見延典子が執筆しています。

2018・10・16

熊本に滞在中

 

下関の広江殿峰が長崎の遊龍梅泉に宛てた手紙によれば、山陽は長崎へ行った後、夏には下関に帰ると語っていたようで、薩摩まで足を延ばしたのは旧知の小田海僊がいたからだろう、と推測している。

『筑前名所図会』より
『筑前名所図会』より

岡村玉蘭が描いた『筑前名所図会』は余りに精密なため福岡藩から「出版の許可か下りなかったという。

奥村玉蘭 写真はいずれもネットより
奥村玉蘭 写真はいずれもネットより

殿峰のもとには京都の妻梨影からもたびたび書状が届いていたようだ。心配でならなかったのだろう。

当の山陽は熊本滞在中で、博多の豪商松永花遁へ書状を出し、『筑前名所図会』などを描いた岡村玉蘭に引き合わせてほしいこと、また博多滞在中に見ていた盛茂燁の「石湖秋一色」が「少し値高にてもよろしく」入手したき旨を伝え、京まで持ってきてほしいこと、「さなく候へは貴下御かすめなされ候義と存、御恨み申候」と冗談に紛れて脅している。

 

 


2018・10・8

熊本に引き返す

 

頼山陽は水俣から八代に向い、そこから舟で熊本まで引き返す。10月6日のことである。『頼山陽全伝』には山陽が広島の母梅に宛てた手紙が掲載されており、水俣で泊まっ


たのは大庄屋の深水壹郎右衛門の屋敷と書かれている。頼山陽は熊本から、豊後竹田の旧友田能村竹田を訪ねたあとは、天気が穏やかであれば、鶴崎から上の関に渡りたいと書いている。

往路で世話になった深水春山にも「留別かたがた両地(水俣・津奈木)の負債(詩画揮毫)を償いたい」と鹿児島土産の筆を添えて手紙を出している。

 

復元前
復元前

徳富蘇峰・蘆花の生家は、寛政二年(1790年)、徳富家中興の祖といわれる徳富久貞(太多七)により建てられた。明治3年(1870年)、蘇峰・蘆花の父一敬(淇水)が熊本藩庁に招かれ一家が熊本に移り住むまでの80年間、徳富家はこの家に住み続けた。その後、明治22年からは西村家の商家(屋号:衣屋)として代々受け継がれた。

箕山の『頼山陽』では、山陽が鹿児島で小田海僊に留別した後、夜船に乗って加治木を目指して出港。この時、志布志の臨済宗大慈寺所管の琉球暗脚僧と同舟し、琉球の事情を教えてもらう。また「鎮西八郎歌」を詠む。明け方、加治木の着き、横川駅に向かう。翌日は6里の道を歩き、大口駅に着き蕎麦屋の河野銀太宅に宿り、嚢中乏しかったため、唐紙3枚に揮毫し宿料の代わりする。2日、北に向って3里を歩き、山野郷を過ぎ、小河内の関所を越え、亀

坂を登る。ここで詩を残し、石坂を

2018・10・3

鹿児島から水俣へ➁

 

頼山陽は復路も、水俣で徳富邸に宿泊したと書いたが、坂本箕山『頼山陽』を読み返して違いがあることに気づいた。

土間
土間
離れ
離れ

現在の徳富蘇峰、蘆花生家

熊本県水俣市浜町2-6-5

写真、文ともHPより転載、引用


下り、渓水の流れに沿って歩くこと2里半、水俣の大庄屋深水信孚の家に宿ったことになっている。

この深水信孚とは、山陽を鹿児島まで案内した熊本の医者深水春山の親族であろうか。そのへんがわからないので、いずれの記述が正しいのか、判断がつきかねる。

 

いずれにしろ、山陽が水俣で竹原の道工彦文の墓があることを教えられ、参詣している。文彦は山陽の父方の祖母道工中(仲とも)の同族で、和歌に長じたが、この地で客死している。

 

10月1日、陸路水俣へ引き返し、往路同様、徳富太蔵宅に入る。また分家の徳富鶴眠のために「成簣(せいき)」の扁額を書く。成簣とは「 論語 」 にある言葉で、竹の箕(み) に盛った土の意味。鶴眠は徳富蘇峰(1863-1957)の祖父にあたり、蘇峰はこの扁額を譲り受け、文庫「成簣堂」を創設。内容は蘇峰が精力的に収集した古典籍や古文書類で、昭和15年に東京の石川武美記念図書館が一括購入し、現在は予約すれば、有料で閲覧できる。蘇峰の『頼山陽』によると、山陽は滞在中も『日本外史』の原稿に手を入れ、酒にはうるさかったという。

 

2018・10・2

鹿児島から水俣へ

 

頼山陽は9月30日に鹿児島を発程する。ここからは復路になる。山陽は香川出身の詩人後藤漆谷(1749-1831)に宛て、長崎ではめぼしい書画、骨董がなかったが、熊本には少々あったことを伝えている。

戦前の言論界に多大な影響を与えた徳富蘇峰は、頼山陽の評価にも影響を与える
戦前の言論界に多大な影響を与えた徳富蘇峰は、頼山陽の評価にも影響を与える

2018・9・28

薩摩藩への批判

 

山陽が薩摩を訪ねたころ、実権は隠居している第8代藩主島津重豪(しげひで)が握っていた。重豪の娘は第11代将軍徳川家斉の正室になった広大院である。

 広大院の肖像画
 広大院の肖像画
島津重豪の肖像画
島津重豪の肖像画

広大院の実名は寧姫、篤姫、茂姫といい、後に天璋院が篤姫を名乗ったのは、広大院にあやかったという。

幕府との因縁が浅からずあるためか、旅の孤独からくるものなのか、山陽の薩摩藩への批判は手厳しい。

菅茶山に宛て「驚入候は、鹿島の紛華に御座候。其謀国の拙。笑うべき事のみに御座候」と報告している。


薩摩滞在中に読んだ詩も批判に満ちている。「前兵児謡」で昔の薩摩武士の勇猛果敢さを詠み、「後兵児の謡」で軟弱に変化した姿を皮肉る。

 

余計なことだが、これほど士気の下がった薩摩藩が後世幕府と対立し、倒幕の中心になる。山陽が知ったなら、どんな感想を抱いたであろうか。

 

前兵児謡   頼山陽
 衣は骭に至り 袖腕に至る
 腰間の秋水 鉄断つ可し
 人触るれば人を斬り 馬触るれば馬を切る
 十八交を結ぶ健児の社
 北客能く来らば何を以って酬いん
 弾丸硝薬是れ膳羞
 客猶属えんせずんば
 好し宝刀を以って渠が頭に加えん

    菅茶山評 是れ豈今時の詩ならんや

 

後兵児の謡   頼山陽
 蕉衫の如く塵を愛せず
 長袖緩帯都人を学ぶ
 怪しみ来る健児語音の好きを
 一たび南音を操れば官長瞋る
 蜂黄落ち、蝶夢褪す
 倡優巧みにして、鉄剣鈍る
 馬を以て妾に換へ髀肉を生ず
 眉斧解剖す壮士の腹

   大窪詩仏評 筆力矯健詞気跌宕。前後の西は寒暑の候を殊にする如

   し。変化自在なり。古楽府に深き者に非ずんば到る能はざるなり。

    (参考文献「頼山陽詩鈔」 頼成一、伊藤吉三訳注)

 

鮫島白鶴の書
鮫島白鶴の書

薩摩で山陽が交流したのは小田海僊以外には鹿児島儒者の鮫島白鶴(46歳)、江戸遊学中の旧友の伊知地季幹(赤崎海門の外甥)である。二人は鹿児島の南郭大門口の酒楼で山陽の歓迎の宴を催す。

 

当時、白鶴は山陽が詩や書の得意な一才子と思っていたが、後に『日本外史』を書いたことを知り、自分の眼識が低かったのを悔いたという。

2018・9・26 

鹿児島滞在中の交遊

 

参考文献として木崎好尚の「山陽全伝」を用いているが、併せて坂本箕山の『頼山陽』も参照している。箕山の『頼山陽』を読むと、山陽が異郷にあって、ずいぶん孤独な日々を送っていたろうことが推測できる。

 

 煙草畑 ネットより
 煙草畑 ネットより

また季幹はこのころ藩の地方検者であったが、後に政変に連座して士官を停められ、飛来山房の号で団扇を作ったという。

 

大隅の国分で作られる「国分煙草」は「花は霧島、煙草は国分」と俗謡に歌われるほど有名で、山陽も煙草畑を入れた詩を詠んでいる。ただ、鹿児島の文人肥後芸谷によれば、山陽は「これ極めて勁烈(強く激しい)、得て吸い難し」といったとか。国分煙草の味が伝わる逸話である。

 

 

2018・9・20

小田海僊に会う

 

鹿児島に着いた頼山陽は藤田太郎右衛門の屋敷に入る。そこには知己の小田海僊(かいせん)が寄寓していた。

海僊は百谷とも号する赤間関出身の画家で、山陽より5歳年下。京都の修業時代に山陽と交遊し、山陽の影響で南画家に転向したという。この頃、長崎を経て薩摩で絵の勉強をしていた。

同じ時期に九州にいるわけで、山陽は事前に海僊の薩摩滞在予定を聞いていたと思われる。

慣れない土地で知り合いに会い、安堵する思いはあったろう。

海僊は都合5年間、九州を遊歴し、南画家として大成。文久2年(1862)78歳の長寿を全うし、没す。

  小田海僊の薛濤(せつとう)図

  薛濤は唐代の実在した妓女。

  1846年絹本着色(ネットより)


   見延典子
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