「頼山陽と三国志」について考えます。
特に記載のない場合は見延典子が書いています。
2022・6・17
なんだ、そういうことだったのか。
今回の件を通してわかったことがある。『三国志』(著者は陳寿)は魏を正統とする立場なのに対して、後世に書かれた小説の『三国志演義』は蜀(蜀漢)を正統とする立場という点である。
『三国志演義』が蜀(蜀漢)を正統とするのは、朱熹の『通鑑綱目』の影響を受けたからで、魏の正当性が否定され、代って蜀(蜀漢)を正統とするを正統論争(正閏論)が起きた。
朱熹の『通鑑綱目』は江戸遊学時代の山陽も柴野栗山(だったと思う)から勧められて読んでいる。なんだ、そういうことだったのか。
山陽が『三国志演義』の序文を書いたことから設けたこのコーナーではあるが、話は落ち着くところに落ち着いたようである。
2022・6・16 「詠三国人物。12絶句」並び順の意図 ②
森隆夫氏「広瀬旭荘と頼山陽にいける詠史詩」の続き。
荀彧(じゅんいく)(6月5日付参照)について、山陽は仲達(司馬懿)とは別の意味で、魏と曹操の脛の傷を露わにした人物として、仲達(司馬懿)の後におく。山陽には「荀彧論」があり、そこでは荀彧の知力と勢力とを警戒した曹操がこれを屠ったとする見解が表明されている。
呉の二人に続き、最後に詠まれる管寧は学者として終始した人物で、『三国志』『演義』でもほとんど目立ったところがない。しかし曹操、曹丕、曹叡の三代にわたっての招聘を辞退し続け、終生魏に仕えなかった孤高の人物として記憶されることになった。曹操に媚びなかった人物を最後において、蜀漢正統論とその裏打ちとして曹操否定を貫徹したともいえよう。
2022・6・13
「詠三国人物。12絶句」
並び順の意図
森隆夫氏「広瀬旭荘と頼山陽にいける詠史詩」の続きである。
森氏は頼山陽の「詠三国人物。12絶句」で詠まれる12人について、最初の5人が劉備を筆頭に蜀の人物であり、蜀の正当性を示すという意図があったのは明らかであるとする。(6月5日付参照)
では6人目の本初(袁紹)にはどんな意図があるのか。森氏はその理由を2点あげている。
1 本初(袁紹)の次に曹操以下魏の人物が3人続くが、これを蜀の5
人の直後に続けると、蜀と魏とを比べざるを得ず、蜀正統支持者に
は残念である。そのため中間緩衝財として本初(袁紹)をおいた。
2 曹操は本初(袁紹)の弟分であったが、曹操は抜け駆けして敗北を
喫し、本初(袁紹)の統率力を低下させる。官渡の戦いで本初(袁
紹)と曹操は激突。曹操が勝利し、本初(袁紹)は病死する。すな
わち本初(袁紹)は後の蜀軍と同じく曹操と戦い、敗れ去った同情
すべき人物として山陽は捉えていたのではないか。
曹操について、山陽は否定的で、「詠三国人物。12絶句」でも蜀漢正統論を補強する表現になっている。魏を内部から蝕んだ仲達(司馬懿)を曹操の後においたのは、曹操否定を強化する意味である。
続きます。
2022・6・9 「頼山陽は蜀の正統を主張か」
森隆夫氏は「広瀬旭荘と頼山陽にいける詠史詩」(ネットで読めます)で、「頼山陽の日本史に関する詠史詩は取り上げる研究も多いが、中国史に関するにものについては殆ど先行例を見ない」と書いている。
まさにその通りで、山陽が中国史をいかに咀嚼して自らの文や詩に反映させたかを調べない限り、山陽はいつまでも日本的な「尊王論」「大義名分論」「倒幕論」から抜け出せないだろう。
山陽の「詠三国人物。12絶句」に話をもどすと、ここで詠まれる十二人の並びにおいても、先の森氏は「この順序に並べる理由が何かあったのではないか」と書き、続けて「田中尚子氏はこの点について『十二絶句』の詠作は『蜀正統を主張するためであったと考えらえる』と述べ、さらに曹操に続いて置かれている司馬懿と荀彧について『曹操や魏の有り様を否定すべく選ばれた二人のようにも見える』としている」と書いている。
続きます。
2022・6・5
頼山陽「詠三国人物。12絶句」
頼山陽は文政8年(1825)46歳で「詠三国人物。12絶句」を書いている。12人は以下の通り。
1 先主(劉備)蜀
姓を劉、諱を備、字を玄徳といい、涿郡涿県の人で、漢の景帝の子中山靖王劉勝の子孫である。
2 孔明 蜀
司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。
3 関羽 蜀
蜀漢の創始者である劉備に仕え、その人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は曹操など同時代の多くの人から称賛された。
4 張飛 蜀
蜀の武将。劉備と同郷で、備が兵をおこすと関羽とともに参加し、以後行動をともにした。
5 趙雲 蜀
劉備の武将。長坂で劉備軍が曹操軍に敗れて敗走した時、劉備の子の阿斗(のちの劉禅)を守った。その後益州攻略や諸葛孔明の北伐に参戦。小説『三国志演義』では活躍の場が増やされ、蜀の五虎大将の一人となる。
6 本初(袁紹)(魏)
最盛期には河北四州を支配するまでに勢力を拡大したが、官渡の戦いにおいて曹操に敗れて以降は勢いを失い、志半ばで病死した。
7 孟徳(曹操)魏
字は孟徳、幼名は阿瞞、また吉利。豫州沛国譙県の出身。 後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、諡号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる
8 仲達(司馬懿)魏
魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。西晋が建てられると、廟号を高祖、諡号を宣帝と追号された。『三国志』では司馬宣王と表記されている。
9 荀彧(じゅんいく)魏
若い頃から才名をうたわれ「王佐の才」と称揚された。後漢末の動乱期においては、後漢朝の実権を握った曹操の下で数々の献策を行い、覇業を補佐したが、曹操の魏公就任に反対したことで曹操と対立し、晩年は不遇だった。
10 仲謀(孫権) 呉
呉の初代皇帝
11 周瑜 呉
『三国志演義』で諸葛孔明の最大のライバルとして描かれる。
12 管寧 魏
『三国志』魏志に伝がある学者。
江戸時代の線香時計(ネットより)
寺子屋での授業時間、芸者の仕事時間を、線香の燃える本数で管理した。京都の料亭では今で見芸者を呼ぶとき「線香代」といい、1本30分、3本90分から申し込む風習が残る。(見延の知人「通人」の話)
2022・5・25
「線香一炷武将賛三十首」
頼山陽には「線香一炷(しゅ)武将賛三十首」という中国の武将三十人について詠んだ漢詩がある。『頼山陽詩集』にも寛政9年(1797)の作として収録されている。
昌平黌に遊学中、学友らと「線香一本が燃え尽きるあいだに、中国の武将について何首の漢詩が詠めるか」を競争したようである。漢詩の知識もさることながら、武将についても知っていなければ詠めない内容であり、18歳の山陽のこの分野での知識の深さがわかる。
30人の武将は以下の通り。
大公 孫武 呉起 穣苴 白起 廉頗 李牧 孫□ 韓信 周亜夫
衛青 趙充国 虞翊 憑異 呉漢 諸葛亮 周瑜 杜預 王猛 壇道済
韓檎虎 李靖 郭子儀 李公弼 張巡 曹彬 笵仲淹 狄青 岳飛 徐達
2022・5・21 見延典子訳 頼山陽「三国志の後に書す」
見延典子が訳しました。お気づきの点がありましたら、ご教示ください。
古今来 史を称するに 必ず史漢と曰ひ、又両漢と曰ふ。
昔も今も史書を名乗るのは史記と前漢書・後漢書である。
余謂(おも)へらく班(はん)は馬(ば)の賊なり、笵(はん)は班の奴なり、独り陳寿(ちんじゅ)は、事(こと)核にして文直 子長以後 未だ其の比を見ず、此れより下りては、則ち 両晋・宋・梁書、皆 寿の役たること能(あた)わず、
私は、班(漢書の作者)は馬の悪人で、笵(後漢書の作者)は班の下僕だと思う。陳寿(三国志の作者)はよく調べて文に書き、司馬遷(史記の作者)以降、司馬遷と比べられるのは彼だけである。これより時代が下がると、東晋、西晋、宋、梁書は、三国志の奴隷たることもできない。
但、南北史は較(や)簡捷(かんしょう)たるのみ、世儒 動(やや)もすれば寿の蜀を絀(しりぞ)け魏を進むることを譏(そし)れども、是れ牙後の套論のみ、寿は晋人なり、晋は魏に承けたり、其の魏を内にして、呉を外にするは宣(むべ)なり、
但し、南北史はいくぶん手軽で、さっと書かれている。世の儒者たちはともすれば寿が蜀ではなく、魏を正統とすることをそしるけれども、そこには型にはまった方法や言葉しかない。寿は晋の人で、晋は魏から承ったものである。魏を内にして、呉を外にするのは当然である。
然も その書 魏書と曰ずして三国と曰ふ、是れ明らかに 鼎立を言ふものにして、専ら 大統を以て 魏に属せしにあらざるなり。
しかも三国志は魏書といわず、三国といって、明らかに三国が分かれて対立したことを書いており、国家統一のため、魏によって征服されたとは書いていない。
諸葛の賛の如きは、即ち是れ公論なり、寿が怨を報ずと謂う、冤なり、宣王対累の処を叙して、其の醜を諱(い)まざるは、豈に直筆にあらずや、
諸葛孔明の賛は世間の人々が正しいと認める評論である。寿が怨みを晴らしたというのは、濡れ衣である、「宣王対累」の箇所を叙述するのに、その醜悪を避けているのは、逆にその醜さを描いている。
後の史氏をして寿の地に処らしむるも、必ず此くの如くになる能はず、裴注(はいちゅう)の収むる処に至っては、皆、寿の弃余(きよ)なり、然れども以て相證するに足れり、其の中、孫盛の事を叙するは、左氏に模擬せり、此の間の人亦此の類多し、真に児戯のみ、
後世の歴史家が寿のように書こうとしても、そのようにはならない。裴注(三国志を注釈した)が書いたものは、皆寿が書いたものの余りである。とはいっても読むには足りる。その中で孫盛(晋の人で、魏武春秋十余巻を著わす)の事を叙したところは左氏伝を模擬している。その間の人はこの類いが多く、子どもの遊びのようなものだ。
2022・5・18 頼山陽『三国志』を読んでの感想
堀尾さんが送ってくださった頼山陽の書後題跋から「三国志の後に書す」の原文と書き下し文(戦前のものらしい)を掲載する。
書き下し文には訳も少し載っているので、全訳を試みたい。少し時間をください。ご協力してくださる方はご連絡ください。(見延)
2022・5・16
堀尾哲朗さん「私の考え」
頼山陽と三国志について、堀尾哲朗さんからいくつかの示唆をいただいたので、紹介したい。
1、頼山陽は幼少の頃から歴史物語に興味を持ち、中国の歴史について豊富な知識をもち、三国志も知っていたと考える。
子どものころの山陽は、江戸詰めの父春水から美しい武者絵や絵本が届くのを楽しみにしていたという。源九郎義経や楠正成の画像と伝える関連本があるが、三国志に関する記述は見当たらない。
2、脱藩し幽閉中に梶山与一にあてた書には閲覧したい書物を列挙してい
るが、漢以前のものばかりで、三国志は含まれていない。
3、書後題跋の「三国志の後に書す」は、史書として三国の「魏史」「蜀史」「呉史」を比較したものである。
1と2は残念ながら三国志から離れていく印象をうけるが、3は山陽が「三国志」を読んでいることがわかり、大いに注目できる。堀尾さんは「三国志の後に書す」の具体的内容についても知らせてくださっているので、次回紹介したい。
2022・5・13
『史記』と『三国志』とキングダム
『史記』と『三国志』は、扱う時代こそ異なるが、ともに正史。
現在BSで「始皇帝」「三国志」、NHK総合では「キングダム」を放映中で、このジャンルは繰り返し映像化されている。
『史記』の主要な時代は「春秋戦国時代、秦、前漢」
著者/司馬遷 前145ころ~前86ころ 中国、前漢の歴史家
『三国志』は三国時代(魏、蜀、呉)
著者/陳 寿(ちんじゅ、233年? -297年?)
国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。
『三国志演義』
著者/後世、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・
宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好
まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手により、『三国志演
義』として成立した。
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殷(前16c~前11c)
周(西周:前11c~前771、東周:前770~前256)
春秋戦国時代
秦(前221~前206)
漢(前漢:前202~後8、後漢:25~220)
三国時代(220~265)
晋(265~420)
南北朝(420~581)
隋(581~618)
唐(618~907)
五代・十国時代(907~960)
宋(北宋:960~1127、南宋:1127~1279)
元(1271~1368)
明(1368~1644)
清(1644~1912)
中華民国(1912~、現台湾)
中華人民共和国(1949~)
頼山陽と中国史の関係で誰もが思い浮かべるのは、司馬遷の『史記』であろう。山陽は『史記』を暗唱するほど繰り返し読み、自分も『史記』にならって日本史を書きたいと発起し、『日本外史』を完成させた。論賛の『外史氏曰」は司馬遷の「太史公曰」を模倣するなど、構成や内容に至るまで多大な影響を受けていることは知られている。
2022・5・12
頼山陽と『三国志』
頼山陽が『演義三国志図鑑』に序を寄せていることが確認できたので、改めて頼山陽が『三国志』にどこまで関心を寄せていたのかを考えてみたい。
しかしながら山陽が『三国志』から影響をうけたと指摘する研究者はおらず、関連図書も出ていない。そこで、頼山陽がどこまで『三国志』に傾倒していたのかを探っていこうというのが、この連載の趣旨である。
なにぶん初めての切り口であり、わからないことだらけなので、お気づきのことがあればご教示のほどお願い申し上げます。
続きます。