2014・7・30

〇シンポジウム玉堂2013『玉堂片影』


浦上玉堂は備前岡山藩の支藩鴨方藩士から南画家になった。脱藩し、全国を放浪。晩年は京で過ごした。七絃琴が得意であった。

 

紹介の本は平成25年(2013)秋に行われた浦上玉堂親子作品展示とシンポジウム「浦上玉堂」(大原美術館)の二つの催しをまとめたもので、2014年6月1日、浦上家史編纂委員会の発行。DVD付。

浦上玉堂は頼山陽の父の春水と交流があった。

 

その縁もあって、玉堂の息子で、絵師の春琴と山陽は京において長く親交を結ぶ。

 

同書に収められている春琴の筆による「平安第一楼会集図」では左から山陽、玉堂、一人おいて春水といわれる。

 

その他の人々は誰を描いたのか。興味深い絵である。


2014・7・31

〇中里介山著『大菩薩峠』


中里介山の『大菩薩峠』といえば、大正2年(1913)から昭和16年(1941)まで各種新聞で書き継がれ、未完のままで終わった世界最長の大河小説として知られるが、ここでも頼山陽が登場する。

 

正確には「山陽のつくった詩」として一首が紹介されている(写真右)。

 

知らない詩だったので、ひょっとして介山の創作かと思ったが、正真正銘、頼山陽の作であった。

                     

2014・8・1

〇『大菩薩峠』に引用された頼山陽の漢詩

 

頼山陽ネットワーク事務局の進藤多万氏に教えを乞うたところ、「上野黒門是れ寛永中渡邊氏の仇を復せし處なり」という漢詩であることがわかった。。

文政12年(1829)山陽50歳の作。

 

伊賀城頭西の閭門

讎を復せし跡有り血痕恍たり

仇人馬に騎り魚貫して過ぎ

刀を挺()きて一呼渠が魂を褫(うば)           

姊夫慷慨し傔從(けんじゆう)の義

脊令原に寒くして(とも)に冤を雪ぐ

一水西に渡れば是れ嶹原(しまばら)

當時投宿す館猶ほ存す

吾れ來りて燈を挑げ往昔を思ひ

想見す刃を淬(にら)いで暁暾を候ちしを

嗟哉士風猶ほ薄夫をして敦からしむ

寛永の俗今誰れか論ぜん

  

訳文は次回…

 

2014・8・2

〇『大菩薩峠』に引用された頼山陽の漢詩(訳文)

訳文も中国文学専攻の進藤多万氏に教えていただいた。

 

上野黒門これは寛永中に渡邊氏が仇を復した處である

伊賀城頭西の閭門

讎を返した跡が有り血痕がぼんやりとある

仇は馬に騎り多勢で通り過ぎたが

刀を抜いて一呼するや彼の魂を奪った

姉の夫も慷慨し付き添って義をはたし

脊令原に寒くして兄弟にともに怨みをはらした

一本の水を西に渡ればここは島原

當時泊まった宿屋がまだある

私は来たって灯りを挑げてむかしを思い

想い見た刃に焼きを入れて夜明けを待ったことを

ああもののふの風は薄夫をして敦からしめるものだ

寛永の習俗を今の世に誰れが論じるだろうか

 

 

上野門は伊賀上野にある。

 

渡邊氏とは渡邊数馬のことで、父・靱負の敵討ちを、伊賀上野城外、鍵屋の辻で果たしたという。

 

訳文を踏まえて、漢詩が出てくる前後の『大菩薩峠』を読んでみると、まず漢詩があって、後でストーリーができたようにも思える。

 

頼山陽がすごいのか。

中里介山がすごいのか。

おそらく二人ともすごいのである。

 

 2014・7・23

 〇吉川英治著『梅颸の杖』


『梅颸の杖』は国民的作家といわれた吉川英治が昭和5年(1930)38歳の時、「オール読物」(文藝春秋)に発表した作品。

 

頼山陽は広島から京に帰る途中、大坂の天満で下船しようとしたところで、母梅颸から授けられた杖を紛失していることに気づく。そこで与力の大塩中斎(平八郎)に捜索を頼むと、たちどころに見つけてくれたという短編は、菅茶山の杖を紛失したという実話に基づく創作。

 

主人公は頼山陽。梅颸の和歌「思うことなくて見ましやとばかりに後の今宵ぞ月に泣きぬる」も引用されて、吉川英治が山陽周辺の話に通じていたことが伺える。

 

この作品は吉川英治の作品の中でも佳品として知られ、その後短編集にも収録されている。

 

2014・7・15

〇山根兼昭が送ってくださった資料


7月5日「イベント メディア」でご紹介した山根兼昭氏(愛知県在住)が3冊の冊子、資料などを送ってくださった。

 

2012年の吟詠大会で、頼梅颸の生誕250年を祝い、「構成吟」で頼山陽の母の梅颸をとりあげて以来、頼山陽周辺を調べ、現在は市民大学の講座をもっていらっしゃるそうだ。

 

「構成吟」でとりあげられた梅颸の和歌を紹介しよう(写真上)

 

  あらし山花になれたる鶯の声のにほいは世に似ざるなり

 

文政2年(1819)山陽の誘いに応じて、初めての京の旅に出た際、嵐山で詠んだ和歌。梅颸60歳。

 

詩吟を詠じる方で、頼山陽を知らないという方はまずいないだろう。ただ、梅颸をとりあげるというのはあまり例がないのではないか。

 

2014・7・9

〇頼静子著『頼梅颸歌文鈔』 

頼山陽の母、静子(号は梅颸=ばいし)がのこした和歌と文章を、没後100年を記念し、子孫が一冊にまとめたもの。

 

昭和16年 婦女界社刊。

 

文才とは遺伝するのか。

 

その答えを求めて、静子の和歌の一部を紹介しよう。

 

2014・7・10

 

頼山陽の母の梅颸が和歌を詠みはじめたのは、数え年20歳で頼春水と結婚してからだ。

 

数え年84歳で亡くなるまでに詠んだ和歌は数千首にも及ぶという。

 

また日記は26歳から84歳まで59年間つけ、多数の書簡、京を旅した4編の紀行文も残している。

 

時代が違えば、女流歌人あるいは作家として名をなしていたかもしれない。

 

26歳で詠んだ和歌

思ふことなき折たにもけふよりは秋の心のかなしきものを

 

84歳で詠んだ和歌

はかなくてけふも暮れけり明日しらぬみひろの山の入相のかね

 

梅颸の和歌は若い頃よりも50代、50代より60代、60代より70代、70代より80代とずんずんよくなっている。

 

そこが素晴らしい!

 

文才とは天分の上の努力によって実る、ということか。

 

山陽はそんな母の背を見て成育し、長じては梅颸が歌の世界を広げていけるように旅に誘い、和歌の師を紹介した。

 

山陽は文才を開花させるために、何が必要かを知っていたのだろう。

 

母が子に教え、子が母に返す。

 

文才について書くつもりであったが、山陽母子の情愛の話になってしまった……。

 

 

2014・7・8

〇夏目漱石著『草枕』に描かれた頼山陽


主人公の画家の前で繰り広げられる老人と和尚との会話。

 

和尚は頼一族の書では、杏坪(叔父)、春水(父)、山陽の順に評価している。

 

和尚「山陽がいちばんまずいようだ。どうも才子肌で俗気があって、いっこう面白うない」

 

老人「ハゝゝゝ。和尚さんは、山陽が嫌いだから、今日は山陽の幅を懸け替えておいた」

 

この後、主人公の画家も「山陽は俗な男だと思ったので」、山陽が愛蔵したという春水の替え蓋つきの「端渓でクヨク(原文漢字)眼が九つついた硯」を酷評する……。

 

『草枕』は熊本県玉名市小天温泉が舞台。熊本は頼山陽ファンが多いので、漱石は熊本に赴任中、実際こんな硯を見たのかもしれない。

 

発表されたのは明治39年。日露戦争直後で、頼山陽は大いにもてはやされていたであろうが、漱石は迎合せず、山陽を文人として冷ややかに評価している。

 

漱石は漢詩も詠む。文筆家として、前時代の権威を否定するのは当然であろう。

 

和尚(仏教)を登場させたのは、神道への批判をこめたのか。

 

漱石はやがて「則天去私」を掲げる。

 

そんな生き方も、欲望を肯定した「俗人山陽」を意識したとすれば、山陽が漱石に与えた影響はとんでもなく大きかったといえるのではないか。

 

 

2014・7・2

〇宮尾登美子著『天璋院篤姫』

 

NHK大河ドラマ「篤姫」で思い出した。

 

原作になった宮尾登美子著『天璋院篤姫』には、文庫版でいうと上巻に頼山陽の『日本外史』の記述が散見する。

 

しかも漢詩まで出てくる。

 

2014・7・4


篤姫は養父の島津斉彬から頼山陽の『日本外史』22巻を贈られて感激し、山陽も行った江戸に、自分も行けたらどれほど嬉しいかと目を輝かせる。上記以外にも記述多数。

 

 

篤姫が終生、心の支えとしたとされる頼山陽の漢詩(五言古詩)

 

十有三春秋 逝く者はすでに水のごとし

  十四歳(満十三歳)になって思う 歳月は水のように過ぎ去る

 

天地始終なく 人生生死あり

  天地に終わりはなく 人生には生死がある

 

いずくんぞ古人に類して、千載青史に列するを得ん

  ならば偉人にならい 自分も歴史に名をとどめたい

 

自分の将来を高らかに宣言した山陽。

だが満13歳でこの漢詩を詠んだわけではない。

推敲を繰り返し、時間をかけて完成したようだ。

タイトルも「述懐」とつけられている。

 

小説のように篤姫がこの漢詩を終生、心の支えとしたかは不明であるが、漢籍を好み、養父島津斉彬から『日本外史』『日本楽府』など山陽の著作を贈られているのは事実である。

宮尾登美子は多くの資料を読みこなす作家として知られる。

『篤姫』も、この時代の山陽の著作の流行を忠実に著しているといえるだろう。

 

私見では、島津斉彬に山陽の著作を手配したのは、頼山陽の弟子にして、老中首座阿部正弘に仕えた関藤藤陰ではなかったかと推察する。

 

2014・6・25

〇柴田錬三郎、司馬遼太郎は頼山陽をどのように評価したのか?

  週刊文春2008年6月8日号 宮城谷昌光氏と宮部みゆき氏の対談記事
  週刊文春2008年6月8日号 宮城谷昌光氏と宮部みゆき氏の対談記事

 

 その答えの一端が、6年前の週刊誌の記事からうかがえる。

 

2008年度のNHK大河ドラマ「篤姫」の文字が見える。

 

お読みください。

 

 

柴田錬三郎「あんなくだらん学者はいない」

司馬遼太郎「あの人はいけません」

 

笑いたくなるくらい辛辣な言葉だ。

 

あえて反論はしない。

 

私事になるが、2008年5月30日、拙著『頼山陽』の新田次郎文学賞授賞式があった。

 

選考委員のお一人が宮城谷昌光氏だった。

 

賞をいただけたのが不思議である。

 

 

 

2014・6・17

大濱徹也著『日本人と戦争』刀水出版 2002年刊行

 

幕末、明治についての本を読んでいると、「頼山陽」が出てくることが少なくない。

 

本書もその一冊。

 

幕末、明治と、頼山陽は「神様」になりかけた。

 

一転、敗戦後は見向きもされなくなった。

 

P.14に次のような記述がある。

 

「思うに頼山陽は、『日本外史』において、天皇至尊主ノ主義」をことあげした物語をつくり、日本という観念を世に問いました。」

 

近年、『日本外史』は歴史小説としてとらえ直されているといったら、幕末、明治の人々はなんと思うだろうか。

 

表紙にある比治山陸軍墓地(広島市)は日本の、いや、広島のマスコミさえ、ほとんどとりあげることのない場所。

 

 

 

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