見延典子が書いています。
2024・10・4 9月26日午後 寸翁神社
姫路城の天守閣にも登り、再び5人が集合しました。
河合寸翁は姫路藩家老。財政再建に成功し、庶民のための仁寿山学問所を作り、頼山陽を招きました。
佛原さん、青山さん、見延の3人で姫路駅行きのバスに乗り、姫路駅についた頃は夕方に。無事2日間の日程を終えました。ご参加者、関係各位にお礼申しあげます。
ここで尾崎代表、久保寺さんは別行動。佛原さん、青山さん、元気を取り戻した見延で、寸翁神社を目指しました。
姫路城域にあるのですが、なかなかわかりにくい場所にあり、見つけたときは嬉しくなりました。
2024・10・3
9月26日午後 姫路城
昼食のあと、石村相談役のグループ4名と別れて、尾崎代表以下原さん、久保寺さん、青山さん、見延の5名は好古園の散策後姫路城へ。
よもやの30度越え、燦燦と陽射しが降り注ぐ中を歩いていきます。
このあたりから写真を写そうという気力がなくなって来ました。
天守閣の入り口にきたところで、尾崎代表は無念のリタイヤ。昼の酒がきいたのでしょう。他4名は「初登頂」に挑みますが、難攻不落の名城だけあり、少なくとも見延は足がつりそうになりました。
城に詳しい尾崎代表からまず「石垣」について学びます。姫路城はまだはるか向こうです。写真には写っていませんが、半数以上は外国人観光客と思われる方々です。
それにしても早くも疲れを感じました。思えば、朝から高砂市内で2時間歩いてきたのですから、無理もないかもしれません。
それでもなんとか這うようにして最上階まで辿りつきました。ただ、殿様気分を味わうどころではないほど疲れ果てました。大阪城、熊本城、備中高松城、小倉城、広島城などこれまで訪れた城の中で、ダントツで「疲れた城」でした。おそらく今後姫路城に登ることはないと思いつつ急階段を降りたのでした。
2024・10・1
9月26日午前 高砂から姫路城へ
高砂の歴史地区を散策後は山陽電気鉄道高砂駅から山陽姫路駅まで、電車に揺られての移動です。
「山陽」なんだから、乗らないとね(笑)所要時間16分。590円
山陽姫路駅で降り、コインロッカーに荷物をあずけてタクシーで姫路城域内の好古園へ向かいます。好古園内のある活水軒が昼食会場です。
見延も普段なら注文するのですが、姫路城の天守閣まで登ることを考えると、やや自制心が働きました。というわけで「穴子飯セット」のみ。ここでの判断がその後、明暗を分けることになるのです。
席につくなり、尾崎代表は日本酒の「飲み比べセット」を注文。
2024・9・30
9月26日午前 高砂歴史地区散策
短い時間でしたが、ガイドさんに案内していただいた高砂の歴史地区の様子を紹介します。
ガイドの件でお世話になった和田さん。参加者のために、車まで用意して下さいました。
この日「21,000歩」を歩いた健脚もいらっしゃいます!!
何気ない道路もいわれがあります。
最初に申義堂があった地には、地域のコミュニティセンターが建っています。菅野家から数百メートルの距離です。
銭湯「梅ケ枝湯」は薪を使って湯をわかしているそうです。もちろん現在も営業中とのこと。
廃線になった国鉄高砂線のモニュメント。山陽鉄道高砂駅そばで。
宗派を越えて、高砂の偉人たちが眠る十輪寺は申義堂そば。
8時半から歩き出しましたが、すでに日陰が恋しくなる暑さ。屋根のあるところに移動して、ガイドさんから説明を聞きました。
かつて賑わった商店街も今はシャッター通りに。こんな光景が日本の地方都市では無数に見られます。
「買い物難民」のために、焼き魚を売る店ががんばっていました。
「高砂染め」の着物。
高砂には頼山陽も訪ねていることから、往時の様子を想像しながら歩きました。江戸時代というより昭和が残る町並みです。
申義堂。姫路藩主の酒井氏の家老の河合寸翁が、庶民の教育を行う目的で開設。朱子学が教えられ、初代教授は菅野真斎。頼山陽をはじめ、頼支峰、頼三樹、篠崎小竹、後藤松陰、岡田半江らも講師をつとめたという。最後の教授は美濃部秀芳(美野部達吉の父)。復元された建物で2011年に市指定文化財指定。
2024・9・29
9月26日午前 申義堂(高砂市)
9月26日(木)も快晴。朝からお願いしていた高砂の観光ボランティアガイドさん2名の案内で、高砂の歴史地区へ向かいました。
なんといってもお目当ては「申義堂」です。通常は土日祝の10時からの開門ですが、私たちのために開けてくださいました。
「申義堂」の「申義」とは『孟子』の「義を申す」から引用されて「義を伸ばし涵養する」という意味。
また内部に掲げられている扁額は河合寸翁が書いたそうです。
座敷とそれに付随する奥の間と正面縁側という極めて質素な造り
現在「申義堂」は十輪寺の前にありますが、本来はこの場所から東に数十メートルほど離れた地に建てられていました。明治維新後に廃校になり、加古川市に移築されていたものを、平成になってこの地に再移築したそうです。
菅野真斎は頼春水に師事し、広島の頼家まで学びに来ていました。山陽より7歳年上で、山陽の婚礼の前後にも滞在しています。山陽が脱藩し、囲いに押しこめられた場所を、春水が「ご存じ座敷上の間」と書き送った相手が真斎です。
石村相談役によれば、頼家は脱藩した山陽の捜索にあたり、菅野家から現在の価値にして70万円ほど借りたそうです。また真斎は「塩屋」と名乗り、京都で医術を学んでいます。晩年になるまで仕官していない
ことから、実家はそれなりに裕福だったのではないかと想像されます。
向かいの十輪寺に真斎の墓があるらしいという話でしたが、ボランテイアさんもどこにあるかはご存じないというお話でした。さらに真斎の屋敷があった地も訪ねました。本来申義堂があった場所から、北へ数十メートルほどの所でした。
2024・9・28 9月25日 追加写真
参加者9名が載ったジャンボタクシーの写真を写し忘れたので、ネットの写真を載せることにします。概ね同じような車体でした。
25日姫路駅の集合場所に、ジャンボタクシーの手配をお願いした兵庫灘旅行の井上直彦さんがご挨拶に来て下さいました。姫路、高砂を巡るので、ネットで地元の旅行代理店を探したところ、目にとまったのが井上さんの代理店です。メールや電話でのやりとりを続け、お会いしたのは初めて。さまざまな方のご協力で25日を迎えたのです。
9月25日夕刻、ホテルにチエックインの後、千葉県からご参加の久保寺辰彦さんご所蔵の頼春水、山陽、支峰などの書簡を拝見しました。
ちなみに久保寺さんは、26日夕刻、ツアー解散後に「黒田武士の館」に行かれました。黒田官兵衛にまつわる品々が集められた私設の資料館だそうです。団体行動を離れて自由行動の時間も大切ですね。
右は久保寺さんが送って下さった「黒田武士の館」の内部写真です。
9月26日付「仁寿山校の碑」(右)に刻まれた「頼山陽」の文字(桃色)
写真提供は石村良子相談役。
松原八幡神社では、ホームページにご投稿くださる地元ご在住の赤松昇さんが奥様とともに境内の案内をしてくださいました。赤松さん、御奥様、ありがとうございました。
2024・9・27
9月25日 姫路から高砂へ
JR姫路駅からジャンボタクシーの乗り、仁寿山学問所跡を見学したあと、高砂に向いつつ、頼山陽が訪ねたであろう各所を訪問しました。
小赤壁公園(姫路市木場)は、頼山陽がネーミングした地です。看板に「頼山陽」の名前を見つけました。一般の方にとってはどうでもよいようなことを探すのが「旅猿ツアー」の醍醐味です(笑)
この日最後の訪問地は、文政2年(1819)山陽が母の梅颸と共に訪ねた「石の宝殿」(高砂市)です。ジャンボタクシーの運転手さんも訪れるは初めてだそうで、一緒に見学されていました。近くの「生石神社」は「おうしこ」と読みます。
曽根神社(高砂市)には頼山陽が漢詩を詠んだ松があります。菅原道真が太宰府へ左遷される途中で植えたという「霊松」です。
初代から4代までは枯れ、現在5代目。山陽がこの神社で見たのは2代目の松のようです。
高砂のホテルにチエックインしたあとは会食。今回は、旅猿ツアー初参加の佛原肇さんがカメラ係を引き受けてくださいました。
半日かけて頼山陽の足跡の一部を辿る。まずは仁寿山学問所跡。
しかしながら左にいったところで、山道には分け入らない方がいいというアドバイスを受けていた。
2024・9・26
旅猿ツアー姫路高砂
9月25日 仁寿山学学問所跡へ
晴天に恵まれたJR姫路駅前に、千葉県、大阪府、広島県からの参加者9名が集合。「予定通り9名集合」というだけで、このツアーは半分以上成功したようなものだ(笑)
左右に分かれた道。当然のように右の太い道路を登って行ったが、実は左に行くべきであった。
当然ながら、観光客はもちろん、地元の方に出会うわけでもない。それでも山陽を話のネタに、語らい合いつつ歩くマニアックな我々である。