2014・12・30 忠臣蔵で思い出したこと

 

中津のオッサンの話にあった「忠臣蔵」で思い出した。

 

極めて私的な話である。

私の父方の祖母の祖先は、現在の山形県酒田市から北海道に移住した。

 

その祖母は生前「先祖は本間様に仕えていた」と話していた。本間様とは「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」とうたわれた、あの有名な酒田の地主の本間様である。

 

祖母の旧姓は「菅谷」という。

12月初め、札幌の実家に帰ったら、こんなカップがあった。

 

母によれば、祖母の祖先について別の話を聞いているという。

赤穂藩浅野家に仕え、討ち入りにも加わった「菅谷半之丞」なる人物が、祖母の祖先にあたるというのだ。

 

写真は、たまたま「菅谷半之丞」なる人物の名前が入っているカップを見つけて購入したものという。

 

「菅谷半之丞」をネットで調べてみると、吉良邸討ち入り後、切腹したことになっている。

 

二つの話を合わせると、「菅谷半之丞」の子孫がなんだかの縁で本間氏に仕え、それから北海道に渡ったということになるのが。

 

荒唐無稽であろうか。

 

 

2014・12・29 中津のオッサン「学生が忠臣蔵を知らない」


中津のオッサンのご意見です。


頼山陽「大日本史」の評価ことですが・・個人的ですが

幕末において尊王攘夷の思想書、

明治維新(革命)において国家神道に国民を導くための歴史書、

そして昭和20815日から焚書(軍国主義的書籍とてGHQ7,769点の指定リストをつくり、昭和21年、GHQが「宣伝用刊行物の没収」と題するタイプ打ちの覚書を日本政府に送っています。

アメリカ公文書記録管理局:番号 AG311.7(17 Mar 46) CI(SCAPIN 824)


この事は国民に秘密裏におこなわれています。

このリストに「日本外史」が含まれていたのではと思います。


 「日本外史」長編歴史小説として評価は、現代の日本史教育にも、少し問題があると思います。

小学生に、地元の歴史のお話会に講師として招かれても6年生から歴史の授業がなく(これは、やりにくいです)

地元の進学高の1年生に地方史の話をしたらほとんどの学生が「忠臣蔵」知らないのです。(ニガ笑いしかでません)

大学受験の選択では点の獲得の為に世界史を選択しています。


中津のオッサンへ

進学高校の1年生のほとんどが忠臣蔵を知らない…正直、あまり驚きません。悲しいけれど。

某新聞で、「日本外史を書いた人は誰?」という問題が、上級問題になるくらいですからね。

彼らはマックを食べ、スタバのコーヒーを飲みながら、9・11について語りあうんでしょうか。

敗戦後69年、アメリカの占領政策は成果を収めています。




2014・12・28 頼山陽再評価に向けて

 

それにしても何故かくも頼山陽はもちあげられたのであろうか。

 

頼山陽は尊皇家だったから、というのが答えになるのであろうか。

いや、山陽が尊皇家であることを否定するつもりはない。

 

山陽の父の春水は朱子学者だ。義理の叔父の尾藤二洲も朱子学者だ。

乱暴な言い方をすれば、朱子学を突き詰めていくと尊皇家になる。

 

だが山陽はこんなにもちあげられるほどの尊皇家であったのだろうか。


繰り返しになるかもしれないが、山陽の『日本外史』は山陽の生前、老中首座を務めた松平定信に献上され、定信はあまりの面白さに25日で読了。褒美として白銀3枚や自著を与えている。

 

定信も尊皇家ではあるけれど、れっきとしたご三卿の血をひく徳川氏のひとりだ。『日本外史』はここでお墨付きを得たから、川越藩では藩校の教科書にまでなったのだ。

 

そもそも御三家の水戸藩では、尊皇論をベースにした『大日本史』を編纂している。

 

以前、ホームページ上の「『日本外史』はこう読む」で次のように書いた。

 

私見では『日本外史』は4段階の読まれ方をしたと思う。

1、武士を奮い立たせた幕末前期

2、尊王論の牽引役となった幕末後期

3、政府の思想統制に利用された明治、大正、昭和20年8月15日まで

4、ほとんど見向きもされなくなった昭和20年8月15日以降

 

これは『日本外史』の影響という意味であり、前段階として松平定信の件は加えておくべきだったろう。→加筆予定

このあと、次のようにも書いた。

 

この中で、頼山陽が意識的に心がけたのは1と2である。

 だがこうふうには読めないだろうか。

 武士として次第に横暴になっていく平清盛の姿は、徳川家の将軍を暗示している、と。

 

定信は時の将軍徳川家斉と確執があり、家斉の治世を批判的に見ていた。考えてみれば、『日本外史』は最初から政争の道具にされていた。

 

話を戻そう。

 

振り返れば、『日本外史』は江戸時代後期、幕末、明治、大正、昭和(敗戦まで)読みつがれてきた。

 

江戸時代に読まれ、かつ明治時代にも読まれるということは、「尊皇」という思想をモチーフにしていることを考えれば、類稀なる書物とはいえないか。

 

明治維新によって時代は180度変わり、明治政府は幕府時代の政治犯であった吉田松陰や頼三樹など安政の大獄で処刑された者たちを名誉回復させた。

山陽も昭和6年「従三位」とされた。

 

しかし山陽は松陰や三樹とは違う。

いったい何の名誉回復というのか。

『日本外史』脱稿以来、山陽は一度として名誉を損ねたことなどない。

逆に政府が山陽にすり寄ったのではないか。

 

長くなってきた。

2014年の締めくくりとして、これだけは書いておこうと思って書き始めたが、おさまりそうもない。

 

結論だけ書こう。

というか、2014年、「頼山陽ネットワーク」ホームページを立ち上げた方向性だけはここに示しておきたい。

 

『日本外史』は世の中の移り変わりとともに読み継がれたきた。その多くは政治利用を伴うものであったが、時代に応じてでいろいろな読み方がされてきたともいえる。

 

これはある面、文学作品の特徴でもある。

 

であれば、『日本外史』を歴史長編小説として再評価することはできないだろうか。それにはまず頼山陽を本来の文人の姿に戻すことが先決であろう。

 

頼山陽は決して万能の人ではない。それどころはむしろ人生においていくつもの失敗をしている。むしろ失敗から世の中を見つめ、人生をかけて文筆にいそしんだ。

 

文人とは批評家でもあるのだ。

 

このような着眼点の正当性の検証、具体的な方法など、議論していく点は多い。

 

だがこの思いを胸に来年も「頼山陽ネットワーク」公式ホームを続けていこうと思っている。

 

頼山陽を物差しにすれば、日本の歴史が見えてくる。

 

 


2014・12・27 昭和6年の頼山陽

 

中津のオッサンが送ってくれた新聞記事は昭和6年(1931)のもの。

今日の朝ドラ「マッサン」で、マッサンがつくったウヰスキーが不景気で売れない場面が放映された。昭和4年という。

 

100年祭とは聞きなれないかもしれないが、神道の言い方で、没後100年という意味である。

 

『頼山陽全伝』にも次のようなことが書かれている。(『頼山陽全伝』を含む『頼山陽全書』もこの年から刊行された)

 

5月16日 宮内庁より祭し料100円を下賜

5月17日 桜井駅址において桜井楠公会主催、山陽100年祭

9月23日(命日)従三位の恩典

      大阪毎日新聞社主催大阪公会堂で100年記念講演会

9月25日 100年記念として日比谷公会堂で祭典、講演会

      (これが今回の新聞記事でとりあげられたもの)

10月8日 天皇陛下、鹽谷温博士より『日本外史』の御進講を聞食

10月16日 広島西練兵場で100年祭。総裁浅野長勲候以下参列

10月26日 恩賜京都博物館で遺墨展

       歌舞伎座で「頼山陽」開演中東伏見宮妃殿下台臨

 

これは一部である。

頼山陽がいかにもてはやされたかがわかる。

 

時の天皇、皇族、首相、大臣、新聞社、そして国民がここまで持ち上げた人物が、頼山陽のほかにいるであろうか。

 

よもやこの時、頼山陽がまったく顧みられなくなる日がくるとは想像もしなかったはずである。

 

だが逆にいえば、それ故、戦後、頼山陽はむずかしくも、扱いにくくなってしまった。

 

持ち上げるだけもちあげて、敗戦とともにドーンと落とされ、そのまま忘れられてしまった、それが頼山陽なのだ。

 

                  続きます

 

 

 

2014・12.26

中津のオッサン「頼山陽100年祭の新聞記事」


中津のオッサンから寄せられました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

近くの公民館で、勤王経国の講演がありました。

 興味があったので聞きに行きました。

 

主な内容は「耶馬溪図鑑」の説明でしたが、興味を引いたのが1931年(昭和6年)925日に日比谷公会堂で、主催、帝国教育会ほか数十の教育思想団体で頼山陽の「百年祭」開催されたことでした。。

 

若槻礼次郎首相ほか内務大臣、文部大臣の臨席のもと開催されていることを報道した読売新聞と朝日新聞のコピーを資料としていただきました。

 

朝日新聞の書き出しに頼山陽のことを「勤王経国の儒学者」と表現しています。

 

勤王経国という言葉は始めて聞く言葉ですが、説明によると勤王思想で国を経営することだと、講師は頼山陽も、日本外史も、勤王思想に基づく

ものとの評価しているようでした。

 

私なりの意見を言いたかったのですが、場所が場所でしたので、なにも言いませんでした。

 

しかし敗戦によりGHQが頼山陽先生と著作の抹殺を謀ろうとしたしたことがぼんやりながら、わかったような気がしてきました。

 

昭和6年9月23日の頼山陽の生誕100年祭を報じる読売新聞、朝日新聞の記事
昭和6年9月23日の頼山陽の生誕100年祭を報じる読売新聞、朝日新聞の記事

2014・12・25

五たび、松本健一著『明治天皇という人』

 

そういうわけで本文に戻ると、北一輝に次いで今度は福沢諭吉が出てくる。

 

福沢も大日本国憲法第一条に謳われた「万世一系ノ天皇」という血統主義には反対の立場だという。

 

ここで引用されるのが『日本外史』。

福沢は『日本外史』を持ち出している。

 

引用されているのは「北条氏」からの一節。

「北条氏を評して、万乗の尊を視ること孤豚のごとしといへり」

 

福沢は、頼山陽が「政権一度王室を去りてより、天子はただ虚位を擁するのみ」となどいうのはそのとおりとしても、国体が保たれたのは、血統ではなく、外国人に政権を奪われなかったからと考えたという。


だから頼山陽であっても北条時宗が元寇を追い払った功は認めないわけにはいかなかった、と。

 

確かに福沢が生きていた時代まで、外国人に政権を奪われたという歴史はないけれど。敗戦後、もし福沢が生きていたら、なんと思ったろう。GHQの検閲もそこにつながっていくのでは。

 

残念ながら、北一輝同様、福沢諭吉に関しても通り一遍のことしか知らないため、10ページあまりにわたって展開されている論旨を的確に伝えることは難しい。

 

わかるのは、明治の初めにおいても、『日本外史』は政治を語る上で不可欠の書になっていたということ。福沢も頼山陽に対抗意識もっていたらしいということ。



 

 

2014・12・23

四たび、松本健一著『明治天皇という人』

 

先に進む前に、ふと思ったことを書いておく。

 

前回、北一輝の「直球思想」、頼山陽の「変化球思想」と書いたことの補足である。

 

北一輝は当時(明治後期)の体制批判をした。

頼山陽も当時(江戸後期)の体制批判をした。

 

そう、二人とも実は「左」なのだ。

 

誤解を恐れずに書けば、北一輝が江戸後期に生きていれば、幕政批判をしたのではないか。同様に頼山陽も明治後期に生きていれば、政府批判をしたのではないか。

 

批判精神をもつ者は常に「現状」に目を向けるから。

 

ただ、両者に違いはある。

 

頼山陽は幕政批判をするのに、真正面からは挑まなかった。脱藩の廉で身の自由を奪われた経験のある山陽は、権力のこわさを知っていた。また周囲には山陽を教え、諭す父や叔父がいた。山陽を「変化球思想」と呼んだのはそういう意味だ。

 

文章の「あや」によって幕政批判をするというところこそ、文人の文人たるゆえんである。

 

一方、北一輝についてはこれに対応すべき知識を持ち合わせていないが、少なくとも思想を行動で表すということは山陽にはない点である。これが「直球思想」という意味だ。

 

北一輝に興味がわいてきた(笑)

 

 

2014・12・21

三たび、松本健一著『明治天皇という人』


中盤、北一輝が登場するあたりから、俄然、熱を帯びてくる。松本健一氏は北一輝研究の先駆者であるから、当然かもしれない。

 

以下は北一輝の思想を踏まえた上での、松本健一氏の考えであろうと思うが…

 

明治維新に公布された「五箇条のご誓文」が公布されたあたりまでは革命精神のもと、国民国家建設の理想に燃えていた。

 

ところが「主権は天皇に在り」とするがごとき大日本国帝国憲法によって方向性は変わってしまった。

 

さらに北一輝の言葉を引用し、「これは白痴的な信仰ではないだろうか」と書く。

 

北一輝に関して、通りいっぺんの知識しかないが、なるほど、これは極めて激しい体制(当時の)批判である。

 

もっとも歴史をふりかえれば、こういう考え方が出てくる背景はわからないではない。ここまで強い表現でなければ、歴史を学んだ現代人なら、漠然と抱いている思いだろう。

 

北一輝は二・二六事件の理論的指導者の内の一人とされ、軍法会議にかけられ、死刑判決を受けた。


実はこの後、本書では頼山陽の『日本外史』からの引用がある。

 

北一輝の「直球思想」の前に、頼山陽の「変化球思想」がどこまで通用するか、ともかく読みすすめることにしよう。

 

 



2014・12・19

引き続き、松本健一著『明治天皇という人』

 

明治天皇は元田永孚から『日本外史』の講義を受けていた。

 

『日本外史』が明治天皇と結びついては、「頼山陽を文人に戻そう」という試みの前途は多難に思えるが、松本氏はこんな切り口を用意してくれていた。

 

同書の369ページ

大日本帝国憲法の第一条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」を示した後で

 

「この『万世一系ノ天皇』という国体論こそ、伊藤博文=井上殻のいちばんの苦心のしどころであり、翻っていえば、のちに大きな問題を残す仮構(フィクション)であった」

 

とある。

 

頼山陽の『日本政記』を見てみよう。

 

万世一系の初代にあたる神武天皇は127歳まで生きたとある。

孝昭天皇は114歳、孝安天皇は137歳、孝霊天皇は128歳、孝元天皇は117歳、開化天皇は111歳、崇神天皇は120歳、垂仁天皇は139歳、景行天皇は143歳、成務天皇は107歳、応神天皇は11歳、仁徳天皇は101歳などと、第16代までの天皇の多くが百歳以上の長命だったと記されている。

 

そうなのだ。これがフクションでなくてなんであろう。

 

『日本外史」について、近年、歴史小説として見直そうという機運がある。

 

歴史小説を、歴史書として受け止めたところに、明治という国家の危うさがあったのではあるまいか。

 

 

2014・12・16

松本健一著『明治天皇という人』

 

今年11月、訃報が伝えられた松本健一の新刊文庫『明治天皇という人』にも頼山陽が出てくる。正確には頼山陽の『日本外史』が出てくる。

 

ドナルド・キーンの『明治天皇』にもこのあたりのことは書かれていて、とりたててどうということではないのだが。


 中央やや上『日本外史』の文字が見える
 中央やや上『日本外史』の文字が見える

明治4年、元田永孚が明治天皇の侍読のなったときから、『論語』と並び、『日本外史』を進講するようになった。

 

このことは西郷隆盛の宮中改革の一環として行われるようになったという。

 

薩摩藩では島津斉彬が頼山陽の著作を読んでおり、さらに天璋院篤姫にも与えたという経緯がある。

 

西郷がどのような思いで宮中改革とやらを行おうとしたのかは本書を読んでいただくとして、これまでの「頼山陽は甦るか」という流れに沿っていけば、過去のこうした「名誉」を仮に無に帰したとしても、頼山陽の残した文人としての足跡は揺るがないということになる。

 

このあたりで、深呼吸が必要だ。

 

本書には今ではすっかり忘れられた「南北正閏問題」も『日本外史』と絡めて書かれている。これも紹介しなければならない。

 

 2014・12・13 匿名さんからご意見が寄せられました。

 

匿名さん

 

イギリスの歴史学者アーノルド・トインビーの言葉に、「ヨーロッパ文明の父はギリシャ文明であり、母はユダヤ文明である」というのがあります。


これを頼山陽に置き換えますと、尊王思想を大義名分とする歴史観を父に、儒教の朱子学を母にして、武士の興亡史を描いたのが 『日本外史』 だとわたくしは理解しています。


尊王思想は水戸藩の 「大日本史」 でも根底に流れている思想であり、山陽は尊王思想を大義名分を前面に押し出すことによって、何時の時代の真面目な歴史家がそうであるように、当時の幕政に一石を投じようとしたのだと思います。


したがって、見延さんも論じられているように、幕府批判の書ではあっても、決して討幕が本意ではなかった、と思います。


 討幕書にでっち上げたのは、幕末維新の勤王の志士たちであり、皇国史観をあおり国家神道を浸透させようとした、その後の軍部をふくむ大日本帝国の政治指導者たちであったと思います。


頼山陽を再評価するためには、見延さんのご意見のように、生の山陽を見直すことであり、化政期を代表する文人として捉え直すことだと、わたくしも考えております。


 「Yさんとの公開討論」の今後の展開を楽しみにしています。


 見延典子からのご返事

頼山陽の思想形成に朱子学者であった父・春水の与えた影響ははかりしれません。朱子学はイデオロギーの強い学問として、現在はほとんど評価されていないようですが、春水、山陽が生きた時代は老中首座松平定信の寛政異学の禁によって昌平黌は朱子学に統一されました。

春水は一代で鳴らした朱子学者であり、朱子学によって世の中をただしたいと考えていましたが、春水の生き方には討幕の片鱗もありません。ここに山陽の名分論を考えるヒントがあります。

一般に名分論は尊王論に結びついて考えられますが、山陽が生きた時代は天皇の存在はほとんど忘れられていました。忘れられたものに光をあてる、これこそ文人頼山陽らしい着眼点です。

司馬遷の『史記』に影響を受け、日本の歴史書を書きたいと願った山陽は天皇家の歴史に、中国の歴史にはない日本独自の歴史を見て、そこに本質を感じたのではないでしょうか。

同じく司馬遷の『史記』に影響を受けて作家になった人物に司馬遼太郎がいます。彼は広範な知識と、歴史の編集方法を身につけた、小説家として類まれな才能の持ち主と思います。

しかし『坂の上の雲』の放映以後、『坂の上の雲』のみならず、司馬遼太郎についてまで批判する本が目につくようになりました。

本人の意思にかかわらず、小説家は小説家、文人は文人としての枠を超え始めたとき、もっといえばそこに権力、権威というものがとりつきはじめると、ややもすれば、出発点からずいぶん遠いところに行ってしまうという意味で、この二人は似ていると思います。

山陽を文人という原点に返すとはそこから生まれた考えです。

山陽没後、山陽にとりついている国粋的な評価をとりのぞき、一介の文人にもどしたところで、山陽が化政期を代表する文人であることに変わりはありません。そこが山陽の魅力でもあります。

見延典子

 

2014・12・13

Yさんとの公開討論は続いています。

 

Yさんからのご意見

 

12月4日から11日までの「公開討論」をプリントアウトして読んでみますと、私の主張がやや支離滅裂で、ネットワークの会員が読んでいただいてご理解いただけたかなと思います。


1、問題提起・戦後七十年を迎えますが、頼山陽の知名度が非常に低い、その原因は。


2、教育現場で天皇制を意識させない-これこそがGHQが行った最大の占領政策。


3、「日本外史」を書いた山陽の目的はー人民の立場を考え疾苦を取り除き幸福を高めようとする悲願。


4、山陽のこの思いが、戦時中の皮相な解釈によって斥けられた。ーこの考え方を、生身の頼山陽に戻さない限り、真の意味での頼山陽を甦らす事は出来ない。


 以上少し整理できたと思います。 

見延典子からのご返事

Yさんがまとめられた4項目のうちの3について…

頼山陽自身が書いた「日本外史例言」=「日本外史」の内容を例をあげて示したもの=には「正記、前後記と署する者は、以て名分の混すべからざるを示すなり」という一文があります。

つまり「正記とか前記とか後記と標記したのは天子の命により将軍となった者と、そうでない者との名分分際を混同してはならないことを示したのである」という意味です。

これが「大義名分論」=臣民として守るべき節義と分限=尊王論と結びつけられるのだと思いますが、山陽は同時に「我が徳川氏」という言葉を繰り返しています。

なぜ「我が徳川氏」という記述は顧みられず、天皇の絶対視と結びつけようとする「大義名分論」ばかり注目されるのでしょうか。

もちろん例言にあるように、内容も「大義名分」に基づいて書かれていることを否定するのは難しいでしょう。

ただ、山陽の父の春水、叔父の 杏坪、子の聿庵は広島藩士(藩儒)です。このことだけでも山陽が幕藩体制の瓦解など望んでいないことは明らかです。

頼家をややこしくしているのは山陽の3男の頼三樹ではないかと思います。彼は安政の大獄で刑死しました。死刑8人のうちの一人は吉田松陰です(松陰と三樹の罪状は異なります)。

松陰の門下生が師の汚名を晴らすための戦いが倒幕のための戦い…、とまではいいませんが、少なからず影響はしているとは思います。ここに三樹の汚名を晴らしたい頼家も結びついていきます(と思います)。

東京世田谷の吉田松陰神社に三樹の墓があるのも、このような背景抜きには語れません(詳しくは拙著『敗れざる幕末』をお読みください)

いささか長くなりました。

今回、申し上げたいのは「我が徳川氏」と書いた山陽に真意についてです。「刃向うつもりはないが、一言申し上げます」というニュアンスをつきつめれば、幕政批判につながるのではないかと思います。

山陽は批評はするけれど、革命家ではありません。それまでの日本の歴史を振り返れば、いつか徳川家は倒れるだろう、それは人民の暮らしを顧みなくなったときであると、徳川家斉の大御所政治への批判を試みたのではないでしょうか。

そこに多くの人々は共感し、山陽の想像を越えた「歴史」が生まれたのではないでしょうか。

但し、この考えが正しいか、山陽の残した著作を読み込み、判断する必要はあります。もう少し、時間をいただければと思います。

見延典子


2014・12・11 引き続きYさんとの公開討論

 

Yさんからのご意見

 

「論賛」に書かれた山陽の思想は、江戸幕府のきびしい検閲を意識したようで、「紙背を読め」と言う事である。


この限りでは所謂「山陽の右翼思想」なるものは「日本外史」を直接読めない私にとっては汲み取る余地はないわけですが、明治以降時代がそうさせたと考えるのが妥当と思います。


結論・頼山陽が世の中を良くしたいと言う純粋な思いと、53年間で成し遂げた偉大な文化遺産をもっと知り評価すべきと思います。


戦後七十年を期に、教育の場で頼山陽はじめもっと多くの文人、偉人を取り上げて欲しいと思います。


見延典子からのご返事
 
結論以下についてはまったく同感でございます。
 
頼山陽は江戸後期、文化文政期を代表する文人として、大きな足跡を残しました。この時代、日本の文化がいかに充実していたかは、頼山陽、並びにその周辺を調べればわかります。(もちろんこの時代の芸術、文化を支えた人は他にもいます)
 
問題は頼山陽についてまわる政治性でしょう。
 
「山陽の右翼思想」とありますが、頼山陽が生きた当時、頼山陽の考え方は「左翼」だったんですよ。
 
そうやって考えれば、「右」「左」なんて時代によっていかようにも変化するものであることがわかります。
 
肝心なのは、頼山陽が歴史の本質をとらえていた、ということです。少なくとも私にはそのように思われるのです。
 
現代、教育現場でも、マスコミでも、天皇制について教えられたり、報道されたりすることはほとんどありません。これまでの流れからいうと、これこそがGHQの行った最大の占領政策ということになるでしょう。
 
日本の歴史は(古代史あたりから、特に中世以降)天皇制(もしくは天皇)抜きには語れません。
 
菅茶山は頼山陽の編集能力を高く評価して、自分の詩集の編纂を頼山陽に委ねました。その編集能力の高さが最も表れているのが『日本外史』ではなかったかと私は思います。
 
実のところ、私は『日本外史』が長くいわれているように「大義名分」を明らかにする目的で書かれたのか、疑問に思っています。そうかもしれないけれど、そうでないかもしれない。
 
漢文は言葉の省略が多く、ややもすると訳者の感情や思想が入り込むことがあります。
 
なるだけ雑念をもたないように、日々「『日本外史』を読んでみよう」に向かっています。その上で、もし従来いわれているような頼山陽像が出てきたならそれはそれ、素直に受け止めます。もしこれまでと違う頼山陽像が出てきたなら、これも皆様にお伝えしようと思っています。
 
頼山陽を理解するには何より、頼山陽の著作を始め、頼山陽が残したものにあたるのが一番です。
 
これは今回、繰り返し書いていることです。
 
見延典子
 

 

2014・12・10頼山陽の評価について、Yさんとの公開討論です。

 

以下、Yさんからのご意見を載せます。

 

頼山陽の原点を考えますと、第1は「脱藩事件」であったと思います。
以前H先生からは「突発的な行動」と返事をいただきましたが、頼家も妻子も捨てた行為は歴史書を書くという執念が齎した計画的な行動であったと考えたい。
第2は「日本外史」。十代から朱子学を学び、武家政治から天皇制への変革の必要性を日本外史の記述の中で巧みに表現した。
第3は、揮毫は生活の手段であり、「日本外史」を書くことを生涯の仕事とした。
 
山陽が生きた53年間は、将軍が徳川家斉一人であり長期政権による武家政治の悪い面を、山陽が成長していく過程において実感し、「日本外史の論賛」として表現したと思う。
そう考えると王政復古を意識した尊王思想が山陽の心の中にあったのか。
「日本外史」が完成した文政9年頃は、西郷隆盛や岩倉具視が生まれた頃であり、まだ維新の気配も無かった時代と考えると、山陽の世直し論と理解した方が妥当であろうか。
 
見延典子からのご返事
 
「頼山陽を甦らせたい」という方向性では同じですが、頼山陽のとらえ方にYさんとの違いを感じます。
 
頼山陽といえば、殊更「王政復古」とか「尊王思想」と結びつけようとするのは、倒幕を果たした新政府辺りから出た考え方で、頼山陽は彼らが天皇中心国家をつくるのに利用された、というのが私の基本的な考え方です。
 
大日本帝国時代の頼山陽に対するとらえ方を、生身の頼山陽に戻さない限り、真の意味で頼山陽を甦らせることにはならないと思います。
 
繰り返しになりますが、前回書いた「頼山陽は、所詮、文人にすぎない」というのはそういう意味です。
 
頼山陽は文化文政期を代表する文人、芸術家として、もっともっと評価されるべきでしょう。
 
見延典子
 

 

2014・12・5 Yさんから再びご意見をいただきました。

 

頼山陽が顧みられなくなった背景については、日本の歴史、文化、教育などを象徴しているものとして、われわれ世代が一度振り返っておくべき問題ではないかと思いますので、公開で討論を進めていきたいと考えます。

以下、Yさんから寄せられたご意見です。

 

大変貴重なご意見をいただき有り難うございました。


私は限られた条件ですが、リサーチをし、30年ほど前に比べ、頼山陽の知名度が非常に少ないことに驚きました。


原因は何か。高校の教育だと思います。戦後世代は「頼山陽」を殆ど教えられていないのであります。


「明治維新の仕掛人」の是非は皆さんに判断していただいております。

確かに山陽の研究家で明治維新に言及されている方は殆ど居ないと思います。


しかし山陽没後明治維新まで36年、「日本外史」が発行されて約20年、維新の10傑はじめ、この頃20代の志士たちは「日本外史」の影響を強烈に受けていると思います。藩の中には「勤王」か「佐幕」かの踏み絵に使われたとの記載もあります。
 
私も頼山陽五十三年間の生き様を素直に多くの人々に知って欲しい、江戸時代にこんな凄い人がいた事は日本人の誇りだと思います。
 
数日前の新聞に、文部省が「16年度より歴史、古典を選択から必修に変更したい」という記事がありました。
 
戦後70周年の節目の年に頼山陽が再び復活することを祈念するものであります。  
 
見延典子からのお返事
 
Yさん、ありがとうございます。
 
ただ、「山陽の研究家で明治維新に言及している方は殆ど居ない」という記述は違うと思います。むしろ「明治維新に言及している研究者のほうが多い」と思います。山陽を革命家のようにとらえる考え方です。
 
そういう意味で、山陽を甦らせるといっても、甦らせ方によってはますます曲解させかねません
 
「所詮、文人でしかない」というのが、今のところ私が頼山陽について辿りついた思いです。(今後変わっていくかもしれないけれど)
 
一見、否定的な見方のように受け取られるかもしれませんが、「文人としての頼山陽」が残した書物、詩、軸類に立ち返ること、それこそが山陽を甦らせることになるのではないかと思うのです。
 
いかがでしょうか?
 
見延典子
 
 
 

2014・12・4

冊子『戦後70年 蘇れ 頼山陽』

 

Yさんから冊子『戦後70年 蘇れ 頼山陽』をいただいた。

 

実名で書いてもよいと思うが、とりあえずYさんとしておく。

 

以下、前書き部分を掲げる。

前回、江藤淳著『閉ざされた言語空間』を教えてくださったのが、Yさんであった。

 

Yさんは安藤英男著『頼山陽の生涯と詩』西尾幹二著『焚書図書開封』

を参考文献としつつ、正味6枚のこの冊子をつくられた。

 

すべての内容を掲載することはできないが、趣旨はタイトルと前書きに集約されているといってよい。

 

頼山陽が読まれなくなった背景に、GHQの占領政策が関わっていたという話は、考えたことすらなかった。

私はYさんの訴えようとされていることに基本的に賛成である。

 

その上で、二、三について、立場を異にしている。

 

まずYさんは山陽を「王政維新の預言者であり、鼓動者」と書かれているが、山陽に倒幕の思いなどなかったことは研究者も指摘している。

 

またYさんは「頼山陽にとって、大義名分や忠臣愛国の思想はもとより強烈」と書かれているが、このあたりもやや疑問を抱く。

私が山陽に「強烈」に感じるのは、自分の意志のままに生きたいという衝動であり、大義名分はあとからついてきたもののように思える。

 

しかしなんといってもYさんと決定的に違うのは、明治維新のとらえ方でだろう。私はYさんほど明治維新を前向きにとらえる気持ちにはなれない。

 

なぜだろう。誤解を怖れずに書けば、明治政府の要人に、国家的な展望を感じないのだ。このへんの細かいことは、いずれ小説に書きたいと思っている。

 

頼山陽の『日本外史』は幕末、川越藩の藩校の教科書になるなど武士教育に利用された。明治に入り、『日本外史』のみならず『日本政記』は天皇制強化に利用された。そして昭和20年の敗戦に伴い、こんどは政治的に抹殺されようとした。

 

こうして考えると、頼山陽が頼山陽らしく輝いていたのはまさに頼山陽が生きていたときだけのようにも思える。

 

蘇ってほしいものとは「文人」だった頃の頼山陽。これが私の願いである。


   版を重ね、2010年で8刷
   版を重ね、2010年で8刷

2014・9・26

江藤淳著『閉ざされた言語空間』

 占領軍の検閲と戦後日本

    (1994年 文春文庫

     単行本は1989年刊)

 

頼山陽を調べている方から、この本を教えてもらった。

 

最近、読んだ本の中では最もショッキングな一冊であった、

 

といっても頼山陽は、本文中には出てこない。

 

ただ、将来的に話が発展しそうな予感を感じさせる本なので、紹介したい。

 

内容は二部からなる。

 

第一部 アメリカは日本での検閲をいかに準備していたか

第二部 アメリカは日本での検閲をいかに実行したか

 

戦後、アメリカが日本の新聞を含む出版物、映画、郵便物に対して検閲を行っていた事実を多くの日本人は知らない。

 

CCD(米軍民間検閲支隊)が行った「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」とは、日本語に訳すと「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝活動」というそうだ。

 

この本で初めて知ったが、日本が戦った「大東亜戦争」を「太平洋戦争」置き換えさせたのはこのプログラムによるという。

 

最も印象に残った文章を引用しよう。

 

・・・そこにはまず、「日本の軍国主義者」と「国民」とを対立させようとする意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と国民のあいだの戦いにする替えようとする底意が秘められている。

 

検閲図書は7000冊に及び、冒頭の方の話では頼山陽の著作も含まれていたという。

 

時間はかかるかもしれないが、確認できたならご報告したい。戦後、頼山陽が消えた理由の一端が明らかになるかもしれないからだ。

 

余談ながら、朝日新聞もCCDの検閲を受けていたことも書かれていて、「従軍慰安婦報道」の萌芽はこのあたりにあるのかもしれないと思った。

 

   見延典子
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