「頼山陽と三国志」について考えます。
特に記載のない場合は見延典子が書いています。
江戸時代の線香時計(ネットより)
寺子屋での授業時間、芸者の仕事時間を、線香の燃える本数で管理した。京都の料亭では今で見芸者を呼ぶとき「線香代」といい、1本30分、3本90分から申し込む風習が残る。(見延の知人「通人」の話)
2022・5・25
「線香一炷武将賛三十首」
頼山陽には「線香一炷(しゅ)武将賛三十首」という中国の武将三十人について詠んだ漢詩がある。『頼山陽詩集』にも寛政9年(1797)の作として収録されている。
昌平黌に遊学中、学友らと「線香一本が燃え尽きるあいだに、中国の武将について何首の漢詩が詠めるか」を競争したようである。漢詩の知識もさることながら、武将についても知っていなければ詠めない内容であり、18歳の山陽のこの分野での知識の深さがわかる。
30人の武将は以下の通り。
大公 孫武 呉起 穣苴 白起 廉頗 李牧 孫□ 韓信 周亜夫
衛青 趙充国 虞翊 憑異 呉漢 諸葛亮 周瑜 杜預 王猛 壇道済
韓檎虎 李靖 郭子儀 李公弼 張巡 曹彬 笵仲淹 狄青 岳飛 徐達
2022・5・21 見延典子訳 頼山陽「三国志の後に書す」
見延典子が訳しました。お気づきの点がありましたら、ご教示ください。
古今来 史を称するに 必ず史漢と曰ひ、又両漢と曰ふ。
昔も今も史書を名乗るのは史記と前漢書・後漢書である。
余謂(おも)へらく班(はん)は馬(ば)の賊なり、笵(はん)は班の奴なり、独り陳寿(ちんじゅ)は、事(こと)核にして文直 子長以後 未だ其の比を見ず、此れより下りては、則ち 両晋・宋・梁書、皆 寿の役たること能(あた)わず、
私は、班(漢書の作者)は馬の悪人で、笵(後漢書の作者)は班の下僕だと思う。陳寿(三国志の作者)はよく調べて文に書き、司馬遷(史記の作者)以降、司馬遷と比べられるのは彼だけである。これより時代が下がると、東晋、西晋、宋、梁書は、三国志の奴隷たることもできない。
但、南北史は較(や)簡捷(かんしょう)たるのみ、世儒 動(やや)もすれば寿の蜀を絀(しりぞ)け魏を進むることを譏(そし)れども、是れ牙後の套論のみ、寿は晋人なり、晋は魏に承けたり、其の魏を内にして、呉を外にするは宣(むべ)なり、
但し、南北史はいくぶん手軽で、さっと書かれている。世の儒者たちはともすれば寿が蜀ではなく、魏を正統とすることをそしるけれども、そこには型にはまった方法や言葉しかない。寿は晋の人で、晋は魏から承ったものである。魏を内にして、呉を外にするのは当然である。
然も その書 魏書と曰ずして三国と曰ふ、是れ明らかに 鼎立を言ふものにして、専ら 大統を以て 魏に属せしにあらざるなり。
しかも三国志は魏書といわず、三国といって、明らかに三国が分かれて対立したことを書いており、国家統一のため、魏によって征服されたとは書いていない。
諸葛の賛の如きは、即ち是れ公論なり、寿が怨を報ずと謂う、冤なり、宣王対累の処を叙して、其の醜を諱(い)まざるは、豈に直筆にあらずや、
諸葛孔明の賛は世間の人々が正しいと認める評論である。寿が怨みを晴らしたというのは、濡れ衣である、「宣王対累」の箇所を叙述するのに、その醜悪を避けているのは、逆にその醜さを描いている。
後の史氏をして寿の地に処らしむるも、必ず此くの如くになる能はず、裴注(はいちゅう)の収むる処に至っては、皆、寿の弃余(きよ)なり、然れども以て相證するに足れり、其の中、孫盛の事を叙するは、左氏に模擬せり、此の間の人亦此の類多し、真に児戯のみ、
後世の歴史家が寿のように書こうとしても、そのようにはならない。裴注(三国志を注釈した)が書いたものは、皆寿が書いたものの余りである。とはいっても読むには足りる。その中で孫盛(晋の人で、魏武春秋十余巻を著わす)の事を叙したところは左氏伝を模擬している。その間の人はこの類いが多く、子どもの遊びのようなものだ。
2022・5・18 頼山陽『三国志』を読んでの感想
堀尾さんが送ってくださった頼山陽の書後題跋から「三国志の後に書す」の原文と書き下し文(戦前のものらしい)を掲載する。
書き下し文には訳も少し載っているので、全訳を試みたい。少し時間をください。ご協力してくださる方はご連絡ください。(見延)
2022・5・16
堀尾哲朗さん「私の考え」
頼山陽と三国志について、堀尾哲朗さんからいくつかの示唆をいただいたので、紹介したい。
1、頼山陽は幼少の頃から歴史物語に興味を持ち、中国の歴史について豊富な知識をもち、三国志も知っていたと考える。
子どものころの山陽は、江戸詰めの父春水から美しい武者絵や絵本が届くのを楽しみにしていたという。源九郎義経や楠正成の画像と伝える関連本があるが、三国志に関する記述は見当たらない。
2、脱藩し幽閉中に梶山与一にあてた書には閲覧したい書物を列挙してい
るが、漢以前のものばかりで、三国志は含まれていない。
3、書後題跋の「三国志の後に書す」は、史書として三国の「魏史」「蜀史」「呉史」を比較したものである。
1と2は残念ながら三国志から離れていく印象をうけるが、3は山陽が「三国志」を読んでいることがわかり、大いに注目できる。堀尾さんは「三国志の後に書す」の具体的内容についても知らせてくださっているので、次回紹介したい。
2022・5・13
『史記』と『三国志』とキングダム
『史記』と『三国志』は、扱う時代こそ異なるが、ともに正史。
現在BSで「始皇帝」「三国志」、NHK総合では「キングダム」を放映中で、このジャンルは繰り返し映像化されている。
『史記』の主要な時代は「春秋戦国時代、秦、前漢」
著者/司馬遷 前145ころ~前86ころ 中国、前漢の歴史家
『三国志』は三国時代(魏、蜀、呉)
著者/陳 寿(ちんじゅ、233年? -297年?)
国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。
『三国志演義』
著者/後世、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・
宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好
まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手により、『三国志演
義』として成立した。
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殷(前16c~前11c)
周(西周:前11c~前771、東周:前770~前256)
春秋戦国時代
秦(前221~前206)
漢(前漢:前202~後8、後漢:25~220)
三国時代(220~265)
晋(265~420)
南北朝(420~581)
隋(581~618)
唐(618~907)
五代・十国時代(907~960)
宋(北宋:960~1127、南宋:1127~1279)
元(1271~1368)
明(1368~1644)
清(1644~1912)
中華民国(1912~、現台湾)
中華人民共和国(1949~)
頼山陽と中国史の関係で誰もが思い浮かべるのは、司馬遷の『史記』であろう。山陽は『史記』を暗唱するほど繰り返し読み、自分も『史記』にならって日本史を書きたいと発起し、『日本外史』を完成させた。論賛の『外史氏曰」は司馬遷の「太史公曰」を模倣するなど、構成や内容に至るまで多大な影響を受けていることは知られている。
2022・5・12
頼山陽と『三国志』
頼山陽が『演義三国志図鑑』に序を寄せていることが確認できたので、改めて頼山陽が『三国志』にどこまで関心を寄せていたのかを考えてみたい。
しかしながら山陽が『三国志』から影響をうけたと指摘する研究者はおらず、関連図書も出ていない。そこで、頼山陽がどこまで『三国志』に傾倒していたのかを探っていこうというのが、この連載の趣旨である。
なにぶん初めての切り口であり、わからないことだらけなので、お気づきのことがあればご教示のほどお願い申し上げます。
続きます。