よろしければ、私のルーツ① 私のルーツ②もご高覧ください。

 

「二百三高地」遠景
「二百三高地」遠景

NHKで「坂の上の雲」が放映され、日本観光客の増加を期待したが、日中関係の悪化から、客足が伸びなかったと現地ガイド。

「爾霊山」は乃木希典の当字
「爾霊山」は乃木希典の当字
復元された水師営の農家の家
復元された水師営の農家の家

1905年旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結された水師営の農家の家。文化大革命の際取り壊され、復元。

水師営会見の写真に亡霊が写っているとのこと(写真右 朱〇)

2017・4・5 

日露戦争「大連 旅順」④

 

今回のツアーの最大の目的地「二百三高地」へ。標高206メートルだが、戦闘が激しく3メートル低くなった。それが名前の由来とか。

ここから徒歩5分
ここから徒歩5分

「爾霊山は日本軍国主義による対外侵略の罪の証拠と恥の柱となった」

など近くの看板には過激な言葉が書かれているが、現地ガイドの日本語による解説は客観的であった。

よく勉強している現地ガイド
よく勉強している現地ガイド
山頂からは旅順港が一望。
山頂からは旅順港が一望。

旅順港を一望できる二百三高地を手に入れるためにできた屍の山(写真左)。「乃木希典は愚将。児玉源太郎がいたから、日本は勝利した」というガイドの説は司馬史観かな。

農家の家の内部は資料館になっている。日本兵が中国人の農民を殺す写真が掲げられている(写真左)。ここでも女性ガイドは客観的な説明に終始すると思いきや…

中央乃木希典
中央乃木希典

私の曽祖父は二百三高地で戦ったわわけではないが、朝鮮半島に上陸し、各地を転戦した。日露戦争といいながら中国、韓国で戦ったことの意味を考えたい。

 

 


現在、客車は大連駅を一日一往復のみ。周辺には中国の軍事施設があり、撮影は制限されている。ガイドから駅舎の反対側にはカメラを向けないようにといわれる。

日露戦争後、関東都督府陸軍、その後関東軍指令部が置かれた建物(写真右)。1931(昭和6)に起きた満州事変の決定を下したといわれる場所で、現在博物館になっている。この日は入れなかった。

2017・4・1 

日露戦争「大連 旅順」③

 

旅順に向かう。旅順駅舎(写真左)は見るからにロシア風。ロシアは軍港を拡張し、東清鉄道を敷設したが、日露戦争の日本の勝利により、南満州鉄道に移管された。

中国に残るヤマトホテルの多くは今も使用されているが、旅順ヤマトホテルだけは廃屋(写真上)。玄関前では男性たちがトランプに興じている。ギャンブルの一種らしい(左)

同じ敷地内の向かい側には旅順博物館があり、こちらは入館できた。遠足か社会見学か、中国の中学生くらいの若者が多数見学に訪れていた。皆、背が高いという印象。

 


インターネットより
インターネットより

大連のあった土地は三山海口、青泥洼口などと呼ばれていたが、日清戦争後、三国干渉の代償としてこの地を租借したロシアが「ダイニー」と名づけ、街づくりを開始する。その後、日露戦争に勝利した日本が「大連」の漢字を当てたのである。

 食べ物は野菜中心で、おいしい。
 食べ物は野菜中心で、おいしい。

「ロシア人街」に対して「日本人街」も残る。ほとんどゴーストタウン化している。ガイドは理由について語らなかった。大連市内には日本人が残したものがそこかしこに残る。路面電車もその一つ。

かなりあやしい装いで、路面電車に体験乗車
かなりあやしい装いで、路面電車に体験乗車

2017・3・29

日露戦争「大連 旅順」②

 

大連は好天に恵まれ、想像より暖かい。また昨年9月に「旅猿ツアー」で行った上海より、街の雰囲気は落ち着いた印象をうける。

日向ぼっことお喋りを楽しむ女性たち
日向ぼっことお喋りを楽しむ女性たち
ロシア人街
ロシア人街

そういうわけで、大連には「ロシア人街」が残るが、清から租借した当時から要人だけが住み、一般のロシア人が住むことはなかったという。

日本人橋
日本人橋

路面電車は、明治40年代、日本統治時代に敷設された。南満州鉄道とゆかりがある。せっかくなので、体験乗車することに。

 「PM2・5」と「黄砂」。大気汚染は深刻と思われるが、マスクをしているのは、日本人観光客くらいで、地元の人々はほとんどしていない。地元の人でマスクをしている場合は黒いマスク。すぐにわかる。

 

 


広島から大連まで直行便で2時間。

仙台とほぼ同じ緯度。北朝鮮との国境まで約300キロ。遼東半島の先端に大連、旅順がある。

「大連港」岸壁の母に歌われた舞鶴と結ぶ。この港から20万人の日本人が引き揚げた。
「大連港」岸壁の母に歌われた舞鶴と結ぶ。この港から20万人の日本人が引き揚げた。

というようなことを念頭に、まずは大連へ。最高気温は10℃前後とまずまずの温かさだが、「大連では半年間、雪も雨も降っていないため乾燥が激しい」と現地のガイド。俄かには信じがたいが、現地の人がそういうのだから、信じるしかない。

2017・3・28

日露戦争「大連 旅順」①

 

母方の曽祖父中山茂三郎が日露戦争に従軍したと知ってから、戦地に行ってみたいと思っていた。幸いというべきか、「大連 旅順」の格安旅行があるのを知り、参加した。

「旅順、大連」は遼東半島の先端辺りに位置する。インターネットより
「旅順、大連」は遼東半島の先端辺りに位置する。インターネットより

1895年、日清戦争に勝利した日本は、遼東半島全域を清に割譲させたが、露仏独の三国干渉により清に返還。このことが日露戦争の伏線になっていく。

日向ぼっこする中国の犬。
日向ぼっこする中国の犬。

大連は岩手県ほどの広さで、580万人が暮らすという。但し、戸籍をもたない人が多数いるため、実際にはさらに100万人ほど多いかもしれないとか。いかにも中国らしい。

          続きます。

 

 


「新琴似兵村」の屯田兵名簿には出身の「郡、村」まで載っている
「新琴似兵村」の屯田兵名簿には出身の「郡、村」まで載っている

2017・1・15

木内由晴さんへの伝言

 

すっかりKさんと私の伝言版みたいになっている本コーナーだが、伝言ついでに木内由晴さんへ。

屯田兵の名簿(私は「屯田兵の百年」を参照)をよく見ると、私たちの先祖が入植した篠路兵村の屯田兵の出身地は「徳島県」としか表示されていない。然るに前年入植した「新琴似兵村」の屯田兵については


「郡、村」まで記載されている(写真参照)。井川の先祖について調べ、冊子2冊を残した母の従兄弟の中山Tさん(故人)は、おそらくこの記載を見たのだと思うが(詳細不明)、徳島県美馬郡里村出身の柿原伝平を含む同村出身の2名を調べ、北海道に渡ってからは井川家とは交流はなかったようだと結論している。

ということは、「新琴似兵村」のように「篠路兵村」に入植した屯田兵にも「郡、村」あたりまで住所が書いた書類などが残っていないか。残っているとすれば、木内さんのご先祖(もちろん私の先祖も)につながる情報が得られるのではないか、というのが伝言の趣旨である。

ただ、残念ながら、少し前に取りよせた「屯田百年史」(篠路兵村の百年の歴史が書かれたもので、平成元年発行)には屯田兵の氏名しか載っておらず、古い資料をさかのぼる必要があろうかと思う。困難な道ではあるが、一つの手立てではなかろうか。

 

 

 

「鷹の羽」の家紋は日本十代家紋の一つで、羽の中の文様や色、周囲の丸のあるなしなど、実に多くのバリエーションがある。

私が長く調べてきた広島の浅野家や阿部家も、違い鷹の羽の文様が異なるタイプである。「鷹」の力強さが武門の家に好まれたのだろう。

2017・1・13 

私のルーツ「夢のような話」⑦

 

家紋に関して、Kさんから返事がきた。Yちゃんのご主人に訊いたところ、井川のご実家の家紋は鷹の羽の角が丸いということ。おそらく左の写真に近いのではないか。

丸に右重ね違い鷹の羽
丸に右重ね違い鷹の羽

結局、私の先祖の井川家とYちゃんんが嫁いだ井川家は家紋が完全には一致しなかったことになるが、しかし徳川御三家とて葵紋が微妙に異なることは広く知られるところである。

以前、本欄でご紹介した、同じく篠路屯田兵村に入植したご子孫をもつ木内由晴さんから徳島藩士の名簿が公開されているサイトを教えてもらい、そこにのっている同じ井川姓の二家の家紋を確認してみたが、鷹の羽とはまったく異なるものであった。

とすれば、家紋が同じ「鷹の羽」ということは、逆に一族であることの証なのではなかろうか。

さらに付け加えるなら、鷹の羽の先がとがっている文様をもつ私の先祖は昔からやっぱり「とんがっていたんだろうな」と笑えるのである。

 

 

母の従兄弟中山Tさんが作成した2冊の冊子「私達の家系と篠路屯田兵村」(左)    「中山家の改革」(右)
母の従兄弟中山Tさんが作成した2冊の冊子「私達の家系と篠路屯田兵村」(左)    「中山家の改革」(右)

が嫁いだのは3男から派生する家系である。次男系も3男系もそこから数えてすでに8代から9代の時代を迎え、初代から数えれば350年が流れている。

私が長年調べている頼家と比較しても、確認できる先祖の数では勝っている(笑)比較するようなことではないけれど、それだけ貴重ということである(縁者にとっては)

 

2017・1・11 

私のルーツ「夢のような話」⑥

 

Kさんからメールがきて、このコーナーを見てくれているという。

Kさんからお借りした井川家の系図によれば、初代(あくまで家系図上)井川久之進には2人の息子がおり、その長男には5人の息子がいる。私の家系は5人の息子のうち次男から派生し、Kさんの娘Yちゃん

表紙に家紋が描かれている。
表紙に家紋が描かれている。

ところでKさんに一つ確認したいことがある。Yちゃんの嫁ぎ先の家紋は「二枚鷹の羽」ということだったが、私のほうの家紋(写真左)は「違い鷹の羽」の中ではかなり変則的な文様をしている。同じですか? それとも異なりますか?

 

 


徳島県地図。美馬市 三好市が見える。
徳島県地図。美馬市 三好市が見える。

2017・1・9 

私のルーツ「夢のような話」⑤

 

私の曽祖父「井川宇八(後中山茂三郎に改名)」、「兼吉」「武吉」の三兄弟の名前の由来の続きである。「宇八」「兼吉」については前回書いた通り。残りの「武吉」である。これは単純に「武士」の「武」からとったのではないか。


Kさんからお借りした「井川一族由来・筋目帖」によれば、私の先祖の井川家は、蜂須賀家の家臣稲田家の、さらに家臣だった曽我部氏の、さらに家来と書かれている。蜂須賀>稲田>曽我部>井川ということだ。

 

さらに「井川一族由来・筋目帖」には井川家の墓について徳島県美馬郡美馬町、現在の美馬市にあると書かれている。

 

先祖が住んでいた所として、母の従兄弟のTさんが遺した冊子にも「吉野川中流の徳島県美馬郡里村出身」もしくは「同県同郡祖谷山村出身」とあるのと付合する。

 

「郡里村」「祖谷山」(祖谷山村ではない)に関して、ネットの「徳島県美馬郡」を参考に、要約すれば以下の通りである。

 

明治初年  徳島藩領

明治4年   7月廃藩置県で徳島県の管轄

      11月 名東県の管轄

明治9年   8月 高知県の管轄

明治12年 郡区町村編制法により高知県美馬郡が発足

      「祖谷山」が分割して西祖谷山村、東祖谷山村になる

明治13年  徳島県の管轄

昭和25年  東祖谷山村・西祖谷山村の所属郡が三好郡に変更

      

      平成17年以降、かつての「祖谷山」は三好市に、

      かつての「郡里村」は美馬市になっている。

 

繰り返される統廃合。特に他県への管轄委譲。これは戊辰戦争で敗者になった藩で顕著にみられる傾向だ。幕末、明治の徳島県の歴史もまたある意味、敗者の歴史といえるだろう。

                       続きます。

 

 

さて、「堅蔵」「惣助」が私の先祖に違いないという根拠についてである。

私が先祖として把握していたのは「堅蔵」までであった。「堅蔵」の父の名が「兼八」であったことを、この家系図で初めて知った。

「堅蔵」の子「惣助」は「嘉平」と改名して屯田兵に応募。屯田兵は

2017・1・7 

私のルーツ「夢のような話」④

 

家系図は平成11年に作成された「井川一族の歩みと今」にも載っている。こちらは活字で、裾野を広げる子孫の名前まで書かれている。

 「井川一族の歩みと今」の家系図から
 「井川一族の歩みと今」の家系図から

30歳までしか応募できず、「惣助」は制限年齢を越えていたため、改名したと伝え聞いている。その「惣助」改め「嘉平」には三人の息子がいて、名前は上から「宇八」「兼吉」「武吉」。

もうおわかりであろう。「堅蔵」もしくは「惣助」は、父や祖父にあたる「兼八」の名を「兼八」にとってひ孫にあたる「宇」「吉」に分けてつけていたのである。

その後、「宇八」は同じく徳島から屯田兵として札幌篠路兵村に入植した中山家と縁組、中山茂三郎と改名。私の曽祖父である。近年、キラキラネームなるものが広がっているが、親が子に名を与えることの意味を考えさせられる。

そして三男「吉」。ここでつけられた「武」という漢字にも意味があると私は考える。それは井川家の由来と関係している。

 

     謎解きのような展開になってきました(笑) 続きます。

 

 

開いてみれば、10ページに及ぶ長い家系図が綴じられている。

10ペ━ジに及ぶ手書きの家系図
10ペ━ジに及ぶ手書きの家系図

ページを繰っていくと、なるほど私の高祖父「堅蔵」「惣助」(後に嘉平と改名)の名前が出ている。「惣助」の右横には「北海道」とある。

 実は私が持っている、母の従兄弟のTさんが作成した家系図では「堅蔵」ではなく「賢蔵」になっている。Tさんおそらく屯田墓地の墓石に彫られた名前を見てその漢字を当

2017・1・5

私のルーツ「夢のような話」③

 

Kさんからお借りした資料の中で、まず確認したいと思ったのは家系図であった。そこで「井川一族由来・筋目帖」を手に取る。

この家系図は※「郡里村総系図」から井川一類分を抜き出したもので、昭和46年作成されたという。

(※は今のところ何を指すか不明)

私の高祖父の名が記された井川一族家系図
私の高祖父の名が記された井川一族家系図

てたと思われ、「土」「貝」の部分がうまく読み取れなかった可能性がある。こじつけ? いや、そうではない。私はこの家系図を見て、ここに書かれた「堅蔵」「惣助」が私の先祖に違いないというもう一つの根拠を見つけたのである。

                       続きます。

 

 

Yさんからお借りした「井川一族」の資料
Yさんからお借りした「井川一族」の資料

2017・1・4

私のルーツ「夢のような話」②

 

 元旦に届いたメールはKさんからであった。

「娘が嫁いだ井川家と繋がったみたいよ。資料を持って帰るそうなので又連絡するね」

なんども読み返した。狐につままれ


ているというか、あまりの展開に「ポカン」という感じに近い。

もう一度書くが、Kさんはご近所に住む30年来のママ友で、娘のYちゃんが一昨年に結婚したことは知っていたが、お相手がどんな方なのか「井川」の姓を含め、つい1カ月前まで訊いたこともなかったのだ。こんなことがほんとうにあるのだろうか。翌日になってようやく我に返り、Kさんに電話した。

「つながったってホント?」

「うん、7、8代前でつながっているらしい。今夜、娘が資料を持って帰ってくる。また連絡するから」

夜になって電話があり、すぐにKさん宅に向かった。そこで「井川一族由来、筋目帖」や家系図などの資料をお借りし、帰宅するや、すぐに読みはじめた。

                  もちろん続きます。

 

いただいた水仙からあまい香
いただいた水仙からあまい香

2017・1・3

私のルーツ「夢のような話」

 

Kさん。と書いても憶えていらっしゃる方は皆無であろう。昨年12月2日のブログで書いた、近所に住む30年来のママ友である。そのKさんの娘のYちゃんが結婚したお相手は徳島県出身の「井川」さん。


奇しくも屯田兵として徳島県から北海道に渡った私の先祖と同じ姓だ。しかも家系図をお持ちという。そこで私のルーツと重なるところがないか問い合わせる手紙を、年末年始に徳島県の嫁ぎ先で過ごすというYちゃんに託した。

 

元旦、思いがけないメールが届いた。

                        続きます。

 

 

   見延典子
   見延典子

 

『汚名』(本分社)

 Amazonで販売中

 

祝!日本遺産 認定

 近砂敦著『耶馬渓』

 見延典子の書下ろし

 小説『獲物』を収録

 ※詳細はこちら

 

οο 会員募集 οο

 

「頼山陽ネットワーク」の会員になりませんか? 会費は無料。特典があります。

 

詳しくはこちら