2021・8・23

岡本久美子さん「見延さんの高祖父の名前がわかりました」 

 ⇔見延典子「長濱久松は父の名から『萬藏』自分の名から『久蔵』と」

 

その後「旧土地台帳」という資料から新たなことがわかりましたのでご報告します。旧土地台帳請求にあたっては、当初は該当地番が存在しないということで受理されず、非常に手間取りましたが試行錯誤の末、ようやく資料を手にすることができました。

 

1つ目。

長濱久松より一世代前は「万右ヱ門」とわかりました。村誌にもこのお名前があり、集落の肝煎をされていたようです。よって、移住の際も久松さんはリーダーとして集落の人々を率いていたのではないでしょうか。

 

2つ目。

それぞれの家があった場所の特定。

久松の家は妙成寺の入り口ほぼ正面。明治前期まではその土地は妙成寺と共同所有(?)の形でしたので、寺領ということだったのでしょうか。

私の先祖十助の家はそこから3分ほど離れた場所にありました。こちらは寺領ではなく個人所有となっておりました。

 

滝谷集落は350軒ほどのコンパクトな集落ですが、まさに妙成寺そのものといってもよい門前集落だったのですね。

 

現在この集落に一番多く見られる姓は「長濱」。その他には十良の実家の姓である柳森も見ることができます。そして特徴的なお名前である中駄姓が数軒見られます。

 

岡本久美子さんへ

このような形で、ルーツについて教えていただけるとは想像もしておりませんでした。互いの先祖もよろこんでくれているでしょう。

 

初めてメールをいただいた時、宗派についてお尋ねしたことを覚えていらっしゃいますか。長濱家は日蓮宗で、その縁だと思うのですが、母は長く無尽講という互助組織に関わっていました。今回の調査により妙成寺との関係も見えて、今なお信心深い母の背景を知った思いです。

 

それと「万右ヱ門」。久松は2人に息子に父の「万右ヱ門」から「萬(万)蔵」、自分の名から「久蔵」とつけたのですね。ルーツ探しの課程では、これまでも命名をめぐって納得する事に多々出会いました。

いつか石川の地を訪れたいものですね!

    下は石川県 日蓮宗「金栄山妙成寺之図」 加能宝鏡 明治31年

2021・7・25  

栃木県在住岡本さん → 見延典子「『私のルーツ』長濱家」⑩

 

 万蔵さんの息子さんに聞いてくださったのこと、ありがとうございます。繋がりを確かめるのはなかなか難しい作業ですね。

石川県能登滝谷「妙成寺」周辺の様子。  長濱家はここから集団で北海道に移住した。
石川県能登滝谷「妙成寺」周辺の様子。  長濱家はここから集団で北海道に移住した。

万蔵さんは明治29年生まれとの事で、十助が白石を離れたのが明治31年ですから、確かに1世代違うと繋がりも薄れてしまいそうです。戸籍についての続報楽しみにしております。インターネットのおかげで様々な情報にたどり着けるのも本当にありがたいですね。

 

図書館や資料館のリファレンス情報も活用しています。「羽咋市歴史民族資料館」に問い合わせをしたところ、大変丁寧にお返事をくださいました。

 

滝谷からの北海道集団移住に関する資料は乏しいとのことで、先祖につながる直接的な情報にはたどり着きませんでしたが、やり取りの中で滝谷の風景や空気が伝わってきました。

 

滝谷集落は小高い丘にある妙成寺のふもとに50世帯ほどで形成されており、その周囲は田園風景が広がっています。明治期から現在まで世帯数は大きく変化していないのではないかと思われます。

 

滝谷の妙成寺墓参の記事がありましたが、調べてみると妙成寺というのは前田家ゆかりの大変由緒あるお寺であるとのこと。滝谷の集落も妙成寺とともにあったようです。

 

妙成寺とその立地を感じられるYouTubeの動画がありましたので、リンクご紹介します。息を飲むような美しい場所でした。

 

https://youtu.be/0zTPskmih_8

 

個人については詳細に辿れないとしても、妙成寺と滝谷を知ることでルーツに触れることができそうです。

 

ちなみに十助が利尻に渡っていることから、私たちの先祖は漁師だったのか?という仮説をたてましたが、それについては否と考えました。確かに広域地図を眺めると海が近い土地ではあり、潮風も入り込んだでしょうが漁を生業にするには居住地が内陸すぎるようです。明治期の滝谷村の産物についての記載は「薪」とのこと。「魚」ではありませんでした。では何故十助は利尻を目指したのか…なかなかのミステリーです。

 

2021・7・21  見延典子 → 栃木県在住岡本さん 

「『私のルーツ』長濱家」⑨

 

 ご指摘のように、私が持っている先祖の戸籍は亡父や縁者が取得したものです。わずか30年程前には、戸籍をとってもルーツについてわからないことが大半でしたが、インターネットの発達で、岡本さんと私のように同じ先祖を持つ方と交流ができるのは画期的ですね!

 

 ところで長濱萬藏の子はほとんどが亡くなっていますが、一人だけ元気なおじさんがいます(母の従兄弟で80代。私も会ったことがある)。母を介しておじさんに長濱十助について訊いてもらいましたが、「まったくわからない」との回答でした。

 

 以上から、長濱久松と長濱十助の関係を調べるには、私が久松の戸籍をとる方法しか残されていないようですが、母の話では私が現在持っている以上の戸籍はとれないような・・・。いずれ取得に挑戦する気持ちはあります。もう少しお時間をいただければと思います。

 

2021・7・16  戸籍取得の具体的方法

栃木県在住岡本さん → 見延典子「『私のルーツ』長濱家」⑧  

 

ご紹介くださった碑文の日付と記事をアップされた日付が同じ日とは!!! 先祖探しをしていると、こういった不思議な巡り合わせが起こるものですよね。私も夢中で調べていますが、何かに導かれているような感覚もあります。

 

久松さんが北海道開拓団として移住する道を選択し、萬蔵さん久蔵さんがその志を継承していったのですね。開拓のから街の発展にまで携わってきたというのは本当にすごいことだと思います。その足跡をこのような形で知ることができて、私もとても嬉しく思います。

先祖探しのスイッチが入ったからこそのご縁、不思議ですね。

 

見延さんの場合はお父様が先行して調査をされていたとのことで、記載内容の控が手元にあるということでしょうか。

 

多くの場合、先祖探しの入り口は戸籍を取得することから始まります。

先祖の戸籍とはいえ難しいことはなく、直系であれば遡れる限り全ての戸籍を行政の窓口で取得可能です。通常の戸籍を取得するのと同様に本籍地のある市町村の窓口で申請できますし、遠方の場合は郵送での取り寄せも可能です。自分→父母→祖父母→曽祖父母・・・とひたすら遡っていきます。

 

見延さんの場合は久松さんまで白石区に本籍地があると思われますので、白石区の戸籍課に申請します。これらの戸籍が揃ったら、次に移住前の本籍地である羽咋市に申請します。

この時に見延さんと久松さんが直系であることを証明するために戸籍のコピーを添える必要があります。部分的で良いので、本人の母の名、その父の名・・・とわかるように。羽咋の本籍地が既にわかっているとはいえ、一足飛びには申請できないため繋がりを持った戸籍の取得が必要となるのですね。戸籍からは久松さんの両親うまくすれば祖父母のお名前がわかると思います。さらに1世代、2世代遡ることができたら調査はまた一歩前進ですね。

 

現在取得可能である一番古い戸籍は明治19年式とよばれるもので、これを目指してたどっていくのですが、自治体によっては廃棄されている場合があります。申請してみないとわからないので、期待して申請してみるしかありません。

 

「明治19年式」といいましたように、戸籍は時代により少しずつ様式が変わっており、記載内容も異なります。戸籍を遡るたびに知らない先祖の名前を発見することもワクワクしますし、味のある手書き戸籍を解読するのも楽しさの一つです。ファミリーごとに家族構成の個性を感じますし、市町村、都道府県、東日本、西日本でもちょっと雰囲気が異なります。時代の空気感も伝わってくるので、ぜひ戸籍取得を楽しんでみてください。

この楽しさにハマってしまうと、ポストに届く返信が楽しみで仕方なくなりますよ。

 

うまく説明できず失礼いたしました。

先祖の戸籍取得方法はこちらのサイトに詳しく書かれているのでどうぞご参照ください。

先祖探しについて熱心に情報発信、共有をされている方です。

https://gosenzo.net/se/戸籍謄本(除籍謄本)の郵送請求/

 

羽咋についても少しずつ調査をしていますので、引き続きシェアさせていただきたいと思います。

 

長濱萬藏像を背後から写した写真「歴史のあしあと」というサイトから転用しました。以下同様
長濱萬藏像を背後から写した写真「歴史のあしあと」というサイトから転用しました。以下同様

 想像ですが、お尋ねの「能登滝谷会」は休会ではないかと思います。

 

 昭和59年の墓参は、母の妹たちは参加していますが(都合で母は参加していません)、その後特に同会の話題は伝わってこないからです。

17名の地主名が刻まれる
17名の地主名が刻まれる

2021・7・11

見延典子 → 栃木県在住岡本さん 

「『私のルーツ』長濱家」⑦

 

 岡本さんはよく調べられていますね。自分のルーツを調べたいと思っている方もいらっしゃると思うので、お時間のあるときでかまわないので、「先祖の戸籍の取り方」を具体的に教えてください。

長濱萬藏像の碑文
長濱萬藏像の碑文

 ただ、これも想像ですが、石川県には岡本さんや私と同じ「長濱家」の血族が暮らしていると思います。

 

 あるいは何かが突破口になって「能登滝谷会」にたどりつけるとも限りません。

 

 ところで、十助が利尻島に渡ったのは「漁」のためでしょうか? 私たちの共通の先祖は能登で漁師をしていたのでしょうか?

 


 身内の自慢のようで心苦しいですが、久松は教育にも熱心だったようで、萬藏は旧制北海中学校、久蔵は旧制札幌第一中学校(現在の札幌南高・見延の母校)に進学しています。母の話では、当時旧制中学校に進めたのは多少の財力があったからだろう、といいます。

 

 長濱萬藏の碑文は以下の通りです。読みやすいように見延が句読点を打ちました。その他わかりやすい表記に変えているところもあります。

 

「長濱萬藏氏は明治29年白石に生まる。青年時代より開拓に精神に富み、家業を継ぎ、農業を営む。人格高潔、社会公共に奉仕するの念篤く、村議会議員、農業協同組合長、消防団長、民政委員等の公職を歴任し、地方自治のため、時の札幌統制電話中継所々長佐々木良郎、札幌市役所白石区出張所長文字秀太郎両氏と図り、左(注文字板あり)の地主を統合。その協力を得て、一望の農地を市長高田富与より本郷の地名を受け、大住宅街たらしめんと昭和31年5月区画整理事業の礎石を置けり。今や白石町全域にわたる飛躍的発展は、実に本地地区の発展をもってその端緒をなしたるものといふべく、ここに開町10周年迎ふるに当り、同志相図り、氏の胸像を建立し、その恩恵を感謝し、永く偉業を伝へんとするものなり」

   昭和47(1972)年7月11日建立 建立者 同志一同

 

碑文の日付がたまたま今日の日付。偶然に驚きました!

 

2021・7・9

栃木県在住岡本さん → 見延典子

「『私のルーツ』長濱家」⑥

 

見延さんのお母様の証言はとても貴重ですね。

 

久松家、十助家の関係性が見えてきた気がします。

長濱萬藏翁像 札幌市白石区「本郷商店街」
長濱萬藏翁像 札幌市白石区「本郷商店街」

 

お返事まで少しお時間をいただきましたが、直系として取得可能な戸籍の全てが手元に揃いましたので、十助に軸足を置いて時系列を整理してみました。

 

イヨの兄、長濱十助が明治27年に白石に移住したとき、十助はまだ20歳でした。

父不在、母と幼い兄弟を支える若き家長となり、既に妻も迎えています。

このとき妹イヨは10歳、弟惣右ヱ門は7歳、下の弟外松は5歳。

改めて考えてみると、最初に移住した白石へは母と妹弟は同行せず、羽咋に残ったと思われます。

ただ、十助が移住を重ねる間にも子が生まれていることから、

十助と妻はともに北海道へ移住したものと考えられます。

そして万蔵さんや久蔵さんと同年代の子供たちが生まれています。

 

のちに白石から利尻へ渡り、一度羽咋へ戻っているのが明治34年、

同じ地番に戻っていることからも、ここには母と弟たちが住み続けていたと考えるのが自然のような気がします。

(それを裏付けるように、今回届いた戸籍には明治40年に弟惣右ヱ門が1滝谷038番(十助の旧本籍地)に分家届けとの記載がありました。)

 

そして十助が一度羽咋に戻った翌年の明治35年にイヨは北海道の杉本家に嫁いでいます。

(ちなみに、前回の最後のご質問にありました、嫁ぎ先である杉本家のルーツは鳥取県で、明治26年に上白石村に移住しています。

上白石村は豊平川に近いエリアで、長濱家がいた白石村とは少し離れた場所ですが、何かしらのネットワークで縁があったのでしょう。)

十助が羽咋に戻ったときに、縁談の話を持ち返り、イヨを連れて北海道へ再び渡ることにしたのではないだろうか・・・などと思いを巡らせているところです。

 

こうして考えると、イヨは白石でのネットワークにはそれほど関わっていなかったかも知れません。

とはいえ、滝谷は小さな集落のようですから移住した人々のことはよく知っていたと思います。

嫁いでからも道内数カ所に転籍し11人の子を産んでおり、

母タケ同様にイヨも一番下の子供がまだ幼いうちに夫を亡くしています。

時代も戦前戦中戦後と苦労の多い時代であったゆえ、日々の生活で精一杯という状況で、実家の家族、親族の人々との交流を細やかに行う余裕はなかったかもしれません。

もしくは交流があったとしても、今はそれを知る手がかりに乏しい状況です。

 

一方兄十助は白石に移住した人々との交流を持ち続けていたのではないかと思います。

特に共にに移住した久松さんとは強い絆があったでしょうし、親族という関係以上に、同志といった存在だったのではないかと思うのです。

 

よんさんが羽咋に戻ったように、移住した後も故郷とのつながりを保ち続けてきたことがよくわかりました。

イヨの弟である惣右ヱ門が羽咋に残っているということから、この家のご子孫は今も滝谷にいらっしゃるかもしれません。

 

昭和59年の墓参から30年以上が経ちましたが、今も能登滝谷会は存在しているのでしょうか・・・

どなたかご親戚の方で、この会についてご存知の方はいらっしゃいませんでしょうか?

 

 

ホームページ編集人  見延典子
ホームページ編集人  見延典子

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