特別な記載がないもの以外、見延典子が執筆しています。

 

2017・10・12 見延典子 🔁 中津のオッサン

                   森鴎外『井沢蘭軒』

 

「森鴎外『小倉日記』に描かれた耶馬渓」を拝読しました。明治33年といえば、鴎外は40歳くらいで、まだ本格的に小説を書きはじめる以前でしょうか。耶馬渓訪問がきっかけになり、後の『井沢蘭軒』につながったと想像すると、事実か否かはともかく興味がわきます。

 

森鴎外の『井沢蘭軒』(著作権が切れて、ネットでも読めます)を読んだとき、タイトルは「井沢蘭軒だけれど、内容は頼山陽だ」と思った記憶があります。記憶はおぼろですが、『井沢蘭軒』の小説の冒頭で書かれる「江戸に出てきて井沢家に寄寓する頼山陽」というのは、森鴎外の誤解で、実際には頼春水の従兄弟の頼養堂ではないかといわれています。

 

しかし文壇の重鎮となった森鴎外が書いたことにより、頼山陽の品行は誤解を含んだまま喧伝されていきます。梶山秀之の『雲か山か』などはこの小説を下敷きにして、ほとんど史実とは異なる頼山陽が描かれています。

 

 

上巻1620円、下巻1836円
上巻1620円、下巻1836円

2017・7・22

中村真一郎『頼山陽とその時代』

 

中村真一郎の『頼山陽とその時代』から頼山陽に入ったという人は意外に多い。私もその一人。中公文庫(上中下巻)に入っていた同書を読み、頼山陽に興味を持った。残念ながら絶版になっていたが、今年3月ちくま学芸文庫から新装上下巻として刊行された。頼山陽のみならず家族、周辺の文人にも筆が及んだ労作で、頼山陽研究には必携だ。

 

 


299ページの大部
299ページの大部

武士といえば「戦い」のイメージが強いが、江戸時代、諸藩の藩主は印刷物を作らせていた。同書では彼らを「印刷藩主」と呼んでいる。広島藩では7代藩主浅野重晟が頼杏坪ら儒者に編纂を命じ、『芸備孝義伝』を刊行した。

迫力のある武者絵(浮世絵)も掲載されて、武将がどのように描かれてきたかを読み解くのも楽しい。

2017・7・20 

凸版印刷株式会社 印刷博物館

『武士と印刷』

 

先日、ひょんなことから凸版印刷株式会社 印刷博物館の学芸員さんと知り合い、昨年10月から今年1月まで、同所で開かれていた『武士と印刷』の図録をいただく。

頼杏坪ら儒者が編纂した『芸備孝義伝』初編、二編、三編、拾遺がある。             享和元年(1801)から弘化元年(1804
頼杏坪ら儒者が編纂した『芸備孝義伝』初編、二編、三編、拾遺がある。             享和元年(1801)から弘化元年(1804

 お問い合わせ先

 凸版印刷株式会社 印刷博物館

 ☎03-5840-2300

 


2017・6・8 三谷太一郎

『日本の近代化とは何であったか』

 

6万部売れているというので、読んでみた。著者の三谷氏は1936年岡山市生まれの東大名誉教授。あとがきに「総論を目指した」とあるように、主語はあくまで「日本」。近代日本史の流れを俯瞰できる学術的な一冊というところか。


頼山陽についての記述もある。

「廉塾塾頭を務めた頼山陽の『日本外史』その他の著作は『文芸的公共性』の一つの結実です。それが幕末の政治的コミュニケーションを促進する媒介の役割を果たしたことはいうまでもありません」

こんな表現は新しいといえば、新しい。

 

「先年彼の頼山陽の百年祭があった際、かつて芸藩の士論は頼山陽が君父の国を脱したるのにより釈然たらざるものありしに拘わらず、長勲侯が自ら祭文を読み、而も恭しく山陽先生と称したる一事は、世人をして敬嘆せしめたる所である」

 

なんと、頼山陽を「先生」と呼ぶようになったのは、浅野長勲が端緒を開いたのである。

 

2017・1・27 

広島 頼山陽評価の転換点

「浅野長勲侯の生い立ちと年譜」

 

昭和45年刊(田部正夫文責)であるが、昭和6年に行われた頼山陽の百年祭について、興味深いことが書かれている。

 


2016・12・27

津木林洋「とつげん・いっけい」

 

江戸時代末期の絵師、名古屋生まれの田中訥言と弟子の宇喜多一蕙の画業と生涯を描いた長編小説。二人は平安王朝時代に隆盛を極めた「やまと絵」を模写、写生し、「平安の作画技法」に立ち返ることが、日本絵画を発展させていくことになると唱え実行したという。

 


江戸後期から幕末にかけての京都を舞台にして、「とつげん」では頼山陽が、「いっけい」では頼三樹三郎がかなりの回数にわたり登場する。参考文献に入っていない『頼山陽全伝』を丹念に調べていけば、さらなる発見があるかもしれない。

 

2016年10月30日発行 430ページ

発行者 森村記念館 

発売 中日新聞事業局出版部

 

 

2016・12・17 尾藤二洲没後二百年遺墨集②

 

伊予国川之江(現四国中央市)出身の尾藤二洲(1745-1814)は大坂で塾を開き、朱子学を学び、31歳で『素餐録』、33歳で『正学指掌』を著し、当時としてはわかりやすい朱子学の教科書を作った。

 

この頃、ともに切磋琢磨していたのが頼山陽の父春水である。二洲も春水も大坂の自由闊達な学問の環境が気に入っていた。ところが二洲が45歳の時、江戸幕府から儒官としての召命される。

 

私は長いこと、二洲の召命は名誉なこととして、本人も家族も喜んだのだと思っていた。だが頼春水にしても、広島藩儒に招聘された時、喜びよりもむしろ困惑のほうが勝っていたと、いつだったか頼祺一先生の講演で知り、「そんなものか」と思った。

 

昨夜、司馬遼太郎が松平容保について書いている文を読んでいたら、興味深いことが書かれていた。

 

要約すれば、「京の町民は公卿が常に貧乏で、あの手この手を使って金を巻き上げようとすることを知っている。然るに奥州の僻遠の地に住んでいる人々(ここでは会津人)のあいだで萌芽し、成長した勤皇思想はあまりに知的で、思想的で、純粋でありすぎ、政治手段に使おうなどと考えられないほど観念的な結晶度が高いものであった」

 

二洲や春水が学び、体系化しようとしていた朱子学は、当時の大坂の学問の世界を映し、自由で、かつ大坂的な諧謔性を帯びた明るいものではなかったか。とうぜん山陽の勤王のとらえ方もその延長上にある。『日本外史』で描かれたのは、そもそもは「武家勢力」VS「公家勢力」という図式という単純明快なものではなかったか。

 

二洲も春水も、そして山陽も、江戸幕府あるいは明治政府という組織の道具にされたとき、自在性を失った、いや、失わされたのである。

 

 

3年前、尾藤二洲没後二百年祭の一環として開催した遺墨店の出品作品をわかりやすく解説した。

 

お問い合わせ

尾藤二洲顕彰会(四国中央市)

☏0896-56-3533

 

 

2016・12・14

尾藤二洲没後二百年遺墨集

 

「尾藤二洲没後二百年遺墨集」(尾藤二洲顕彰会)が出版された。

 

尾藤二洲の肖像画。            尾藤二洲は頼山陽の義理の叔父にあたる。
尾藤二洲の肖像画。            尾藤二洲は頼山陽の義理の叔父にあたる。

A4版 86ページ 2000円


2016・12・9

坪内隆彦

『GHQが恐れた崎門学』補足

 

頼山陽とは直接関係ないが、同書で触れている『明治維新という過ち』(原田伊織著)を以前読んだので、感想方々書いておきたい。

30代の頃、山岡荘八の『吉田松陰』を読み、しばらく松陰熱にうなされていた時期がある。


ところが50代で『敗れざる幕末』を書く際、改めて吉田松陰を調べ直して考えが変わった。私はその人物や業績については「〇」か「×」で判断するものではなく、「〇」と「×」の間に答えがあると思っている。だから原田氏のように松陰を完全否定するつもりはないけれども、間部詮房の暗殺を企て、教え子たちを引きずりこもうとした点においてはまったく共感できない。その延長として松陰が松下村塾で教えていたこととはいったい何であったのかという疑問も捨てきれない。以前、別のコーナーでも書いたように、松陰が日本史に残した最も大きな足跡は幕府によって処刑されたことかもしないと今も思っている。蛇足ながら付け加えておく。

 

 

2016・12・1 坪内隆彦『GHQが恐れた崎門学』②

 

第四章第一節「徳川賛美に隠された徳川批判」に書かれた一部については疑問に感じるところがある、と書いたのは以下の記述に関してである。

 

「…山陽が勤皇の志士たちのバイブルとなることを意図して『日本外史』を書いたかどうかです。これについて、山陽が討幕論を唱えていないからその意図はなかった、と断じるべきではありません。…討幕を明確に書かずとも、あるべき國體を示すことによって現状を批判することはできるはずです。山陽もまた、それを狙ったと考えていいでしょう」

      ※「…」の部分は文脈に影響を与えないと判断して省略しました。

 

山陽が「現状を批判」つまり「幕政批判」をこめて『日本外史』を書いたことは、当ホームページで繰り返し書いている。とともに山陽が「討幕」まで意図していなかったことも折に触れて書いてきた。

 

11月15日の「頼山陽の手紙を読む⑤」を読んでいただければおわかりのように、山陽は浅野重晟が亡くなったことを受け「引き籠り年礼受け申さず候 それ故何方へも無音仕り候」と記しており、考え方の一端がうかがえる。(参考=二代浅野光晟の正室徳川家康の孫娘の満姫)

 

さらにいえば、天保15年、幕府の親藩である川越藩は藩博喩堂版「校刻日本外史」を出版している。いわゆる「川越版日本外史」と呼ばれるもので、『日本外史』が広く読まれるきっかけになった。

 

『日本外史』は、佐幕派にも、後の討幕派と呼ばれる人々にも愛読された。ある意味、時代や立場や考え方の違いによって、いかようにも読みとれる稀有な本なのである。

 

 

平成28年9月 展転社刊
平成28年9月 展転社刊

2016・11・29 

坪内隆彦『GHQが恐れた崎門学

 

当ホームページに次のようなメールをいただいた。

はじめまして。頼山陽を研究している坪内隆彦と申します。この度、山陽の『日本外史』について『GHQが恐れた崎門学』を上梓いたしました。『日本外史』がいかに幕末の志士に強い影響を与え、明治維新の原動力になったかを描きました。ご参考まで。坪内隆彦拝」


そこで同書を取り寄せ、読んでみた。以下、感想を記す。

※同書には頼山陽の『日本外史』以外にも多くのページが割かれているが、浅学のためそれらについては知識がなく、「まえがき」「第四章『日本外史』(頼山陽)」「補論」についての感想であることをお断りしておきます。

 

第四章第二節「頼家三代と崎門の志」では頼春水、山陽、三樹三郎の頼家三代にとどまらず、山陽の祖父にあたる惟清にまで筆が及び「頼家四代」と崎門学との関わりが書かれている。

 

山崎闇斎といえば「垂加神道」という言葉が反射的に思い浮かび、恥ずかしながら「崎門学」という言葉は聞きなれないものであった。「垂加神道」が江戸時代、下鴨神社の荘園であった竹原に広まっていたことは、竹原の歴史を調べれば出てくる。

 

筆者は内田周平(という方)の言葉を引いて「山陽は朱子学の学問は取らなかった方であるけれども、その尊皇説は『暗々裏に一線の系脈を崎門から引いて居る』と説いています」と書く。可能性としてはある話だと思う。また春水と高山彦九郎との交遊(「春水日記」に出てくる)については、知らない話もあって「なるほど」と思わせるところがあった。

 

私も筆者と同じく、頼山陽の考え方というものが山陽一代でできたものとは考えていない。というか、人が成長する過程で身につける考え方は生育環境、とりわけ身近にいる父母の影響を受けると考えるので、その点では著者の指摘に共感する。

 

ただ、第四章第一節「徳川賛美に隠された徳川批判」に書かれた一部については疑問に感じるところがある。

 

                        続きます。

 

2016・10・1 石村良子代表「日中を結ぶ『日本外史』」

 

以下、石村良子代表からの報告です。

 

1993年、趙建民という方が当時、広島大学教授だった頼棋一先生の案内で頼山陽史跡資料館を見学し、「頼山陽の『日本外史』と中日史学交流」を寄贈した。その縁で、頼山陽 文化記念財団会長石松正二氏からの礼状とともに、『頼山陽全書』8冊を送られた。

 

また趙建民は1997年、「論『日本外史』的撰刻和在中 国的流傳」(『日本外史』の著述と中国での流布)(台湾『漢学研究』14巻2期、 1996年12月)というテーマに対し、日本の住友財団から「頼山陽史学思想研究」助成金を得て、その成果は「頼山陽的史学思想試論」として、 北京『日本学』(13輯、2006年3月)に掲載された。

 

さらに1998年5月、当時、広島県生涯学習協会の斎藤清三会長(吉備国際大学教授)が設けた特別講演会「中国人の見た日本の光と影」、頼山陽の故郷である広島竹原市でも頼山陽研究の講演を行い、『中国新聞』の取材を受けた。頼山陽の子孫、頼惟勤氏(お茶の水女子大学名誉教授)と病院で面会することができ、 『頼山陽』(日本の名著28、 中央公論社、1997年)と、頼成一(頼山陽五世孫)著『日本外史の精神と釈義』(旺文社、1944年) の2冊を恵贈された。

 

『日本外史』の中国での復刻と流布は、日本に伝わった儒学の「逆輸出」であり、中国人の日本理解を深め、中国儒学史観から西洋文明史観へと脱却する日本の一つの転換点を示している。

 

上海図書館蔵の張暁輝著『日本外史』。同書についてはこちらをご覧ください。

2016・9・30 

山根兼昭和さん

「上海図書館蔵『日本外史』」

 

上海図書館蔵書「日本外史」は、2015年北京大学出版社の新刊のようで、その目的は何かと思わざるを得ません。まさか「歴史認識」の参考資料とは思いたくない。

 それで、北京大学図書館を検索したところ、山陽に係る主な所蔵図書の一例下記の通りです。


*日本外史  1921、塚本哲三著

                  1938、頼 成一著

                  1981、頼 成一、惟勤著 など

*頼山陽詩集   頼 惟勤編

  頼山陽詩抄   頼 成一編

    ー々ー     中国詩歌研究所編 など多数、

中国では、日本の江戸時代の歴史書としては「日本外史」以外に無く、現在でも相当関心を持たれていると思いました。

 

2010年8月8日上演後ゲートタワーの前、前列左から二人目が小生。
2010年8月8日上演後ゲートタワーの前、前列左から二人目が小生。

私は、2010年の上海万博、アイチウイークの出し物、構成吟「悠久の旅」の一員として出演致しましたが、その時の中国人ガイドに漢詩のことを聞きました。

中国では、小学6年で、李白、杜甫など有名な作者の詩は覚えるそうです。、頼山陽詩集の蔵書がこれだけあるということは相当読まれているように思います。

 

 


安政の大獄、桜田門外の変、寺田屋騒動など、幕末維新に命を落とした志士たちの詩歌が収められている。頼山陽の息子の三樹の「かへり見る比叡の山かげ曇りけるわがゆくさきは白雲の空」の歌も掲載。

2016・7・30

陸軍省推薦

『維新志士 勤王詩歌評釋』

 

昭和13年5月 立命館出版部(京都)刊。翌年1月には早くも3版が発行されている。

「傷痍将士諸君 立命館贈呈」の朱印
「傷痍将士諸君 立命館贈呈」の朱印

 

あたかも「死」を美化したような編集が、この時代の狂気を物語る。

学徒出陣がはじまるのは昭和18年。

 

 

現代語訳今谷明著『神皇正統記』(新人物文庫)
現代語訳今谷明著『神皇正統記』(新人物文庫)

2016・7・15
北畠親房『神皇正統記』

 

頼山陽が『日本外史』で参考文献に掲げている一冊。

 

南朝方の公家であった親房が南朝の正統性を説くという政治的な意図のもと1339年(延元4)執筆された。内容はご都合主義で、整合性がないといわれる。

 


もっとも「南朝正統論」については、水戸光圀撰『大日本史』から『日本外史』へと引き継がれ、明治末には「南北朝正閏問題」として帝国議会でとりあげられるなど政治論争にまで発展した。

 

政治と結びついた歴史記述は「歴史書」といえない。そういうわけで今日、『日本外史』は歴史書として扱われないのである。

 

 

   見延典子
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