特に記載がない場合以外は見延典子が執筆しています。

参考文献 /「頼山陽全伝」「梅日記」(木崎愛吉、頼成一編昭和6年)

     「頼家百年の軌跡」(小原千秋編 平成10年)

     「頼山陽」(見延典子 平成19年)

 

2018・2・22 堀尾哲朗さん「頼春水と頼山陽の確執について」

 

春水は封建時代の重要な価値観である親の家業(紺屋)を放棄して大坂に出て学問に励みました。その後学んでいた儒学を捨てて、儒学の一派・朱子学に転向、更に『大日本史』を複写し、各藩に献呈、その就活活動で広島藩の儒者の職を獲得しました。(この見方は、頼祺一先生の激怒を受ける事は必至ですが。)

 

藩儒となった春水は学問所の同僚学者達を蹴落とし、藩の学門を朱子学に統一、広島藩には厳格な儒教を導入。その実践のため、杉の木小路の藩邸にも祠堂を設け家の中心とし、祖先祭祀の家祭を家族に強制しました。(その結果、多分佛教であった頼家の信仰も捨て、春水は土葬を行い、山陽は京都・長楽寺で墓に入るように、信仰の相異を生じている。)

山陽の救いは優しい母、教えを受けた杏坪、経済的にもまた親愛の情を注いでくれた春風であったが、若さが爆発して脱藩の実行となったのです。

 

頼山陽は歳をとるに従い「社会の中の春水」を理解したと思います。(藩儒の立場から山陽を厳しく指導した事も)

山陽49歳、1828年・文政11年、『春水遺稿』を完成させます。広島藩儒であった春水の遺稿を春水から廃嫡されていた山陽に任せた広島藩や頼家の人々には、山陽をそれなりに認めていたのではないでしょうか? (山陽が社会的に評価された松平定信へ『日本外史』の献上はその前年の1827年・文政10年)

 

頼春水は藩儒・朱子学者として徳川政権を支える理論を守る立場にあった

と考えます。一方山陽は大坂で生まれ6歳までを母の実家で自由に楽し

育てられ、広島に来ても春水の庇護の下で学問を進めて自由な考えを持っ

ていたのではないでしょうか。私は山陽の歴史観は、「人が歴史〔勢〕を

創る」ではと考えます。春水や儒者の「天」「理」「道」ではなく。

 

 

2018・2・21

    堀尾哲朗さん「野口武彦氏の著書からの引用」 🔁 見延典子

 

山陽と春水の確執の原因は信仰以外にも多くあったと思いますが、私は、春水や朱子学者の儒教の歴史観に山陽は同意出来なかった事が最大の原因ではと思います。

 

野口武彦『頼山陽・歴史への帰還者』(昭和49年・㈱淡交社)同書 Ⅱ 「気」と「情」と「勢」ー山陽の歴史哲学 128頁以降の引用文です

 

 『ところで、山陽の生涯にわたる親友であり、よき理解者であった篠崎小竹の「論勢」に加えた評語がここにある。「小竹曰く、道理を論ぜず、但だ 勢を制すを論ず。孔孟の旨にあらざるなり」。いかにも古賀精里門下の実直な朱子学者にふさわしい批評である。ただ「勢」のことばかりをあげつらって、いささかも「道理」に及ぶことがないのはなぜか。この月並みといえばあまりにも月並みな短評は、しかしおそらくは小竹が意識しなかったところで、山陽歴史哲学の根本に横たわる問題をつつき出しているのである。山陽はなぜ自国の歴史過程の根底をつらぬいて流れるものを論じながら、ついに一言も「道理」に論及することがなかったのか。山陽の歴史哲学の構成の中には、「道」あるいは「理」の範疇を導入する必要が最初からなかったからである。

頼春水が属していた寛政期知識人の世代、わたしが先ほど最後の経覺の世代と呼んだジェネレーションには、朱子学の静的な世界秩序が、寛政異学の禁という人為的な補強手段を講じられながらも、なお不動の構築として聳え立っていた。たとえば朱子学復興における春水の同志だつた尾藤二州の『素餐録』はいう。「天に在りては 之を命と謂ふ。人に在りては 之を性と謂ふ。物に在りては 之を理と謂ふ。合せて 之を謂へば 道なり」。

ここに要約されている朱子学の世界観の特色は、宇宙()と 人間と事物とに一つの普遍的な原理たる「天理」が偏在するという思考、ひとくちにいえば 汎理主義の哲学である。天にあっては「命」、人間に在っては「性」、事物に在っては「理」と、それぞれ呼び名はちがうが、宇宙の万者はそれを構成する物質的要素である「気」とともに、ひとしく「天理」を賦与され、それに支配されることによって それなりの存在様式を得る。そして朱子の言葉に「道とは事物当然の理」とあるように、この「天理」を当為 あるいは規範としてとらえた場合の呼び名が「道」なのである』(以下、理解できないので省略します。山陽はこの考えに同意できなかったのでしょう。)

 

 野口武彦氏の文は、私が発行を予定している『頼山陽を想う。通議を読む』の中で「山陽の歴史観は、何故儒者(朱子学者)と異なったか?」と題する箇所に引用したもので、このメールの為に打ち込んだものではありません。脱藩、信仰、歴史観、加えて封建社会への対応等で春水との確執はあったのでしょうが、後年の山陽は父・春水を尊敬し、春水も山陽を慈しんだのではと考えるのは、稚な私の考えでしょうか。

 

堀尾哲朗さんへ

堀尾さんが引用されている野口武彦氏の引用文ですが、浅学につき理解できません。わかりやすくご解説をお願い致します。

                        見延典子

 

2018・2・20   頼春水の三回忌②

 

2月8日付、堀尾哲朗さんからご指摘があったように、広島藩の儒者は儒教に基づく格式のある行事をこなしていた。

 

広島藩にこうした儒教の形式をもちこむことに尽力したのが頼山陽の父の春水であった。その春水の三回忌であれば荘厳に行われたであろう。

 

頼山陽の宗教観についてはわからないことが多いあるが、死の直前に書き残した自身の墓についての記述を思い起こすと、少なくとも儒教は受け入れていなかったようである。とかく形式ばったことが苦手で、この辺りにも父子の確執の原因があったようにも思えるが、いかがであろうか。

 

2018・2・19    頼春水の三回忌

 

頼春水の三回忌が頼家の祠堂で行われる。祠堂とは先祖の位牌を祀ってい堂を指す。いわゆる仏間であろう。

多くの参拝客が訪れる中、頼山陽は体調を崩し、翌20日は朝食も食べられない。かかりつけの医者を呼び、薬を処方してもらう。京都からの旅の疲れ、三回忌を迎える緊張が体調に影響したのかもしれない。しかし21日には墓参できるまでに回復している。

 

2018・2・17 

頼春水の三回忌逮夜法要

 

文政元年(1818)2月17日晴、風。頼春水(山陽の父)の命日は2月19日だが、比治山の安養院で、三回忌逮夜法要が営まれる。「梅日記」には「斎に付人18名。家来共26名」とある。

現在の比治山の航空写真(ネットより)   黄〇安養院(現在はない)→の先が頼家
現在の比治山の航空写真(ネットより)   黄〇安養院(現在はない)→の先が頼家

(注)「逮夜」とは法要の前夜を指すらしいが、多少ずれてもよかったのかもしれない。「斎に付人」とは斎場(安養院)に列席する人というほどの意味だろうか。今回、頼山陽が頼家に帰省したのは、亡父の法要に出席するためであった。亡父との確執の日々を、万感の思いで振り返っていたのではないか。

 

2018・2・16 頼春水の三回忌近づく

 

頼家のような儒教家庭では、毎月1日、15日は家祭を行う。2月15日も供え物をし、杏坪が来拝。杏坪の長男菜真の嫁かねが腹痛を訴え、菜真は欠席。

16日、山陽は聿庵とともに山陽の妹三穂の嫁ぎ先進藤家に招かれる。

そして17日は頼春水の三回忌逮夜法要。

 

広島城 写真提供 / 広島県
広島城 写真提供 / 広島県

2018・2・14

雪、帰藩届、またまた塩風呂

 

文政元年(1818)

2月11日~14日

 

11日から12日にかけては寒く、特に11日は雪がチラついている。


聿庵(いつあん 山陽長男)は11日から13日まで学問所に出ている。

一方、山陽は12日、帰藩届書を持参している。城か町役人宅に届けたのだろう。当時の旅の手続きの一端が伺える。山陽は京都に住んでいても安芸の人であることがわかる。親戚や知人が挨拶にやってくる。

 

14日には再び大手町6丁目の塩風呂へ聿庵と行く。

 

15日、三度、塩風呂へ。しかも座敷で「少々弁当をつかひ」と「梅日記」にある。風呂上り、座敷で自前の弁当を食べたのだろうが、梅(ばいし 頼山陽の母)がいっしょに行き、入浴したようにも読める。

 

石村良子様

当時は混浴で、女性も塩風呂に入れたのでしょうね。以前、忠海にある石風呂に問い合わせたところ「混浴なので、女性はTシャツを着て下さい」と言われた記憶があります。都合が悪くなり、行きませんでしたが(笑)

 

 

2018・2・11 石村良子代表 🔁 見延典子

            「頼山陽は丹那の潮風呂へ行っていた?」

 

「頼山陽てくてく」は面白いです。楽しみにしています。頼山陽は丹那(広島市南区)の石風呂、潮風呂に行っていたとか。今もあるのでしょうか

 

石村良子代表へ

平成15年廃業したとか。かつて瀬戸内海沿岸にあったこのような文化は今はほとんど残っていないようです。

                         見延典子

 

赤印は頼家。緑印は元安川。ピンク印は大手町3、4丁目。当時は干拓前で海であった。
赤印は頼家。緑印は元安川。ピンク印は大手町3、4丁目。当時は干拓前で海であった。
参考 / 今治市に残る石風呂 (ネットより)
参考 / 今治市に残る石風呂 (ネットより)

2018・2・10

妹に会い、塩風呂に入る

 

文政元年(1818)2月10日

臨月を迎えた妹の三穂が駕籠に乗って遊びにくる。その後山陽は聿庵(いつあん 前妻との間に生まれた長男)と鳥屋町にある塩風呂へ。執事の手島伊助が煮しめをもってきてくれたので、それで一献傾ける。

 

(注)鳥屋町は現在の大手町1~5丁目で、元安川東岸に位置する。もとは豆腐屋町と呼ばれたが、承応~天和年間に改称。町年寄を勤めた鳥屋八右衛門にちなみつけられ、昭和40年まで使用された。


また塩風呂は、石風呂もしくは岩風呂とも呼ばれるものではないかと思う。この中で火を焚き、いわゆるサウナ状態にして汗を発散させる。かつて瀬戸内海には自然を生かしたこのような風呂が数多くあった。

 

 

2018・2・9  蚊、日の内から酒、茶を煮る

 

文政元年(1818)2月8日

曇り。夜半より雨。2、3日、蚊出る。暖かいのだろう。千蔵から鮓をもらい、日の内から酒を飲む。夜更け、山陽は道中持参した茶を煮て、菓子を食べさせる。煎茶のことだろうか。

 

2月9日、聿庵は滞りなく丁祭行う。山陽は杏坪(叔父、きょうへい)の屋敷で昼飯をご馳走になり、夜には杏坪が頼家に来て、酒を飲みつつ会話を楽しむ。

 

 

2018・2・8 堀尾哲朗さん「丁祭について」

 

山陽の西遊について、楽しく拝見しています。

7日付、聿庵の学問所の教授拝命と「丁祭」の担当を命じられたとの記事がありました。読者は、広島藩の儒者の役割、その地位等に余り関心を持たれていないのではと考えます。今回の記事は良い機会なので、「丁祭」について補足説明をされては、如何でしょうか?藩主や家臣の前で、「孔子を祀る」大切な儀式である事が判れば、春水や聿庵が如何に広島藩に重用されていたかが判ると思います。参考として、『頼山陽を想う』(堀尾著)213頁のコピーを添付します。 

 

丁祭とは陰暦2月と8月の上の丁(ひのと)の日に孔子を祭る儀式。

藩主は束帯して家老、年寄り以下家臣を率いて学問所に臨み、大成の間(聖廟)に入る。

儒者の正献官は布の直垂をつけて、拝礼の式を執り、学問所の職員儒員はみな縦肩衣を着し、各々の職を分掌する。

丁祭(釈采の典)は、儒教・儒学を学ぶ者にとっては大切な行事。

春水は江戸詰を解かれた享和三年(一八〇三年)以降、毎年、丁祭の正献官を務めた。

 

2018・2・7 

春水の墓に参る

 

頼山陽の長男聿庵(いつあん 18歳)は1月27日学問所で初めて講釈を勤め、2月4日日勤を申し付けられ、教授を拝命。丁祭(2月、8月)の役も申し渡される。この延長で2月7日、学問所に出ている。

 

山陽は小園と比治山の安養院の春水の墓に参る。その後、杏坪宅を訪ね、夜は杏坪の息子の采真が頼家にきて、話をしている。

 

現在の頼春水の墓碑。後方の土饅頭がいわゆる墓。ネットより
現在の頼春水の墓碑。後方の土饅頭がいわゆる墓。ネットより

2018・2・6 竹原の小園、杏坪と再会

 

5日、頼家に帰省した山陽は風呂に入り、長旅の疲れを癒す。

6日は朝から雨。竹原から春風の婿養子の小園が夜船に乗り、安着祝いにやってくる。頼家に着いたのは午前10時ころ。石工の義兵衛が山鳥を持ってやってくる。また夕刻には近所に住む杏坪も加わり、話の花を咲かせる。ちなみにこの頃、山陽の通称は徳太郎。

 

 

 頼家跡に建つ頼山陽史跡資料館。    写真は頼山陽史跡資料館facebookより
 頼家跡に建つ頼山陽史跡資料館。    写真は頼山陽史跡資料館facebookより

2018・2・5 広島頼家着

 

2月4日、四日市(東広島市)の脇黙斎宅に宿泊した頼山陽は5日朝に出立。西国街道を歩き、同日暮れ六ツに広島城下の頼家に到着する。


山陽は2年前の2月、春水危篤の知らせを受けて以来の頼家への帰省になる。前日、山陽からの荷物が届き、母の梅は山陽の到着を心待ちにしていた。このときの家族の年齢。梅59歳、聿庵18歳、達堂4歳。近くに住む杏坪60歳。2年ぶりの再会を喜びあっただろう。

 

(注)脇黙斎は頼家と家ぐるみのつきあいがあった。東広島市に墓所がある。四日市から頼家までは30数㎞。暮れ六ツ午後6時ころ。

 

 

 かつての西国街道(広島県三原市)
 かつての西国街道(広島県三原市)

山陽と松陰の二人旅と書いてきたが、実際には荷物持ちを雇っている。山陽は三原もしくは四日市で宿泊後、最小限の荷物だけを残し、あとは広島の頼家に送る。その荷物が頼家に届くのは2月4日である。

 

 

2018・2・2 三原まで

 

「頼山陽全伝」によれば、後藤松陰は廉塾に「一時留塾」とある。頼山陽は将来のある門人に菅茶山の指導を受けさせようとしたのだろう。

川の石積みは川下にやや突き出ている。洪水の被害を最小限に抑える配慮である。
川の石積みは川下にやや突き出ている。洪水の被害を最小限に抑える配慮である。

2018・2・1 神辺、尾道まで

 

1月中旬、京都を発った頼山陽と後藤松陰は西国街道を歩き、広島を目指している。「頼山陽全伝」によれば、1月末には神辺の菅茶山邸を訪ね、また尾道では橋本竹下ら地元の文人と交流している。


 

  1. 山崎(大山崎町・島本町)
  2. 芥川(高槻市)
  3. 郡山 (茨木市)
  4. 瀬川 (箕面市)
  5. 昆陽(伊丹市)
  6. 西宮 (西宮市)
  7. 大蔵谷 (明石市)
  8. 加古川 (加古川市)
  9. 御着 (姫路市)
  10. 姫路 (姫路市)
  11. 正條(たつの市)
  12. 片島(たつの市)
  13. 有年(赤穂市)
  14. 三石(備前市)
  15. 片山(備前市)
  16. 藤井(岡山市)
  17. 岡山(岡山市)
  18. 板倉(岡山市)
  19. 川辺(倉敷市)
  20. 矢掛(矢掛市)
  21. 七日市(井原市)
  22. 高屋(井原市)
  23. 神辺(福山)
  24. 今津(福山市)
  25. 尾道(尾道市)
  26. 三原(三原市)
  27. 本郷(三原市)
  28. 四日市(東広島市) -
  29. 海田市(海田町)
  30. 広島(広島市)
大坂の中心部を流れる土佐掘り川
大坂の中心部を流れる土佐掘り川

尼崎に船着き場がどこにあるのか探したことがあるが、地形の変化が激しく現在ではわからなくなっているようだ。

 

ところで武内確斎は、頼山陽より15歳年上の戯作者。小竹の父の篠崎三島に学び、豊臣秀吉の一代記「絵本太閤記」を書いた。画は岡田玉山。7編84冊という大部であるが、文化元年(1804)に絶版を命じられたという。改めてこの時代の検閲について考えさせられる。『日本外史』を書く際、山陽が細心の注意を払ったのも頷ける。確斎は9年後、亡くなる。墓は大阪天王寺区の伝長寺にあり、題字は頼山陽、碑文は小竹によるという。

 

 

2018・1・25

武内確斎について

 

頼山陽と後藤松陰一行は大坂で篠崎松竹、武内確斎と会い、土佐掘り川を下り、尼崎まで見送られる。

地図はいずれもインターネットから
地図はいずれもインターネットから
武内確斎の墓。ネットより
武内確斎の墓。ネットより

三十石船の模型(インタ一ネットから)
三十石船の模型(インタ一ネットから)

大坂で二人は篠崎松竹、武内確斎に会う。ちなみに後藤松陰が「松陰」と号するのはかなり後で、この頃はまだ通称の「俊蔵」を用いている。

また後藤松陰は後に小竹の娘まち子と結婚して大坂で暮らすことになる。小竹と松陰との初対面がこの時であったのか、それ以前であったのかは検証が必要であろうが、少なくとも小竹は師である山陽につき従い、過不足なく行動する青年松陰に

2018・1・19   

大坂で小竹、確斎と会う

 

伏見から三十石船の夜船に乗った頼山陽(39才)と後藤松陰(22才)は翌朝、大坂に着く。

食らわんか船。「酒くらわんか、あん餅くらわんか」と声をかけながら淀川を往来する乗合船の乗客、飲食物などを売った煮売り船。(インタ一ネットから)
食らわんか船。「酒くらわんか、あん餅くらわんか」と声をかけながら淀川を往来する乗合船の乗客、飲食物などを売った煮売り船。(インタ一ネットから)

好印象を抱いていたであろうことが推測される。と共に、この時、篠崎家に宿泊していたなら、松陰は娘まち子と顔を合わせていたことになる。山陽のみならず、松陰にとっても今回の九州西遊は人生を大きく変える旅になったのである。

 

 

2018・1・15    伏見で観梅

 

文政元年(1818)1月15日、頼山陽(39歳)は美濃出身の門人後藤松陰(22歳)と共に伏見で梅を見ている。

 

この時代は太陰暦。太陽暦なら1月15日は2月19日にあたる。そろそろ梅も開花する時期である。

 

京に居を移して以降、山陽が広島の実家に帰省するのは4回目。伏見から三十石船の夜船に乗り、大坂の八軒家に向かうことが多い。この時も夜船を待っていたと考えられる。

 

   見延典子
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