ 広島頼宗家の山陽没後、少なからずも幕末から明治、大正、昭和につながる時代の流れ(国威)に、のみ込まれたのでしょうか・・・
巻末(余談)の、宗家が袋町から代替え地比治山に移り、頼山陽文徳殿なるものを建てたのは何故か? その後管理が曖昧になっているのは~?
参考資料 第二回頼山陽座談会の内容や、頼彌次郎、成一父子の言動は気になるところです。今となっては実も虚になり、虚も実になります。
その意味では、頼春水・静子夫妻の日記や記録がいかに貴重で、大切なものかと思われます。たくさんの資料をまとめていただき有難うございました。
2023・12・10
山根兼昭さん「国家の意図があったと思いたくなります」
現在復元されている「頼山陽居室」の歴史を遡る。
(見延注 山根さんから江戸時代から戦後の年表をいただきましたが、『頼山陽居室虚々実々』に掲載の内容と重なりますので、論点のみの掲載にいたします)
昭和2年(1927)徳富蘇峰筆「頼山陽先生日本外史著述宅趾」建立
「頼山陽居室」という言葉は昭和に入ってから使われる
昭和11年(1936)「頼山陽居室」国の史跡に指定
以上のような分析をすると(見延注 年表を書いた意)、戦後に復元され、国の史跡に指定されてる建物は、昭和の始め頼山陽が国策で英雄視され、神社まで作ろうとした国家の意図があったと思いたくなります。
2023・12・9
追加資料の進呈
『頼山陽居室虚々実々』をご購入くださった皆様には、追加資料として
荒木清二氏(頼山陽史跡資料館前主任学芸員)の論文『国の史跡「頼山陽居室」について』(広島県文化財ニュース 広島県教育委員会文化課内広島県文化財協会発行 平成13年=2001 現在は廃刊)を進呈しております。併せてお読みいただきましよう、よろしくお願いいたします。
2023・12・7
山根兼昭さん「感想・頼山陽居室ー頼山陽は何処にいたのか」
⇔ 見延典子「『モデルに』という記載はありません」
脱藩し、連れ戻された頼山陽の居場所としては、「幽室を移して、仁室(お情けの部屋?)と言えり。」とか本文23頁、頼家屋敷図面「奥座敷、山陽檻居室」日本外史はこの部屋にて草稿したり。」
当時はこの部屋が「頼山陽の居室」と理解するのが妥当と思いますが、この屋敷の中には養子の熊吉も、息子の子供もいるのです。廃嫡の身の山陽としては落ち着ける場所ではなかったと思います。
江戸時代からの頼家屋敷は明治19年大暴風雨に大破した消滅してしまったので、頼家屋敷図面・奥座敷山陽檻居室をモデルにして、戸建ての離れとして作った建物が、1937年国の史跡指定と評価されたとするのが自然と思います。 参考/木崎好尚著「家庭の頼山陽」
山根兼昭様
ご感想をありがとうございます。全文拝読しましたが、論点になりそうなところだけ、掲載いたします。
ご感想の中、青色にしたところに関しては、公にそのような記述はありません。またそのようにした場合、国の史跡にはならないでしょう。
見延典子
2023・12・3
『頼山陽居室虚々実々』12月4日(月)から発送開始
さっそく『頼山陽居室虚々実々』のお申し込みをくださった皆様、ありがとうございます。
12月2日(土)までにお申し込みいただいた皆様には、12月4日(月)から発送を開始いたします。今しばらくお待ちください。
『頼山陽居室虚々実々』のご購入をご検討されている方には「内容見本」をさしあげます。ご希望の場合は「『頼山陽居室虚々実々』案内見本希望」と書いてメールをください。よろしくお願い致します。
2023・12・2
会員様に見延典子著『頼山陽居室虚々実々』ご案内
会員様に見延典子著『頼山陽居室虚々実々』ご案内をお送りいたしました。会員様で、ご案内が届いていない場合はご連絡ください。
2023・12・1
見延典子著『頼山陽居室虚々実々』
刊行のお知らせ
広島市中区にある「頼山陽居室」は1936年(昭和11)
頼山陽が『日本外史』の草稿を書いた場所として国の史跡になりました。
しかしながら山陽が「頼山陽居室」で『日本外史』を書いた事実はございません。そもそも「頼山陽居室」は山陽の生存中には存在しない建物です。では「頼山陽居室」とは何なのでしょうか。
本書では、頼山陽ネットワークの石村良子代表、進藤多万さんのご協力のもと、「頼山陽はどこに幽閉されたのか」「頼山陽居室とは何か」の2章に分けで解説しております。ご興味のある方はご一読くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。
『頼山陽 虚々実々』 著者/見延典子 発行/頼山陽ネットワーク 印刷/見延典子製本室 A4版 103ページ 書籍用紙 豊富な写真 貴重な資料付 書店、アマゾンなどでは販売致しません。頼山陽ネットワークの限定書籍です。
ご入手方法
ご購読希望の方は「頼山陽ネットワーク公式ホームページ」へ、ご住所、お名前、お電話番号を書いてお問い合わせください。詳細をお伝えいたします。
自分では精一杯直したはずが、多万さんの「手」に、というか「目」にかかると、いかに自分「目」が節穴だらけであったかがわかる。
多万さん、2度目の校正は後ろから直していったようだ。文として読まず、言葉は記号であるという感じで間違いを見つけていくらしい。それができるのも「才能」である。
2023・8・1
多万さん、校正の才能
なんとか『頼山陽居室虚々実々』を書きあげた。で、校正(漢字や言葉の間違いを訂正する)は進藤多万さんにお願いする。もちろん、一方的なお願いである(笑)
2023・7・24
真夏に描く「紅梅」
私が暮す広島では、容赦ない真夏の陽射しが、朝から日没まで降り注いでいる。
こんなとき、絵の教室で「紅梅」の絵を描く。現在まとめ中の『頼山陽居室虚々実々』に載せる挿絵でsる。なんとなくチューリップの挿絵を描いたが、やはり「紅梅」が必要と考え、描き直した。
2023・6・10
頼山陽居室とは何か?
「頼山陽居室とは何か」を考えるため、広島法務局に行って、旧土地台帳の写しをもらってきた。
とくだん驚くような記載はない。ある意味、想像の通りである。この写しも資料の一つとして『頼山陽居室 虚々実々』に載せよう。
2023・2・28
表紙絵
「頼山陽居室」に関する新説に挑んでいる。山陽が脱藩し、連れ戻された後、押しこめられた「牢、檻、囲、仁室」は屋敷内のどこにあったのか? ようやく出口が見えてきたところで、一冊にまとめるにあたり、表紙絵をデザインしてみた。絵の上に「歴史ミステリ-」「頼山陽居室 虚々実々」「見延典子」と入れようと思いつつ、さてどんな配置にしたものか、と眺めている。