私のルーツ 私のルール② 私のルーツ③もご覧ください。

 

 木内由晴(大阪府在住)さんの先祖の「木内武次郎」と見延典子の先祖の「井川嘉平(惣助)」「井川平八」は明治22年、徳島県から北海道篠路兵村に屯田兵として入植。そのことを見延がブログで書いたことから交流が始まり、目下、協力して互いのルーツについて調べている。

 

 

徳島城は明治6年の廃城令により、明治8年、鷲之門を除く御三階櫓以下、城内のすべての建築物が撤去された。明治政府はかくのごとく江戸時代を否定したわけである。

 

2017・7・10

私のルーツ「井川家」墓所➃

 

時間の関係でJR徳島駅前に戻り、徒歩数分のところのある「徳島中央公園」へ。徳島城があった場所だ。

徳島城。庭園は残っている。
徳島城。庭園は残っている。

左の地図、「田宮公園」の付近に木内さんのご子孫は住んでいたのではないか? また「あわとみだ」とある辺りが「富田浦」なら、ここからも屯田兵を出している。そしてこれらの地域は、私の先祖の「稲田家」ではなく「蜂須賀家」配下にあったのではなかろうか。

 


蜂須賀家は脇城を重要視し、筆頭家老の稲田家に1万石を与え、城代として置いた。脇の町は阿波西部の中心地として繁栄したが、一国一城令により寛永15年(1638)廃城。現在は「うだつの町並み」を観光資源に「道の駅」もある。近くの古民家で昼食。「そば米雑炊セット」。50代の女性店主が郷土史に詳しく、稲田家の話をしばし拝聴。郷土資料館に行く手間が省ける。

吉野川である。高速道路は山の中を走っていたので、なかなか見えなかったが、どうしても見たかった。

2017・7・5 

私のルーツ「井川家」墓所③

 

墓参後、一般道を30分東に戻り、脇城があった美馬市脇町へ

 かつて藍染の商家が軒を連ねた通り
 かつて藍染の商家が軒を連ねた通り
そば米雑炊は餅入り。豆腐は固め。デザートによく冷えたわらび餅がついて1000円
そば米雑炊は餅入り。豆腐は固め。デザートによく冷えたわらび餅がついて1000円

藍染の土産物屋を冷やかしたあと、駐車場に戻る。すぐそばに土手があるのに気づき、上ってみる。

 脇町の土手から吉野川上流を望む
 脇町の土手から吉野川上流を望む

人々に多くの恵みと試練を与えながら、「四国三郎」(吉野川の別称)は眼下を悠々と流れている。

 

 

 


間違いない。井川家の資料に掲載されていた写真のままの墓所である。

確認できる井川家の最も古い先祖は300年ほど前の井川久乃進。井川関係の古い墓をまとめたのがこの墓所。昭和41年のことである。

井川一族は徳島藩蜂須賀家城代家老稲田家の家臣曽我部氏の家来。半士半農のいわゆる郷士であった。ようやく辿りついた。感無量で墓参をした後、墓石に家紋が刻まれていることに気づく。私の高祖父やYちゃんの嫁ぎ先の家紋とも異なる。家紋なんてそんなものかもしれない。

 

2017・7・1 

私のルーツ「井川家」墓所②

 

親切な男性が教えてくれた場所には確かに墓所らしきものがある。さらに近づいてみる。

この付近はかつて郡里村(こおざとむら)と呼ばれており、屯田兵として北海道に渡った私の高祖父一家も暮らしていたはずだ。


前夜まで降水確率90%雷雨という最悪の予報。しかし朝には60%に下がっている。何とかなるだろうと判断。予定通り、鳴門市からレンタカーに乗り、徳島道を走り、一路、美馬市を目指す

鳴門市から約1時間。美馬インターチェンジで降りる。道なりに約5分。地図ではこのあたりのはず…。

思いきって「井川」の家のチャイムを鳴らす。最初の家では不審者の間違われたが、2軒目では優しそうな男性が出てきて「へぇ、ルーツ探し? 頑張ってな」と墓所の位置を教えてくれる。「わかりにくい」が先入観になっていた。墓所は道路からも見える「わかりやすい」ところにあった。

          続きます。

 

2017・6・29 

私のルーツ「井川家墓所」①

 

6月25日、かねてより計画していた徳島県美馬市にある「井川家の墓所」に向かう。

 目指すは美馬市(赤丸)
 目指すは美馬市(赤丸)

Yちゃんのご主人から墓地がある場所の地図をいただいているが、「わかりにくい」と聞いている。

「井川」の表札を掲げた家が多数あり、井川集会所も。この一画に違いないが、見つからない。


2017・6・3 公開書簡 木内由晴さんから見延典子へ

              「人はどういう時に故郷を捨てるのか

こんにちは

・議題

「人はどういうときに故郷を捨てるのか」について以下のとおり考えてみました。

         (注、木内氏の先祖は徳島県➡屯田兵➡満州に移住)


1.宿命(身に降りかかる水害・戦争)が発端・・・困窮や生死を回避するための試行錯誤を繰り返す。

2.情報を収集するプロセスを経て決意した時・・・情報を分析して決意する。

 

・結論

「情報を分析して決意した結果」故郷を捨てるものと考えます。

以下に思考のプロセスを記載します。

 

1.徳島県
吉野川の氾濫→水害→困窮→回避→情報収集・分析→将来展望(どの程度情報開示をしていたか不詳)→決意(家族会議)→起死回生(希望)


2.北海道

石狩川の氾濫→水害・泥炭地→困窮→回避→情報収集・分析→将来展望(どの程度情報開示をしていたか不詳)→決意(家族会議)→起死回生(希望)


3.満州
戦争(予測可能)→恐怖→困窮→回避→情報収集・分析→本土へ→起死回生(希望)

 

 

藍の花 インターネットより
藍の花 インターネットより

2017・5・27 公開書簡 

見延典子から木内由晴さんへ

「藍の話」

 

木内由晴様

 

来年は明治維新150年ということで、明治維新を評価する声が巷にあふれるのでしょうが、調べるほどに明治という時代が一部の特権階級にとって都合よく作られた時代という思いが強くなっていきます。


木内さんがお書きのように、明治十年代、下級士族や農民の視点で明治政府が行った数々の施策を検証していけば、そのあまりに無慈悲な悪政ぶりに怒りを禁じられません。まさに一部の特権階級のための国作りでした。(この怒りから『汚名』を書きました)

 

ところで最近、徳島県名産の藍について新たな特性を知りました。ざっくり書くと次のような流れになります。

 

吉野川の氾濫 ➡ 周辺に肥沃な土地がもたらす ➡ 肥料が必要な藍の生育に好都合 ➡ 3月と8月の2回収穫できる ➡ 台風襲来

➡ 吉野川の氾濫

 

これが繰り返されたというのです。

 

この頃「人はどういうときに故郷を捨てるのか」ということを考えます。近年、起きている人災、天災のその後を見るにつけ、「見極めがついたときかな」と思います。いかがでしょうか。

                         見延典子

 

5・22 公開書簡 木内由晴さんから見延典子へ「格差社会」

 

見延典子様へ

 

私の先祖が明治22年7月に北海道札幌市篠路に入植したころ、徳島県は吉野川の氾濫で農業が衰退しており、肥沃な地の利を生かした藍の生産・販売を中心にした資本主義経済が確立されたころと推測します。その証拠に明治12年から明治15年ごろには第89銀行や徳島銀行が設立されております。この時代から徳島県における格差社会が顕著に始まったのではないかと推測します。

 

先祖は藍に関する技術や知識をもっていなかったため、その恩恵に預かれなかったものであり、また、藍の生産には肥料代が製造原価を押上げるので、資金を持たない先祖は藍の生産・販売に参加できなかったと推測します。このような格差社会による精神的負担が先祖を苦しめたと推測します。その結果、経済的にはますます豊かになる徳島県を尻目に徳島を去ったと思います。急速に発展する徳島県の経済社会に追いつきたかったが、自力ではどうにもならず、心機一転北海道に移住したと思います。このフロンテア精神は私の心の中にもあります。

 

また、木内一族で徳島県に残ったものは、水害にあわない土地を所有していたか。あるいは早くから藍の生産・販売等の新しい資本主義経済を享受したものたちで、経済的にもある程度豊かなものたちだったのではないかと推測します。

                             

                                       木内由晴

 

2017・5・19 公開書簡 見延典子から木内由晴さんへ 

                       「自然災害」➁

木内由晴様

 

一昨日、徳島県美馬郡のご出身のOさんのことを書きましたが、Oさんのご先祖がお住いだったのは「美馬郡三島村大字小島村」というそうです。そこで改めて調べて、驚きました。私たちの先祖の前年「新琴似兵村」への徳島県からの入植者に、なんと「小島村」出身者がいるのです。             

 

右の地図、私の先祖が暮らしていた「郡里村」のすぐ南も吉野川が流れています。新琴似兵村への入植者を出している「猪尻村」「拝原村」も吉野川沿いを東に行ったところにあります。この地図にはありませんが、やはり新琴似兵村への入植者を出している「阿波郡西林村」は、吉野川沿いにもう少し西へいったところにあり、吉野川に面しています。

 

まず「小島村」の位置を調べてみました。左の地図をご覧下さい。近くにJR徳島線「小島駅」があり、吉野川がすぐ北を流れているのがおわかりいただけると思います。

 

左の地図、木内さんのご先祖が暮らしていた「田宮村」も、吉野川のすぐそばですね。「田宮村」のすぐ東南には新琴似兵村への入植者を出している「名東郡富田浦町」「名東郡寺嶋町」もあるのです。この一帯に蜂須賀家の武士が住んでいた可能性はありますが、屯田兵への応募は「蜂須賀家」「稲田家」というようなくくりではなく、「吉野川」の洪水に伴う生活の貧困が原因だったのではないでしょうか。ご意見をお待ちしております。

           見延典子

 


2017・5・17公開書簡 見延典子から木内由晴さんへ「自然災害」

 

木内由晴様

 

調査結果をお知らせくださり、ありがとうございます。

私たちの先祖が北海道に渡ったのは明治22年。蜂須賀家と稲田家の対立意識は徐々に薄まりつつあった時代かもしれません。

 

ところで私が通っている歴史の勉強会にOさんという男性が加わり、聞いてみれば、母方の曾祖母が徳島県美馬郡のご出身で、材木業のような商売をしていたとのこと。けれど吉野川が氾濫して、商売ができなくなり、大阪に移り住んだというのです。たぶん明治10年代か20年代というので、徳島の自然災害を調べてみたところ、徳島は台風による吉野川の洪水被害が多いようです。

 

福井県の「見延」のルーツも調べておりますが、農民が北海道に移住した理由の一つに自然災害による凶作があります。あるいは徳島県私たちの先祖もそんな事情が絡んでいたのかもしれません。

ただ、「見延」の場合もそうですが、一族の中で北海道に渡ったのは一部で、多くは故郷に残っています。おそらく木内さんのご親戚も、徳島に残られた方のほうが多いのではないでしょうか。

 

私たちの先祖はよほどフロンテア精神に富んでいたがのか、単に「怖いもの知らず」だったのか、わが身に重ねて考えております。

                          見延典子

               

2017・5・14 公開書簡 木内由晴さんから見延典子

           「名東郡田宮村の土地(知行地)調査結果の件」

見延さんへ

 

こんにちは

名東郡田宮村の土地(知行地)調査依頼をしました件で、徳島県立文書館から回答が来ましたので、回答者名を除き、下記メールの原文を加工しないでご報告します。

 

木内さんのご先祖が住んでいた徳島県田宮村の件は、『旧高旧領取調帳 中国・四国編』に徳島藩の場合、明治初年の給人が掲載されている事で、少し解決が付くのではないかと思います。

この本は近藤出版社(現在は倒産)日本史料選書16 に収められたもので昭和53年に刊行されています。江戸時代の史料として はとても基礎的な本なので、大阪市内の大きな図書館であれば必ず備えているものと思います。

田宮村は、もともと徳島市内近郊の村(徳島の町外れである佐古・助任などと近接しているような村です)ので、余り大きな家臣の一円給地のようなものはなく、小さな家臣が少しずつ給地を持っている村です。
約748石の村の内、52石が蔵地(徳島藩の直轄地)、その他17人の家臣知行地と3ヶ寺の寺領があり、大きな給人は、山内忠兵衛108石、長谷川所左衛門112石、西尾数馬172石、片山勝三郎52石、等となっています。
直接本を見ていただければと思いますが、稲田の関係者の給地は見えないようです。

当館には、残念ながら田宮村に関する史料がほとんどなく、 村の内部についてはあまりわかりません。
士族については、蜂須賀家の家臣は士族となっています。蜂須賀家の家臣(稲田家も含む)の家臣(陪臣)は基本的に卒族とされるのが明治政府が降ろしてきたルールでした。稲田家の場合幕末期の活躍を理由に家臣団が強く士族になる事を望んだため、蜂須賀家も稲田家もかなり困ったようです。そのことが一部家臣どおしの対立となり、庚午事変に至ったと考えられています。

また、蜂須賀家に近い商人や豪農の一部は小高取という格を得て(一種の売官)、武士格となっている事があり、その後士族となっている家もあります。士族についてもやっかいな部分があります。

徳島からの渡道の内屯田兵については、直接の募集に応募をした可 能性が高いと考えられますので、蜂須賀家の家臣か稲田家の家臣かはあまり関係がないと思われます。特に徳島県内では直接の衝突はなかったため、大きなしこりにはなっていないように思えます。(北海道でも蜂須賀家と稲田家は交流があったとも伝えられています) 

ということで、十分な内容をお伝えする事はできませんが、お許し下さい。今後、決定的な史料が見つかる事を祈ります。

                        木内由晴

 

 

井内谷川。インターネットより
井内谷川。インターネットより

 

調べてみると、三好郡「井川町」昭和31年、辻町と井内谷村が合併してできた新しい町のようです。但し、中世は「井川荘」という荘園で、江戸時代は「井之川村」と呼ばれていたそうです。

 

地名と姓の関係ですが、「三好郡」とは「三好氏」が治めていたから「三好」になったのではなく、逆に「三好」という地名があり、そこに入ってきた豪族が「三好」を名乗ったのです。ということはまず地名があり、次に姓がつけられるわけです(もちろんその逆もありますけど)

2017・5・12 

公開書簡 見延典子から

  木内由晴さんへ「井川、井内」

 

木内由晴様

 

「井川(いかわ)」という姓の由来が気になっています。井川一族が出した冊子には「伊予の井川が起源ではないか」とあるものの「根拠はない」と書かれています。私はむしろ17世紀半ばから井川一族が暮らす徳島県美馬郡郡里の西隣り、三好郡の「井川」と関わりがあるような気がします。これもまた「根拠はない」んですけどね(笑)

「井川町井内西」
「井川町井内西」

木内さんのご親戚に「井内」がいると伺い、「井川」「井内」が並んでいる地図を見つけ、嬉しくなったので載せます。屯田兵以前にも先祖が接点をもっていたら、と考えるとますます調査に熱が入ります。

          見延典子

 


2017・5・11 公開書簡 木内由晴さん 🔁 見延典子「知行地」

見延さんへ

 

さて、5月4日付見延様のブログで「名東郡田宮村」の土地(知行地)についての記載がありましたので、徳島県立文書館に調査の依頼をしました。返事を頂戴しましたので、お知らせいたします。

 

蜂須賀家の家臣又は稲田家の家臣の判別については名東郡田宮村の知行地の調査等により判明するものと考えておりますが、徳島県立文書館の話によりますと、下級武士の間では蜂須賀家や稲田家といった垣根がなく、婚姻や養子縁組が頻繁にあったとお聞きしましたので、戸籍に残る「名東郡田宮村」(戸籍に残る養子縁組)をもって蜂須賀家側又は稲田家側を判別することが難しいかもしれません。

 

明治政府から北海道の静内町に移住する代わりに士族籍を得た旨の記載をWEB上に散見されますが、徳島県立文書館の話では、稲田家でも上級者になれば、士族籍を得ていたという事でした。蜂須賀家の家臣が稲田家であり、元々親類縁者の血縁関係があったものと推測されます。

                                     木内由晴

 

木内由晴様へ

 

「名東郡田宮村」の調査結果をお知らせくださり、ありがとうございます。「徳島市民双書3」にも、特に徳島の山間部はさまざまな人々が入り込んでいたという記述がありました。「〇」か「×」かのような安易な考え方や区別の仕方はやめたほうがよさそうですね。

行ったり来たりですが、石村代表のご先祖も徳島藩ということで、複合的に徳島の歴史を考えていけそうです。

来月、徳島県美馬町へ先祖の墓参に行ってまいります。新たな出会い、発見があればご報告します。

                        見延典子

 

2017・5・10 公開書簡 石村代表 🔁 見延典子「家紋」

 

見延さんへ

 

こんにちは 何んとも オタクな2人のようですが

 

 私の先祖 湛山は 所謂 稲田騒動 (明治3に当時の徳島藩淡路洲本城下で洲本在住の蜂須家臣の武士が、筆頭家老稲田邦植の別邸や学問所などを襲った事件)で岡山にでたものと思い込んでましたが 見延さんよりの話で改めて残っているものの時列をよく見てみると  向学の志強く 儒を以て岡山に閉居とあります (いろんな事情があったでしょう) 長男は 元治元年 岡山で生まれています  岡山井原近くの名家の襖絵に作品が残っているそうで調べております 

 

また篠崎小竹 森田節斎などその才学を称した  とあります 遠い記憶が  頼山陽へ 私の足を向けさせたのでしょうか(笑い) この辺の「北のゼロ年」以前の話は まさに小説になりそう 見延さん 宜しくお願いします

                                        石村

石村良子代表へ

 

石村代表のお話で気になるのは、石村家の家紋が蜂須賀家と同じ「万字紋」という点です。

 

以下、私の推測(妄想)です。

石村代表のご先祖は洲本藩士から浪士になり、蜂須賀家に拾われ(失礼な言い方ですが)、理由はわからないけれど、益習館周辺で、つまり稲

稲田家の家紋「矢筈」
稲田家の家紋「矢筈」

田家周辺で槍術を教えるようになる。だが何代目かの当主福田十郎左エ門は槍術より画才に秀でる。嘉永六年(1853)ペリー来航により稲田家は海防に敏感になり、やがて佐幕派の蜂須賀家との間に溝ができ、修復し難いほどになる。蜂須賀家と稲田家の板挟みになった福田十郎左エ門は家督を弟に譲り、何かしら縁のあった岡山に閉居して、南画家の道を進む。いかがでしょうか。

見延先祖「井川」の「丸に違い矢」
見延先祖「井川」の「丸に違い矢」

ちなみに徳島県美馬郡に住んでいた稲田家の家来の家来(又者)だった私の先祖の「井川家」の家紋は、以前「丸に違い鷹羽」と書きましたが、よく調べると「丸に違い矢」でした。家紋については諸説ありますが、私は家紋によっても稲田家との関係の強さを感じたのです。

         見延典子

 

 


2017・5・9 公開書簡 石村代表 🔁 見延典子「益習館」

 

見延さんへ

 

色々調べていただいて ありがとうございました。

洲本の稲田藩学問所 「益習館」で篠崎小竹、頼山陽も教えていたということで洲本市立淡路文化史料館に昔行きました。稲田騒動の古文書など展示してありました。その時、係の人が調べてあげると言ってくれましたが、急いでいたので残念でした。こちらもいい機会ですので調べます。   

                            石村

石村良子代表へ

 

石村代表の曽祖父「福田十郎左エ門」が洲本にお住まいの藩士でしたら、洲本城代を務めた稲田家の家臣らの学問所「益習館」で槍術を教えていたか、その周辺にいらした可能性がありますね。ただ、江戸後期から幕末にかけて淡路島周辺は海防が命じられた時期で、その最中、「福田十郎左エ門」が岡山に閉居して南画家に転身されるのは、稲田家に背を向けたような印象を受けます。いかがでしょうか?

 岡田鴨里著『日本外史補』       インターネットより
 岡田鴨里著『日本外史補』       インターネットより

岡田鴨里(1806-1880)は本姓砂川。淡路島の庄屋の息子ですから、親の代から篠崎松竹や頼山陽は交流していた可能性があります。岡田鴨里は長じて京都の頼山陽の真塾で学び、なんと『日本外史補』なるものを出版しています。

私も「益習館」を調べる過程で、思いがけない人物に出会いました。「岡田鴨里」です。頼山陽を調べる過程で、何度か目にしましたが、そのままになっていました。

 

岡田鴨里著『日本外史補』        インターネットより
岡田鴨里著『日本外史補』        インターネットより

幸いにも『日本外史補』は国会図書館でデジタル化されているので、インターネットで読めます。解題を書いた久保天隋なる人物によれば、『日本外史補』の内容は主に戦国時代地方の豪族興亡の跡を明らかにしようとしたものようです。さらに久保天隋は「外史補の文章は外史に及ばない。いかなる贔屓目で見ても山陽の文才に及ばぬことは明白である」と書いています。こんなふうに書かれると、正直、読む気が失せてしますね(笑)

長くなりました。まだお伝えしたいことがあるので、また書きます。

                           見延典子

 

 

2017・5・7 石村良子代表 🔁 見延典子へ「島村家の系譜」

石村代表の曽祖父・島村淡山作の山水図二幅。山口県上関町の旧家「吉田邸」を移築した建物に掛かる
石村代表の曽祖父・島村淡山作の山水図二幅。山口県上関町の旧家「吉田邸」を移築した建物に掛かる

父の話では 士族であったという 実家に槍があった

 

何か事情で 岡山に出たのは間違いないです

                 石村                                

 

2017・5・7 

石村良子代表 🔁 見延典子へ

「石村家の系譜」

 

見延さんへ

 

島村鉄三明治23年没 享年71歳 洲本で槍術指南 のち 岡山で南画家    島村周之助 元治元年岡山で生まれる~大正14年没享年61歳    石村父


石村良子代表へ

 

お話をまとめれば、次のようになるでしょうか。

① 石村代表のご先祖は洲本藩士であった。

② 曽祖父は福田十郎左衛門といい、槍術指南役を務めていたが、家督を

  弟に譲り、島村鉄三と名のり、岡山に閉居。南画家(島村湛山、淡山 

  と号す)になる。明治32年(1899)没。

③ 祖父の島村周之助は元治元年(1864)岡山で生まれ、大正14年

  (1925)61歳で没す。

 

「池田忠雄」という江戸時代前期の大名は、洲本藩主から岡山藩主になっています。但し、以前も書いたように洲本藩は廃藩になります。石村家に伝わる「洲本藩士」とは、蜂須賀家が阿波藩を治め、洲本に城代稲田氏(稲田家)を置いたあと、稲田家に仕えたという意味ではないでしょうか。とすれば、見延の先祖と同じく稲田家の配下にいたことになります。(「稲田御家中格順帳」には「槍術 沼田甚左衛門」の名前が見えます)

 

石村代表の曽祖父は弟に家督を譲り、「島村」を名乗ったようですが、どこか養子に入られたのでしょうか。私ごとですが、父方「見延」の曽祖父、母方「中山(井川)」の高祖父、曽祖父とも長男でありながら、故郷やなじみ多い地を離れ、苦難多き道を歩んでいます。長男としての責任の果たし方について考えさせられますね。

                          見延典子

2017・5・6 石村良子代表 🔁 見延典子へ

 

見延さんへ

 

昨日 好天の中「竹原竹祭」が開催された 直会の時 見延さんと ルーツの話になった 島村(石村の実家名)事も調べてあげるという なお家紋は 丸に卍 見延さん 心当たり有る方 よろしくお願いします

 

疑問一 ルーツ篇 阿波時代  島村鉄三(号は澹山 時に淡山)は阿波の人 洲本藩士に槍術指南役を司る 福田十郎左衛門の長男 向学の志強く 家督を門弟に譲り 儒を以て家をなずけ 岡山に閉居する

 

疑問二 南画家篇 岡山時代 吉田家との関係 南画作品は多く残る 

                           

                              石村

石村良子代表へ

 

残念ながら、目下、徳島を調べているところでして、「疑問二」の南画篇、岡山時代についてはまったくわかりません。

 

「疑問一」について、島村鉄三さんは石村代表にとって曽祖父にあたるのでしょうか? 島村鉄三さんは明治時代に岡山の移ったのでしょうか。島村鉄三さんの生年、没年をお知らせください。およそでもかまいません。

 

                          見延典子

 

2017・5・5 

見延典子から石村良子代表へ

          「洲本藩」

 

石村代表のご先祖は洲本藩士だったという。そこで洲本藩について調べてみました。洲本藩は17世紀初めに廃藩になり、淡路はその後大阪の陣で軍功をあげた蜂須賀至鎮の阿波藩領になり、洲本には阿波藩が派遣した城代稲田氏が置かれたのです。

蜂須賀家の家紋の一つ「蜂須賀万字 」
蜂須賀家の家紋の一つ「蜂須賀万字 」

また石村代表のご先祖の家紋は「万字」とのこと。蜂須賀家の家紋もまた「万字」。洲本藩は廃藩になったあと、ご先祖は蜂須賀家の家臣になったのでしょうか。それとも私の先祖と同じく稲田家の家来でしょうか。

 

話は飛びますが、頼山陽は京都に居を移して程なく、浦上春琴と淡路島へ揮毫の旅に出ます(拙著『頼山陽』参照)。淡路島は海に囲まれていることから、幕末には海防の意識が高まり、開明的な気質の人が多くなったそうです。

 

同じく四国徳島にルーツの一つをもつ石村代表と私が「頼山陽ネットワーク」を通じて親交を結んでいるのも何かの縁かと思います。今回のルーツ探しを通じて、頼山陽関係の「発掘」もあります。おいおいお知らせ致します。

                          

                          見延典子

 

「徳島市民双書3庚午事変」昭和43年徳島中公公民館
「徳島市民双書3庚午事変」昭和43年徳島中公公民館

ところで「徳島市民双書3」はネットで読めますが、古本を購入しました。目下、私が知りたいのは木内さんの戸籍にある「名東郡田宮村」は稲田家の知行地だったのかということです。新琴似兵村の入植者にも名東郡出身者はいますが、稲田家の陪臣だったのか。あるいは蜂須賀家側だったのではないかと。そのあたりのお考えをお聞かせください。

 

「徳島市民双書3」のよれば、稲田家家臣の筋目帖は全員分現存しているが、調べが進んでいないという記述がありました。どこかに手つかずのまま保管されているのでしょう。

 

2017・5・4

「田宮村のこと 曽我部氏の子孫」

 

木内由晴さんへ

 

徳島県は明治期、北海道に多くの移民を送っているのに、屯田兵に関する資料は残っていないなんて。屯田兵は「国策」ですよ。それが闇に葬られていくなんて。ますますファイトがわいてきました(笑)

「稲田家知行地」に「井川」一族が暮らしていた美馬郡が含まれているのが確認できる。
「稲田家知行地」に「井川」一族が暮らしていた美馬郡が含まれているのが確認できる。

また井川が仕えていた曽我部氏の一族曽我部直座衛門は、井川の由緒書にあるように、稲田家主君とともに北海道に渡ったと書かれていました。曽我部直座衛門は重臣だったようです。ただ、曽我部氏の分家は美馬郡に残ったのか、「曽我部道夫」なる人物が出てきます。

 

ネットによれば、「曽我部道夫」は嘉永2年に美馬郡で生まれ、岐阜、島根、福岡の県知事や北海道庁書記官、衆議院議員(徳島県で出馬)などを経て、大正12年に没しています。「曽我部道夫」が井川が仕えた曽我部氏の子孫なのか断言できませんが、華麗な経歴をみるにつけ、やるせない思いになります。 

                         見延典子

 

 

2017・5・3「名東郡田宮村の木内に関する情報」

 

見延典子さんへ

 

徳島県立文書館で次の事項を確認しました。

 

1.木内文書と木内()の関係性について

 木内文書に関する徳島文書館の見解では見延さんのおしゃる通り木内文書の木内のルビがキノウチ(庄屋)であり、木内()のルビはキウチということで無関係と分かりました。地理的にも木内(庄屋)の所在地は戸籍に出て来る名東郡田宮村から遠く離れているため、無関係ということでした。

 

2.名東郡田宮村付近の木内に関する情報について

 

従前より木内に関する情報を問い合わせておりましたが、徳島県にはそもそも屯田兵に関する記録が残っていないそうです。また、名東郡田宮村付近の木内に関する記録もないという結論となりました。一般人の記録は残らないということでした。

                                 木内 由晴

 

2017・5・3 「徳島市民双書3 庚午事変」

 

木内由晴さんへ

 

前回、資料と書いたのは「徳島市民双書3 庚午事変」です。インタ━ネットでも読めますが、「日本の古本屋」やアマゾンで売っていたので、本日注文しました。

 

「徳島市民双書3 庚午事変」では、稲田家家臣の「筋目帖」は全員分あるような書き方でしたね。「井川」はその「筋目帖」から家系図が判明したので、「木内」もあれば、と願うばかりです。ただ、その筋目帖がどこにあるのか・・・。

 

木内さんの戸籍の書かれている「井内」についてはどこかで見た記憶がありますが、思い出せませんが。遠縁ですか? 木内さんのご家系は私の井川とは別格の印象をうけます。稲田の家臣は14階級に分けられていたそうです。

 

ところで今さらですが、木内由晴さんは「きうち」ですか? 「きのうち」ですか?

以前お知らせくださった「木内文書」には「きのうち」とルビが振られていました。

                                      見延典子

 

2017・4・28 公開書簡 木内由晴さんから

 

ご無沙汰しております。

この度は貴重な情報を頂戴して、ありがとうございます。

木内権左エ門が先祖に該当するかどうか不詳ですが、手かがかりになると思います。

また、徳島の「井内」は木内の遠縁になり、戸籍にも出てまいります。何らかの情報が残っている可能性があると考えております。

 

中国大連の記事も拝見しました。父は大連に住んでおり、ハルピン中学を卒業しております。また祖父は満鉄の参事をしており、戦後戦犯容疑で中国軍に拘束されて、家に帰って亡くなりました。

 

 

これは寛永18年(1641)三宅関太夫なる稲田家の家来が讃岐からきた無礼者の3人のうちの1人を殺し、1人を半死にさせ、国境まで送り捨てたことで、阿波と讃岐の両国で起きた事件です。讃岐では関太夫の首をもってこなければ許さぬといい、稲田家は関太夫を助けたいが、どうにもならず切腹を言い渡しました。

我々の先祖が篠路兵村に入植する前年の、新琴似兵村の入植者名簿に「美馬郡郡里村(郡が一つ抜け)柿原伝平」とあります。私の先祖も美馬郡郡里村出身でほぼ間違いないと思います。美馬郡全域が稲田家の知行地でした。もし木村権左エ門が木内さんのご先祖であるとすれば、同じく郡里村出身であったことはじゅうぶん考えられます。いかがでしょうか。ご返信をお待ちしています。

           見延典子

2017・4・27

公開書簡 木内由晴さんへ

 

ご無沙汰しておりますが、いかがお過ごしでしょうか。

さて目下、私は父方「見延」、母方「井川(中山)」のルーツについてまとめているところですが、「稲田騒動」に関する資料に「木内権左衛門」なる名前を見つけました。あるいは木内さんが長年お調べのご先祖ではないでしょうか。

このとき介錯したのが木内権左エ門とあります。三好家の浪人から稲田家の家来になったようです。木内さんや私が調べている明治期の屯田兵の時代から200年以上も前の話なので、どうかなとは思うのですが、木内さんが以前か書かれていた「先祖は人を斬った」という話と共に、併記されている「柿原間助」という名前が気になります。


   見延典子
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