旅猿ツアー「姫路、高砂」。記載がない場合は見延典子が書いています。

申義堂。文化年間に創立された学問所。姫路藩家老河合寸翁の命を受け、高砂町大年寄岸本吉兵衛が土地・建物を提供、運営。中国の古典を教材に、高砂町の子らが地元の学者に教わった。廃藩置県で廃校。建物は加古川市へ移築されていたが、平成23年に高砂市へ復元された

2024・9・24

旅猿ツアー「姫路、高砂」

9月25日、26日催行

 

 旅猿ツアー「姫路、高砂」にご参加の皆々様、いよいよ催行が明日に迫りました。ご準備は整いましたでしょうか。幸い、天気予報(24日現在)では姫路、高砂周辺は概ね晴れの予報が出ております。

 また姫路の赤松昇さん、高砂のボランテイアガイドの皆様、これまでのご準備、資料提供などありがとうございました。明日、明後日、それぞれよろしくお願い申し上げます。

 


2024・9・21 

石村良子相談役「頼山陽から菅野真斎への手紙~春水の喪中」

 

春水の喪中  

文化13年8月1日(賴山陽37歳から菅野眞斎44歳へ手紙)

 

夏頃金山伝に、貴書下され、其の節は(春水)喪中、四方音信不通、御無沙汰仕り候。この節も心喪、精進潔居は依然に候へ共、表向き忌明けのように相なり、髪、月代等仕り、外出仕り候故、応接(しゅう)答を始め申し候。

誠に今年は如何なる悪きまわりに遭逢仕り候や、此の(じゃ)毒に罹り、今において恍惚、心身

(かく)敗、病痾(やまい)も別して発動難儀仕り候、御察し下さるべく候。

貴書にはこの後家業に出精、亡霊を慰め候様、相心がけ候段、御(こく)下され、御懇志忝く存じ奉り候。

私も遺言の趣、是迄親戚に資送を煩わせず、一家となり居り候段、安心いたし候間、此の上ながら出精なる業候へとの事、叔父共へ申し上候由、心肝に銘じ、別して勉(せん)仕り居り候。

貴君など、先人來生以来の交誼、遥かに声援なし下され候様頼み奉り候。

文章御下問の旨、承知仕り候。近来は糊口におわれ、何も出来申さず候、旧学は却って荒蕪(こうぶ)の方に候。

金山迄は路も遠く候。貴郷より加古川三介まで御出し下され候。私方よりも中谷へ向けて遣り候もよろしきヤ。金山は出京以来、甚だ疎遠の義御座候。猶後便の時を期し奉り候。萬々申し述べ奉り候。頓首

   閏八月朔 

                        襄

  士綏老兄

 

*賴山陽書翰集上巻より

 木崎愛吉の前書には姫路の菅野武助(眞斎)は、春水の旧門人、山陽幼児の同窓で、七歳の兄だ。享和三年,34歳、豊州の為に作った「佩書序」に「余13歳。始同邦人石井生(豊州)と交わり、、、、、時播磨人菅野生亦来る」とあり、山陽13歳の寛政4年に、彼は春水の塾に遊学中であった。としている  (春水日記には記載なし  石村)

 

2024・9・12 石村良子相談役 

『春水日記』番外篇(姫路旅猿ツアー予習)

 

寛政12年(1800)  菅野眞斎へ借金10両(約70万円)

賴家に残された資料集「山陽脱藩始末、金子出の覚」に久太郎(賴山陽)脱藩、探索の旅に出た石井豊洲、手嶋伊助が、急場の費用十両を鹽屋仲右衛門(高砂菅野眞斎)に立て替えてもらった記録がある。借りる方も貸す方も中々の金額だ。此の資料には帰宅後の圍仕立て代金は貳百五拾五匁貳分一りとなっている


仁寿山学問所の土塀跡 ネットより
仁寿山学問所の土塀跡 ネットより

 頼山陽が訪ねたころを想像しつつ、周辺を散策する予定であったが、虫、マムシ、スズメバチ、イノシシの対策をしなければ難しいことがわかり、残念ではあるが、山道には分け入らず、ジャンボタクシーで行けるところまでいくことに。

「仁寿山学問所って何?」といいそうな

 兵庫県知事(今のところ)

2024・9・10

仁寿山学問所跡

 

「姫路高砂ツアー」の最初の訪問地「仁寿山学問所跡」について姫路市在住の赤松昇さんから、現地を歩く際の注意事項を教えていただく。

仁寿山学問所を作った河合寸翁
仁寿山学問所を作った河合寸翁

 姫路市では、仁寿山学問所などすっかり忘れた存在で、整備はほとんど行なわれていないらしい。今、世間を騒がせている兵庫県知事が、多少なりとも歴史認識をもちあわせていれば、仁寿山学問所跡地の整備を行ない、歴史愛好家から高評価を得ていたであろうに。残念である。


 下は赤松昇さんが復刻作成した「仁寿山校朱子白鹿洞書院掲示」

 「自分がそうして欲しくないことは、人にしてはならない」とある。

2024・9・9

石村良子相談役

「久太郎(山陽)の婚礼(昏礼)菅野眞斎と福井新九郎との出会い

 寛政10年~11年」②

 

寛政11

『春水日記』

2

19日 神尾(御側詰同格、惣右衛門、婚礼の礼式を相談)訪ね見る

22日 久太郎親迎(淳輿入れ)祠堂拝礼、往迎爾相の申達、夜分合巹

23日 家を携え(家内)御園に行く、午後御園家を携え来る

24日 神尾に行き謝す

25日 来客多し

29日(婚礼)七夜過ぎ故諸事故に復す

晦日 子綏(菅野眞斎)上船

 

3

25日 京師福井新九郎至(76日上船)

29日 久太郎夜遅く帰る

『梅日記』

2

15日 日柄良く、結納遣わす千蔵使者に行く、持ち手貮人供壱人

21日 新造荷物来る

22日 七つ半(午後5時頃)親迎暮六ッ(午後6時過ぎ頃)過ぎ入輿、

婚礼滞りなく相済む

23日 双方往来相済む

29日 新造仕事初荷物蔵へ入れ

30日 仲右衛門(菅野眞斎帰郷)

 

3

7日 旦那、新婦召し連れ御園にお出

29日 久太郎、熊助に行く由にて、八過ぎより出、初夜過ぎ酔いて帰る

 

2024・9・8

赤松昇さんが、姫路周辺の資料を

 

 赤松昇さんが、姫路周辺の資料を多数送って下さった。これだけ集める手間と時間を考え、頭が下がる。

 またツアーでは赤松さんにもお会いできることになった。

赤松昇さんが送って下さった姫路周辺の資料
赤松昇さんが送って下さった姫路周辺の資料

 赤松さんは赤松則村(円心)の縁者。頼山陽ネットワーク会員。

 

「頼山陽居室」になる前の戦前の建物
「頼山陽居室」になる前の戦前の建物

2024・9・6

石村良子相談役

「久太郎(山陽)の婚礼(昏礼)菅野眞斎と福井新九郎との出会い

 寛政10年~11年」①

 

今回の「姫路高砂ツアー」では、姫路藩儒者の菅野真(眞)斎ゆかりの場所も訪問する。真斎は頼春水、山陽と交流しているのである。


 本年3月の「『頼山陽居室』とは何かシンポジウム」では真斎宛ての春水の書状に書かれた山陽の閉居部屋が焦点になった記憶は新しい。

 さらには真斎の三男狷助と山陽の三男三樹三郎は安政の大獄で投獄されたという共通点がある。(三樹三郎は死罪)

 ツアーを前に石村良子相談役が『春水日記』『梅日記』から菅野真斎関連の部分を抽出してくれた。多くの示唆を与えてくれるだろう。

                        以上 見延典子記

石村良子相談役

「久太郎(山陽)の婚礼(昏礼)菅野眞斎と福井新九郎との出会い

 寛政10年~11年」①

寛政10年

 

『春水日記』

5

22日 播仲右衛門(菅野眞斎1773-1843、備前武元勇次(武元北林17701820,登々庵弟)至

23日 勇次上船(菅野眞斎留塾26日上船

 

11

2日 千祺(萬四郎),襄、子綏(菅野眞斎)と郊行

 

12

5日 奥山龍蔵(媒人)

御園(広島藩医、久太郎妻-道英女淳)もらひ相済む。龍蔵来る

11日 縁組内伺書だす

20日 御園へ行く(婚礼の事)面談

25日 御園縁組、願いの通リ仰せ出さる

 

『梅日記』

5

22日 高砂仲右衛門来る神戸より備前の客同道

 

10 17日より欠筆

 

2024・8・24 

河合惣兵衛に関する説明板

 

 旅猿ツアー「姫路高砂」を一カ月後に控え、準備を開始する。

 本日付の神戸新聞のホームページに次にような紹介記事があった。

 

「幕末の姫路藩で尊王攘夷運動を主導した、河合惣兵衛宗元の顕彰碑が立つ外濠公園(姫路市神屋町5)に、碑建立のいきさつや惣兵衛に関する説明板がお目見えした。「約130年前に漢文で記された碑の文面だけでは、惣兵衛が何者なのか伝わりにくい」という市民らから要望を受け、姫路市教育委員会が設置した」

河合惣兵衛の顕彰碑。もとは旧河合邸跡(現在地北200m)に建立。昭和43年外濠公園に再建された。


 すでに建っている顕彰碑に説明板を加えたということのようだ。河合惣兵衛が河合寸翁の分家という。改めて姫路城周辺には多くの文化財があることがわかる。周辺も散策してきたい。

 

2024・8・22

ご参加の皆様に「確認メール」を送りました。

 

ご参加のお申込みの皆様に「確認メール」を送りました。

お申込みの方はご確認下さい。

                         事務局

 

その後、子孫の赤松政則は将軍足利義政に功績があり、応仁二年に再興しました。そして、播磨、備前、美作を奪還後、赤松政則は5年後の文明三年に松原八幡神社(八幡宮)の修復再建を行いました。その竣工祭に米二百俵が寄進され、氏子達は喜んで米俵を御旅山に担ぎ上げたのが、灘のけんか祭りの屋台となったと言い伝えられています。

2024・6・13

赤松昇さん「松原八幡神社(姫路市)

「歴史の町播磨 赤松円心」より

 

松原八幡神社は播磨の守護職、赤松円心が敬った神社です。その後、赤松氏は嘉吉の変で敗退し、赤松氏に助力した松原八幡神社は山名氏に社殿を兵火で焼かれ、焼失しました。


太平記で活躍した播磨守護職・赤松円心(源氏)のふるさとに新田義貞を釘付けにした白旗城があります。

この山城は建武3年(1336年)に円心が築きました。


赤松円心は新田義貞軍6万の大軍を2千の兵(内名射手800人)で迎え撃ち50日間耐えました。この間、足利尊氏は九州に逃げ延び、体制を整えて反撃に出て室町幕府を築いたのです。北条幕府倒幕の先兵となり、室町幕府建立の立役者の半分以上は赤松円心であり、彼が起たなかったら、足利尊氏も決起しなかったと云われています。歴史の町播磨 赤松円心

     

2024・6・10

頼山陽の名付け「小赤壁」

 

1825年(文政8)頼山陽がこの地を訪れ、中国の赤壁に似ていることから命名した。現在は「小赤壁公園」となっている。

姫路市のホームページより
姫路市のホームページより

天気がよければ、展望台からは明石海峡大橋や淡路島、家島に四国などを見ることができる。

 

 


2024・6・9 

赤松昇さん「寸翁神社」

 

 姫路城の近くには姫路藩家老で、財政再建に貢献した河井寸翁の「寸翁神社」があります。

銅像の台座には「無心帰大道」と書かれています。

YouTube 姫路のひろば

 

 https://youtu.be/0QFbtpBrENA?si=iOqt-hMeWVtBtN0U

 


 本ホームページでもおなじみの赤松昇さん(兵庫県在住)から、仁寿山学問所跡(頼山陽が講義)の写真が届きました。

 仁寿山学問所は姫路藩家老の河合寸翁が私財を投じて仁寿山南麓に設立した学問所で、時代を担う人材育成をめざしました。

 現在は仁寿山校趾碑、土塀と竹林、白鹿院書院の碑の礎石跡、井戸の跡しか残っていないそうです。旅猿ツアーでは現地を訪問します。

2024・5・31 

旅猿ツアー9月25日~26日

「姫路、高砂」決定!

 赤松昇さん(兵庫県在住)

         からの写真

個人で行くにはむずかしい場所です。
個人で行くにはむずかしい場所です。

2024・5・30 

旅猿ツアー9月25日~26日

「姫路、高砂」決定!

 参加者募集!

 

 9月25日(水)~9月26日(木)

旅猿ツアー「姫路、高砂」が決定しました。

9名乗りジャンボタクシー
9名乗りジャンボタクシー

 ジャンボタクジー、電車を利用した限定9名の旅です。車中、解説やお喋りをしながら、楽しい旅を予定しております。 事務局から石村良子代表、見延典子が参加します。

 

 1日目 姫路から高砂へ

  11時 JR姫路駅集合(姫路駅までの交通費は各自ご負担)

     ジャンボタクシー(9名乗り)で出発

    訪問先

仁寿山学問所跡(頼山陽が講義)

松原八幡宮(赤松円心ゆかりの神社『日本外史』)

小赤壁公園 展望台(頼山陽が名付け)

JR曽根駅近く頼山陽も歩いた西国街道の面影ある付近(車窓)

曽根天満宮(頼山陽が漢詩を詠む)

石の宝殿(パワースポット頼梅颸、山陽も訪ねる) 

 

 16時  山陽高砂駅そばのホテル着(会食)

 

2日目 高砂から姫路へ

  9時~10時半 JR高砂駅周辺(歩行)散策

             (現地町歩きガイドによる案内)

   山陽高砂駅 梅ケ枝湯 旧国鉄高砂駅 十輪寺

   → 申義堂(菅野真斎ゆかり ここの解説、見学がメイン)

    魚町倶楽部 高砂神社 → 銀座商店街 →山陽高砂駅

 

   11時 山陽高砂駅から山陽姫路駅まで電車移動(16分)

   11時半~「姫路城」の見学は自由行動です。

        お城に詳しい尾崎和則さんの解説で巡ります。

    昼から夕方 各自家路につく(帰りの交通費は各自ご負担)

     

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

国家に「生かじり」された 

ベストセラー『日本外史』

『俳句エッセイ 日常』

 

『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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