見延典子が、明治期に石川県羽咋郡滝谷から北海道札幌市白石区に

  移住した母方の祖父長濵家のルーツについて書いています。

   北海道に渡った曽祖父が長濵久松。曾祖母がよん。二人の長男が万

  蔵(好博さんの祖父)、次男が久蔵(典子の祖父)です。

   岡本久美子さんは長濵十助(重助)の系列で、札幌に渡ったあと長  

  濵久松と同じ住所に住んでいた。血縁関係については調査中。

   新たに加わった荒木陽子さんは、久松生家の中駄家の子孫。

2023・3・1 

人気者との接点②

 

 またまたまた好博さんからビックすぎる情報!! 

 大泉洋の先祖(曽祖父か高祖父だろう)、私たちの曽祖父長濵久松、小池嘉一郎(万蔵の岳父、好博さんの母方の曽祖父)は同時期、白石村議会議員を務めていたとのこと。

 白石村の未来を話し合っていたのでしょうね~

 

大泉家との接点は明治時代
大泉家との接点は明治時代

大泉洋自身は札幌近郊、かつて白石と同じく煉瓦生産が盛んだった江別市出身。写真はネット
大泉洋自身は札幌近郊、かつて白石と同じく煉瓦生産が盛んだった江別市出身。写真はネット

2023・2・27

人気者との接点

 

 またまた好博さんからビックな情報! 大泉洋の先祖は、私たちの故郷札幌市白石区に入植した仙台藩白石城主の片岡小十郞の家臣だと、白石郷土資料館のテレビ取材で答えている。好博さんが取得した明治19年の土地台帳に、大泉洋の先祖と思われる大泉安定が、鈴木煉瓦工場のあった土地を鈴木佐兵衛に売却したことが載っているというのだ。


 私たちの曽祖父長濵久松一家や親族は長く、大泉安定が売却した土地で暮らしていたのである。

 

 大泉洋の祖父は銀行員、両親は教育者、兄は今年函館市長選挙に出馬予定で(この程度の情報は北海道民の常識らしい)、そもそも先祖は幕末の負け組ながら、蝦夷地にわたって札幌郊外の開拓にいそしんでいたことが想像できるのである。

 

2023・2・25    

中駄のおばさん③

 

 なんと、好博さんが「中駄のおばさん」との系譜を突き止めるだけではなく、晩年の写真まで送ってくれた。二重橋の前で、夫の利一さんと並んで写っている。モノクロ写真なので、1960年代か。

 逆算すれば、60代で、今の私とあまり変らない。私の記憶の中では、背中の丸い、昔ながらのおばあさんの姿で残っている。この頃のシゲさんは背筋も伸び、上京する元気もあったのだ。ご自分で縫った着物や羽織だろう。帯揚げの結び方は端が垂れている。おしゃれ?

 


2023・2・18    中駄のおばさん②

 

 なんと、好博さんが「中駄のおばさん」を突き止め、家系図まで送って

くれた。

 

 中駄シゲさん。明治32年(1899)生まれ。夫利一とのあいだに3男1女。絵がうまく、書道は段持ち、着物は師範、95歳まで縫い物をして、平成8年(1996)98歳で亡くなったという。

好博さんが送ってくれた家系図の一部。青は久松、赤はシゲさん
好博さんが送ってくれた家系図の一部。青は久松、赤はシゲさん

 久松と血縁的に近いとはいえないが、夫利一は同じく白石に入植している。一族ということで、助け合いながら苦難の時期を乗り越えていったのだろう。

 

 それにしても好博さんの調査力に脱帽。

 

2023・2・14 

中駄のおばさん①

 

「中駄のおばさん」というのは、典子が幼いころ暮らしていた札幌市白石区の近くに住んでいた女性で、母は着物を縫ってもらい、典子も幼いころ会った記憶がある。

   この羽織も中駄のおばさんが    縫ってくれたのだろうか。
   この羽織も中駄のおばさんが    縫ってくれたのだろうか。

  その「中駄のおばさん」と、母や典子は縁戚関係にあることを最近知った。94歳の母でさえ知らなかったのだから、典子が知ろうはずもない。

 

 そもそもは曽祖父が中駄久松であったのに、姉の嫁ぎ先の長濵家に養子に出され「長濵久松」になったところから、長濵家と中駄家の枝分かれが始まった。

 

 本ページ掲載22・11・14付けの集合写真に、中駄家の人々も加わっているのはそういう事情からなのだ。

 

妙成寺(石川県羽咋市)にある前田利家の側室寿福院の墓。寿福院が帰依して、妙成寺は大きく発展した。中駄家の先祖は寺侍として仕えた。

2023・1・9

荒木陽子さんとのつながり

 

 荒木陽子さんの先祖が、好博さんや私と同じ中駄家の出身であることはわかったが、どのようなつながりなのか、よくわからない。

 好博さんに尋ねたところ、家系図を送ってくれた。で、好博さんと私の曽祖父久松の、さらに曽祖父と、陽子さんの曽祖父の、さらに曽祖父が兄弟であることがわかった。

 なるほど、簡単にはわからないはずだ(笑)

 卒業以来会ったことのない高校時代の同級生も、家系の一人であった。話はどんどん遠大になっていく。まさに北海道開拓史を紐解くような話である。

 


2022・1・5 荒木陽子さん「父方の祖母の実家が・・・」

 

父方の祖母の実家が中駄家(注・見延の曽祖父長濵久松の生家)です。

漠然と、中駄家のルーツを知りたい、いつか、石川県羽咋市滝谷を訪問したい、と検索していたところ、このHPをみつけました。

札幌 白石能登滝谷会 渡道100年記念の写真に父とその叔父、叔母等見つけて感動しました。よろしくお願いいたします。

 

     荒木陽子さんへ

   お伝えくださった内容から、荒木さんが、現在長濵家のルーツ探し

  をしている長濵好博さんや私の縁者であることは間違いないことがわ

  かります。お会いしたこともないのに、不思議な気分です。今後とも

  よろしくお願い申し上げます。

                       見延典子

 

明治、大正の記録が詰まったUSB
明治、大正の記録が詰まったUSB

 原本は札幌白石区役所の郷土資料館に寄贈されているが、解読されてきたかは不明。解読されていたとしても、事情を知った子孫が読めば、新たな発見があるもしれない。

2022・12・5

曽祖父の手帳

 

 曽祖父長濵久松が残した手帳の解読がすんだと、好博さんがUSBを送ってくれた。解読は、好博さんと交流のある久松の孫の千恵子さん。

USBをパソコンで開いたところ。
USBをパソコンで開いたところ。

札幌白石区役所の郷土資料館 2021/7/21に掲載の写真
札幌白石区役所の郷土資料館 2021/7/21に掲載の写真
先祖が代々守っている薬師堂        石川県羽咋市滝谷
先祖が代々守っている薬師堂       石川県羽咋市滝谷

 薬師堂、観音堂など「日本昔話」に出てくる話と思っていた。複数の僧侶を輩出した先祖や、現在も薬師堂を守り続ける現在の当主に感謝。

 

2022・12・1

薬師堂と観音堂

 

 10月末、父祖の地石川県羽咋市滝谷を訪ねたとき、先祖が代々守っているという薬師堂にも参った。(11月に紹介済みだが、再掲)

 長濵家の先祖が観音堂も建て、妙成寺に寄進したことが地元の市史に載っているが、残念ながらそちらは昭和初期までは確認できるものの、倒壊したのか、現在はないという。

10月29日薬師堂前、札幌から参加、二従兄弟の長濵好博さんと長濵清さん。左が典子
10月29日薬師堂前、札幌から参加、二従兄弟の長濵好博さんと長濵清さん。左が典子

2022・11・24 大伯父も読んでいた『日本外史』

 

 すでに紹介したように、大伯父(祖父の兄)長濵本布(認知前は山田本布)は日蓮宗の僧侶であった。明治32(1899)年~33年の15~16歳の頃は日蓮宗の京都松ヶ崎小檀林というところで学んでいた。

 このたび長濵好博さんの申請によって、当時の学科表の写しが届いた。宗学、仏学、修身、読書、作文、習字、算術を学び、読書には『日本外史』と書かれている。大伯父が読んでいた『日本外史』を今、典子も読んでいると思うと、大伯父にますます親しみを感じる。

 日蓮宗一致派では16世紀末に,関東および関西の根本檀林と呼ばれた下総飯高檀林(飯高寺)と京都松ヶ崎檀林(本涌寺)が開かれたが,のち甲斐身延山の西谷檀林(善学院)などの関東の八檀林と鷹峰檀林(常照寺)などの京都六檀林ができた。同宗勝劣派でも上総宮谷(みやさく)檀林(本国寺)などの七檀林を設立した。

日蓮宗、京都松ヶ崎小檀林の学科表 明治30年代か?
日蓮宗、京都松ヶ崎小檀林の学科表 明治30年代か?

2022・11・20

熱が冷めないうちに

 

 父祖の地羽咋市滝谷を訪れてから20日余りになる。熱が冷めないうちに、長濵家のルーツをまとめていく。すべてがわかったわけではないが、現時点で判明したことは書き残していく。私たちの子孫のために。

 

試し刷り
試し刷り

2022・11・14 ルーツを思う心

 

 父祖の地羽咋を訪れたあとも「チーム長濵」としての調査は続いている。好博さんからの情報をもとに調べるうち、「札幌 白石能登滝谷会 渡道100年記念」として、1984年(昭和59)に長濵家、中駄家を中心に57名が集まって、祝いの宴を開いている写真がみつかった。

 一番驚いたのはこのとき、好博さんと典子の母が同じ写真に写っていたことだ。好博さんは20代、母(旧姓長濵)は50代。今年の3月、札幌で会ったときは「初めまして」なんて挨拶していたのに、なんと、なんと、38年前に会っていたのである。(好博さんのお父さんも!)

 それにしても38年前の写真には、祖母や叔父など故人も写っている。ルーツを大切に思う心は、こんなふうにつながっているのである。

 「札幌 白石能登滝谷会 渡道100年記念」1984年(昭和59)2月

 写っている57名全員の個人情報が載っている名簿も伝わっている。これは特筆すべきことであろう。

               ※写真は若干の加工を施しております。

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

 

「頼山陽と戦争国家

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南々社
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『俳句エッセイ 日常』

書店では取り扱いません。

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『もう頬づえはつか      ない』ブルーレイ

 監督 東陽一

 原作 見延典子

※当ホームページではお取扱いしておりません。

 

 紀行エッセイ

 『私のルーツ

 

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