見延和靖選手の先祖と、見延典子の先祖は、現在の福井県越前市にある同じ集落で暮らしていた一族であることがわかりました。

皆様もいっしょに見延和靖選手を応援してください。

 

 こちらもご覧ください。

見延和靖選手を応援①(見延のルーツを含む)

見延和靖選手を応援②

 

福井県無形文化財指定。小さい工房ながら、40年ほど前、美智子妃殿下も見学に来られたそうだ。

地元の素材を活かしたご馳走が並ぶ中「すこ」が珍しかった(写真下)

2017・2・28

墨流し体験

 

越前の旅の思い出に「墨流し」なるものを体験した。

指導くださったのは90歳の職人さん。水を張った容器に、特殊なインクを落として模様を作り、和紙をのせて写し取る。教えていただきながらなんとか完成(左の写真)

その夜は「農家民宿」に泊まる。

「すこ」とは里芋の茎を酢漬けにしたもの。帰宅後、札幌の老母の電話で報告すると「昔はよく食べたもの」と懐かしがっていた。

 

 

 


高祖母(5代前)「三」の故郷「轟井」
高祖母(5代前)「三」の故郷「轟井」

2017・2・23

高祖母の子孫との出会い

 

ごぼう講の見学もでき、大満足の今回の旅であったが、今回もまたルーツに関して奇跡的としかいいようのない出会いがあった。


一日目の行程を終え、夕方温泉施設で入浴後、ロビーで体験プログラムの担当者に見延重右エ門の妻「三(さん)」について話していた。「三」は重右エ門の住んでいた集落の隣村「轟井」で生まれ、父の名は「奥座エ門」という。

 

と、私の話を近くで聞いていた見知らぬ男性が「奥座エ門の子孫をなら知っている」と声をかけてきた。そこで急遽、男性の車に乗せてもらい、着いた先でなんと子孫に会うことができたのである。

 

カンタンに書いているが、これはすごいことではないか。ルーツ探しを始めて以来、不思議なことがつぎつぎ起こる。

 

 

太鼓には「寄贈 見延源右エ門 昭和五十六年」(右の写真)

ほどなく直会が始まる。ここで「申し訳ございませんが、女性は退出してください」の声。

2・22 ごぼう講の当日

 

2月17日、ごぼう講の当日、宿主のお宅に伺うと、神事が始まっていた。マスコミも大勢来ている。

神事が終わると、各戸主の前にお膳が用意され、宿主の挨拶(写真下)

去る前にお膳を覗くと、山盛りのごぼうの味噌和え、5合のご飯を高く盛った物相飯(もっそうめし)、大根の煮物、焼豆腐、たくあん、ごぼうの酢漬け(写真左下)

酒は一升瓶ごと温める。
酒は一升瓶ごと温める。

一つ気になるのは越前市長が出席していること。ごぼう講は隠し田で獲れた米を村人がひそかに分け合い、団結を確認しあったことが始まりと聞く。だから「祭り」ではなく「講」なのだ。原則論でいえば、女人禁制より為政者除外のほうが重要ではないか。

 

お断りしておくが、個人的に越前市長には何の思いも持っていない。この地で生まれながら、北海道へ渡らざるを得なかった見延重右エ門の子孫の一人として感じたままを書いている。315年間、伝統を守り続けてこられている皆様のご努力には敬意を表します。

 

というようなことを書くと、お酒を飲めなかった腹いせのように受け取られてしまうのではないかとちょっと心配(笑)。とともに女性市長が誕生したらどうなるんだろうと、心配は続くのである。

 

 

 

用意されたごぼうは320キロとか。次々ゆでられていく(写真右)

大鍋には大根も(写真下)

見延和靖選手の父上も(写真右)

見延清左エ門さん(写真下)も作業中。半年ぶりの再会。でも皆さん顔が赤いのは何故なのでしょう(笑)

ごぼうは茹でて叩いて味噌和えに。
ごぼうは茹でて叩いて味噌和えに。

2017・2・21

ごぼう講の準備

 

ごぼう講の会場になる家の周辺では準備が進んでいる。

ごぼう講は女人禁制で、料理も男姓がするという話であったが、見えないところで女性たちも作業しているのを目撃してしまう。男性を立てることを、越前の女性たちは心得ているようだ。本番は明日。

 

 


「国中神社」と彫られた石塔そばには太閤検地で使われた「要石」が雪を頂いて置かれている(写真右)

ごぼう講は正式には「惣田正月十七日講」といい、300年以上宿主を書きとどめた宿帳が残されている。見延重右エ門の名も記されている。

午後からは明日のごぼう講に備え、準備の様子を見学へ。

陽射しは暖か。絶好の「見学日和」
陽射しは暖か。絶好の「見学日和」

2017・2・20

ごぼう講の歴史

 

翌日、いよいよ「体験プログラム」に参加。昨年6月以来、2度目の越前市国中町訪問である。

まずは町内にある長宝寺で、郷土史に精通するご住職からお話を伺う。

昼食のあと、寺の裏山にある「村墓」に連れて行っていただき、見延の墓の一つに参る(写真下)


「つつじバス」と呼ばれる地域密着のバス。なんと乗車賃は100円。

「郷土資料」のコーナーでパラパラ見ていたら、あった! 

2017・2・19

100円バス

 

福井鉄道に乗ったあとは、バスにも乗ってみる。

向かったのは鯖江市立図書館。

非売品の某図書の中に、高祖父「見延重右エ門」の家を示す地図が載っている。昭和12年発行。

 

この地区で翌日「ごぼう講」が行われ、「体験プログラム」で準備の様子を見学することになっている。

 

とともに、またしても信じられないような出会いが待ち受けていることをこの時点で知る由もなかった…。

 

 


新大阪から特急サンダーバードに乗り換えてほどなく、右手に琵琶湖が見えてくる。意外な気もするが、福井県から琵琶湖は近い。

私も防寒装備は完璧(笑)

西鯖江駅で、80代と思われるご婦人から声をかけられる。夫の話、子や孫の話、年金の話。短い時間ではあったが、たくさん聞かせてもらう。お元気でお過ごしくださいね。

 

2017・2・18

福井鉄道に乗って

 

そういうわけで、ごぼう講見学を含む「体験プログラム」なるものに参加するため、福井県へ向かった。

JR武生駅(現在の福井県越前市)に着いたあと、以前から乗ってみたかった福井電鉄に乗車する。

乗務員さんの長靴に注目。


『「幕末諸州最後の藩主たち」東日本編&西日本編』〈1997年人文社刊)

2017・2・14

鯖江藩と小浜藩

 

江戸時代、鯖江藩と小浜藩の支配をうけていた父祖の地。わずか46戸の集落が、明治以降、どんな扱いをされたかがわかる刊行物が『「幕末諸州最後の藩主たち」東日本編&西日本編』である。


廃藩置県により鯖江県になった鯖江藩は「東日本編」に、小浜県になった小浜藩は「西日本編」に掲載にされている。もう一度書く。わずか46戸の集落が、東日本と西日本とに分けられている。

 

明治政府が行ったことは、反抗した者たちの歴史をわからなくするということではなかったか。

 

 

 この国中神社に「隠し田」が。
 この国中神社に「隠し田」が。

2017・2・11 

ごぼう講⑤

 

ごぼう講のいわれとして「1705年、年貢の取り立てが厳しい藩主に内緒で国中神社に『隠し田』を作り、収穫した米を氏紙様に感謝しながら地区の18戸でゴボウ料理を食べたのが始まり」(2月2日付)

とあったので、藩主を調べたら思いがけず鯖江藩と小浜藩の領地であったという事実に突き当たったのだ。

 


それにしても明治以降の執拗な県域の変更の繰り返しは、かつて同じく幕領だった備後福山藩のたび重なる県域変更と通じるものがある。理由についてわからないと何かに書いてあったが、幕領だったこの地の歴史と重ね合わせれば、答えは自ずと出てくる。

 

明治6年に行われた地租改正という名の増税では、「隠し田」さえあぶりだされたという。江戸時代には搾取され、明治時代には冷遇された末、私の先祖は生きるために北海道に渡らざるを得なくなったわけである。

 

 

現在の「福井県」
現在の「福井県」

 父祖の地は、江戸時代の初めから幕領であったが、一番驚いたのは、間部氏入封により鯖江藩が立藩された翌年の1721年、わずか18戸が村替えという名目で鯖江藩領と小浜藩領とに分けられたことである。鯖江藩はともかく小浜藩まで絡んでいるとは思わなかった。

2017・2・10

ごぼう講④ 福井県になるまで

 

「体験プロプログラム」に参加するにあたり、今さらながら私の先祖が暮らしていた福井県越前市の歴史を調べるうち、いろいろなことがわかってきた。

私の先祖が住んでいた福井県今立郡域
私の先祖が住んでいた福井県今立郡域

46戸になった集落は、明治4年の廃藩置県で鯖江藩領は「鯖江県」に、小浜藩領は「小浜県」に、しかし2県が併合して「敦賀県」になり、ほどなく「敦賀県」が廃止になるや、かつて鯖江藩だったところは「石川県」に、小浜藩領だったところは「滋賀県」に、最後は「福井県」に統合されるのである。

                      続きます。

 

 

2017・2・8

ごぼう講③ 女人禁制

 

毎年2月17日、福井県越前市で300年以上行われているごぼう講。「体験プログラム」とやらがあるというので申し込んだ。ところが大きな問題がある。ごぼう講は〃女人禁制〃で、見学する場合も女性には制約があるらしいのだ。


最近、東京五輪のゴルフの競技会場が女性の正会員を認めていないという問題で、女性が正会員になれないのは「違和感を覚える」と批判した小池東京都知事。ごぼう講は伝統行事なので、〃女人禁制〃も致し方ないのでしょうかね。

 

 

生徒を前にフエンングを語る見延和靖選手。記事、写真とも中日新聞から転載

 

また翌3日には福井県立勝山中学校で、1、2年生を対象に両選手のフェンシング競技との出会いからオリンピックに出場するまでの講演があり、そのあとフェンシングのルールや技術を教わり、見延選手と対戦する場面もあった。

 

 

 

2017・2・7

故郷の福井県で講演

 

見延和靖選手と徳南堅太選手(ともに武生商業高校出身)による「夢の実現方法」と題したトークショーが2月2日、福井市南江守町の至民中学校と坂井市坂井町上新庄の坂井中学校であった。

記事、写真とも勝山中ブログから転載


これが一人分
これが一人分

2017・2・3

ごぼう講②

 

ごぼう講で用意される料理は、茶碗に5合分ものご飯を高さ約15cmに積み上げた「物相飯(もっそうめし)」、山盛りにし皿からあふれる味噌和えのゴボウ(20本分程度)、二つ割りのたくあん2本、丸揚げにしたゴボウ2本と焼き豆腐1丁。これが一人分。


当日は約50人の地域の男衆が紋付羽織り袴の正装で会場に集まり、神事ののち、茶碗で豪快に酒を酌み交わしながら、ごぼう料理と白飯に舌鼓をうつそうである。   

             (記事と写真は越前市役所観光振興課から)

 

 

体験プログラムのチラシから転載
体験プログラムのチラシから転載

宝永2(1705)年、年貢の取り立てが厳しい藩主に内緒で国中神社境内に「かくし田」を作り、収穫した米を氏神様に感謝しながら地区の18戸でゴボウ料理を食べたのが始まりとされる。現在では50戸ほどが参加して、奇祭として全国的にも注目され、NHKニュースでも取り上げられたことがあるそうだ。講の宿主の名前を書きとめた宿帳には私見延典子の高祖父の名前もあるそうで、一度行ってみたいと思っていたところ、「体験プログラム」なるものがあることを知った。

           続きます。

 

 

2017・2・2 

ごぼう講①

 

「ごぼう講」といっても、ご存じない方のほうが多いだろう。見延和靖選手の故郷 福井県越前市で300年以上続く伝統行事で、正確には「惣田正月十七日講」と呼ばれ、毎年2月17日に行われる。

パンフレットには「ごぼう講」ではなく「ごんぼ講」とある。私の故郷の北海道でも「ごぼう」を「ごんぼ」という人がいて、私もその一人。なんだかうれしい。
パンフレットには「ごぼう講」ではなく「ごんぼ講」とある。私の故郷の北海道でも「ごぼう」を「ごんぼ」という人がいて、私もその一人。なんだかうれしい。

2017・1・21

日刊スポーツに記事

 

1月20日の「日刊スポーツ」に同社記者高場泉穂氏による「太田雄貴が去ったフェンシング界、見延和靖の覚悟」が掲載された。

 

見延選手への応援を込め、記事、写真とも転載する。


執筆者 高場泉穂(たかば・みずほ)

1983年(昭58)6月8日、福島県二本松市生まれ。東京芸術大を卒業後、08年入社。整理部、東北総局を経て、15年11月から五輪競技を担当。

 

「太田雄貴が去ったフェンシング界、見延和靖の覚悟」

 

その日、私の狙いは外れた。

 昨年12月3日、駒沢体育館で行われたフェンシング全日本選手権。「目当て」の選手、男子エペでリオデジャネイロ五輪6位の見延和靖(29=ネクサス)は、準決勝で大学生に14-15と僅差で敗れ、2連覇を逃した。そもそも全身への攻撃が有効であるエペは、他の2種目フルーレ、サーブルと比べ、番狂わせが起こりやすいと言っていい。相手の慶大4年武田仁は実力者ではあったが、卒業後に一線を退く選手。ここは意地でも見延に勝ってほしかった。

 

  試合後、見延は「やっちまったなぁ」と苦笑いを浮かべた。
「いいところを見せたかったのですが…。このままじゃ先輩には遠く及ばないです」。

 “先輩”こと男子フルーレ太田雄貴の引退会見が翌日に控えていた。リオ五輪の選手村で2人は同部屋だった。日本フェンシング界をけん引してきた“先輩”太田への餞として、見延が圧倒的な勝利を飾る…。私は、そんなストーリーを頭に思い描いていたが、結局、その日は優勝者武田をたたえる短い記事を書いた。

●フルーレよりエペ愛を貫く

 見延を初めて取材したのは15年の11月。日本人で初めてエペW杯を制し、帰国した彼を成田空港で迎えた。同大会の準決勝で世界ランク1位のグリュミエ(フランス)を初めて破ったことも快挙だった。「とうとう、やってやりました」。うれしそうに話す姿は今でも忘れられない。

 日本ではフェンシングといえば、太田がしているフルーレのイメージが強いが、本場の欧州では競技人口、人気ともにエペが上まわる。福井・武生商高でフェンシングを始めた見延はしばらくフルーレ、エペを両立していたが、法大3年時にエペに専念した。かつてエペを選んだ理由を聞くと、こう話していた。「エペは、単純に面白い。有効面が限られているのが、僕の中ではちょっと納得できない部分があって。(突く部分の)1、2センチで、何が違うの、と思ってしまいます。一緒じゃん、と」。頭でも、つま先でも、体のどこを突いても得点になる。そのシンプルさに魅了されたという。太田に、フルーレ転向を促されたこともあったが、断り、エペ愛を貫いてきた。

 心身ともに最高の状態で迎えたリオ五輪。だが、準々決勝で世界ランク1位のグリュミエと向かい合うと「まったくスキが無かった」。195センチの長いリーチを生かした積極的な攻めが出来ず、8-15で敗れた。エペでの入賞は日本人初の快挙だったが、「やっぱりメダルが欲しかったです」と今でも悔しそうに振り返る。

●空席目立つ観客席に危機感

 前述した全日本選手権は観客席に空席が目立ち、報道陣も数えるほどだった。マイナー競技であるフェンシングにとって、4年に1度の五輪は注目を集める機会でもある。北京、ロンドンでのメダル獲得時、テレビでは繰り返し試合の映像が流され、多くの日本人がフェンシングへの知識を深めた。太田や、他の団体メンバーは、時の人となった。もし、昨夏、女性誌で取り上げられるほど男前の見延がメダルを獲得していれば…。タラレバを言っても仕方ないが、現在のフェンシングをめぐる状況はだいぶ違っていただろうと思う。見延は危機感のあまり、注目を集めるなら「ボディビル大会に出てもいい。モデルでも何でもやります」と話したこともある。「後釜になれれば」と太田なき後のフェンシング界を、名実ともに支える覚悟がある。

 昨年12月末、見延はドバイで行われたW杯でリオ五輪金メダリストを破り、優勝。あらためて世界トップレベルの力を示した。彼の「とうとう、やってやりました」というせりふを、東京五輪の舞台でもう1度聞きたい。【高場泉穂】

見延和靖選手からの年賀状
見延和靖選手からの年賀状

見延選手のご尊父からも、やはり年賀状をいただく。日本人最高位「リオデジャネイロ五輪6位」というのはすごいことと改めて思う。見延一族の一人として誇らしい。

 

2017年も見延選手の応援をよろしくお願いします!!

 

 

2017・1・6

見延選手からの年賀状

 

見延和靖選手から年賀状をいただく。見方によってはなかなか刺激的である(笑)

見延選手ご尊父からの年賀状
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