見延典子が書いています

薩摩の詞 頼山陽

 郷兵団結百余区

 帯箭人交荷鍤夫

 茅舎槿籬差整粛

 家家多種淡婆姑

大意=薩摩では兵が団結している。矢を負う人に混じり、鋤を持つ人がいる。かやぶきの家や木蓮の垣根は整って美しい。多くの家では煙草を植えている。

 

2018・9・19

鹿児島に入る

 

頼山陽は9月15日頃、現在の鹿児島市に入ったようだ。今回の西遊での最南端の地である。見るもの、聞くもの、すべて珍しかっただろう。

 

錦江湾と桜島 ネットより
錦江湾と桜島 ネットより

7代目河南源兵衛根心(かわみなみげんべえもとなか)通称を「政助源兵衛」。明治18年73歳没。 代々の源兵衛のうち、繁栄と没落の差を最も激しく体験した。(阿久根市商工観光課HPより) 

2018・9・13

河南源兵衛

 

頼山陽は薩摩の野菜町(『全伝』に出ているが、現在もあるか不明)滞在中で、河南源兵衛なる人物の屋敷に招かれる。以下阿久根市商工観光課のホームページからの抜粋である。

 

海運業で栄えた阿久根の発展に大きく貢献したのが河南源兵衛。

16世紀末、薩摩藩は明国と薩摩に服従していた琉球を足掛かりに中国と貿易を行い、高値で取引をされていた「唐物」で利益を得ようとする。そこで抜擢されたのが藍会栄(らんかいえい。後の河南源兵衛)


藍会栄は、中国の明王朝の側近として仕える家柄の役人だったが、16世紀末のころに満州から女真族(のちの清王朝)が侵攻してきて内乱状態となり、琉球へ亡命の身であった。

薩摩藩は名国内部の事情に明るく、品物の目利きができ、中国語が堪能であった会栄を藩の士分として迎え、唐通詞(通訳)として取り立てました。会栄は藩から名字帯刀が許され、故郷である中国の河南省から「河南」をとって姓とし、名を「源兵衛」と名乗ることになるが。これが初代「河南源兵衛」のはじまりといわれる。

初代源兵衛は、唐通詞として琉球―薩摩間を往来して藩政に大きく貢献。会栄が亡くなった後、士族としての河南家を長男が継ぎ、二男は海運関係の商人として代々の当主を源兵衛と襲名していくことに。(続く)

 

 

2018・9・9 川内

 

頼山陽が薩摩に入る際に通過した「野間の関」は薩摩の三大関所に数えられる。無証文の者は絶対に入れなかった。 江戸時代後期の尊王思想家・高山彦九朗や歴史学者の頼山陽等が入国に苦労した記録が残っている」(下の案内板)

吾生三―九重陽 

幾處黄花泛酒觴 

商略登高誰第一 

薩山尽處望南洋

※重陽の節句には茱萸を身につけて高いところに登り、菊酒を飲むことで災厄をはらうとされていた。

 

野間の関の様子
野間の関の様子

9月9日、山陽は川内に入り、大小路の永井瀬兵方に投宿。重陽の節句の祝酒で大騒ぎしている周囲をよそに、長崎を発つ際、餞別としてもらった瓢酒で独酌。薩摩での孤独な姿が思い浮かぶ。薩摩弁の輪に入れなかったのだろうか。

次の七絶も残す。

写真はいずれもネットより
写真はいずれもネットより

 頼山陽詩碑 ネットより
 頼山陽詩碑 ネットより

 

阿久嶺(あぐね) 頼山陽

 

危礁 乱立す 大濤の間  眥(まなじり)決すれば 西南に山を見ず

 

骨鳥影(こつえい)は低迷し 帆影は没す 天 水に連なる処 これ台湾

 

2018・9・8

山根兼昭さん「阿久嶺」

 

頼山陽もいよいよ鹿児島に入りました。私の好きな「阿久嶺」です。

 

 頼山陽は、9月8日、野間の関を通過し、阿久根駅に至り一泊、さらに翌九日、南へ二里ばかり行った牛の浜で、その絶景を詠んだ作。

阿久根牛の浜夕景 ネットより
阿久根牛の浜夕景 ネットより

(大意)怒涛の逆巻く海辺に、奇岩怪礁が乱立している。目を見張って遠く西南の方を望めば、一点の山影も見えない。

ただ、はやぶさが海面に飛び交うのと、帆影が波間に消えて行くのみである。その水平線の彼方には、台湾があるのであろう。

                         ※よろしければ、こちらもご覧下さい。

 

正月半ば、京都を出立してから9カ月
正月半ば、京都を出立してから9カ月

薩摩の関は守りが固く、よそ者に対しての警戒が強い。

山陽は深水春山に導かれつつ関所まできたが、閉ざされていたため、止むを得ず、近くの農家で一泊。夜明けを待つことになる。

 

 

2018・9・7

野間の関(出水)、薩摩境

 

9月7日、風雨の中、夜になって

野間の関(出水)に達する。

小説『頼山陽』西村緋祿史先生の挿絵   関所の役人と揉み合う頼山陽を描く
小説『頼山陽』西村緋祿史先生の挿絵   関所の役人と揉み合う頼山陽を描く

2018・9・5

水俣の徳富邸へ

 

8月29日、熊本を発った頼山陽は松橋から船に乗って津奈木へ行き、深水春山という学者の家に泊まったあと、9月4日頃、水俣の郷士の徳富家に投宿する。

①松橋、➁綱樹(津奈木)、③水俣
①松橋、➁綱樹(津奈木)、③水俣
若き日の徳富蘇峰
若き日の徳富蘇峰

分家の徳富鶴眠は、明治から昭和にかけてのジャーナリスト徳富蘇峰、文学者徳冨蘆花兄弟の祖父にあたる。蘇峰は祖父から頼山陽について聞かされたようで、後に『近世日本国民史』100巻を著す。山陽の影響だろう。また良い意味でも悪い意味でも山陽の掘り起こしに関わり、山陽の遺蹟を巡ると、蘇峰の名前に出会うことが多い。

 

 


しかし9月7日には薩摩境に達しており、この間に天草まで引き返したかどうか。当時の交通事情を考えたとき、地元の郷土史家のあいだでは「行程として無理があるのではないか」という声が根強い。

そのため天草に向かったのは3カ月に及ぶ長崎滞在中ではないか、という声も出てくるのである。

苓北町や「天草洋に泊す」はこちら

をクリックしてください。

※右の写真は熊本県苓北町に立つ山陽詩碑。頼山陽を代表する詩「天草洋に泊す」が刻されている。

 

 

2018・9・1

「天草」訪問の時期

 

『頼山陽全伝』によれば、頼山陽は「8月29日熊本発程、松橋へ向ひ、それより発船」とあり、天草(現在の熊本県苓北町)を訪問したことが記されている。

 
 

2018・8・29

叢桂園

 

頼山陽は熊本藩医村井家の別荘「叢桂園」も訪ねた。別荘や庭を造ったのは村井琴山だが、すでに故人。山陽が会ったのは息子の蕉雪である。

頼山陽も眺めたであろう叢桂圓の庭
頼山陽も眺めたであろう叢桂圓の庭

同じエピソードでも、頼山陽は冷遇されたとするものもあるが、8月28日、広島の母宛てに出した書状には蕉雪について「好事人物にて」、薩摩行についても「薩境迄」「旁一所に相成、よき都合なり」と報告し、薩摩での滞在予定先を書いている。

加藤清正を祀る浄池廟のある本妙寺
加藤清正を祀る浄池廟のある本妙寺
2014・10・19叢桂園に立つ筆者
2014・10・19叢桂園に立つ筆者

頼山陽が叢桂園滞在中のエピソードがある。それを書いたのが拙作『獲物』(「耶馬渓」収録)である。

近砂敦著『耶馬渓』
近砂敦著『耶馬渓』

山陽は本妙寺に加藤清正祀る浄池廟を訪ね、漢詩「南遊 菊池村を過ぐ」を書いたとされるが、岡田鴨里の『西遊雑記』のよれば、山陽は実際には同地を訪ねていないという。

 


熊本地震で倒壊前の熊本城       2014年10月20日 写真/見延典子
熊本地震で倒壊前の熊本城       2014年10月20日 写真/見延典子

2018・8・28

熊本に滞在

 

8月26日に肥後熊本に入った山陽は、塩屋町に熊本藩儒の辛島塩井(1775〜1839)を訪ねる。

当時65歳。江戸の昌平黌で講義をしたこともある春水の友人である。


山陽はおそらく塩井とは初対面だったのだろう。塩井に預かってきた春風の書状と聿庵の挨拶状を渡した。

 

塩井は山陽を見て「まったく春水先生のご来臨と思う」と懐かしむ。山陽の風貌に春水を重ねたのだろう。また「せっかくの機会なので薩摩まで足を延ばした方かいい」と助言し、社中の人々とともにいろいろ斡旋の上、手近の宿も指図するなど親切に対応してくれた。

 

さらに27日、塩井は宴を開き、七律を山陽に贈った。異郷にあって、長崎からは一人旅になり、嵐にも遭い、心細くなっていた山陽は、ここ熊本で亡父が築いた縁により、つかの間、心暖かな思いに浸ったのである。

 

2018・8・26

天草洋に泊す

 

舟で千皺洋を過ぎて大風浪に遭った山陽は、翌日、船で天草の富岡に向い、その地で暮らす儒者の渋江涒灘を訪ねたという。富岡には山陽が宿泊したという旅館泉屋跡地に説明板が立っている。頼山陽がこの地で詠んだ「天草洋」も含め、こちらで紹介している。ご参照ください。

頼山陽先生宿泊之跡(苓北町富岡)
頼山陽先生宿泊之跡(苓北町富岡)
 赤丸は天草灘 ピンク〇は富岡
 赤丸は天草灘 ピンク〇は富岡

 

もっとも山陽は8月25日には熊本城下に入り、26日、辛島塩井を訪ねている。それを踏まえると、23日千々岩泊、24日富岡泊、25日熊本城下入りということになる。嵐後の舟の旅はそれほど順調であろうか。富岡を訪ねたのは長崎滞在中ではなかったかという説もあるようだ。ご存じの方は教えてください。

 

 


「竃さらえ」(見延典子著)
「竃さらえ」(見延典子著)

2018・8・25

大風浪に遭う

 

8月23日、茂木港を出立した後大風浪に遭い、九死に一生を得た山陽は「舟千皺洋を過ぎて大風浪に遭ひほどんど覆らんとす。嶹原に上るを得て漁戸に宿す。此れを賦して懲を志す」という五言古詩を書いている(嶹は嶋の異体字。島原のこと)


この詩で山陽は碕港(長崎)を出立したのは「八月念六日」(8月26日)としているが、山陽の思い違いらしい。

 

『竃さらえ』(本文社。1200円税抜き 頼山陽ネットワークで発売中)収録の「牛狐」はこの漢詩をもとに書いた短編小説。漁戸に一夜の宿を求めた山陽と地元の少年との交流を描く。

 

 

2018・8・23

熊本に向けて出立

 

8月23日、頼山陽は89日間滞留した長崎を発程する。

①茂木港 ➁千々岩 ③富岡
①茂木港 ➁千々岩 ③富岡
赤丸が茂木港
赤丸が茂木港

①茂木港まで行き、舟で熊本をめざすが、島原半島の➁千々岩付近で風浪に遭ってしまう。

このときの行程については諸説あるが、『頼山陽全伝』には「島原の漁家に一泊。この際③富岡に一時寄泊」とある。

いずれにしろ不測の事態が起きたのだった。

 

 


参考 オランダ更紗
参考 オランダ更紗

2018・8・22

長崎を未だ出立せず

 

8月19日に長崎を出立と考えていた頼山陽。だが『頼山陽全書』によれば8月23日発程とある。天候の関係で延期になったのか。

 


8月21日、山陽の母宛ての書状には「今日か明日に出立します。熊本、長崎を訪ねないのは本意ではなく、広島帰国は11月頃になるでしょう」と伝えている。

 

この書状を読む限り、広島出立時は「長崎」を旅の最終目標としていたものの、長崎で熊本、鹿児島まで足を延ばすことを決めたようにも読める。

 

山陽は母に「〃旅猿〃は亡父が嫌っていたことではありますが、これを最後として心残りなくどこもかも歩いて帰ります」とも書いている。またオランダビロードの「女帯を四筋分」も送っている。

 

注 旅猿=猿が芸を見せてお金をとるように、文人が詩や文を書き、収入を得ながら旅すること。生前の父春水は山陽のこのような行動を大いに嫌った

 

 

2018・8・19

長崎発程

 

5月23日から滞在していた長崎。目的の一つは清人の江芸閣に会い、女弟子江馬細香の詩を読んでもらうことであったが、江芸閣を乗せた船は入港する気配がない。水野媚川(息子は幕末、明治の篆刻家)の勧めで、江芸閣の愛人袖咲に会い、事情を訊いてみるも、徒労であった。

長崎市内にある古刹「光永寺」
長崎市内にある古刹「光永寺」
丸山「花月」芸妓袖咲
丸山「花月」芸妓袖咲

本筋から外れるが、私が注目したのは、山陽が「光永寺の詩僧日蔵のところで伊丹の銘酒男山を飲みたり」と広島の母に手紙で伝えているところ(木崎好尚『頼山陽全伝』)

男山については、山陽の父春水が薦印を書いたことを紹介したが(ここをクリック)好尚も「『男山』は春水生前その薦印を書して大いに評判を取し物語あり」と書いている。


3カ月にわたる長崎に入るころ(または入ってから)、同行していた門弟の後藤松陰が故郷美濃の母病気の報に接して帰郷し、一人旅になった。

 

山陽は水野媚川に「8月19日に長崎発程」と伝え、それを聞いた姑蘇人の楊西亭(兆元)から「餞別の杯を交換するひまもなく、まことに残念に堪えぬ」という手紙をもらっている。

   見延典子
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